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「江戸の家計簿」 磯田道史著

 歴史を語る時に天皇や武将、大名などの動きなどの政治史や社会史の切り口から語られることが多い、それはそれで大事なものだし、面白いけれど、人々の生活や経済活動という経済史や生活史という視点が加わるとより立体的に歴史を見ることができ、歴史がより面白くなる。この本は江戸に住む武士や町人などの生活をお金という視点で描いた作品である。
 
 ちょっとだけ中身を紹介してみる。「暴れん坊将軍」こと江戸幕府8代将軍、徳川吉宗の時代の幕府の収入は463万石、これを現在の貨幣価値に換算すると1兆3890億円、現在の日本政府の税収の50分の1といったところ。徳川吉宗は享保の改革という幕政改革を行なったが、家康や家光の頃に比べれば幕府財政も悪化していたそうだから、暴れん坊将軍の懐も結構寂しかったのかもしれない。

 現在の物価と江戸時代の物価を比較するのも面白い。意外なものが高く、意外なものが安かった。今と同じくらいの価格なのが握り寿司、1貫8文現在の価格だと125円、回転寿司のちょっといいネタくらい。安いのが湯屋(銭湯)で、大人6文、現在の価格だと95円、高いのが卵で1個20文、なんと315円もした。このような知識があると歴史に関する本を読んだり、時代劇を見たりするのがもっと楽しくなりそうです。

レディ・Cというストーリー

 プロレスというスポーツは、そのレスラーのストーリーも大きな楽しみの要素だと思う。あるレスラーはヒールになってみたり、あるレスラーは覆面をかぶってみたり、時には味方を裏切ってみることことある。観客は技やスピードだけではなくそのレスラーのストーリーに魅了されてファンになっていくものである。

 私は妻に誘われて、スターダムという女子プロレス団体の試合をネット配信で見たり、郡山市で試合が行われた際には見に行っている。子供の頃は地上波のテレビでプロレスの試合は普通に中継されていたから見ていたが、ここ30年ほどは地上波で中継されることも減り、すっかりご無沙汰していたが、久しぶりに見るとやっぱり面白い。魅力あるストーリーを持つレスラー達が激しいファイトを繰り広げる様子に魅了された。

 その中でも、あるレスラーに注目している。彼女の名はレディ・C、家庭科の教師からプロレスラーに転身した異色の経歴の持ち主である。現役の日本の女子プロレスラーの中では最も高い177cmの身長があり、かつて絶大な人気を誇った長身レスラーのジャイアント馬場と同じ脳天唐竹割りというところが懐かしい。彼女のプロレスとの出会いは割と最近で、大学を卒業後家庭科の教師になってから同僚からプロレスのことを教えられ、意を決して後楽園ホールにプロレスを見に行ったところ魅了され、その後練習生になった。プロレスラーとしてデビューすることは家族や同僚の反対もあったがそれを押し切りデビューした。彼女自身、ププロレスを始めるまではスポーツの経験はほとんど無かった。それは彼女の試合を見ればわかる。身体能力は決して高くはない。それを激しいトレーニングで補っている。それでも徐々に強くなって試合をしている様子もさまになってきた。これからのレディ・Cがどのようなストーリーを描くのか、注目していきたい。

まるの思い出

 およそ20年前、まだ寒かったある日、当時私が勤めていた学校の体育館に段ボールの中にまだ目が開くか開かないかの子猫が2匹捨てられていた。寒さでブルブル震えている子猫が可哀想になり、1匹は同僚が連れて帰り、もう1匹は私がつれて帰った。
 家に連れて帰り、ミルクを飲ませてもまだ私を警戒した目で見ていた。段ボールに毛布を敷いてそこで寝かせると、静かに寝息を立てて寝始めた。冬の寒い夜の一人暮らしは例え男でも心細く、今日出会ったばかりの子猫であってもその存在は心強かった。私はその猫にまるという名前をつけた。まるは決して人懐っこい猫ではなかったが、それでもまるの存在は私にとっては大事なものであった。
 その後事情がありまるは近所に住んでいた母と一緒に暮らすようになったが、東日本大震災も生き延び、まるはすっかり家族の一員になった。母が病気になった後はまるは弟夫婦と一緒に暮らした。その頃にはまるも寄る年波で、腎臓が悪くなり動物病院のお世話になることも多くなっていた。足腰もだんだん弱っていたが、それでももう少し私たちの家族でいてくれると思ったが、ついに私たちのもとを去ってしまった。あと1月で20歳、人間で言えば95歳くらいであった。あっという間の年月であったがまると出会えたことは良い思い出だったと思う。

