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軽自動車に新しい潮流

 軽自動車は日本独自の車両規格である。狭い全幅に短い全長に小型のエンジンが特徴だった。狭い道や狭い駐車場が多い日本では、軽トラックや軽ワンボックスなどの商用車として、あるいはダイハツ・ミラやスズキ・アルトなどを中心とした女性の通勤や買い物、家族の送り迎えなどに使われることが多く、男性が乗ることはあまりなかったし、家族みんなが乗って移動することもあまりなかった。

 この状況を変えたのが1993年に登場したスズキ・ワゴンRで、すでに全幅と全長は決まっていたから思い切って背の高いボディにしてみた。このこの時期のスズキの主力の軽自動車であるアルトが1400mm程度であったが、一気に1640mmにしてみた。こうすると高さに余裕が生まれるから椅子の座面も上げることができ、前後方向にも余裕ができる。家族4人で乗っても余裕で使える軽自動車がここに誕生した。このコンセプトは、他社にも波及し、ダイハツ・ムーヴ、三菱・トッポBJ、スバル・プレオなど各社が独自の解釈で背の高い軽自動車、後にハイトワゴンと言われる軽自動車を生み出した。

 2003年にはさらに広い室内を追求したダイハツ・タントが誕生した。ワゴンRより更に背の高いボディを与え、驚きの1725mmである。後ろから見ると、軽ワンボックスにしか見えなかったが、驚くほど室内は広かった。ドアは、ワゴンRをはじめとするハイトワゴンがこれまで多くの車種で用いられてきたヒンジドア(開き戸)に代わり、後席にスライドドア(引き戸)を採用した。スライドドアは、乗降の際大きなスペースを使用しないし、子どもや高齢者が乗り降りをするときに隣のクルマにドアをぶつける心配がない、何よりドアの開く幅が大きく、チャイルドシートを使う子供の乗り降りにも、身体が不自由な高齢者の乗り降りにもいい。これに追随したのがスズキ・パレットやホンダ・N BOXで、これらはスーパーハイトワゴンと呼ばれている。

 2016年、軽自動車に更に新しい潮流が生まれた。ダイハツから出た、ムーヴキャンバスである。ボディの高さは1655mmとやや控えめながら、後席にスライドドアを採用した。正直言ってスーパーハイトワゴンは車内は広く、子どもが立って着替えをできるし、自転車も楽に積めるほど車内は広いが、座ると天井の高さが気になるし、まぁそこまでの室内の広さはいらないと言う人もいるだろう。このクルマ、なかなかいいところに目をつけたと思うし、丸っこいボディもなかなかいいと思う。最近、スズキからもワゴンRスマイルという似たようなコンセプトの車が出た。軽自動車は日本独自のガラパゴスな規格であるが、実に個性的なモデルが出てきた。今後の推移が楽しみなカテゴリーだと言えるだろう。

夏の終わりに

 四季の中でどれが好きかというと、圧倒的に秋が好きです。なぜかと問われれば、暑くもなく寒くもなくほどほどに過ごしやすい気候、樹木は徐々に色を変えやがて落葉する、田んぼの稲は首を垂れ豊かな実りを迎える、夜が長くじっくり読書を楽しむのに適している。など多くの理由があるが、とにかく私は秋が好きである。

 それでは夏が終わり秋めいてくるこの時期はどうかと思うと、切ない少しだけ寂しさを感じる季節だと思っている。海水浴で賑わっていた海岸から人がいなくなり、夏の高校野球が終わり、24時間テレビが終わると夏休みの宿題を仕上げなければならない、スイカが食べ納めになり、夏休みが終わる。学校が始まり友達に会えるのは嬉しいけれど、のんびり過ごせて楽しいイベントが多かった夏への未練もある。そんな時期である。それでは今年はどうかというと、新型コロナウイルス感染症の蔓延で夏に人と会ったりどこかに行くこともほとんどなく、また夏のイベントもほとんどなく夏が終わってしまった。夏がぼやけてしまったから、夏の終わりのこの時期もなんとなくぼやけた感じになってしまった。それでも夏は終わり秋になる。

