エアコンのある毎日

 私がエアコン付きの家に初めて住むようになったのは、23歳、大学を卒業して社会人になった時であった。高校卒業まで住んでいた実家はにはエアコンはなかったし、学生時代に住んでいたアパートにももちろんエアコンは付いていなかった。実家の所在地はいわき市、学生時代に住んでいたのは仙台市青葉区。どちらもさほど暑い場所ではないが、それでも猛暑が数日続く時があり、それはそれできつかった。実家に住んでいた時にはとにかく扇風機が頼りで、扇風機の出力を最強にしてやり過ごした。学生時代に住んだアパートは風が抜けにくい作りであったから、どうしても暑くて我慢できない時には、近所にあるゲームセンターに避難した。ゲーム機が数台あるだけの小さなゲームセンターではあったが、エアコンがよく効いていて、寒いくらいだった。ゲームはほとんどせず、文庫本などを持ち込んで読んでいる迷惑極まりない客であったが、店員さんが常駐している店でもなかったので、それをいいことにずいぶん長居をした。

 社会人になってはじめてエアコン付きのアパートに住んで、仕事を終えエアコンの効いた部屋で冷たいビールを開けた時の「贅沢だな」と思った爽快感は忘れられない。あれか25年以上が経ち、エアコンがある生活が当たり前になってきた。学生時代、ゲームセンターで涼んだ時の爽快感や、社会人1年生の時の感動を忘れてしまう時もあるけれど、今こうしてエアコンの効いた部屋で過ごせることはやっぱりありがたいことだし、頑張った自分へのご褒美なのかなと思っている。どうか皆さん、今年は猛暑です。エアコンのある方は必要に応じてエアコンを使ってください。エアコンがない方はエアコンのある場所へ移動してください。みんなでこの夏を無事に乗り切りましょう。

クリームソーダの思い出

 私が子供の頃は今ほど外食は身近な存在ではなかった。そんな子どもの時代、外食は大きな楽しみだった。外食でしか食べられないメニューも多くあり、私たち家族は祖父母と同居していたから、グラタンやミートソースのスパゲッティなどはもっぱら外食の時だけの楽しみであった。そして外食の時の食後の楽しみはクリームソーダ、今でこそペットボトルでメロンソーダが売っているが、当時は緑色のメロンソーダ自体珍しいものであった。グラスに氷を入れてメロンソーダで満たし、アイスクリームとチェリーを乗せると出来上がり。メロンソーダの緑にアイスクリームの白、そしてチェリーの赤、炭酸の小さい泡が美しく、飲むのがもったいないくらい美しかった。美味しく飲んで、最後にグラスに残った氷を舐めて微かに残ったアイスクリームとメロンソーダの味を楽しんだ。まぁ行儀のいいことではないが。

 先日珍しくデパートの中にあるレストランに行った際に、子どもの頃に戻ってクリームソーダを頼んでみた。あの頃と何も変わらない味。ピリッとした炭酸の泡、緑色の涼しげな色に冷たいアイスクリーム、赤いチェリー。私の周囲の人はほとんどが入れ替わってしまったけれど、懐かしい時間が蘇ってきた。ごちそうさまでした。

政治と選挙は大人の証

参議院議員通常選挙は7月10日(日)に行われます。選挙まであと3週間、各政党の公約が出そろってきました。参議院議員通常選挙は衆議院の総選挙に比べると投票率が低くなる傾向があります。しかし、今回の選挙は、最近の円安と物価高、社会保障、少子化対策、ウクライナとロシアの戦争への対応、安全保障の問題など大事な問題が目白押しになっています。政治は難しい、確かにそうかもしれませんが、今はテレビや新聞、インターネット等のメディアが発達しています。少しだけ時間を割いて、せめて自分が最も関心のある問題だけでいいので、少しだけ各党の公約と自分の考えをマッチングさせてみてはいかがでしょうか?私たち大人は少しでも良い社会を次の世代の人に残す義務があります。そのためにも政治から目を逸らさず、選挙にはぜひ行ってください。

https://www.nhk.or.jp/senkyo/database/sangiin/pledge/

引きこもり大国

 東京都江戸川区(人口約70万人)が15歳以上を対象に行った全世帯調査で、ひきこもり状態の人は少なくとも7919人に上り、24世帯のうち1世帯が該当することが11日、分かった。40~50代が目立ち、期間は10年以上が多いなど「長期高齢化」が鮮明になった。(共同通信)

