こんどは

 昨年12月~今年1月の台湾旅行の紀行文を書きたいと思います。この旅の目的は①初めての台湾旅行で知り合ったおじいさんに再会すること、②台湾高速鉄道(新幹線)に乗ること、③台湾東部を歩くことです。というわけで、例によって気が向いてかつ、エネルギーがある日しか書けないので、しばらくかかるかと思いますが、どうぞお楽しみください。

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新型インフルエンザのまとめ 09/11/11

 新型インフルエンザは9月から中学生・高校生を中心にかなりの猛威を振るっていました。休校になる学校が相次いだり学校行事が中止になるなどの影響が出ましたが、このところ中学生・高校生の方はピークをやや過ぎたようです。現在は小学生や幼児の間で感染がかなり広がっています。
 小学生や幼児の場合、特徴的なことは発症から重症化するまでの期間が極端に短い事例が見られることです。ある症例ですが、38度の熱を出した翌日の昼まではまだ元気があったのですが、夕方嘔吐してそのまま呼吸停止、死亡に至った例があります。その他にも発症から死亡まで1~3日という例があり、かなりの注意が必要です。とくに、インフルエンザの症状が現れた後、意識がはっきりしない、呼吸の苦しさを訴える(あるいは呼吸が苦しそう、会話が長く続かない)などの症状があれば一刻も早く受診させてください。

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秘密のファミコン


ブログネタ: あなたが一番最初に買ったゲーム機は何?参加数

 ゲームが欲しかったけれど親に買ってもらえなかったので、兄弟3人でお金を出し合って親に内緒でファミコンを買いました。初めて買ったソフトは、ロールプレイングゲームの「ドラゴンクエスト2」(う~ん、歳がばれるな)とシュミレーションゲームの「キングオブキングス」でした。親に「おやすみなさい」と言って寝た振りをして、親が寝静まるのを待ってこっそりファミコンをしたものです。そのうちファミコンの存在はばれてしまいましたが、没収はされませんでした。

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新しいアルバムをアップしました。

 右側のサイドバーの「マイフォト」に、新たに「2009年5月 岬めぐりの銚子電鉄」と「2009年8月 北海道の歴史を歩く」のアルバムをアップしました。どうぞお楽しみください。

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北海道の歴史を歩く 13

【8月11日 特急「オホーツク」奮闘す】

 8月11日、旅の最終日になった。今日もとてもいい天気である。朝食を済ませたら網走川に沿って河口付近まで歩いてみた。暑い、しかしどこか風が爽やかだ。この6日間、雨どころか雲さえほとんど出なかった。私は雨男ではないが、旅行中は曇りのことが多い。
 
 網走駅には9時過ぎに着いた。縦書きの網走駅の看板を見る。駅の看板は横書きが多いが、網走駅は網走刑務所を出所した人が人生の再起をかけて故郷へ旅立つ駅である。これからの人生を横道にそれずにまっすぐに生きて欲しいと願って縦書きの看板が作られたという。
 網走発9時30分の特急「オホーツク4号」は、四角い顔のディーゼルカーの5両編成であった。白いボディにラベンダーとライトグリーンの帯を巻いて精一杯のおしゃれをしているが、古さは隠せない。この列車に使われている車両は、北海道の特急ではもっとも古いタイプのものである。しかし、シートはすわり心地の良いものに換えられていて、札幌まで5時間強の旅を快適に過ごせそうである。

 エンジンの唸りが上がり網走駅を発車する。網走発車時点で乗車率は25%ほどであろうか。特急ではあるが、あまり旭川と網走を結ぶ石北本線はカーブが多く、途中に峠越えもあり、非力な古いディーゼルカーには難所つづきである。網走から旭川までの238km.に3時間41分もかかっている。(この間の平均65km/h)
 網走湖岸を進んだ特急は、女満別(めまんべつ)に着く。ここからは森と畑の中を進む。網走を出ておよそ45分、規模の大きな市街地が見えてくると北見である。ここで乗客が増え、半分くらいの席が埋まった。北見発車10時19分、留辺蕊(るべしべ)という難しい読みの駅を発車すると、再び山の中へ分け入ってくる。この先に常紋トンネルというトンネルがあるのだが、このトンネルはいわくつきのトンネルである。トンネルの周囲は無人地帯、道路が整備されてなく資材の運搬が困難な中、本州などから集められた労働者が厳しい条件で働かされて、亡くなった者はそのまま埋まられたばかりか、人柱にもされたらしい。このトンネルはそれらの死者の亡霊が出るという噂がある。そんな残酷な歴史を秘めたトンネルなので、ぜひ見ておこうと思った。ところが、ふと目を覚ますと生田原に停車したところであった。すでに常紋トンネルを過ぎていた。
 遠軽で列車は向きを変え、網走支庁と上川支庁を分ける峠へのアタックを始めた。エンジンがうなりを上げるが、きつい上り坂では60km/hくらいまで落ちる。少し離れたところには、高速道路並みの高規格の上川白滝道路が整備されていて、あちらの車の流れの方が速い。今のところ、この道路の整備は峠越えの部分だけであるが、道央自動車道から北見市、網走市方面までつながったら、そのときには「オホーツク」の大きな脅威になると思う。おそらくこれからは高速道路の建設は進まないとは思うし、そんな時代ではないと思うが。