ありがとう

 今日は2021年12月31日、今年も今日で終わりです。皆様にとってこの1年はどのような年でしたか?今年はコロナ禍2年目、夏には大きな波が来て、秋にはやっと乗り越えたかと思ったら、年末には次の波がどうやら間近に迫っているようです。そのような状況で、今年もプライベートではあまり遠くに行けませんでしたが、自分の生活する地域で美味しい食べ物に出会ったり、季節の花を見たりすることのすばらしさに改めて気づきました。何より、家族や友人、親類、職場の人と一緒に過ごせた時間が何より素晴らしかったです。

 このブログももうすぐ18年目に入ります。今日現在のこのブログの通算の閲覧回数は172,901回です。1年あたりだと平均10,171回、1日だと平均27.8回になります。中には1度きりのご縁だった方もいると思います、また100回以上のご縁だったと思います。全ての出会いに感謝感激です。

 今年1年皆様には本当にお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いします。そしてどうぞ良い年をお迎えください。

「いびつ伝〜日本最初の養護学校を創った柏倉松蔵の物語」岩間吾郎著

 日本で最初の肢体不自由時のための教育機関、一般的には1932年に東京都麻布にできた光明学校(現在は東京都立光明学園、場所も世田谷区に移っている)とされているが、実際は1921年に東京都の小石川にできた柏学園を日本最初の肢体不自由の教育機関とするのがより正しいと私は考える。柏学園では、柏倉松蔵の妻であるトクと、織田訓導(現在の教諭)当時の尋常小学校(現在の小学校)に準じた授業を行い、松蔵が医療体操やマッサージを行い、通学のほか保母がいて学園に泊まり込んで学ぶことができた。また戦前では極めて珍しかったスクールバスがあり、児童生徒の通学のほか、遠足にも活用されていた。そうなると、現在の肢体不自由特別支援学校に必要な要素は揃っていた。ただし、当時の学校に関して定めた学校令に基づく学校ではなかったことと、柏学園が1958年に廃止され、当時のことを知る人も記録もほとんどが失われ歴史から消滅してしまった存在になってしまった。

 この本の著者の岩間吾郎氏は戦前柏学園に在籍し、戦中から戦後も柏倉松蔵と一定の交流を保っていた人物である。数少ない柏倉松蔵と柏学園の貴重な記録であるし、身体に障害を持つ著者が太平洋戦争前後の困難な時代を生きてきた自叙伝でもある。私は学生時代肢体不自由児教育史について卒業論文を書き、柏倉松蔵についても文献をいろいろ読んだが、そこではわからない生身の人間としての姿があった。かなり分厚い本だがじっくり読んで欲しい本である。

クリスマス前に

 20年くらい前に「世界がもし100人の村だったら」という本があり、かなり話題になりました。
 食料に関してはこんなことが書いてありました。「100人のうち20人は食料が十分でなく、1人は死にそうです、でも15人は太りすぎです」。富については、「全ての富のうち、6人が59%を持っています。74人が39%を、20人が2%を分け合っています」。
 簡単に言えば、生まれた国や社会階層で大きな格差があり、細かい数字に関しては20年前と今ではだいぶ違うのかもしれませんが、大まかな傾向は変わっていないのだろうと思います。地球上には十分な食糧が得られない人、きれいな水が得られない人、病気や障害があるのに医療が受けられない人がいます。戦争や犯罪で命が脅かされている人がいます。
 もうすぐクリスマス、そして新年。少しでも多くの人が希望のある年末年始を送れることを祈っています。