 すごい数字です。人口70万人の江戸川区に引きこもり状態な人がおよそ8000人、日本の人口が1億2500万人くらいだから、引きこもり状態の人は138万人くらいか。江戸川区の調査によると、引きこもり状態の人の半数近くは30代から50代の働き盛りの年齢の人であった。引きこもり状態の期間は1〜3年の人が最も多かったが、10年以上という人も25%いた。

 引きこもり状態になったきっかけは「長期に療養を要する病気にかかった」「職場になじめなかった」などが目立った。現在の困りごとは「自分の健康」や「収入・生活資金」「家族の健康」との回答が多く占めた。従来、引きこもり状態の人は男性が多いというイメージがあったが、今回の調査では女性の方が多いという結果になった。

 引きこもり状態が長く続いた人ほど社会復帰は困難になる。いきなり就労というのも相当難しいだろう。まずは自宅以外の居場所、ついで短時間の就労、これに並行して生活スキルを学ぶ機会など段階を踏んだ支援が必要になってくる。そしてそれに増して大切なのが引きこもりになりそうな人や引きこもりになりかかっている人をどうサポートするか。日本はこれからも人口減少が都々子ことは確実、少なくなっていく人ひとりひとりをいかに大事にするかが問われてくるだろう。l

遊覧船の明日のために

4月に発生した知床半島の遊覧船事故以来、各地の遊覧船は利用者が減っているという話を聞いた。それ以前も新型コロナウイルスの蔓延で各地の遊覧船をはじめとする観光関連の事業は相当厳しい経営を強いられてきたが、それに追い討ちをかけた形となった。

 今回の知床半島の遊覧船事故は、言葉もないくらいひどい事故だった。40年近く使われた老朽化した船、壊れたままの無線機、運航管理者である社長は事務所に不在、午後から波が高くなることが予想され、他社の人に出航しないよう忠告されていたにもかかわらず出航した船長。とはいえ、全ての遊覧船事業者がそのような状態ではないだろう。 

 貸切バスでは2016年に長野県の碓氷バイパスで起きたスキーバスの事故をきっかけに、貸切バス事業者安全性評価認定制度ができた。この制度は、法令違反や事故発生の状況を評価し、星なしから☆☆☆の4段階で評価するものであり、貸切バスを利用する上で一定の参考になる。

 私はこれまで、箱根の芦ノ湖、松島、三陸の浄土ヶ浜、台湾の淡水、高知の竜串など様々な場所で遊覧船に乗ってきた。船からでないと見られない景色もたくさんあったし、乗り合わせた乗客や乗員の方との楽しい会話もあった。遊覧船にも貸切バスと同じような事業者安全性評価認定制度があれば、優良な事業者についての状況を誰もが知ることになると思う。

E501の今

 E501系電車は、1995年から1997年にかけて60両が製造され、混雑が激しい常磐線の上野〜土浦間の普通列車で使用された。常磐線は石岡市の柿岡に地磁気観測所があり、首都圏で多く用いられている直流電車が使用できず、取手以北(土浦、水戸、いわき方面)に乗り入れるには交流電化と直流電化の両方に対応できる電車が必要であり、コスト高になっていた。その一方で1970年代から茨城県内の常磐線沿線にある藤代町、竜ヶ崎市、牛久市、土浦市などの宅地化が進み、常磐線は慢性的な混雑に悩んでいた。

 E501系電車はドアの数を増やし、ラッシュ時に多くの人が乗れるようにした。座席は通勤電車でよく見かける形状だが、最近の電車に比べるとクッションが柔らかく、かけ心地は悪くない。

 2007年以降は、活躍の場を常磐線の土浦〜水戸〜いわき間と、水戸線に移し、2018年には水戸線での運用も終了したが、常磐線では、水戸周辺を中心に乗客が多く、スムーズに乗り降りができるこの電車はまだまだ重宝されている。

魅力多い只見線、再び

 久しぶりに喜ばしいニュースが入った。水害の影響で一部の区間で運転を休止していたJR只見線(会津若松駅〜小出駅)が10月に全線で運転を再開する。

 JR只見線は、福島県と新潟県にまたがり、会津若松駅を起点に、西若松駅、会津坂下(あいづばんげ)駅、会津川口駅、只見(ただみ)駅、小出駅を結ぶ全長135.2kmの路線である。会津若松駅では磐越西線、西若松駅では会津鉄道(ただし、会津鉄道の列車は会津若松駅まで乗り入れるため、会津若松〜西若松間は地元の人にも列車本数の多い会津鉄道の一部と認識されている場合が多い)、小出駅では上越線に接続している。