銃後から

 昨晩NHK総合テレビで国防婦人会に関するドキュメンタリー番組を見た。初めは大阪の女性が自主的に始めた活動で、当時の多くの女性は家庭に縛られていたから社会で活躍できるという喜びも感じられたようだ。しかし、満州事変から日中戦争と戦争が拡大するにつれて戦争遂行の道具になり、自由にものが言えぬようになった。やがて彼女らの夫や息子らが徴兵され戦地へ送られる。その中には白木の箱に入って無言の帰宅をした人も少なくなかった。そんな状況でも声を上げて泣くことすら許されない。なんと残酷な時代だろうと思う。2度とこのような悲しいことが起こらないことを切に願う。

その日まで

 新型コロナウイルスの世界的な大流行(パンデミック)が始まって1年半以上が過ぎた。私は中国の武漢で感染が深刻な状態になり、日本でもクルーズ船での感染が深刻な状態になった2月上旬に旅行や行楽での自分が生活している地域(自分が住んでいる市と隣接する自治体)の外への外出をやめている。その後新型コロナウイルスの感染状況には波があり、感染が増えると外出を最小限にして外食も中止しているが、感染が減ると自分が生活している地域の範囲内で外出している地域の範囲内で外出し外食も楽しんでいる。現在は感染の第5波となり、私が住む市でも7月末から数十人の感染者が出ているので、買い物や通院以外の外出はほぼ中止している。

 私は元来家でじっとしているより、外出をしてその土地の美味しい店の食事を楽しんだり、歴史遺産を訪ねたり、海や山の景色を楽しんだり、寺社参拝をすることが好きである。必ずしも遠くでなくてよく、高級な店は性に合わないから場末のラーメン屋やおばちゃんがやっているような定食屋で十分である。それもできなくなったのは悲しい。また、かつての職場の仲間や遠くに住む友人とも会いたいけれど会えない状態であるのは辛い。

 新型コロナウイルスの世界的な流行がいつまで続くかはわからない。もし終わったらどこに行こうか、誰と会おうか今はそれを考えながら、大切な人のため、自分のためにもうしばらくステイホームを楽しみたいと思う。

残念なこと

 東京オリンピック・パラリンピックで開会式・閉会式の演出を行なっていた人物が過去にコントのなかでナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)をネタにしていたことがわかり解任された。これを読まれている方の中には、20年以上前のことで、悪意を持ってしたことではないのにあまりにも重い処分だと思った方もいるかもしれない。しかし、ナチスドイツによるホロコーストでは、およそ600万人のユダヤ人がガス室や銃殺などの残虐な方法で殺された事実はあまりに重いし、家族や友人、知人を奪われた人の心の傷はまだ癒えないし、心ならずもホロコーストに関わらざるを得なかった人も長く苦悩しただろう。もちろん彼もホロコーストのことは知識として持っていたとは思うが、ホロコーストの被害者の心の傷にまで想像することはできなかったのかもしれない。残念なことだと思う。

やえもんよりのお願い

 東京オリンピック・パラリンピックの開会式、閉会式に関わっている小山田圭吾が、小学生から高校生までの間、障害を持つ人へのいじめや暴行に関わっていたことがわかった。本人が全く反省をしていないことも問題だが、発覚しても解任などの措置をしない組織委員会にも問題がある。いじめや暴行の内容も酷く、排泄物を食べさせたり、全裸で歩かせる、自慰行為をさせるなど被害者の人権を無視したものである。どうか皆さん、オリンピック・パラリンピックの開会式、閉会式のテレビ中継を見ないことで抗議の意思を示しましょう。


世の中は変えられるか

 多くの人は、「世の中のことは自分たち市民の力では変えることはできない」と諦めている。いや、正常な感覚を持っているならそうなるのかもしれない。でも、実は多くの人が声を上げれば世の中は変えられる。しかも割とあっさりと。そんなことがここ数ヶ月に何回もあった。例えば、東京オリンピック、国際オリンピック委員会や政府などは観客を入れての開催にこだわっていたが、新型コロナウイルス感染症の蔓延や、多くの人の反対や疑問の声を受けて、パブリックビューイングや東京都をはじめとする首都圏の会場は無観客で実施することになった。過去にも、水俣病などの公害問題や環境権などで国民の声が世の中を変えた例はある。政治家だって人間、私たち市民も人間、当然そこに上下関係などあるわけがないし、人間だから間違いを犯すこともあれば気付かないこともある。そういう時に黙っていては世の中は変えられない。ひとりの大人として、間違ったことは間違っていると、良くないことは良くないと声を上げることは大事なことだと思う。Yes,we can.きっと世の中は変えられる。