80年目の願い

1941年12月8日、日本はマレー半島とハワイの真珠湾に攻撃を仕掛け、アメリカ、中華民国、イギリス、オランダなどと戦争を開始した。この戦争は太平洋戦争と呼ばれ、1945年までに諸説あるが2000万人以上の方が亡くなった。明日で太平洋戦争の開戦から80年、戦争による犠牲がなくなることを心より願う。

自転車に乗って

 最近の私の休日の日課は自転車に乗ること、自宅の近所の住宅街や田んぼ、山の中をクロスバイクで走っている。日頃の運動不足解消には適度な運動だし、顔や身体に風を受けるのは気持ちがいいし、何より自転車のスピードが私のリズムにちょうどいい。花が咲いていたり、小さな神社があればちょっとした場所に自転車を停めて小休止できるのもいい。今日は少し雨に降られたけれど、缶コーヒーを飲みながらコンビニの軒先で雨宿りするのも楽しいし、犬の散歩などで歩いている人と挨拶を交わすのも楽しい。これからは寒くなるけれどまだまだ自転車と過ごす午後を楽しみたい。

1000年の時を超えて

 およそ1000年前、清少納言は「枕草子」で、春は曙が素晴らしい夏は夜が素晴らしいと季節ごとの素晴らしさを訴えているが、秋は夕暮れが素晴らしいとしている。この感覚は1000年の時を経ても同じで、春の曙(明け方)空が徐々に明るくなっていく空を見るのが好きだ。夏の夜、月を見るのも好きだし、蛍も素晴らしい。そして秋、夕暮れの刻々と色を変える空、巣に帰るカラス、ひんやりとした風、虫の音、庭先に咲いたリンドウと子どもを呼ぶ母親の声(これは清少納言じゃなくて寅さんだな)春のあけぼのの清らかな美しさ、夏の夜のこわれそうなはかなさとも違う、秋の夕暮れの胸を締め付けるような情感を私は愛してやまない。え、もうひとつ残っているって、清少納言は冬はつとめて(早朝)が素晴らしいと書いていたが、私は昼下がりが素晴らしいと思う。冬の早朝、冬の早朝の寒さは身も心も引き締まるようで嫌いではないし、雪や霜の白さも美しいけれど、私は冬の昼間の柔らかい光を浴びでつぼみを膨らませる梅の木や黄色い花を咲かせる福寿草を見るのが好き。多分、私は清少納言よりも根がぐうたらにできているのでしょう。1000年の時を超えて彼女に笑われそうな話でした。

札幌の衝撃

 「札幌の1月、-3.2℃の衝撃」と言っっても何のこっちゃと思うだろうが、私には非常に衝撃的な数字だった。いや、正確に言えば恐ろしい数字と言った方が正しいだろう。

 今をさかのぼることおよそ1月前、理科の授業で使う資料を作っていた。日本各地の夏と冬の気温と降水量を比較し、特徴をまとめようという内容であった。那覇は南西諸島の気候代表、東京は太平洋側の気候代表、金沢は日本海側の気候代表、札幌は北海道の気候代表に選んだ。ちょうど今年気象庁の平年の気温・降水量が改定されたばかりであったから、それまでのデータとどのような違いがあるかに個人的な興味もあった。平年の気温・降水量は10年ごとに改定され、現在は1991年〜2020年の平均をもとに算出されている。この数字をもとに天気予報などで「平年より降水量が多い」や「平年より暑い夏」などと報道されるのである。那覇、東京、金沢と平年の気温・降水量を調べ終わって、残るは札幌、これが終わったら冷たいお茶でも飲んでゆっくりしようと思っていた。わたしの学校の職員室はこの夏はエアコンが効かず、今年の9月はとにかく暑かった。