 沿線は極めて魅力的で、起点の会津若松駅と次の七日町駅周辺は、今なお城下町の面影を伝え、歴史と伝統工芸の町会津若松市の中心部にある。会津本郷駅周辺は本郷焼の窯元が並ぶ。会津盆地は歴史のある寺社が多く、駅から歩いて行けるものも多い。会津坂下駅で会津盆地が終わり、只見川に寄り添いながら山地に分け入る。会津柳津駅周辺には日本三大虚空蔵である柳津虚空蔵と、会津の雪景色を描いた作品で知られる、版画家の斎藤清の作品を集めた美術館がある。

 ここまでが只見線の序章と言っていいだろう。只見線の本領を発揮するのはむしろここからで、只見川に沿った狭い谷を走るようになる。ここは日本有数の豪雪地帯で、冬は相当な豪雪になる。実はこれが利用者の少ないローカル線ながら只見線がここまで生き残ってきた理由である。並行する国道252号が、福島県と新潟県の県境で冬季に通行止めになることが多く、只見線が唯一の交通機関になることが多い。そのような厳しい気候であるが、四季を通して景色は美しく、冬の雪景色は言うまでもなく、春の新緑、夏の只見川、秋の紅葉、いずれもすばらしい。沿線にはいくつも温泉があり、地酒や郷土料理も豊かな地方である。私も只見線運転再開後、新型コロナウイルスの感染状況を見ながらこの地域を再訪してみたいと思う。

沖縄、復帰から50年目に

日本の多くの地域では、旧石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代と歴史が進んできましたが、沖縄では旧石器時代→ 貝塚時代→グスク時代と歴史が進んできたことをご存知でしょうか?

15世紀から1879年まで、沖縄は琉球王国という国であったことをご存知でしょうか?

太平洋戦争末期には沖縄では過酷な地上戦が行われたことをご存知でしょうか?この戦い(沖縄戦)では、米国側に2万人、日本側には軍人と市民を含めて15万人以上の多大な犠牲を出した。中学校や女学校の生徒も戦争に参加させられた。鉄血勤皇隊やひめゆり学徒隊に参加した生徒に多大な犠牲者が出た。

太平洋戦争終結後、沖縄県は日本から切り離されたことをご存知でしょうか?琉球政府が設置されたが、実質的にはアメリカの統治下に置かれた。通貨は初めは「B円」と呼ばれる日本円とは違う通貨が用いられたが、後にアメリカドルが使われた。そのため、沖縄に行くのにパスポートが必要であった。

1978年7月29日まで、沖縄では人は左、車は右側通行だったことをご存知でしょうか?アメリカ統治下で、様々な制度がアメリカに合わされており、交通についてもアメリカのルールが適用されていました。1972年5月15日、沖縄県は日本に復帰しましたが、交通に関するルールはその後6年以上日本の他の地域と異なっていました。

そして今でも沖縄県には185㎢におよぶ米軍基地があり、決して広いとはいえない沖縄県に全国の米軍基地の7割が集まっています。

沖縄は非常に魅力ある地域です。観光地として多くの人が訪れています。美しい海岸、独特の文化などが多くの人を魅了しています。沖縄が日本に復帰して50年を迎えます。この機会に沖縄の歴史、沖縄の現状、少しでも関心を持ってほしいと思います。

結婚記念日に

私たち夫婦の結婚記念日は5月4日です。先日4回目の結婚記念日を迎えました。この日を選んだのには理由があります。5月4日はみどりの日で祝日で必ず休みであること、仮に祝日法が改正になって、みどりの日がなくなったり他の日に移動しても、5月3日の憲法記念日と5月5日の子供の日に挟まれているから自動的に国民の休日になるため、夫婦でゆっくり過ごせるからです。

今年の結婚記念日はしないの寿司店で美味しい寿司をいただきました。他の夫婦よりも遅く結婚した分、一緒にいれる期間は短いかもしれませんが、美味しいものを食べ、美味しいお酒に良い、綺麗な景色を見て、美しい花を眺め、そして、たまには喧嘩をして、後悔なく一緒に生きたいと思います。

