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2021今変革の時


 自動車業界は大きな激動の中にあると言って間違いないだろう。
 新型コロナウイルスの感染拡大は様々なイベントに影響を与えたが、1月の東京オートサロンはカスタマイズカーの好きな人にとっては残念な話だろう。秋に行われる東京モーターショーもかなり「密」になるイベントなの感染状況次第では予断を許さないだろう。
 自動ブレーキの搭載義務化は歓迎すべきことです。大きな流れとしては完全自動運転に向かっていますがまずは自動ブレーキなどの運転支援で交通事故の減少を期待したいです。
 歴史ある車種、例えばトヨタのプレミオは前身のコロナの時代から長く日本のファミリーカーの代表的な存在だったし、ホンダアクティも長い歴史がある。寂しい話だが今後もら各メーカーが利益が見込め、自社の得意な分野への「選択と集中」は進むだろう。
 車の電動化の流れは止まらないだろう。電動化とはテスラや日産リーフのようなバッテリー電気自動車やトヨタ・ミライのような燃料電池車だけでなく、ハイブリッド車も含む。当面はハイブリッド車が中心になるだろう。電動化が進むことによって走行によって排ガスの二酸化炭素などが減ることが期待される。懸念されるのはは電動化による車両価格の高騰。スズキの軽自動車に使われているマイルドハイブリッド車は同じような装備のガソリン車と比べて70〜10万円程度高い。この差を大きいと感じる人は多いだろう。そして、電動化の進展とともにマニュアルトランスミッション車の減少も進みそうだ。
 F1 に日本人選手がら参戦するのは嬉しいニュース。中嶋悟さんや鈴木亜久里さん、片山右京さんが参戦していた時代を知るものとしては期待します。

 大きな時代の変化は危機でもあり、チャンスにもなる。現在は電動化や自動ブレーキ、自動運転に加えて、新型コロナウイルス感染症蔓延による社会と経済の変化という不確定要素もある。それでも各メーカーからどんな車が出るのか、ひとりの車好きとして期待しています。

そこだけの味わい

 2020年という年は後世の人は「新型コロナウイルス」というキーワードと結ぶつける年になりそうだ。正月早々中国の武漢で新型の呼吸器感染症が流行しているというニュースを耳にして、あっという間に日本国内での感染発表、クルーズ船での集団感染、緊急事態宣言、志村けんさんの新型コロナウイルス感染症による死と続き、年末には今年の漢字が「密」、新語・流行語大賞が「三密」になるなど、まさにコロナづくしの1年になった。私個人の生活も、2月初めに仙台市のIKEAに行ったことを最後に修学旅行の引率を除けば住まいのある福島県いわき市を出ることがほとんどなくなり、友人や同僚との会食もほとんどない、職場での送別会や忘年会もない異例の年になった。

 遠くに出かけないからといって、自宅に閉じこもる生活は私は好きではないので、自宅のあるいわき市で、感染の可能性が高まる人混みや長時間の飲食をしない形で楽しみを見つけることにした。それは、市内のあちこちにある個人経営のパン屋さん巡りです。パンはコンビニエンスストアやスーパーマーケットに行けばいくらでも売っているし、最近はコンビニエンスストアが独自の商品を開発してそれがなかなか美味しいが、それでも地元の人に愛されて生き残っているパン屋さんはまだまだある。そこに行けばそこでしか味わえないパンがある。とても美味しい揚げカレーパンにも出会ったし、ポテトサラダパンの美味しさに初めて気づいたりと店ごとにあたらいい発見がある。まだまだ新型コロナウイルスの流行は続くと思うが、美味しいパンを求めてパン屋さん巡りをしていこうと思っている。

机上旅行のススメ

 もうすぐ年末年始で旅行シーズンになりますが、今年は新型コロナウイルスの流行で旅行や帰省を見合わせるという人も多いと思います。旅に出るのが何よりの楽しみという方に、机上旅行で楽しむという方法をお勧めします。