奇妙な日常そして

 いつの間にかマスクをするのが当たり前になった。いつのまにか建物に入るのが当たり前になった。いつの間にか飲み会がないのが当たり前になった。日常って簡単に変わってしまうし、人間は意外にも日常の変化に適応できるものだと感心する。では、この変化がいつまで続くかというと、おそらく誰も自信を持って答えることができる人はいないと思う。この変化は全て新型コロナウイルスの感染拡大によるものだと思う。しかしこの変化、決して悪いことばかりではないような気がする。マスクをつけると、表情がよまれにくくなるから、あまり親しくない人と一緒にいる時には暑さは我慢しなければならないが、気分的には楽だと思う。また必要性の薄いイベントや職場の飲み会などがないから、必要以上に人に会うことがなくなりほっとしている人も多いのではないかと思う。

 今起きている変化は決して悪いことばかりではないと思う。これまで続けられていたことが惰性で続いていたものも多いだろう。これを機会に飲み会やイベントなどを続けるかの検討はした方がいいと思う。ただ、心配しているのは家族や友人、親戚、知人などの本当に大切な人との距離が遠くなってしまうこと。人と人とは適度な距離はあった方がいいがお互いの温もりは必要。当たり前に日常から現在は奇妙な日常、そして新型コロナウイルスを克服したらどんな新しい日常がやってくるのだろうか。

我々はIOCの道具ではない

 会期が迫った東京オリンピック、パラリンピックについてIOC(国際オリンピック委員会)の役員による発言が波紋を広げている。5月19日にはバッハ会長が、「日本人には粘り強い精神力、逆境に耐え抜く精神力があるからオリンピックの開催は可能だ」という趣旨の発言をした。次いでコーツ調整委員長が「東京都が緊急事態宣言オリンピックを開催する」と発言。22日にはバッハ会長が「オリンピック開催には犠牲を払わなければならない」と発言して物議をかもした。この発言の趣旨は、犠牲を払うのは日本国民ではなくオリンピック関係者ということだそうだが、この発言を不快に思った方は少なくなかったと思う。

 日本の現状は新型コロナウイルスの第4波のピークを少し越えたばかりで、新規感染者は若干の減少が見られているが、重症者や病床使用率はまだまだ高止まりしているし、北海道や沖縄県は新規感染者が多いままになっている。そのような状況下でオリンピック関係者のために病床を開けてくれという依頼が政府から複数の県知事にあったようだが、断った県知事があると聞く。そりゃそうだろうと思う。冷静な目で見て現在の日本はオリンピックを開催できる状況にはない。

 それではなざIOCは東京オリンピックの開催にこだわるのだろうか。おそらくは金なのだろうと思う。オリンピックの放映権料は莫大で、各国のテレビ局等から数千億円の放映権料を徴収し、それをIOCの運営費や各競技団体への分配金にしている。オリンピックは巨大なスポーツイベントであると同時に巨大なビジネス案件でもあるのだ。それを悪いこととは言わない。しかし、多くの懸念の声に耳を貸さず金のために突き進む姿は醜悪の一言に尽きるだろう。

 文部科学省の資料によると、東京オリンピックの選手は11,090人、パラリンピックの選手数は4,400人。これに役員やメディア関係者が加わる。彼らが入国する時にもれなくPCR検査などを行うことができるのだろうか。入国後の行動を把握することができるのだろうか。彼らの中に海外から新たな変異株を持ち込むことがないのか、そして選手村の中で集団感染が起き、彼らが帰国して世界中に新たな変異株を世界中に広げることはないのか。もしかしたら日本はオリンピックが開催される頃には再び感染者が増加に転じていることも考えられる。もしそうなれば感染力の強いインド変異株になる可能性がある。オリンピックの選手や関係者のために日本国内の感染者の入院が困難になることだってあり得ないとはいえないだろう。引き返すならまだ間に合う。私たちはIOCの金儲けの道具ではない。