 「うそ!」思わずつぶやいてしまった。札幌が最も寒くなるのが1月、その月平均気温は-3.2℃。私が小学生だった1980年代前半の札幌の冬は-5℃くらいで、「さすが北海道、気合の入った寒さだ」と思ったものである。気象庁の過去の気温データを見ても、1922年の1月の平均気温-10.2℃を筆頭に厳しい寒さが当たり前だった。戦後は徐々に気温が上昇してきたが、1978年2月の平均気温が-7.6℃など厳しい寒さが当たり前だった。21世紀に入ると、2001年2月の-5.5℃を最後に月平均気温が-5℃を下回ることがなくなった。

 熱帯や温帯、冷帯などの気候には定義があり、ケッペンの気候区分では冷帯に定義されるには最も寒い月の平均気温が-3℃未満、最も暖かい月の平均気温が10℃以上で、乾燥限界以上の降水があることとある。日本の場合どこに行っても雨や雪は降るから乾燥限界は考えなくていいが、問題は気温、現在の最も寒い月の平年の気温が-3.2℃なので、あと0.2℃上昇すれば札幌は温帯になることになる。函館、松前、江差、伊達、室蘭などは既に温帯になっている。北海道=冷帯というのは既に過去の話になっている。一方沖縄県も徐々に熱帯になる地域が増えてきている。

 気候の変動は人為的なものがなくても起きうる。海流や風、太陽の活動、火山の噴火などでも変わる。しかし20世紀後半からの気候の変動はペースが早いと感じている。そうなると何らかの人間の活動が原因となっていることは間違い無いと思う。気候の変動は動物や植物への影響が多いし、私たちもその影響から逃れることはできない。今からでもできることはきっとあるはずだと思う。

軽自動車に新しい潮流

 軽自動車は日本独自の車両規格である。狭い全幅に短い全長に小型のエンジンが特徴だった。狭い道や狭い駐車場が多い日本では、軽トラックや軽ワンボックスなどの商用車として、あるいはダイハツ・ミラやスズキ・アルトなどを中心とした女性の通勤や買い物、家族の送り迎えなどに使われることが多く、男性が乗ることはあまりなかったし、家族みんなが乗って移動することもあまりなかった。

 この状況を変えたのが1993年に登場したスズキ・ワゴンRで、すでに全幅と全長は決まっていたから思い切って背の高いボディにしてみた。このこの時期のスズキの主力の軽自動車であるアルトが1400mm程度であったが、一気に1640mmにしてみた。こうすると高さに余裕が生まれるから椅子の座面も上げることができ、前後方向にも余裕ができる。家族4人で乗っても余裕で使える軽自動車がここに誕生した。このコンセプトは、他社にも波及し、ダイハツ・ムーヴ、三菱・トッポBJ、スバル・プレオなど各社が独自の解釈で背の高い軽自動車、後にハイトワゴンと言われる軽自動車を生み出した。

 2003年にはさらに広い室内を追求したダイハツ・タントが誕生した。ワゴンRより更に背の高いボディを与え、驚きの1725mmである。後ろから見ると、軽ワンボックスにしか見えなかったが、驚くほど室内は広かった。ドアは、ワゴンRをはじめとするハイトワゴンがこれまで多くの車種で用いられてきたヒンジドア(開き戸)に代わり、後席にスライドドア(引き戸)を採用した。スライドドアは、乗降の際大きなスペースを使用しないし、子どもや高齢者が乗り降りをするときに隣のクルマにドアをぶつける心配がない、何よりドアの開く幅が大きく、チャイルドシートを使う子供の乗り降りにも、身体が不自由な高齢者の乗り降りにもいい。これに追随したのがスズキ・パレットやホンダ・N BOXで、これらはスーパーハイトワゴンと呼ばれている。