 峠を越えた列車は速度を上げ、層雲峡の入り口になる上川を発車すると平地が広がる。徐々に人家が増え、やがて高架橋に上がると旭川も近い。さすが道内第2の人口を誇る旭川市の市街地は立派である。高架橋を工事中の旭川駅には13時11分に着く。ここから「オホーツク4号」に乗る乗客は少ない。旭川から札幌までは、30分ごとに特急「スーパーカムイ」が走っていて、こちらの方が速いし車両がきれいだからである。この列車が13時13分に旭川を発車して14時45分に札幌に着くが、旭川13時30分発の特急「スーパーカムイ30号」は札幌着14時50分である。17分のアドバンテージをわずか5分までに縮められてしまう。平均速度はオホーツクの89km/hに対して、スーパーカムイは103km/hである。
 旭川を発車した特急「オホーツク4号」は、ようやく特急らしい速度で走り始めた。老体に鞭を打つようにエンジンはうなりを上げるが、乗り心地は意外にもいい。不快な振動や揺れがあまりない。深川を過ぎると地図の上に定規で線を引いたようにほぼまっすぐな線路が続く。水田も多くなり、畑が多かった道東とは異なった景色になる。この周辺、列車は美唄(びばい)を通過する。ここも夕張と同じく、旧産炭地であった。ここだけではない、上砂川、三笠、歌志内、芦別、どこも旧産炭地から再建を図っているところである。

 今の北海道は、過疎化、漁業の不振、財政問題など、たくさんの問題を抱えている。札幌だけ栄えて他の地方は人口流出に苦しんでいる。しかし、北海道を開拓するために血と汗を流しながら奮闘した人やその子孫の方々やたくさんいる。アイヌ民族の人々、ウィルタ民族の人々も伝統文化を守っている。そして雄大な自然がある。今は苦しくともいずれ光が見えると思うし、それを担える人材があると思う。私もそれを心から願っている。
 特急「オホーツク4号」は岩見沢を発車し、札幌へ向けてラストスパートを始めた。網走を発車してまもなく5時間になろうとしている。札幌はもうすぐである。そして、非常に断片的ではあったが、北海道の歴史をたどる旅も間もなく終わる。(終)

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北海道の歴史を歩く 12

【8月10日 湧網線に沿って】

 かつて北海道には網の目のように鉄道路線が整備されていた。日本は道路整備が遅れていたし、自動車の信頼性も低く、寒さが厳しい北海道では鉄道が最も確実な交通機関であった。現在でもその傾向はわずかに残っていて、峠越えをしなければならない帯広、釧路への特急は冬になると乗客が増えるそうだ。
 そのような鉄道も、1980年代になると国鉄の膨大な累積赤字の解消と、道路整備による交通環境の変化、過疎化による乗客の減少によって次々と廃止された。網走からサロマ湖岸に沿って中湧別までを結ぶ湧網線もそのひとつである。
 
 網走監獄を出て、国道238号線、通称オホーツク国道を西へ進む。網走の市街地が尽きると左側に網走湖が見えてくる。鏡のような穏やかな湖面である。その網走湖と国道の間に自転車道がある。これがかつての湧網線の跡である。国道は線路に沿って続いている。カーブはあるが、交通量も少なく見通しもいいので、80㎞/hで走っていてもバイクや地元ナンバーの車に抜かれていく。網走湖から能取湖の湖岸に出ると間もなく卯原内駅跡である。ここで車を止め、駅跡に残っている蒸気機関車と客車を見る。昔懐かしい旧型客車である。ドアが自動で開閉しないので、走行中でも開けっ放しにできる。
 さらに進むとオホーツク海に出る。オホーツク海に面した小さな漁港のある町が常呂である。ここは近年ではカーリングの町として知られる。2006年のトリノオリンピックでは、女子カーリングチームのうち3名が常呂出身者であった。ここが網走を出て以来はじめての町らしい町である。常呂からオホーツク海にそって少し進むと常呂遺跡がある。ここは縄文時代、続縄文時代、擦文時代と、複数の時代にまたがる遺跡である。竪穴式住居も時代により微妙に形態が異なるところが面白かったが、湿った森の中にある遺跡なので蚊がたくさんいた。数か所刺されて腕を掻きながら遺跡を後にした。

 いよいよ日本第3位の面積を誇るサロマ湖畔に出る。何と言ったらいいのだろう、これこそ絶景というのだろうか。山があるわけでもない、町があるわけでもない、まっ平らな湖面とまっ平らな平地が広がっている。有ではなく、無の絶景、クルマを道路わきに止め、しばらく絶景に見入っていた。
 サロマ湖畔の計呂地駅は、駅の建物とSLと旧型客車が残されていた。旧型客車の車内に入れたので、ニスの塗られた重厚な窓枠や座席など、懐かしい鉄道風景を楽しんだ。すでに午後1時過ぎでさすがに空腹である。道の駅でホタテフライやホタテの甘露煮の定食を味わった。オホーツク沿岸はホタテの用癪が盛んである。それにしても牡蠣やホタテなどの二枚貝は何とうまいのだろう、進化の方向を間違えてしまった。もし彼らがまずかったら人間の手にかかって命を落とすことがなたっただろうに。
 道の駅からしばらく畑の中を走ると道の駅上湧別、かつての中湧別駅である。ここは、4方向に鉄道が伸びていたジャンクションであったが、すべての鉄道が廃止されてしまった。それでも、かつての駅のプラットホームや車掌車などが残されていた。ここでしばらく休憩をして、帰りは能取岬からオホーツク海の眺めを満喫して網走に戻った。2日間旅を共にしたブルーバードシルフィに別れを告げた。