あれから1年半。

 中国で新型コロナウイルスの感染者が発見されたのは2019年11月、その後感染は世界中に広がった。現在地球上の総人口はおよそ78億人で、これまでに新型コロナウイルスに感染した人の累計は1億6200万人、そのうち亡くなった人の累計は340万人、大雑把にいえば世界の総人口のうち50人に1人が感染したと言えるだろう。最も感染者が多いのはアメリカの3300万人、次いでインドの2400万人。以下、ブラジルの1600万人、フランスの580万人、トルコの510万人、ロシアの490万人、イギリスの490万人、イタリアの410万人、スペインとドイツの360万人と続く。死者はアメリカで59万人、フランスの43万人、インドの27万人、メキシコの22万人イギリスの13万人、イタリアの12万人、フランスの12万人と続く。

 日本は5月15日現在の感染者は68万人、死者は1万1000人となっている。日本国内で現在入院や療養をしている人数はおよそ7万3000人、そのうち重症者は1200人、退院や療養解除となったのは58万人。この感染拡大はどこまで続くか分からないが、そう簡単に終わるとは思えない。わずかに希望があるとすれば、ワクチン接種が進んできた国では徐々に感染者の減少が見られることである。日本では2回目の接種が終わった人はおよそ160万人、人口の1%を少し越えたくらい。まだまだ先は長そうだ。

 とにかく皆さん、人混みを避ける、マスクをつける、消毒を徹底するなど、できる限りの感染対策をしてください。今はこの危機を1人でも多くの人が生き延びることを願っています。どうか政府や経済界の皆さん、富や社会資源をできるだけ公平に分配して多くの人が生活の心配をしないで済むようにしてほしいと思います。

例外があってもいいんじゃない

 温室効果ガスの削減に向け、ホンダは、世界で売る自動車のすべてを2040年までに電気自動車(EV)か燃料電池車(FCV)にする、という目標を23日発表した。純粋なガソリン車だけでなく、ハイブリッド車(HV)も売らない。走る際に二酸化炭素を出さない「脱ガソリン車」への全面移行を表明したのは、日系メーカーで初めて。実現すれば、エンジンを載せたホンダの新車はなくなることになる。(毎日新聞)

 ホンダはハイブリッド車に力を入れていて、エンジンにも相当なこだわりがある会社だから、当分ハイブリッド車は残ると思っていた。それでも2039年まではホンダのガソリン車やハイブリッド車が販売されるかというと、投資を電気自動車や燃料電池車に集中させる関係から意外と早くガソリン車やハイブリッド車のラインナップは縮小するのかもしれない。
 ホンダの決断は国内の他社にも影響を与えるかもしれない。海外のメーカーではボルボやフォルクスワーゲン、メルセデスベンツが既にガソリン車やハイブリッド車の販売終了に向け動いている。
 クルマが温暖化ガスを排出することなく走る。確かにそれは移動するための機械としては正しい進化の方向だろう。しかしそれだけでは満足できない人もいるだろう。MT(マニュアルトランスミッション車)に乗りたい人、高回転までスムーズに吹け上がるエンジンの感触を楽しみたい人もいる。そのような人のための救済策があっても良いと思う。地球環境に負荷を与えない範囲でガソリン車の製造を認める社会であってほしいと思う。クルマは確かに移動するための機械だが同時に文化でもあり、趣味の対象でもある。

そういうものに、私はなりたい

 私の住む町の小さな丘に桜の木がたくさん植えてあるところがある。ソメイヨシノだけでなく枝垂れ桜、その他何種類の桜も植えてあってそれはそれは素敵な場所である。その丘には東屋やベンチもあって座ってお茶や団子を楽しみながら桜を愛でることができる。丘の下には川が流れ、時折いわきと郡山を結ぶ磐越東線も走る列車も見ることができる。とはいえここを知っているのは地元の人が多いからいわゆる有名お花見スポットのように混雑することのない場所である。