いわき地区の炭鉱鉄道を訪ねる その5

 常磐炭鉱内郷坑専用線は、常磐線内郷駅からいわき市内郷宮町峰根を結ぶ2.9kmの炭鉱専用鉄道である。比較的平坦で炭鉱の名残も残り、ゆっくり歩いても片道1時間少々のお手軽なコースである。

 内郷駅で電車を降り、跨線橋を渡る。まもなく新川にかかる橋を渡る。ここから廃線跡の散歩が始まる。新川の橋を渡るとまもなく福島県道66号に出る。かつての線路は県道66号の道幅を広げるのに使われたのだろう。マルト内郷店というスーパーマーケットの先で廃線跡は県道からななれ、狭い道路になっている。すぐに宮川を渡るが、道路の右側に当時の橋台がしっかり残っている。しばらく進むと、内郷坑の選炭場の跡がある。コンクリート造りの構造物は今でも健在で迫力がある。ここで地下から掘り出した石炭から不純物を取り除き、貨車に積み込んだ。非常に貴重な産業遺産だろう。しばらく見物をした。

 廃線跡は緩やかに左にカーブをしながら内郷第二中学校の前を通る。ここで廃線跡を外れて瑞芳寺というお寺に行く。このお寺には炭鉱事故で亡くなった人の慰霊碑がある。大きな石でできた慰霊碑にしばらく手を合わせる。

 再び廃線跡に戻るが、かつて鉄道は宮川に橋をかけて対岸に渡っていたが、今は橋がなく、しばらく廃線跡から離れる。私は宮川に沿って進む。それにしても暑い日だ、まだ4月だというのにすっかり初夏の陽気である。そのかわり花は綺麗だ。芝桜、藤、あやめ、つつじ、牡丹桜これは花のオーケストラだ。

 県道66号に合流してしばらく進み、上町田のバス停の先で県道から右にそれる。そのまま道なりに進むと峰根の終点である。道路の左側にレンガの構造物があり、石炭の積み込みを行なっていた。私はそこから少し足を伸ばして小さなお堂を見に行った、お堂にはお地蔵様がいて満開の牡丹桜があった。少し涼しい風が吹いてきた。

https://www.hotetu.net/haisen/Tohoku/100109jyoubanuchigousen.html
地図はこのページを参照してください。

雷都に走るライトレール

 路面電車と聞いてどのようなイメージを持つだろうか。古臭くて、遅く、あまり快適ではなく、車の運転の邪魔になる迷惑な、しかしレトロで観光資源になるというイメージを持つ方が多いのではないかと思う。しかし、最近導入された路面電車は、快適性も大幅に上がり、車椅子の人でも身体が不自由な人でも乗り降りしやすい人に優しい車両が増えてきている。

 路面電車はどちらかと言えば、西高東低の傾向がある。西日本では鹿児島や熊本、長崎、広島、大阪、京都、松山、高知など路面電車が活躍している都市が多いが、東日本では函館や札幌の他は東京に都電荒川線が残るのみである。そのような中、宇都宮に路面電車の工事が進んでおり、2023年3月には開業する予定になっていることをご存知だろうか。

 宇都宮駅から東には鉄道路線がなく、清原工業団地という国内最大規模の工業団地や栃木県グリーンスタジアムなどのスポーツ施設、宇都宮大学部、作新学院大学などの学校、ベルモールという大型商業施設、ゆいの杜などの住宅地もある。しかも、途中には鬼怒川が南北に流れ、国道4号も南北に走っている。車を運転した方はご存知だと思うが、大きな川や幹線道路の前後は渋滞スポットになりやすい。宇都宮駅の東側も交通需要が多いにも関わらず渋滞が多く、抜本的な渋滞解消が求められていた。

 とはいえ、宇都宮を含む関東地方北部は日本で最も自家用車依存が進んだ地域である。新しい道路を作ればいいじゃないかという意見もあるだろう。しかし、宇都宮市の人口は52万人、周辺の市町村も含めた都市圏人口は166万人、これは新潟や熊本の都市圏人口よりも大きく、岡山の都市圏人口に匹敵する。しかも、宇都宮駅から東側には都市機能があまりに集中しすぎているので、新しい道路を作るだけでは抜本的な解決は困難だろうと思う。