 今晩はこの旅の最後の晩餐になるので、市街地の居酒屋で飲んだ、刺身のほか、ソウハチというカレイを焼いてもらった。ソウハチは中学生の頃読んだ紀行文の中で絶賛されていて、一度食べてみたいと思っていた。20年以上かかったが、ついにその機会がやってきた。ソウハチの味はとてもよかった。脂が乗っていてうまみもあった。酒もかなり進んだ。隣の席に座っていた、おじさんとの話も弾んだ。ホロ酔いをちょっと通り越して火照った身体で浴びる風が心地よかった。いい夜だった。

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アイスクリーム!


ブログネタ: 深夜に食べたくなるものは何?参加数

 とてもよくないことだと思うのですが、深夜のアイスクリームはとても美味しいです。バニラアイスクリームに少しだけコーヒーリキュールをかけて。体重計に乗るのが怖くなる組み合わせなので、今は月に1回程度に留めていますが。みなさんの深夜に食べたくなるものは何ですか?

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北海道の歴史を歩く 11

【8月10日 網走という町】

 今朝は早々と朝食を済ませると7時半過ぎにはレンタカーに乗り込んだ。今日は午前中に網走を見て回り、その後サロマ湖に沿って上湧別までドライブし、夕方オホーツク海に突き出した能取岬に立ち寄り網走の戻ることにしている。

 網走は人口4万人弱、しかし、この地方の中心的な都市だけあって、行政機関や商業施設は人口の割りに充実している。オホーツク海に面し、豊富な水産資源を生かした漁業の町である。かつてはアイヌ民族、それ以前にはオホーツク文化の担い手となった民族(おそらくは現在樺太やシベリアに住むニヴフ民族)が住んだ。江戸時代後期から大和民族の進出があり、1873年に開拓使の出張所が置かれた。後には網走監獄がおかれ、凶悪犯や政治犯が収容された。「網走番外地」などの映画やテレビの刑務所のドキュメンタリー番組で網走=刑務所の町というイメージを持った方も多いと思う。私が子どもの頃は年に数回そんな番組があった。他に意外なことであるが、網走市周辺は日本で最も降水量の少ない地域である。網走の1年の平均降水量が800mm.ほどである。東京で1500mm.弱、三重県の尾鷲で4000mm.弱であることを比べるとだいぶ少ない。

 網走駅前を過ぎ、国道39号線を旭川市方面に進む。しばらくすると網走川の向こうに網走刑務所の建物が見えてくる。南に川、他の三方を山に囲まれいかにも脱獄が困難そうな立地条件である。なお、現在の網走刑務所は犯罪傾向が進んだ刑期の短い者が収容されているそうで、過去のイメージにあった網走刑務所=凶悪犯というわ明けではないようだ。
 8時の開館を待って北方民族博物館に行く。ここは、アイヌ民族をはじめ、網走周辺や樺太に住むウィルタ民族、先述のニヴフ民族、フィンランドのサーミ(ラップ)、カナダやグリーンランドのイヌイット(エスキモー)などのオホーツク海や北極海沿岸に住む民族の文化や歴史の研究や紹介を目的としたところである。食生活や衣服、住居など、それぞれの民族が厳しい自然条件に適応するために工夫して生活していることがよくわかった。私はイヌイットの住居というとイグルー(雪をブロック状に固めてドーム型にしたもの9を連想するが、そればかりではないことがわかった。
 北方民族博物館を出て、網走監獄博物館に行く。かつての網走刑務所の建物を移築したものである。明治時代の網走は現在のようにどんなものでもそろうという状況であった、味噌でも沢庵でもなんでも刑務所内で自給していたそうだ。そればかりか、道路や鉄道の建設で酷使された。北海道の近代化にはこのような残酷な歴史も秘められていることは忘れてはならないだろう。圧巻は獄舎である。ずらりと扉が並んだ獄舎は廊下を歩いているだけで恐ろしいほどの威圧感を感じる。扉が開いている独居房に入ってみた。できれば懲役囚として入ることはしたくないが、人間は弱いものだし、私は筋金入りの意志の弱さだからひょっとしたらありえるかもしれないな、そんなことを考えた。

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北海道の歴史を歩く 10

【8月9日 知床の大自然に抱かれて】

 私が運転する日産ブルーバードシルフィーは知床半島の海岸沿いの道を順調に進む。左側にはオホーツク海、右側には知床半島の山々が迫り、険しいがとても眺めの良い道である。前の両側の窓を開け、世界遺産の風を浴びながら気持ちよく運転をする。かなり遠回りをしたから、網走を出て4時間以上が経過しているが疲れはまったく感じない。前方に岬が見えてくると、小さな駐車場があり、その奥にはオシンコシンの滝がある。私はクルマを降り、階段を登り滝を見に行く。とても豪快な滝である。落差はおよそ80メートル、とても水量が豊かである。下から眺めると鳥が今にも飛び立とうと羽を広げているようにも見える。滝のしぶきを浴びながらしばらく見とれていた。
 再びクルマに乗り、岬を回りこむと間もなく饅頭みたいなまん丸な山と小さな集落が現れる。知床観光の拠点であるウトロの集落である。