 2016年、軽自動車に更に新しい潮流が生まれた。ダイハツから出た、ムーヴキャンバスである。ボディの高さは1655mmとやや控えめながら、後席にスライドドアを採用した。正直言ってスーパーハイトワゴンは車内は広く、子どもが立って着替えをできるし、自転車も楽に積めるほど車内は広いが、座ると天井の高さが気になるし、まぁそこまでの室内の広さはいらないと言う人もいるだろう。このクルマ、なかなかいいところに目をつけたと思うし、丸っこいボディもなかなかいいと思う。最近、スズキからもワゴンRスマイルという似たようなコンセプトの車が出た。軽自動車は日本独自のガラパゴスな規格であるが、実に個性的なモデルが出てきた。今後の推移が楽しみなカテゴリーだと言えるだろう。

夏の終わりに

 四季の中でどれが好きかというと、圧倒的に秋が好きです。なぜかと問われれば、暑くもなく寒くもなくほどほどに過ごしやすい気候、樹木は徐々に色を変えやがて落葉する、田んぼの稲は首を垂れ豊かな実りを迎える、夜が長くじっくり読書を楽しむのに適している。など多くの理由があるが、とにかく私は秋が好きである。

 それでは夏が終わり秋めいてくるこの時期はどうかと思うと、切ない少しだけ寂しさを感じる季節だと思っている。海水浴で賑わっていた海岸から人がいなくなり、夏の高校野球が終わり、24時間テレビが終わると夏休みの宿題を仕上げなければならない、スイカが食べ納めになり、夏休みが終わる。学校が始まり友達に会えるのは嬉しいけれど、のんびり過ごせて楽しいイベントが多かった夏への未練もある。そんな時期である。それでは今年はどうかというと、新型コロナウイルス感染症の蔓延で夏に人と会ったりどこかに行くこともほとんどなく、また夏のイベントもほとんどなく夏が終わってしまった。夏がぼやけてしまったから、夏の終わりのこの時期もなんとなくぼやけた感じになってしまった。それでも夏は終わり秋になる。

銃後から

 昨晩NHK総合テレビで国防婦人会に関するドキュメンタリー番組を見た。初めは大阪の女性が自主的に始めた活動で、当時の多くの女性は家庭に縛られていたから社会で活躍できるという喜びも感じられたようだ。しかし、満州事変から日中戦争と戦争が拡大するにつれて戦争遂行の道具になり、自由にものが言えぬようになった。やがて彼女らの夫や息子らが徴兵され戦地へ送られる。その中には白木の箱に入って無言の帰宅をした人も少なくなかった。そんな状況でも声を上げて泣くことすら許されない。なんと残酷な時代だろうと思う。2度とこのような悲しいことが起こらないことを切に願う。

その日まで

 新型コロナウイルスの世界的な大流行(パンデミック)が始まって1年半以上が過ぎた。私は中国の武漢で感染が深刻な状態になり、日本でもクルーズ船での感染が深刻な状態になった2月上旬に旅行や行楽での自分が生活している地域(自分が住んでいる市と隣接する自治体)の外への外出をやめている。その後新型コロナウイルスの感染状況には波があり、感染が増えると外出を最小限にして外食も中止しているが、感染が減ると自分が生活している地域の範囲内で外出している地域の範囲内で外出し外食も楽しんでいる。現在は感染の第5波となり、私が住む市でも7月末から数十人の感染者が出ているので、買い物や通院以外の外出はほぼ中止している。

 私は元来家でじっとしているより、外出をしてその土地の美味しい店の食事を楽しんだり、歴史遺産を訪ねたり、海や山の景色を楽しんだり、寺社参拝をすることが好きである。必ずしも遠くでなくてよく、高級な店は性に合わないから場末のラーメン屋やおばちゃんがやっているような定食屋で十分である。それもできなくなったのは悲しい。また、かつての職場の仲間や遠くに住む友人とも会いたいけれど会えない状態であるのは辛い。

 新型コロナウイルスの世界的な流行がいつまで続くかはわからない。もし終わったらどこに行こうか、誰と会おうか今はそれを考えながら、大切な人のため、自分のためにもうしばらくステイホームを楽しみたいと思う。