 少し昔なら宇都宮駅からモノレールなどを建設するようになっていただろう。モノレールは道路の上に建設されて車の通行の支障にならない。しかし、利用者に階段などの垂直方向の移動をしいてしまうという大きな欠点がある。また、建設費が高額になり、その結果運賃が高くなり、利用者の経済負担も多くなる。

 路面電車にするメリットは、利用者に垂直方向の移動をしいないことである。低いプラットフォームから低床車両にスムーズに乗ることができる。もちろん、車椅子の人もベビーカーを押した人も苦労する必要はない。建設費用も抑えられるから運賃も安くなるだろう。しかし、路面に線路が敷かれるということは車線を片側1本潰されるということで、車を運転する人の反発が大きかった。実際、宇都宮市の市長選挙では路面電車の新設の是非が大きな争点になったこともある。

 とはいえ、私は路面電車の開業は車を運転する人にもメリットがあると考える。鉄道には長所と短所があるが、最大の長所は多くの人を安全に輸送することである。少し古いデータだが、2015年の交通センサスでは、東京を走る山手線の上野→御徒町間では、ラッシュ時のピークの1時間に63,720人が利用したそうだ。上野→御徒町間の距離は1kmもない。しかも、上野から御徒町までの外回り電車だけの数字である。道路でいうなら、1kmもない一方通行の道路に1時間に6万人以上の人が人が車に乗って安全に移動できる。そんなことはどうやっても無理だろう。

 宇都宮の路面電車は山手線の車両よりも小ぶりであるから、そこまでの輸送力はないが、それでも道路1車線を余裕で越える輸送力はあると考えていいだろう。路面電車ができてかえって道路が空いたという現象もありうると私は思っている。

 宇都宮は雷が多い町だという。イナヅマをイメージした黄色いカラーが入った電車が宇都宮の街を颯爽と走ることを考えると今から楽しみである。

https://u-movenext.net/ 宇都宮ライトレール

驚くべき光景

 先日、クルマに乗っていたら、驚くべき光景を目撃した。赤信号で停車している車のドライバーが、飲み終わった飲み物のペットボトルを道路脇の草むらに放り投げていた。私は思わず呆気に取られていたが、最近道路周辺のゴミが増えていることは気になっていた。30年くらい前は今よりもゴミ捨てのマナーは悪かったが、最近はずいぶん良くなったと思っていた。しかし、ここ数年はまた道路周辺のゴミがまた増えてきたという印象を持っている。とくにここ2年ほどは新型コロナウイルスの流行で地域や学校の清掃活動が行われなくなってきていることも影響しているのかもしれない。ネット上などで子どもや若い人の行動を批判する人は多いが、それは大人の振る舞いの影響も大きいと思う。私たちひとりひとりが子どもや若者に恥じない行動をしなければならないと思う。

トキワ荘、フォーエバー

 1952年、東京都豊島区南長崎に1軒の木造アパートが建築された。当時の東京によくある、2階建てで、4畳半トイレとキッチンは共用であった。そんなよくあるアパートは名前を知られることなく、1970年代か1990年代に建て替えられ、住んでいた人の思い出の中だけに残る存在であっただろう。しかし、1人の神様がこのアパートに住んだことでこのアパートの名は後に全国に知られるようになった。

 その神様とは、漫画の神様、手塚治虫。手塚は当時連載していた「漫画少年」という雑誌の編集者の紹介でトキワ荘に入居した。その後、「漫画少年」に連載を持っていた若手漫画家が次々と入居して、共同生活の場であり、切磋琢磨し合う場所になっていった。

 ここに住んだ漫画家は、前述の手塚治虫(「火の鳥」、「鉄腕アトム」、「ジャングル大帝」)のほか、石ノ森章太郎(「仮面ライダー」、「サイボーグ009」)、赤塚不二夫(「天才バカボン」、「おそ松くん」)、漫画家としての活躍は短かったが、寺田ヒロオ、森安なおや、ラーメン大好き小池さんのモデルとなった鈴木伸一などがいた。そして、オバケのQ太郎を合作し、「ドラえもん」、「パーマン」で知られる藤子・F・不二雄、「忍者ハットリくん」、「怪物くん」が代表作である藤子不二雄Aがいた。