 私はここからさらに知床五湖まで行くつもりである。知床五湖まではクルマでの乗り入れが認められているが、知床の美しい景色をじっくり見るためには、自分でレンタカーを運転するのは適当でない。クルマを止めたウトロの道の駅近くに斜里バスのバスターミナルがあることは知っていたから、ここからバスで知床五湖を往復することにする。バスがクルマでのおよそ40分、バスターミナルのベンチで日向ぼっこをしたり、バスターミナル近くの小川で魚を探したりしていた。

 ウトロのバスターミナルを発車したバスはヘアピンカーブの坂を上る。さっきまでいたウトロの町を見下ろすようになる、間もなく知床自然センターに着く。ここを過ぎると一層険しい山道になる。途中エゾジカの出迎えなどがあり、豪快かつ楽しいバス旅になった。自分で運転したらここまで景色を楽しむことはできなかっただろう。
 知床五湖は、熊出没のため、5つある湖のうち3つが立ち入り禁止となっていた。それは残念であったが、羅臼岳を遠くに眺めがら原生林に囲まれた湖を歩いて回るのは楽しかった。時間が許せば、ずっとここにいたいと思うくらい気持ちが良かった。それにしても暑い、一回りしたところで、土産物屋でソフトクリームを買う。いい歳をしたおっさんがソフトクリームなどを食べている様はあまり格好いいものではないが、見てくれを気にしている場合ではない。
 再びバスに乗り知床自然センターで降りる。ここから20分ほど歩くとフレペの滝があり、そこを目指す。山道をしばらく歩くと草原が広がっている。太平洋戦争の敗戦後、樺太、満州、朝鮮、台湾、南洋諸島などを失い、多くの人が着の身着のままで日本に戻ってきた。その人たちを養う余力は当時の疲弊しきった日本にはなかった。親戚などを当てにできる人はいいが、それができない人は各地で開拓にあたった。ここもその1つだそうだ。しかし、それまで開拓されなかったのにはそれなりの訳がある。ここもそうだ、ウトロの町まできつい山道を上り下りしなければならない、海が近いが断崖で港がない、その他気候の問題もあるだろう。結局、集落に住む人は他に移転して、今では原生林の中に草原として残り、僅かに集落跡の名残を留めるだけである。
 フレペの滝は豪快だった。100m.はありそうな断崖の途中から水がしみだして海まで落ちている。この豪快さと原始の自然が残っているところが知床の魅力なのだと思う。知床は2005年に世界自然遺産に登録された。この自然はいつまでも守りたいものである。知床自然センターからのバスは、斜里バスの案内所のおばさんが乗ってきて、にぎやかに話をしている。私もその話に混ぜてもらって楽しく過ごす。
 ウトロの道の駅で買い物を済ませ、網走に向かう。昨日と同じようにオホーツク海に沈む夕陽を眺めた。充実した1日が終わろうとしていた。
 

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北海道の歴史を歩く 9

【8月9日 オレンジのユリとザンギ】

 今朝は9時に網走駅の駅レンタカー事務所にクルマを借りに行けばいいから、朝はゆっくりできる。それがわかっていても、朝は5時50分になるとスイッチが入るように目が覚めてしまう。しょうがないのでロビーに下りて新聞やガイドブックを読んでいた。そうしているうちに何人か身体の大きな男達が下りてた。ある社会人ラグビーチームの面々である。私の部屋がある階は私の部屋以外すべてラグビーチームの部屋で、窓にはユニフォームが干してあったり、廊下にはシューズが置いてあったりして、まるで合宿所に紛れ込んだようであった。
 男達は次々とてレストランのドアに吸い込まれていった。その中に、1人見覚えの顔の男がいた。お互い目が会うと「おはようございます」と挨拶をした。昨日、酒を飲んで帰ってきたとき、エレベーターを待つときに一緒になったのである。彼から酒井法子が逮捕されたことを聞いた。彼自身がファンなのか、それとも私いかにもノリピーのファンにに見えたのかどちらかは定かではないが。