 桜の花を愛でる時には視線はどうしても上を向くことが多いだろう。足元を気にしながら桜の花を見る人はおそらくそうは多くないだろう。私だってそうだ。ある人が私に教えてくれた、足元にスミレが咲いていることを。よく見れば、そのスミレは半分以上が踏みつけられていたし、私も気づかずに踏んでしまったかもしれない。上の方で美しく咲く桜は誰でも気付く、しかし、足元にひっそりと咲くスミレに気付く人は少ない。しかしスミレだって胸を張って精一杯咲いている。そんな花に気付く人は素晴らしいと思うし、そういうものに私はなりたい。

あの日のこと 2

 本震の後も余震が続いている。学校の駐車場にも地割れができていた。とはいえ、まだ新しい校舎は大きな損傷はなく、体育館には近所の人が集まりはじめていた。どうやら今夜は避難所対応で忙しくなりそうだ。私は校長に許可を取り学校から車で5分ほどの自宅に一旦戻った。ドアを開けると食器棚が完全に倒れていた。当時の私は陶磁器を色々買い集めていた。九谷焼、笠間焼、益子焼など、さほど高いものではないが、気に入って使っていたものもいくつかあった。台湾旅行で知り合った台北のおじいさんから頂いた茶器もあったが、そのほとんどが壊れていた。残念だが今はそんなことには構ってはいられない。とりあえずスーツを脱いで運動着に着替え、バッグに菓子パンなど当座の食料と、災害用に買った手回し充電のラジオをバッグに詰め込むと学校に引き返した。

 学校に戻ると、既に体育館には多くの人が集まっていた。私たちは体育館にマットを敷いたり、断水していたので、水を確保したり、アルファ米をお湯で戻したりして簡単な炊き出しを行った。それらが一段落すると、やっと体育館の床の上に横になった。私は家から持ってきた手回し充電のラジオを小さな音でかけた。ラジオから流れてくる情報は驚くべきものだった。「岩手県◯◯市□□、20mの津波、宮城県◯◯市□□、壊滅の模様」ラジオを聴いていて現実感がなかった。いや、夜になっても余震は続いていたし、体育館には重苦しい空気が流れていた。今日の昼間、職員室でスーツの上着を脱いだその時からずっと悪い夢を見ているような気がしていた。そのうち、悪夢さえ吹き飛んでしまうような情報がラジオから流れてきた。福島県内にある原子力発電所で原子炉の冷却ができなくなり周辺に避難勧告が出ているそうだ。地震が起きてからこの瞬間まで原子力発電所のことは頭の片隅にもなかった。しかし、これは本当にまずいことになるぞと思った。

 結局、寝たのかわからない状態で朝を迎えた。とはいえ職場の先輩が「お前のいびきがうるさかったぞ」と言っていたから寝たのだろう。この日は午後まで 体育館で避難所の仕事をしていた。15時少し前に学校を出て、まずは近くのコンビニエンスストアに向かった。少しでも食料を確保しようと思った。しかし、コンビニエンスストアにはお酒とアイスクリームしか残っていなかった。諦めて自宅に戻り、テレビ台から落ちていたテレビを戻し、スイッチを入れて間もなく、東京電力福島第一原子力発電所1号機が水素爆発を起こした。その瞬間、2011年3月12日15時36分、この時間も私にとって忘れられない時間になった。

あの日のこと

 2011年3月11日、金曜日、14時46分、私は福島県郡山市にある学校の職員室にいた。その日は卒業式の予行があり、私は視聴覚係としてマイクやBGMの操作をしていた。大きな問題もなく予行練習が終わり、生徒を下校させて職員室に戻り、その後の会議まで束の間の休息を取ろうとしていた。その日は3月にしては暖かく、スーツの上着を脱いでネクタイを少し緩めた。週末までもう少し、私だけでなく職員室全体がホッとした空気に包まれていた。

 不意に後者が揺れはじめた。地震?大した揺れじゃないなと思っているがなかなか揺れは治らない。そのうちに職員室のあちこちで携帯電話がなりだした。その瞬間、今まで経験したことのないような大きな揺れに見舞われた。机の上のものが落ちる、棚が倒れる、私は座っていられなくなり、椅子から立ち上がり机にしがみつく、しかし机ごと引きずられてしまうので床に座り込むしかなかった。窓の外を見ると、さっきまで暖かったのに雪が舞っている。福島県郡山市、震度6強。この世の地獄だと思った。
 