 時はおよそ35年前、鉄道少年だった私には有り余るくらいの時間はなかったが、旅に出るだけのお金はなかったし、そもそも自由に行きたいところに行くだけの自由もなかった。しかし、家には地図と時刻表とノートと鉛筆があった。そう、マリー・アントワネットじゃないけれど、「パンがないのならケーキを食べればいい。旅行に行くのなら旅行に行った気分になればいい」ということで、時刻表と地図を手がかりに日本のいろいろな場所へ机上旅行に行くことにした。幸い、地図には日本の市町村や主な山や川、遺跡などが書かれていたし、時刻表には国鉄(当時)の時刻ばかりではなく、主要な観光地に行く私鉄や路線バス。大都市圏の私鉄や地下鉄(初電や終電の時間しかわからなかったが)、国内航空路、フェリー航路などのほか、主なホテルや旅館、ユースホステルなどのほか駅弁などの情報が載っていて、これだけあれば大まかな旅行の計画は立てられた。今は地図と時刻表とノートと鉛筆に加えてスマートフォンやパソコンもあるから、当時では探しようもなかった都市部の私鉄の詳細な時刻表や、観光地と無関係な路線バスの時刻を調べることもできるし、観光地に行かなくても写真や動画を見ることができるし、どんなお土産があるのか、どんな郷土料理があるのかもすぐにわかるようになった。今年の年末年始は生活圏内でお金を使い、机上旅行を楽しむのもオツなものだと思います。

晩秋の色

 鉄道紀行作家の故宮脇俊三氏は、1978年(昭和53年)10月から12月にかけて、北海道の広尾から鹿児島県の枕崎まで最も遠回りの切符(13,319.4km、有効日数68日、運賃65,000円)を使って旅をした。その記録は翌年「最長片道切符の旅」として出版され、宮脇文学に代表作になった。この本に描かれているのは。単なる鉄道紀行にとどまらず、各地の紅葉をはじめとする自然の描写、1978年の鉄道や社会の様子を知ることができる簡潔で美しい描写が特徴的である。とりわけ印象的なのは、秋の日本列島を縦断して「日本の国菜は大根で、日本の国果は柿ではないか」という記述であった。当時は家の軒先に沢庵などの漬物を作るために大根を吊してあるのは普通のことだったし、庭に柿の木があり甘柿ならもいでそのまま、あるいは渋柿なら渋を抜いて家族で食べるのが当たり前だった。柿は全て食べずに少し残しておいてそれを鳥がついばんでいくのはよく見る光景だった。

 あれから40年と少しが過ぎ、世の中も移ろい、国菜と国果を取り巻く情勢も変わった。野菜や柿の多様化が進んだ。自宅で漬物を作る人は減ったせいか、地方に住んでいる私も家の軒先に大根を吊るしている光景はあまり見なくなった。柿の実がたわわに実っていても取り入れされずにそのまま残っている光景も見ることが増えてきた。それでも、茶色などの渋めの色合いに包まれる晩秋に大根の白や柿のオレンジ色は日本の景色を豊かにする存在だしできることなら変わってほしくないものだと思う。

未来をひらく燃料電池バス

 新常磐交通(福島県いわき市)が4月から運行している燃料電池バス「SORA」に乗りました。燃料電池バスは、水素と酸素の化学反応で電気を起こし、モーターで走るバスです。ディーゼルエンジンで走るバスと比べると排ガス中に窒素酸化物や二酸化炭素を含まないので環境負荷が少なく、電気(充電式)バスと比べると短時間でエネルギーの補充ができることが大きなメリットです。

 実際に乗ってみると快適性の高さに驚いた。ディーゼルエンジンだと振動がつきものだが、それがない、そして静か。インテリアも格段の進歩を遂げていて、ライトグレーとブラック基調のインテリアにライトブルーのシートは清潔感があり、シートバックの素材を薄くても硬くない素材に変えたことで、前のシートとの間隔が広くなった。車内のポールや天井も曲線的なデザインを用い、柔らかな印象になった。

 燃料電池バスは、現在、いわき駅〜郷ヶ丘〜鹿島ショッピングセンター(一部の便のみ)〜船戸イオンモール小名浜(一部の便のみ)〜小名浜車庫間で運用されている。これからこのようなバスが広まり、人と地球に優しい交通機関として親しまれることを願っています。

怪我の功名

 

https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201021_ho01.pdf

 JR東日本は新型コロナウイルス感染症の流行による利用者の減少と、夜間に行っている線路などのメンテナンスの作業環境の改善のため、首都圏の主要路線で最終電車の繰り上げと始発電車の繰り下げを2021年春のダイヤ改正から実施すると発表した。最終電車の繰り上げが行われるのは、山手線、京浜東北線、東海道線、横須賀線、横浜線、中央線(快速)、中央・総武線(各駅停車)、埼京線、高崎線、宇都宮線、常磐線など17路線。始発電車の繰り下げを行うのは京浜東北線、根岸線、中央・総武線、常磐線(快速・各駅停車)である。