 9時少し前に網走駅に着いた。今日から2日間借りるクルマは、長距離を走ることも考え、少しだけ贅沢をして、日産ブルーバードシルフィにした。千歳で借りたのが軽自動車であったから、それと比べるとシートもゆったりしているし、内装もよい。
 網走駅から知床半島を目指す。駅から1㎞ほど進むとバスターミナルや道の駅があり、そのあたりが町の中心部のようである。そこを過ぎると網走港がある。網走港からは国道244号線、通称斜里国道を行く。左手にはオホーツク海、右手には昨日乗った釧網本線の線路がある。信号が少なく快適なドライブになる。クルマはさほど多くないが、バイクはずいぶん多い。中には原付に大きな荷物を積んで走っている人もいる。スーパーカブなどのビジネスバイクだけでなく、スクーターでツーリングと言う人もいた、翌日にはホンダ・モンキーというちっちゃなバイクでツーリングしている人も見かけた。
 網走市から小清水町に入ると原生花園がある。駐車場にクルマを止め、道路と海岸の間にある砂丘に行ってみる。途中に、JR釧網本線の原生花園駅があり、駅員が記念切符を売っていたので衝動的に買う。原生花園にはハマナスの花が咲いていた。ハマナスのピンクの花もきれいだが、ミニトマトに似た赤い小さな実もかわいらしかった。摘み取って口に入れてみたくなったが食べられるかどうかわからないので自重した。後で売店を覗いてみるとハマナス入りの菓子やハマナスジャムなどを売っていた。
 売店に、リリーパークのポスターが貼ってあった。ポスターには見事に咲き誇ったユリの花が並んでいた。これを見て衝動的に行ってみたいと思った。少し遠回りになるが、自由が利くのが車の旅のよさである。リリーパークは広い園内にたくさんのユリが咲いているはずなのだが、今年は天候不順で開花が遅れているという。まばらに咲いたユリを見て歩く。その中にオレンジ色のユリを見つけた。なんだか不思議な感じでしばらくオレンジ色のユリに見とれていた。
 
 回り道をしたので、予定よりも大幅に遅くなった。昼食は知床の観光の拠点であるウトロで何か食べようと思っていたが、観光シーズンで長く待たされそうなので、時間短縮を図ることにした。知床半島の付け根の斜里のスーパーマーケットでペットボトルのお茶と海苔巻きとザンギという中身のよくわからない揚げ物を買った。斜里の町を出て、知床半島の山々を見ながら畑の中を走る。しばらく走ると海岸沿いに小さな漁港があったので、そこでクルマを止めて昼食にする。ザンギとは何だろうと思いながら食べてみたら、鶏の唐揚げであった。しょうがと醤油で濃い目に味がつけてあって、母の作る唐揚げを思い出させる味だった。
 

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 この時期になると、テレビや雑誌などで紅葉(黄葉も含む)が特集されることが増えるし、実際に見に行く人も多いと思う。私も紅葉を見に行くのは好きだし、山が多い福島県は紅葉の名所と言われる場所もたくさんある。しかし、息を呑むような素晴らしい紅葉に出会った人はあまりいないのではないかと思う。紅葉は見ごろの時期がごく短いし、その年の気候によって見ごろの時期が変わる。だから、○○の紅葉の見ごろは□月×日ごろとガイドブックに書いてあっても当てにならないことが多い。それだけに、息を呑むような美しい紅葉に出会ったときの気持ちは最高のものである。
 そんな気持ちを味わったことが1度だけある。福島県の桧原湖の湖岸で見た黄葉である。たまたま平日に休みが取れたときに行った。このときの黄葉はとても鮮やかだった。黄色どころじゃない、私には黄金色に見えた。紅葉は、あたり一面紅になるよりも、黄色や茶色、緑などとの色の組み合わせが絶妙になったときが一番美しいと思うが、黄葉はある程度ボリュームがないとつまらない、このときは湖の水面と空を除いて一面の黄金色になった。その黄金色も、発色が中途半端でもなく、茶色がかかっているわけでもない本物の黄金色だった。おそらく、その日しか見ることのできなかった本物の黄金色だったと思う。私はこの世のものとは思えない美しさに見とれた。その美しさは言葉にできない、「!」と表現するしかない美しさだった。
 今日は福島市から国道115号線を猪苗代方面に向かった。土湯温泉を過ぎたあたりから紅葉が美しくなってきた。土湯峠を通る旧道に入ると一層美しくなった。紅の方はやや見ごろを過ぎているものもあったが、紅、黄色、茶色、緑の織り成す風景はやはりきれいだった。残念なのはカメラを忘れてしまったこと。もし明日も可能なら安達太良山方面に出かけようと思う。もちろんカメラを持って。

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新型インフルエンザのまとめ 09/10/16

 新型インフルエンザは確実に感染拡大しています。国立感染症研究所の調査によると、とくに、北海道、埼玉、神奈川、愛知、大阪、福岡、沖縄の道府県で感染が拡大しています。これまでの累計の新型インフルエンザ感染者は推計で234万人、死者は26人となっています。このところの不気味な兆候として、高校生までの子どもの死者が多いことがあげられます。通常冬に流行する季節性インフルエンザは、高齢者、とくに高齢者の福祉施設や病院などで集団感染をしてなくなる方がおおいことと対照的な傾向があります。
 まずは情報を集めて落ち着いて対応してください。うがいや手洗い、マスクの着用、人ごみを避けるなどの基本的な対応はしましょう。

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北海道の歴史を歩く 8

【8月8日 見どころ多い釧網本線】

 色々なところを旅していると、不思議と相性のいい町に出合うことがある。その相性のいい町が釧路である。その中でもすきなのが、釧路川河口近くにかかる幣舞橋(ぬさまいばし)とその周辺である。今回も1時間40分ほど時期餡があるので、駅前から夏祭りをやっている通りをまっすぐ下り、昼食がてら橋周辺をぶらぶらした。僅かに潮の香りを含んだ川風を受けながら歩くのは気持ちよかった。