 揺れが収まると、職員室を飛び出し、校庭に避難した。既に校庭にはまだ校内に残っていた児相生徒のほか職員も集まっていた。みんな一様に恐怖で表情が固まっていた。そのうちに情報が入ってきて、震源が宮城県沖であること、地震の規模を示すマグニチュードが7.9であること(後に9.0に修正された)などがわかった。「マグニチュード7.9だって、関東大震災並みのとんでもない地震じゃないか」と思った。その時に、震源に近い宮城県にいる友人や親戚の顔が脳裏に浮かんだ。震源から離れている郡山でこの揺れなら、仙台や石巻は一体どうなっているのだろうと思った。

言語道断

 日本国憲法第1条には、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定されている。主権とは国民が政府(国だけでなく、都道府県、市町村、特別区)の権力の源であり、国民の意思によって運営される。簡単に言ってしまえば、国民が国の主人公であるから、選挙によって国民が自分の意思を示し、それによって国会議員や、都道府県知事、都道府県議会議員、市町村長、特別区長、およびこれらの議会の議員が選ばれる。選挙だけでは国民の意思を十分に生かすことができないこともあるので、憲法では都道府県知事や市町村長、都道府県議員、市町村議会議員などに対して、有権者の一定数以上の署名があれば解職(簡単に言えば、うちの市長は住民の話をさっぱり聴かずに独りよがりなことばかりしているとなれば、クビにしてくださいと請求ができる)を請求することができ、その署名が一定数以上に達すると住民投票で解職するかどうか決めることができる。 

 この制度は民主主義を守り、国民の意思を反映させるためには非常に大事なことであるが、一つ間違えば自分の気に入らない人物を陥れることもできる危険性もある。愛知県の大村英章知事に対する解職請求の署名では、驚くべきことに43万5000筆の署名のうち36万2000筆以上の署名が本人の意思ではなく第三者によって勝手に書かれたものであったり、既に死亡している人物の名前が記入されたものであった。不正な方法で解職請求するというのは言語道断であり、署名活動の中心となったと思われる高須克弥医師をはじめ、関係者は真相を明らかにしてほしい。

さようなら「大垣夜行」

 かつて、日本の鉄道網の整備が進んでいたが道路網が貧弱であった頃、陸上輸送の主役は鉄道であった。その鉄道の中でも長距離の普通列車の役割は非常に大きかった。1950年10月号の時刻表によると、東海道本線の東京から大阪までを走り通す列車はわずか15本で、そのうち特急列車が2本(「つばめ」、「はと」)、急行列車が8本(うち1本は「銀河」、そして普通列車が5本であった。所要時間は特急列車で8時間、急行列車で10時間、普通列車で13時間である。普通列車で13時間かかるので、その日のうちに大阪に到着する普通列車は5本のうち2本だけであとは夜行列車であった。この時期、東海道線のみならず、東北本線、山陽本線、鹿児島本線等主要幹線に夜行普通列車が走っていた。しかし経済成長とともにスピードや快適性が求められるようになって夜行普通列車は徐々にその数を減らしていく。1968年10月のダイヤ改正では、東京〜大阪間に1本だけ残っていた夜行普通列車が廃止されることが決まっていたが、格安で旅行したい利用者の声に押されて、運転区間は下りが東京発美濃赤坂行き、上りが大垣発東京行きの夜行普通列車として存続することになる。後に、下り列車も大垣行きになり、この列車は「大垣夜行」と言われて、格安で旅行をしたい人に熱烈に支持され、とくに「青春18きっぷ」とよばれる普通列車で乗り放題の切符が発売される夏休みや冬休みの時期には始発駅には「大垣夜行」に乗ろうとする人が何時間も前から座席を確保しようとする姿が見られた。
 私も高校生から大学生の時期、上り列車に何回か乗車した。座席がリクライニングしない狭いボックスシートでお世辞にも快適な列車ではなかったが、車窓に見える名古屋、豊橋、浜松、静岡などの夜景は美しかったし、行き交う貨物列車やトラックの姿に日本経済のエネルギーを感じることができた。夏であれば車内から朝日を見ることもできた。東京駅には4時42分の到着であった。冬だとまだ真っ暗であったが、プラットホームに降りて深呼吸するとそこは間違いなく朝のひんやりした冷たい空気があった。私が利用していた時期のこの列車の大垣発車時刻が22時4分であったから、今でも時計の針が22時4分を指しているとこの列車のことを思い出す時がある。
 「大垣夜行」は、1996年には特急型車両を使用し、全席指定となった「ムーンライトながら」になり、それまでとは格段に快適な列車になったが、夜行列車のコスト高や、「青春18きっぷ」発売時期以外の利用の減少もあり、2009年3月からは夏休みや冬休みの時期だけ運転する臨時列車になった。そして、新型コロナウイルス感染症の感染拡大で旅行や出張などの長距離移動が減り、鉄道会社が深刻な減収に陥る状況になったことと、使用されてきた車両が老朽化が進んだことが決め手となり、2021年3月のダイヤ改正で正式に廃止されることになった。私の青春時代の思い出のひとつが消えることは残念であるが、私の心の中にはこれからも「大垣夜行」の思い出は残り続けると思う。