残念なこと

 東京オリンピック・パラリンピックで開会式・閉会式の演出を行なっていた人物が過去にコントのなかでナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)をネタにしていたことがわかり解任された。これを読まれている方の中には、20年以上前のことで、悪意を持ってしたことではないのにあまりにも重い処分だと思った方もいるかもしれない。しかし、ナチスドイツによるホロコーストでは、およそ600万人のユダヤ人がガス室や銃殺などの残虐な方法で殺された事実はあまりに重いし、家族や友人、知人を奪われた人の心の傷はまだ癒えないし、心ならずもホロコーストに関わらざるを得なかった人も長く苦悩しただろう。もちろん彼もホロコーストのことは知識として持っていたとは思うが、ホロコーストの被害者の心の傷にまで想像することはできなかったのかもしれない。残念なことだと思う。

やえもんよりのお願い

 東京オリンピック・パラリンピックの開会式、閉会式に関わっている小山田圭吾が、小学生から高校生までの間、障害を持つ人へのいじめや暴行に関わっていたことがわかった。本人が全く反省をしていないことも問題だが、発覚しても解任などの措置をしない組織委員会にも問題がある。いじめや暴行の内容も酷く、排泄物を食べさせたり、全裸で歩かせる、自慰行為をさせるなど被害者の人権を無視したものである。どうか皆さん、オリンピック・パラリンピックの開会式、閉会式のテレビ中継を見ないことで抗議の意思を示しましょう。


世の中は変えられるか

 多くの人は、「世の中のことは自分たち市民の力では変えることはできない」と諦めている。いや、正常な感覚を持っているならそうなるのかもしれない。でも、実は多くの人が声を上げれば世の中は変えられる。しかも割とあっさりと。そんなことがここ数ヶ月に何回もあった。例えば、東京オリンピック、国際オリンピック委員会や政府などは観客を入れての開催にこだわっていたが、新型コロナウイルス感染症の蔓延や、多くの人の反対や疑問の声を受けて、パブリックビューイングや東京都をはじめとする首都圏の会場は無観客で実施することになった。過去にも、水俣病などの公害問題や環境権などで国民の声が世の中を変えた例はある。政治家だって人間、私たち市民も人間、当然そこに上下関係などあるわけがないし、人間だから間違いを犯すこともあれば気付かないこともある。そういう時に黙っていては世の中は変えられない。ひとりの大人として、間違ったことは間違っていると、良くないことは良くないと声を上げることは大事なことだと思う。Yes,we can.きっと世の中は変えられる。

奇妙な日常そして

 いつの間にかマスクをするのが当たり前になった。いつのまにか建物に入るのが当たり前になった。いつの間にか飲み会がないのが当たり前になった。日常って簡単に変わってしまうし、人間は意外にも日常の変化に適応できるものだと感心する。では、この変化がいつまで続くかというと、おそらく誰も自信を持って答えることができる人はいないと思う。この変化は全て新型コロナウイルスの感染拡大によるものだと思う。しかしこの変化、決して悪いことばかりではないような気がする。マスクをつけると、表情がよまれにくくなるから、あまり親しくない人と一緒にいる時には暑さは我慢しなければならないが、気分的には楽だと思う。また必要性の薄いイベントや職場の飲み会などがないから、必要以上に人に会うことがなくなりほっとしている人も多いのではないかと思う。

 今起きている変化は決して悪いことばかりではないと思う。これまで続けられていたことが惰性で続いていたものも多いだろう。これを機会に飲み会やイベントなどを続けるかの検討はした方がいいと思う。ただ、心配しているのは家族や友人、親戚、知人などの本当に大切な人との距離が遠くなってしまうこと。人と人とは適度な距離はあった方がいいがお互いの温もりは必要。当たり前に日常から現在は奇妙な日常、そして新型コロナウイルスを克服したらどんな新しい日常がやってくるのだろうか。