 釧路発14時52分発、「釧路湿原ノロッコ4号」に乗る。ノロッコとは聞きなれない言葉だが、のろいトロッコという意味なのだろうか。決して呪いトロッコではない。釧路と網走を結ぶ釧網本線は豊富な観光資源に恵まれている。釧路の次の東釧路を過ぎると間もなく釧路湿原を走る。他にも、摩周湖、知床半島への玄関口になる駅がある。あとは、摩周~川湯温泉間のルートを変更して、屈斜路湖の東岸を走るようになれば完璧だろうと思う。しかし、この釧網本線をはじめ、北海道の鉄道はもっと切実な理由で建設されたことは心にとどめておくべきだろう。北方の軍事大国であるロシアの脅威は鉄度に限らず北海道開の近代史を考えるためには忘れてはならない理由であろうと思う。本州の鉄道路線がおおむね明治時代には既に町ができて人口が定着していたところを結んだのに対して、北海道の鉄道は人口が希薄で開発が遅れた地域が多かった。わざわざそんなところを選んで結んだのではなく、北海道のほとんどの地域がそうだったのである。

 ディーゼル機関車を先頭にしたトロッコ列車に乗る。夫婦や家族などの乗客が多く、一人旅の乗客は少ない。甲高いホイッスルを鳴らすと、軽い衝撃があって「ノロッコ」は発車した。最近ではめったに体験できなくなった機関車牽引列車の味わいである。トロッコではあるが、かつて札幌近郊で普通列車として走っていた車両を改造したものだから、乗り心地はいい。東釧路を過ぎろと早くも湿原が現れる。しかし、本領を発揮するのは次の遠矢を通過してからである。どこまでも続く湿原、焦点をどこにあわせたらいいのかわからなくなるほど広大な風景であるが、それがいい。とつぜん車内がざわめく。右側の山の斜面にエゾジカがいたのだ、いっせいにシャッターを切る音が聞こえる、私もあわててカメラを向けるが、のろいトロッコとはいえ間に合わなかった。右を見、左を見、のろい列車で慌しくとも楽しい時間を過ごしているうちに終点の塘路に着く。27kmをおよそ1時間かかったのだから、確かに遅い。

 塘路はいいところだった。駅周辺には小洒落た建物があり、白樺の木が立っており北欧の町にでも来たような気分になる。この後乗る網走行きの列車まで29分しかないから慌しい。その間に駅前を少し歩いた。
 塘路発16時19分の普通列車はわずか1両であった。私は後ろのデッキにたった。塘路を過ぎても塘路湖やシラルトロ沼などの見どころがある。人口は極めて少ない。今は夏の観光シーズンだから旅行客が多く乗っているが、普段は1両で十分間に合う程度のお客だろう。厳しい経営環境が伺える。
 塘路から3つ先に標茶と言うやや大きい町があり、そこなら降りる人が多いだろうと思っていたら、案の定そのとおりになって空席を見つけて座ることができた。標茶を過ぎると上り坂に差し掛かる。250馬力のエンジンを2台搭載したディーゼルカーは軽々と坂を上っていく。摩周、川湯温泉と山の中を走る。川湯温泉を過ぎると釧路支庁と網走支庁を分ける峠を越える。緑は畑に囲まれた小さな集落。坂を下るにしたがって区画の大きい畑が広がってくる。既に18時近く、夏の陽は山に落ちかかり、防風林と畑をオレンジ色に染めている。

 知床半島の玄関口である知床斜里でお客が増えた。間もなく西へ向きを変えるとオホーツク海の海岸線すれすれを走る。浜小清水、北浜と進むうちに、太陽はどんどん高度を下げ、オホーツク海に没しようとしていた。まるで進みゆく時間に最後の抵抗をしようとするかのように、太陽はオホーツク海を朱色に染めていた、反対側の空には既に夜の気配が迫っている。
 半ば暗くなった網走駅に18時49分に着いた。乗客はあっという間に散ってしまい、プラットホームでぶらぶらしていた私はひとり取り残された。人気のないプラットホームは午後7時前とは思えない。この瞬間、胸が締め付けられるような不思議な感情が胸のそこから湧き上がってきた。ああ、これが最果てに来たと言うことだな。