2021今変革の時


 自動車業界は大きな激動の中にあると言って間違いないだろう。
 新型コロナウイルスの感染拡大は様々なイベントに影響を与えたが、1月の東京オートサロンはカスタマイズカーの好きな人にとっては残念な話だろう。秋に行われる東京モーターショーもかなり「密」になるイベントなの感染状況次第では予断を許さないだろう。
 自動ブレーキの搭載義務化は歓迎すべきことです。大きな流れとしては完全自動運転に向かっていますがまずは自動ブレーキなどの運転支援で交通事故の減少を期待したいです。
 歴史ある車種、例えばトヨタのプレミオは前身のコロナの時代から長く日本のファミリーカーの代表的な存在だったし、ホンダアクティも長い歴史がある。寂しい話だが今後もら各メーカーが利益が見込め、自社の得意な分野への「選択と集中」は進むだろう。
 車の電動化の流れは止まらないだろう。電動化とはテスラや日産リーフのようなバッテリー電気自動車やトヨタ・ミライのような燃料電池車だけでなく、ハイブリッド車も含む。当面はハイブリッド車が中心になるだろう。電動化が進むことによって走行によって排ガスの二酸化炭素などが減ることが期待される。懸念されるのはは電動化による車両価格の高騰。スズキの軽自動車に使われているマイルドハイブリッド車は同じような装備のガソリン車と比べて70〜10万円程度高い。この差を大きいと感じる人は多いだろう。そして、電動化の進展とともにマニュアルトランスミッション車の減少も進みそうだ。
 F1 に日本人選手がら参戦するのは嬉しいニュース。中嶋悟さんや鈴木亜久里さん、片山右京さんが参戦していた時代を知るものとしては期待します。

 大きな時代の変化は危機でもあり、チャンスにもなる。現在は電動化や自動ブレーキ、自動運転に加えて、新型コロナウイルス感染症蔓延による社会と経済の変化という不確定要素もある。それでも各メーカーからどんな車が出るのか、ひとりの車好きとして期待しています。

そこだけの味わい

 2020年という年は後世の人は「新型コロナウイルス」というキーワードと結ぶつける年になりそうだ。正月早々中国の武漢で新型の呼吸器感染症が流行しているというニュースを耳にして、あっという間に日本国内での感染発表、クルーズ船での集団感染、緊急事態宣言、志村けんさんの新型コロナウイルス感染症による死と続き、年末には今年の漢字が「密」、新語・流行語大賞が「三密」になるなど、まさにコロナづくしの1年になった。私個人の生活も、2月初めに仙台市のIKEAに行ったことを最後に修学旅行の引率を除けば住まいのある福島県いわき市を出ることがほとんどなくなり、友人や同僚との会食もほとんどない、職場での送別会や忘年会もない異例の年になった。