我々はIOCの道具ではない

 会期が迫った東京オリンピック、パラリンピックについてIOC(国際オリンピック委員会)の役員による発言が波紋を広げている。5月19日にはバッハ会長が、「日本人には粘り強い精神力、逆境に耐え抜く精神力があるからオリンピックの開催は可能だ」という趣旨の発言をした。次いでコーツ調整委員長が「東京都が緊急事態宣言オリンピックを開催する」と発言。22日にはバッハ会長が「オリンピック開催には犠牲を払わなければならない」と発言して物議をかもした。この発言の趣旨は、犠牲を払うのは日本国民ではなくオリンピック関係者ということだそうだが、この発言を不快に思った方は少なくなかったと思う。

 日本の現状は新型コロナウイルスの第4波のピークを少し越えたばかりで、新規感染者は若干の減少が見られているが、重症者や病床使用率はまだまだ高止まりしているし、北海道や沖縄県は新規感染者が多いままになっている。そのような状況下でオリンピック関係者のために病床を開けてくれという依頼が政府から複数の県知事にあったようだが、断った県知事があると聞く。そりゃそうだろうと思う。冷静な目で見て現在の日本はオリンピックを開催できる状況にはない。

 それではなざIOCは東京オリンピックの開催にこだわるのだろうか。おそらくは金なのだろうと思う。オリンピックの放映権料は莫大で、各国のテレビ局等から数千億円の放映権料を徴収し、それをIOCの運営費や各競技団体への分配金にしている。オリンピックは巨大なスポーツイベントであると同時に巨大なビジネス案件でもあるのだ。それを悪いこととは言わない。しかし、多くの懸念の声に耳を貸さず金のために突き進む姿は醜悪の一言に尽きるだろう。

 文部科学省の資料によると、東京オリンピックの選手は11,090人、パラリンピックの選手数は4,400人。これに役員やメディア関係者が加わる。彼らが入国する時にもれなくPCR検査などを行うことができるのだろうか。入国後の行動を把握することができるのだろうか。彼らの中に海外から新たな変異株を持ち込むことがないのか、そして選手村の中で集団感染が起き、彼らが帰国して世界中に新たな変異株を世界中に広げることはないのか。もしかしたら日本はオリンピックが開催される頃には再び感染者が増加に転じていることも考えられる。もしそうなれば感染力の強いインド変異株になる可能性がある。オリンピックの選手や関係者のために日本国内の感染者の入院が困難になることだってあり得ないとはいえないだろう。引き返すならまだ間に合う。私たちはIOCの金儲けの道具ではない。

あれから1年半。

 中国で新型コロナウイルスの感染者が発見されたのは2019年11月、その後感染は世界中に広がった。現在地球上の総人口はおよそ78億人で、これまでに新型コロナウイルスに感染した人の累計は1億6200万人、そのうち亡くなった人の累計は340万人、大雑把にいえば世界の総人口のうち50人に1人が感染したと言えるだろう。最も感染者が多いのはアメリカの3300万人、次いでインドの2400万人。以下、ブラジルの1600万人、フランスの580万人、トルコの510万人、ロシアの490万人、イギリスの490万人、イタリアの410万人、スペインとドイツの360万人と続く。死者はアメリカで59万人、フランスの43万人、インドの27万人、メキシコの22万人イギリスの13万人、イタリアの12万人、フランスの12万人と続く。

 日本は5月15日現在の感染者は68万人、死者は1万1000人となっている。日本国内で現在入院や療養をしている人数はおよそ7万3000人、そのうち重症者は1200人、退院や療養解除となったのは58万人。この感染拡大はどこまで続くか分からないが、そう簡単に終わるとは思えない。わずかに希望があるとすれば、ワクチン接種が進んできた国では徐々に感染者の減少が見られることである。日本では2回目の接種が終わった人はおよそ160万人、人口の1%を少し越えたくらい。まだまだ先は長そうだ。

 とにかく皆さん、人混みを避ける、マスクをつける、消毒を徹底するなど、できる限りの感染対策をしてください。今はこの危機を1人でも多くの人が生き延びることを願っています。どうか政府や経済界の皆さん、富や社会資源をできるだけ公平に分配して多くの人が生活の心配をしないで済むようにしてほしいと思います。

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