 トキワ荘に住んで漫画に人生をかけた漫画家は多くがこの世を去った。そして先日、藤子不二雄Aがこの世を去った。「忍者ハットリくん」も、「怪物くん」も大好きな作品だったから寂しさはある。しかし、トキワ荘に住んだ漫画家の作品はこれからもずっと読み継がれていくと思う。本当にありがとうございました。

50歳になって

 昨日50歳になりました。気がつけばあっという間でした。10代、20代はともかく、30代の頃はまだ最近だと思っていたら、あっという間に50歳になってきました。月日の流れというものは思っていたよりも早いのかもしれません。

 50歳になっての抱負ですが、そろそろ未来に何を残せるかを考えていかなければならない時期になっているのかと思います。好むと好まざるとに関わらず、人はいずれ死ぬ。そうなっても、世の中は続いていく。私はそんなに大したことができる人間だとは思っていないが、それでも何かを残しておきたいと思っている。その何かを考える年にしたいと思っている。

 そして、新型コロナウイルス感染症が治ったら、行ってみたいこと、会ってみたい人がたくさんある。もう少しかかるかもしれないが、そんな日を待ち遠しく思っている。

 最後に、私は、家族に、友人に、同僚に恵まれて幸せ者です。本当に感謝しています、そしてこれからもよろしくお願いします。

戦争はろくでもないが

 昨日の午後、風呂上がりにロシア民謡を聴いていた。日本でよく知られているロシア民謡は、「カチューシャ」、「トロイカ」、「一週間」、「ともしび」などがあるだろう。他に、フォークダンスの「コロブチカ」もロシアの曲である。ロシア民謡の造られた時代は広く、ロシア帝国時代から、20世紀のソビエト連邦になってから作られたものもある。日本では戦前からロシア民謡が知られていたが、1950年代から1970年代に歌声喫茶で広く知られるようになった。私1980年代に小学校生活を送ったが、音楽の授業で「一週間」を歌い、運動会で「コロブチカ」を踊った。大人になってからも時々CDやYouTubeでロシア民謡を聴くことがある。

 日本とロシアの文化的なつながりは意外と濃く、トルストイやドストエフスキーなどのロシア文学を読んだ人は多いと思う。ウオッカ(ただし、ロシアだけでなく、ウクライナやポーランド、ノルウェーなどでも生産されている)やスクリュードライバーやモスコーミュール、ソルティードックなどのウオッカベースのカクテルは日本でも愛飲している人は多いだろう。そして、日本の洋菓子メーカーの中には、ロシア革命で日本に逃れてきたロシア人を起源とするものがあり、日本国内でバレンタインデーにチョコレートを贈る習慣を広めたのもそのうちの1社だという。

 日本に根付いたロシア文化がこの戦争の影響で排斥されないことを心から願う。そしてそれ以上に、日本に住むロシア人、ロシアに住む日本人が不利な扱いや差別を受けないことを切に願う。

歴史を学ぶ意味

 高校生に苦手な教科のアンケートをとると、日本史や世界史が結構上位に来ることが多い。理由としては、「覚えることが多い」、「難しい漢字や読みにくい外国語の人物名や地名が出てくる」、「何のためにやるのかわからない」と言った理由が考えられる。確かに歴史は覚えないと理解できないことも多いし、入試や定期考査で点数をつけて序列化することが目的だからどうしても無味乾燥になってしまいがちだ。

 しかし、それで歴史嫌いが増えてしまうのはいかにももったいない話だし、大きな損出だと思う。歴史を知ることは今を知ることができるし、場合によっては未来を知ることができるとても面白い学問だと私は思っている。

 歴史は過去のことを扱っているのにどうして今や未来を知ることができるのか不思議に思う人がいるだろう。私が考えるには、過去も未来も、歴史は人間が作り、人間が行ってきたことの結果だからだと思っている。

 人間は700万年の歴史の中で大変素晴らしいものを作り上げてきた。人間が言葉を身につけることで、コミュニケーションが生まれ、音楽が生まれた。文字を発明することで、文学が生まれた。二足歩行をすることによって少ないエネルギーで長距離を移動できるようになり、地球上のほとんどの地域で生活するようになり、多様な生活様式が生まれた。手を自由に使えるようになり、石器にはじまり、土器、金属製品、そして現在様々な物を人間は生み出した。しかし、人間は様々な失敗をしてきたし今現在も失敗をし続けている。失敗の例は、犯罪、虐殺、差別、貧困、公害そして戦争だと思う。