 その夜は網走駅に近いホテルに泊まった。夕食にはモヨロ鍋といって、魚のツミレに、地場の魚、野菜を入れた鍋料理を食べた。塩味のスープが美味しくビールがかなり進んだ。
 

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仙台見てある記~序章

 今日、仙台に行ってきた。朝一番の高速バスに乗って、仙台の町を診て歩き、駅前などで買い物をして、「天地人」に間に合うように帰ってきた。こんな感じの小旅行を年に1~2回ほどしているし、過去5年間住んでいたこともあった、私にとって思いで多き町である。
 私がはじめて仙台を訪れたのは1982年8月、10歳のときである。家族旅行で青葉城と仙台七夕の見物に行ったときである。ちょうど東北新幹線が開業したばかりでピカピカの仙台駅に降り立ち、駅前で青葉城行きのバスを探した。ちょうど青葉台行きのバスが来たのでそれに乗った。街路樹のケヤキの緑がまぶしい青葉通りをバスは走った。初めての仙台の印象はすこぶる良かった。やがてバスは東北大学の川内キャンパスを両側に見ながら青葉山の上り坂に差し掛かる。ちょうどその頃母が厄介なことを他の客から聞いた。仙台にお住まいの方は察しがついたかもしれないが、青葉台行きのバスは青葉城に行かないのである。結局そのお客に教えられたとおり、理学部前のバス停で青葉城に行くバスを待った。
 父だったか母だったか忘れたが、冗談で、10年後にはおまえもここにいるかも知れないと言った。私は冗談じゃないと思った。私は決してできのいい子どもではなかった、当時の私は大学とはずっと頭のいい人が行くところで、私のような頭の悪い者が行くところではないと思っていた。当時の夢は高校を卒業した後に国鉄に入り車掌になることであった。
 青葉城から見た仙台の街は美しかった。眼下に流れる広瀬川、その向こうに広がる市街地、エスカレーターはデパート、エレベーターは市役所か病院くらいにしかない町で過ごした少年であった私には、緑が多く、しかも都会的な景観であった仙台の魅力にどっぷりはまった。

 いつしか時は流れ、怠惰な小学生は怠惰な高校生になった。田舎の進学校と言えるかどうか怪しい高校に通い、可もなく不可もない成績をとった私は、志望校から滑り止めまですべての大学に落ちた。浪人するか他の道を探すか迷ったが、結局浪人することにした。私の性格を考えると、地元で浪人をしたのでは結局サボってしまいそうな気がした。親には迷惑をかけるが他の場所で浪人しようと思った。そのとき東京と仙台が念頭に上がったが、小学生のときの思い出が頭の片隅にあったのか、仙台での浪人を選んだ。
 仙台で住んだのは、広瀬川のすぐそばの下宿だった。一番町のアーケードからも歩いて20分少々と便利な場所だった。勉強に疲れると広瀬川の河畔を散歩した。この年はこれまでの生涯の中でもっともよく勉強した年だった。その甲斐あってというか、その甲斐も無くというか、この年は本命はだめだったが、滑り止めの2校に合格した。その2校から、仙台にある大学を選んだ。学校こそ違ったが、10年前に両親のいずれかが言った言葉どおりになったわけである。
 大学に入り、4年間はとても充実した。勉強もそこそこ頑張った、たくさんの仲間ができた、サークル活動やボランティア活動もした、ゼミではとりまとめの役もやった。そういえば恋愛けっこうした。あんな顔で…。短期間だが同棲のようなこともした。私にとって青春時代そのものであった。
 就職をして福島県に戻ったが、隣県でもあり、先述のように時折訪れては懐かしい思い出を振り返ったり、変化に驚いたりしていた。そうしているうちに仙台との付き合いも27年になった。これを機会にもう一度新しい形で仙台とお付き合いしてみようと思った。

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「銀色の道」

 ネットとは非常に便利なもので、テレビやラジオではとっくに流れなくなった古い歌もネットならば今でも聴くことができる。私にとってとても懐かしい曲を見つけた。今をさかのぼること20年と少し、中学生のとき、学級対抗の合唱コンクールで歌った歌である。あの当時はまだ歌詞の意味がいまひとつピンとこなかったが、今になるととてもよくわかります。今の自分への応援歌にふさわしい曲棚と思いました。

 http://www.youtube.com/watch?v=UdphaGnUDsg&feature=related

 何度か繰り返し聞いているうちに、歌詞も思い出してきました。まだ生きることの難しさを知らなかった中学生の頃歌っていた歌が、今になってこんなに自分にとって心に響くようになるとは思っていませんでした。「苦しい坂も 止まれば下がる」。確かにそうですね、なかなか思い通りにならない、徒労ではないかと思うことも多くなったかれど、前に進まなければ後退していくばかり。たまには立ち止まることも必要かもしれないけれど、前に進まねば。この歌を聴きながらそんなことを思いました。頑張れみんな、そして、がんばれ自分。

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私の寝坊対策


ブログネタ: 朝、どうやって起きてる?参加数

  一人暮らしなので、寝坊した場合致命的な損害になります。そのため3段構えの目覚ましで起きるようにしています。
 まず5時50分、NHKの基礎英語ⅡのCDがかかります。英会話を聞きながらの優雅かどうかよくわからない目覚めです。気分が乗っているときにはCDの声を真似て発音することもあります。
 ついで6時10分、時計の目覚ましがなります。1段目で目が覚めなくてもここで何とか間に合うようになります。
 最後は7時30分、再び基礎英語ⅡのCDがかかります。普段は「そろそろ家を出なさい」の合図として使っていますが、寝坊したときの最終目覚ましとなります。
 人間の身体とは不思議なもので、5時50分に起きる習慣が何年も続くと、放っておいても5時45分前後にはひとりでに起きるようになります。

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北海道の歴史を歩く 7

【8月8日 北海道の屋根を行く】

 8月8日、今日もいい天気である。北海道に来て毎日好天が続いている、曇り男の私としては非常に珍しいことだ。今日は札幌から鉄道で釧路を経て網走まで行く。この区間は私がこれまで乗った日本の鉄道の中ではもっとも車窓の面白い区間だと思う。楽しみの多い日である。