 例えば新宿駅の山手線を例にすると、渋谷方面の内回りは 現在1:00の大崎行きが最終電車だが、19分ほど繰り上げになる。池袋方面の外回りは現在1:00の池袋行きが最終だがこちらは16分ほど繰り上げになる。もっとも影響が大きそうなのは高崎線で、上野発23:46の新前橋行きの最終電車が籠原(熊谷のひとつ先の駅)止まりになり、新前橋行きの最終電車は37分ほど繰上げになる。

 少し前まで山手線などの都心部の路線の終夜運転などが言われていた時期もあったが、新型コロナウイルスの流行と昨今の労働力不足はそんな状況を一変させた。利用者としては不便になるが、これも時代の変化と捉えるしかないだろう。ただ、これで終電までの長時間労働を強いられている人が少しでも早く帰ることができるのならそれは怪我の功名なのかもしれない。

イソ/BMWイセッタ

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 クルマにどうしても必要な部品はいろいろある。走るためにはモーターなりエンジンなり動力源が必要だし、走れば止まるためのブレーキも必要だ。道路はまっすぐとは限らないから何らかの舵取り装置は必要だし、将棋の歩のように前進しかできないのは不便なので前進と後退を切り替える装置も必要だ。他にも前照灯がなければ夜間の走行はできないし、ドアがなければ人が乗り降りしたり荷物を積むことができない。そのドアに大きな特徴があるのがイソ/BMWイセッタである。

 時は第二次世界大戦後、ヨーロッパにもクルマが普及し始めた。しかし、当時のヨーロッパは戦争の傷跡が大きく、またクルマは多くの人にとって高価なものであったため、小さく簡易なクルマが求められた。これらのクルマは丸いボディをしていた。小さな車体でできるだけ広いキャビンを確保し、非力なエンジンでも空気抵抗を減らしてできるだけ走行性能を確保するにはこの形が最も合理的だったのだろう。これらのクルマはバブルカーと呼ばれた。

 イタリアの自動車メーカーであるイソ(1974年に倒産)は、1952年に初の4輪自動車としてイセッタを開発した。イセッタは全長2300mm、全幅1400mm程度の極度に小さいクルマで(現在の軽自動車は全長3400mm、全幅1480mmだから、2回りほど小さい)、エンジンを車体後部に置いた。わずか236ccのエンジンは9.5馬力の出力を発生させた。ずいぶん非力に見えたがこれでも85km/h程度は出たようだ。驚くのはドアの位置で、車体前面にドアがあり、乗員はそこから乗り降りするようになっている。

 イソでの販売台数はさほどおおくなかったが、ライセンス生産でベルギー、スペインなどでも生産された。その中で最も成功したのは西ドイツのBMWによるライセンス生産である。現在はメルセデスベンツ、アウディと並ぶドイツの高級車メーカーになっているBMWであるが、1950年代は経営状態が非常に悪かったようだ。1916年に航空機エンジンメーカーとして設立されたBMWは、後にバイク、クルマと会社の規模を拡大する。しかし、1945年にナチスドイツが第二次世界大戦に敗れるとBMWは航空機生産に関わった企業として3年間の操業停止処分を受ける。操業停止処分が解ける頃にはソ連を中心とする社会主義国とアメリカを中心とする資本主義国のいわゆる冷戦が始まり、主力工場は東ドイツの国営企業になった。西ドイツに残ったBMWは主力工場を失い、1951年にやっと戦後初の501の販売にこぎつけたが、経営は苦しかった。BMWはイセッタに目をつけ、イソからライセンス生産の権利を獲得した。BMWはイセッタのエンジンを298ccに拡大し、後にはエンジンを582ccに拡大し、ボディを大型化したBMW600も販売した。販売台数はイソが販売した数よりBMWが販売した数の方がはるかに多い。私がこのクルマを知ったのは西岸良平氏の「三丁目の夕日」だった。氏は乗り物にも造詣が深く、昭和30年代のクルマや列車をしばしば作品の中に登場させた。前面にドアがあるという奇想天外なデザインに驚いた。現在は1950年代と安全基準は違うから前面にドアがあるクルマが簡単に出せるとは思わないし、ボディももっと大きくしないといけないだろうが、いずれイセッタのデザインテイストを引き継ぐ車が出ることを楽しみにしている。