 歴史を学ぶことは人間の営みの素晴らしさと時に愚かな失敗をしてしまうことを学び、私たちがどのように考え生きればいいかを示してくれる物だと考える。別に分厚い難しい本を読むだけでなく、今は漫画もあれば、映画、テレビ番組インターネットの動画などいろいろな方法がある。政治や歴史、社会の変化などむずかしい内容でなくてもいいと思う。例えば、ファッションは好きな人なら、ファッションの歴史を辿ってみるのも面白いし、スポーツ観戦が好きならスポーツの歴史もいい。アニメーションが好きなら、作品の舞台になった時代や国のことを調べてみるのもいい。

 歴史がもっとみんなにとって身近になれば、人間の素晴らしい営みがより光り輝き、愚かな失敗が少しでも減ると思う。そうなることをこころより願っている。

2022年3月ダイヤ改正

 私たちが生活で使っている暦の1年の始まりは1月、多くの会社や官公庁、学校などの会計年度の始まりは4月、では鉄道会社にとっての1年の始まりは3月なのかもしれない。近年JRのダイヤ改正は昨日、3月11日に行われた。

 近年の大きなダイヤ改正としては、1988年3月に青函トンネル、4月に瀬戸大橋の開業によって行われた改正があり、本州から北海道、四国まで鉄道の乗り継ぎで行けるようになった。1992年3月ダイヤ改正では東海道新幹線にのぞみ号が運行を開始し、東海道新幹線の最高速度が270km/hに引き上げられた。その他、1980〜90年代は、新幹線や在来線特急における新型車両投入におけるスピードアップやサービス向上、都市部の在来線の増発や快速電車の運転による速達化など攻めの姿勢が強い時期だった。

 2000年以降は東海道本線・横須賀線と東北本線(宇都宮線)・高崎線を渋谷、新宿、池袋経由で直通運転する湘南新宿ラインや貨物線を転用して大阪都市圏の鉄道空白地帯を埋めるおおさか東線など、これまでの発想にとらわれない新しい運行系統の開業があった。一方、大阪から金沢、新潟、秋田を経由して青森を結ぶ特急「白鳥」や、夜行列車の削減など、効率化を進めた時期でもある。

 2010年以降は東北新幹線と九州新幹線、北陸新幹線の延長や北海道新幹線の開業があり、東京から新青森、新函館北斗、富山、金沢、新大阪から熊本、鹿児島中央などが乗り換えなしで行けるようになった。一方、地方の過疎化は一層深刻になり、ローカル線の廃止も相次いだ。しかし、地方路線を中心に、魅力ある観光列車も多数登場し、多くの人に鉄道旅行の魅力と楽しさをアピールすることに成功した。

 今回のダイヤ改正では、新型コロナウイルス感染症の流行が長期化していることに伴い、通勤や出張、観光などの需要が大幅に減少していることに伴い、近年にはない厳しいダイヤ改正になった。新幹線や在来線特急、朝夕の普通列車などの運行本数の削減、東北地方や北海道の利用の少ない駅の廃止など、かつてない寂しい内容になった。しかし、今は試練の時、いつか新型コロナウイルスの流行も収束に向かうか、季節性の感染症としてうまく共存できるようになるから、その時には新しい列車やサービスの登場を願っている。

いわき地区の炭鉱鉄道を訪ねる その4

 好間川の鉄橋の先は古河電子の敷地と常磐自動車道いわき中央インターに遮られて廃線跡を辿ることはできない。狭い道を迂回して田んぼに挟まれた狭い道に出る。この道がかつての古河好間炭鉱専用鉄道である。左右から徐々に山が迫ってきて、目の前にも山が連なってくる。線路はごく緩やかに登っている。ここはいわき市北好間、終点まではもうすぐである。 

 十字路がある、その先で道路は右斜めにカーブをするが、線路はまっすぐ突っ切っていたようだ。かつての線路の跡は小さな公園のようになり、その先に墓地が見える。大抵の場合墓地は線路よりも昔からあるだろうから、線路は一体どこにあるのだろうと探してみたが見当たらない。よく見ると墓跡が割と新しいのでかつての線路は墓地の一部になったと考えていいだろう。