 札幌9時4分発の特急「スーパーおおぞら3号に乗る。シルバーのステンレスボディに両端をラベンダブルー、アクセントにライムグリーンとレッドが入る。スタイリッシュでスマートなデザインである。この車両の真価はそれだけでなく、振り子式車両といって車体を傾斜させることにより急カーブでも安全に高速で通過できるようになっている。
 札幌から新夕張までは昨日と同じルートである。新夕張からは1981年開業の石勝線である。札幌から帯広、釧路に向かうには、かつては函館本線を旭川に近い滝川まで行き、富良野、新得と遠回りをしていた。石勝線の開業により、札幌から帯広、釧路までは大幅に速くなった。石勝線開業前の1978年11月の時刻表によると、特急おおぞら1号は、札幌を9時に出発して、帯広12時56分(3時間59分)、釧路15時2分(6時間2分)だったのが、2009年7月には、札幌9時4分、帯広11時34分(2時間30分)、釧路13時3分(3時間59分)と、かつて帯広までかかる時間でおよそ130km.先の釧路まで行けるようになった。

 新夕張からはひたすや山と森の中を走る。うっとうしいほどまとわりついてくる道路さえほとんどない。トマム駅の近くにはそれまでの車窓から一変して高いビルがある。アルファリゾート・トマムである。この列車も停車したが、乗降はまったくない。トマム駅を発車すると、さっきまでと同じように森と山ばかりになる。
 狩勝峠の長いトンネルを抜けると、眼下には十勝平野の広々とした景色が広がってくる。十勝平野は区画の広い畑が広がって、豊かで気持ちのよい景色である。高架橋に上がると帯広、人口17万人とは思えないほど建物が密集していて、都会的な風景である。
 幕別を過ぎると十勝川を長い鉄橋で渡ると丘陵が迫ってきて池田に着く。ここから北見へ向けてちほく高原鉄道が分岐していたが、2006年に廃止された。私は2005年8月にこの鉄道に乗った。当時のプラットフォームが同じ姿のまま残っていた。ここを過ぎるとカーブが多くなるが、「スーパーおおぞら」は、振り子式車両の真価を発揮して軽やかに走りぬける。車窓も素晴らしい。海あり、湿原あり、山ありと役者がそろっている。降りるのが惜しくなるような素晴らしい車両だったが、列車は釧路の市街地に差し掛かりスピードを落とし始めた。車内がざわついてきた。

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二刀流

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ブログネタ: 甘党? 辛党?参加数

 どちらかと言えば辛党かな。でも甘いものも決して嫌いと言うわけではありません。生クリーム系のものはやや苦手ですが、あんこ大好き、チョコレートも好き、アイスクリームも好き、というわけで、私は見事に二刀流です。身体のためにはどちらかにしたほうがいいのだろうけれど。

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魅力的な声

 私は学校で図書・視聴覚教育を担当している。この係の大きな仕事が芸術鑑賞教室の開催である。最近では企業が社会貢献として、学校や福祉施設に音楽や演劇などの芸術家を派遣する事業を行うことがさかんになっている。
 今日は私の学校にもある生命保険会社の事業として、バリトン歌手とピアニストを本校に派遣してコンサートを開催してくれた。私は学校側の窓口として交渉や企画に当たった。いつものことだが、民間企業の第一線で働いている方と一緒に企画ができるのは私にとっても良い刺激であった。
 今日のコンサートでは、クラシックの曲から、季節の歌、そして児童生徒が大好きなスタジオジブリのアニメの曲までピアノの演奏とバリトンの魅力的な歌を披露していただいた。それにしても声楽家の声とはなんて魅力的なのだろうと思った。豊かな声量、自在な表現力、なにより男性らしい力強さと、人の魂に響くパワーを持った声には私も魅了された。とてもよいコンサートになったし、このような素晴らしい企画にかかわることができたことをとても幸せに思う。

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たくさんの出会いに感謝

 去る土曜日に、前の勤務校の同窓会総会に出席した。年に一度のとても楽しい1日である。卒業生、かつての同僚、上司など懐かしい人たちに合えるからである。久しぶりに会う生徒は、在学当時と比べて格段にたくましくなっていることに驚く。就職したよ、クルマの免許を取ったよ、進学先で頑張っているよ、作業所で頑張っているよ、いずれも頼もしい言葉である。久しぶりに会う同僚とは、かつての思い出を語り合ったり、現在のそれぞれの職場の事情を情報交換をしあったりした。かつての同僚が今は他の職場で頑張っている様子を聞くと私も負けて入られないと思う。
 総会をして、20歳を迎える卒業生を祝う会を行い、会食をすると楽しい時間はあっという間に終わってしまう。名残惜しいが、来年のこの日の再会を約束して散会する。来年はどんな元気をもらえるのか楽しみである。
 土曜の夜には古い友達と久しぶりに電話をした。この人は私にとってはとても癒される存在、数年ぶりの再会はとても楽しかった。

 私は本当にいい人たちに出会ったと思う。その出会いに感謝したいと思う。なかなか「ありがとう」と言うことはできないが、私はたくさんの人との出会いに心から感謝している。

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