 遠くに出かけないからといって、自宅に閉じこもる生活は私は好きではないので、自宅のあるいわき市で、感染の可能性が高まる人混みや長時間の飲食をしない形で楽しみを見つけることにした。それは、市内のあちこちにある個人経営のパン屋さん巡りです。パンはコンビニエンスストアやスーパーマーケットに行けばいくらでも売っているし、最近はコンビニエンスストアが独自の商品を開発してそれがなかなか美味しいが、それでも地元の人に愛されて生き残っているパン屋さんはまだまだある。そこに行けばそこでしか味わえないパンがある。とても美味しい揚げカレーパンにも出会ったし、ポテトサラダパンの美味しさに初めて気づいたりと店ごとにあたらいい発見がある。まだまだ新型コロナウイルスの流行は続くと思うが、美味しいパンを求めてパン屋さん巡りをしていこうと思っている。

机上旅行のススメ

 もうすぐ年末年始で旅行シーズンになりますが、今年は新型コロナウイルスの流行で旅行や帰省を見合わせるという人も多いと思います。旅に出るのが何よりの楽しみという方に、机上旅行で楽しむという方法をお勧めします。

 時はおよそ35年前、鉄道少年だった私には有り余るくらいの時間はなかったが、旅に出るだけのお金はなかったし、そもそも自由に行きたいところに行くだけの自由もなかった。しかし、家には地図と時刻表とノートと鉛筆があった。そう、マリー・アントワネットじゃないけれど、「パンがないのならケーキを食べればいい。旅行に行くのなら旅行に行った気分になればいい」ということで、時刻表と地図を手がかりに日本のいろいろな場所へ机上旅行に行くことにした。幸い、地図には日本の市町村や主な山や川、遺跡などが書かれていたし、時刻表には国鉄(当時)の時刻ばかりではなく、主要な観光地に行く私鉄や路線バス。大都市圏の私鉄や地下鉄(初電や終電の時間しかわからなかったが)、国内航空路、フェリー航路などのほか、主なホテルや旅館、ユースホステルなどのほか駅弁などの情報が載っていて、これだけあれば大まかな旅行の計画は立てられた。今は地図と時刻表とノートと鉛筆に加えてスマートフォンやパソコンもあるから、当時では探しようもなかった都市部の私鉄の詳細な時刻表や、観光地と無関係な路線バスの時刻を調べることもできるし、観光地に行かなくても写真や動画を見ることができるし、どんなお土産があるのか、どんな郷土料理があるのかもすぐにわかるようになった。今年の年末年始は生活圏内でお金を使い、机上旅行を楽しむのもオツなものだと思います。

晩秋の色

 鉄道紀行作家の故宮脇俊三氏は、1978年(昭和53年)10月から12月にかけて、北海道の広尾から鹿児島県の枕崎まで最も遠回りの切符(13,319.4km、有効日数68日、運賃65,000円)を使って旅をした。その記録は翌年「最長片道切符の旅」として出版され、宮脇文学に代表作になった。この本に描かれているのは。単なる鉄道紀行にとどまらず、各地の紅葉をはじめとする自然の描写、1978年の鉄道や社会の様子を知ることができる簡潔で美しい描写が特徴的である。とりわけ印象的なのは、秋の日本列島を縦断して「日本の国菜は大根で、日本の国果は柿ではないか」という記述であった。当時は家の軒先に沢庵などの漬物を作るために大根を吊してあるのは普通のことだったし、庭に柿の木があり甘柿ならもいでそのまま、あるいは渋柿なら渋を抜いて家族で食べるのが当たり前だった。柿は全て食べずに少し残しておいてそれを鳥がついばんでいくのはよく見る光景だった。

 あれから40年と少しが過ぎ、世の中も移ろい、国菜と国果を取り巻く情勢も変わった。野菜や柿の多様化が進んだ。自宅で漬物を作る人は減ったせいか、地方に住んでいる私も家の軒先に大根を吊るしている光景はあまり見なくなった。柿の実がたわわに実っていても取り入れされずにそのまま残っている光景も見ることが増えてきた。それでも、茶色などの渋めの色合いに包まれる晩秋に大根の白や柿のオレンジ色は日本の景色を豊かにする存在だしできることなら変わってほしくないものだと思う。

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