墓誌から見える人生、社会

 彼岸だから墓参に行くという人も多いだろう。私も盆と彼岸にはほぼ欠かさず墓参に行くようにしている。最近墓参に行くたびに、通りながら墓誌を見るようにしている。墓誌は墓石の横にあり、墓に入っている故人の俗名(生前の氏名)、戒名(本来は仏弟子としての名前、今は亡くなった後につけられることが多い)、亡くなった年月日、享年などが石に彫られており、要するに誰のお墓か判るようになっている。家で言えば表札のようなものと言えば少し近いのかもしれない。

 墓参をしながら墓誌を見ているうちにいろいろな人生や社会の変化が見えてきた。まず気づいたのが1955年(昭和30年)頃を境に急激に子どもが死ななくなったことに気付いた。童謡に「通りゃんせ」があるが、歌詞に「この子の7つのお祝いに、お札を納めに参ります」というくだりがあるが、かつての7歳は現在の6歳、つまり小学校入学までの年齢になる前に亡くなる子どものなんと多いことか。それが1955年をすぎると目に見えて減った。栄養状態や衛生状態の改善が見られたのでしょうか。また、多くの墓は○○家の人だけが入っていることが多いが、複数の名字の人が一緒に入っている墓が案外多いことに気づく。そこには様々な人生があったのだろうと思う。私が住む福島県いわき市にはかつて炭鉱があり、全国各地から炭鉱で働くために人が集まっていた。もしかしたら炭鉱で働いていわきで亡くなって身寄りがない人を一緒に埋葬したのかもしれない。

 現在、日本では急激な少子高齢化の進展とともに家族の形が急激に変わってきている。これまで多数だった○○家の先祖代々の墓という形だけにとどまらず、生涯未婚の人が増えるに従い、個人単位の墓や血縁がない人が一緒の墓に入ることも増えるるだろう。日本では火葬が一般的だが、ムスリムの人は教義上土葬を好むから、ムスリム人口が増えつつある現在、対応が必要になるだろうう。これからも墓誌から見える人生や社会の変化に注目したい。

日本の宿題

 先日仕事帰りにガソリンスタンドに行ったらすでに閉まっていた。新型コロナウイルスが蔓延する前はまだやっている時間である。そして、JR東日本が来年春より首都圏の終電を30分程度早めることを決めた。職場の人から聞いた話では、コンビニエンスストアのチェーンによっては24時間営業をやめる動きも出てきている。

 なんだ、不便になるな。確かにそうだと思う。ガソリンスタンドも電車もコンビニエンスストアも生活に欠かせないものだし、開いていたり、使えたりするのが当たり前のものだと思う。しかし、現在の日本は人口が年間50 万人強減少する時代に入った。人口が減少すれば当然労働力人口も減少する。ガソリンスタンドも、JRも、コンビニエンスストアも当然労働力の確保には相当苦労しているのだろうと思う。もちろん、これらの会社が全く手をこまねいているわけではなく、ガソリンスタンドならセルフ化、鉄道ならメンテナンスの容易な車両や設備の導入、コンビニエンスストアはセルフレジの導入などがある。

 日本の人口減少はまだまだ続きそうだ。そうなればひょっとして様々な社会的なサービスが縮小を余儀なくされる時代が来るかもしれない。そうなった時に、何を削減して、何を残すか、どこをサービス提供者に委ねてどこを自分たちでするか、そしてどこをAIに任せるか、出来るだけ今の便利さを維持しながら働く人に過剰な負担をかけないようにするか、そこが日本の重い宿題なのだろう。

居酒屋賛歌

 旅の楽しみはいろいろあるけれど、旅先の居酒屋でのひとり酒も大きな楽しみのひとつです。夕陽が西の空に落ちかける頃ホテルを出て、向かうのは駅前や市街地の中心部。ガイドブックに載っているような観光客向けの店はできるだけ避け、仕事帰りのサラリーマンが仕事の疲れを洗い流したり、サンダルばきのおっさんが1杯ひっかっけにくるようなローカルな店を選ぶ。店を物色しながらぶらぶら歩くのは楽しいし、そういう旅をしているうちに少なくとも大外れを引かなくなった。
 店に入ったらカウンターに座る。テーブルだと。そのテーブルだけで世界が完結してしまって1人旅には好ましくない。カウンターなら向こう側にいる店の大将と話すこともできるし、横にいる他のお客との会話も楽しむことができる。基本的に私はそんなに積極的に他人に話しかけることはしないが、アルコールが入ると楽しくなるし、様子を見ながら話しかけるようにしている。もちろん、地元の人の話に聞き耳を立てるのも楽しい。
 飲むお酒は最初の1杯はよく冷えたビールに限る。暑い日に1日歩き回り火照った身体に冷たい水脈を作る。その後はその土地の日本酒を楽しむ。九州なら焼酎がいい。料理は肉でも野菜でもいいが私はやはり魚が好き、日本はどこに行っても大差がなくなったという人もいるがそれは違うと思う。地域によって魚が全く違うから、その土地土地で驚くほどおいしい魚に出会うことができる。広島で食べた瀬戸内海のイワシは美味かったし、長崎では酢でしめていないサバを味わった。高知のドロメと日本酒は絶品だったし、鳥取の白イカもまた味わってみたい。
 今、新型コロナウイルスで居酒屋業界はかつてない危機にあるという。どうかこの危機を乗り切って新型コロナウイルスまた日本のどこかでおいしい酒と美味しい料理の数々にさいかいしたい。