 線路はこの先やぶになって現在は通れないようなので、並行して走る道路を進む。園舎を改築中の幼稚園を右に見ながら進む。やがて北好間の集落に入っていく。私が子どもだった1980年代は古い炭住(炭鉱で働く人向けの社宅、多くが平家の木造の長屋だった)が多く残っていたが、今ではわずかに残るのみで、新しい家も多い。しかし、空き地になっているところも多く、空き家も見られる。旧産炭地の苦しい現状も決して無縁というわけではない。

 少し登りがきつくなり、左側から線路跡が近づくと終点は近い。右にカーブを切ると少し広い平地が現れる。ここが北好間の種移転があったところである。すでに太陽は西の山に落ちかけ薄暗くなりつつある。道路側の建物のシャッターに、ルパン3世のイラストが大きく描かれている、夕暮れ直近の景色でそのイラストだけが眩しく見えた。

 とりあえず、国道49号に出ようと坂を登る、急な坂を登っていると、父親と小学生くらいの女の子が楽しそうに話をしながら歩いていた。夕暮れのオレンジ色の光を浴びて美しく印象的な光景だった。

http://www.hotetu.net/ 地図はこちらのページの左側のメニューから、「鉱山鉄道(軌道)」を選び、「2010年1月吉日、好間炭鉱専用鉄道」のページを参照してください。

いわき地区の炭鉱鉄道を訪ねる その3

 古河好間炭鉱専用鉄道は、トンネルで内郷地区と好間地区を隔てる低い丘陵地帯を越える。実際歩いてみるとわかることだが、この鉄道のルート選択には全く無駄というものがない。鉄道には今も昔も変わらず苦手なものがある。ひとつは急カーブ、自動車よりもはるかに車体の長い鉄道車両は小回りがきかない、そのため線路のカーブは道路とは違って緩やかな放物線状のカーブを描くことが多い。もうひとつ苦手なのは急勾配で、山が多い日本ではいかにして山を越えるかが鉄道建設の大きな課題だった。戦前の道路はできるだけトンネルを避けてつづら折りの坂道で山を越えることは多かったが、鉄道に関しては昔からトンネルを多用していた。

 トンネル2つを越え、好間地区に出ると、かつての線路は現在国道49号バイパスになっている。右側には現在は好間の住宅地が、おそらく当時は田んぼが多かったのだろう。そして前方には水石山というこの地域では高い山が目の前にそびえている。線路は緩い下り坂になり、機関士も気持ちよく運転できる区間になったのだろうと思う。

 1kmほどバイパスを進むと、左側に古河ロックドリルの工場が見えてくる。現在ではトンネル工事などでロックドリルが使われているが、昔は炭鉱や鉱山でロックドリルが使われていた。時代が変わって産業構造が変わっても歴史の生き証人はは何らかの形で残る、そしてここにはかつて古河好間炭鉱があった場所である。炭鉱の閉山後もいわき市内には古河系の企業が立地している。

 さらに進むと、前方に小さな山が見えてくる。バイパスは容赦なく山を切り通しで抜けていくが、線路は緩く右にカーブをして山の麓を走る。現在線路跡は生活道路になっている。ジャンボシュークリームで有名な白土屋菓子店の裏には稲荷神社があるがその参道も線路は突っ切っていたようだ。山を回り込むと、そのまま山の麓に沿って進み、やがて好間川にぶつかる。ここにはかつての鉄橋がそのまま残され、錆び付いてはいるが2本のレールもそのままの形で残されている。ここは第一級の産業遺産と言ってもいいだろう。

小さな声を集めれば。

 90年くらい前のお話です。ある国が現在ののロシアのように自分勝手な理由をでっち上げて他の国の領土を勝手に奪うという暴挙に出ました。その試みは成功しましたが、世界各国の人々がその国を非難しましたが、それに耳を貸さず孤立の道を歩みました。国内にもその動きを非難する人はいましたが、その国はひどい言論弾圧を行い、その国の人々も戦争に反対する人を助けようとはせず沈黙してしまいました。をして、15年間の戦争という泥沼にはまってしまいました。戦争の結果、その国では国土が焼け野原になり、多くの人命が失われました。またその愚を繰り返してほしくない、どの国の人にも戦争の悲惨さを味合わせたくないと思う。たとえ他の国のことでも沈黙はダメです。戦争に反対する声を上げましょう。わたしたちの小さい声も集まれば力になります。

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