戦争と平和について考えるヒント

 75年前の今頃は歴史が猛スピードで動いた時期だった。 

 1945年は、ドイツや日本などの枢軸国にとっては戦況が絶望的な中でのスタートだった。枢軸国のひとつイタリアはムッソリーニ政権がすでに倒れ、ムッソリーニらはイタリア北部にイタリア社会共和国を立てたが、ドイツの強い影響下にあった。ドイツ、日本とも既に主要都市への空襲が始まり、日本では本土決戦の方針が決められた。
 2月にはソビエト連邦のヤルタでアメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相のチャーチル、ソビエト連邦首相のスターリンが会談を行い。まだ日本と中立条約を結び戦闘状態になかったソビエト連邦が日本との戦闘に加わることが決定された。
 4月にはアメリカ軍が沖縄本島に上陸し、凄惨な沖縄戦が始まった。ドイツでは首都のベルリンが戦場になり、4月末には総統のヒトラーが妻のエヴァ・ブラウンと自殺した。また、イタリア社会共和国が崩壊し、ムッソリーニが処刑された。
 5月にはドイツが連合国に降伏、その後スロベニアでの戦闘が終わることでヨーロッパにおける戦闘は終結した。
 6月には沖縄戦が日本側の敗北という形で終結した。日本側19万人、アメリカ側2万人の犠牲を出す凄惨な戦いだった。
 

 7月17日には、第二次世界大戦の戦後処理を決めるため、アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソビエト連邦のスターリン首相がドイツのポツダムで会談を行った。
 7月26日にはポツダム会談の結果としてポツダム宣言が発表された。ポツダム宣言は、アメリカ、イギリス、中華民国の共同宣言の形で出された。内容は日本の武装解除、戦争犯罪車の処罰、日本の領土を本州、北海道、四国、九州とその他諸小島に限る、民主主義の復活、基本的人権の強化である。これらの条件を受け入れた上で日本側からの条件を受け入れない形での降伏を要求した。なお、この時点ではソビエト連邦はポツダム宣言には署名していない。
 7月28日には日本政府はポツダム宣言を黙殺(無視)すると発表した。この時点でまだ中立国であったソビエト連邦を通じての交渉に望みをかけていたとされる。
 8月6日にはアメリカにより広島への原爆投下が行われた。
 8月8日には日ソ中立条約の破棄を発表、日本へ宣戦布告を行った。
 8月9日にはアメリカにより長崎への原爆投下が行われた。同日、ソ連が満州(現在の中国東北部)への侵攻を行った。
 8月10日には御前会議(天皇も臨席して行われる会議)が行われ、国体の護持(天皇制の維持)を条件にポツダム宣言の受け入れが決定される。
 8月14日には、日本政府はポツダム宣言の受け入れを海外に向けて発表、国民向けには明日の正午に重大発表があることを通知。
 8月15日には玉音放送が行われた。天皇が肉声で終戦の詔書を読み上げ、それをレコードに収録したものをラジオで放送した。同日、終戦に反対する陸軍の一部がクーデター未遂を起こす。同日、鈴木貫太郎内閣が総辞職をする。
 8月17日には東久邇宮内閣が成立。皇族が首相となる内閣であった。
 8月18日には満洲国皇帝溥儀が退位。1931年の満州事変で日本が建国した満洲国はここに崩壊した。
 8月22日には灯火管制(空襲の標的になる理由で夜間の照明の利用を制限すること)が廃止、一方ラジオでの天気予報が3年8ヶ月ぶりに復活(天気予報も軍事機密だったのだろう)
 8月30日にはマッカーサー連合国最高司令官が厚木飛行場(神奈川県)に到着。
 9月2日には重光葵外務大臣が戦艦ミズーリの艦上で降伏文章に調印した。(本当の意味での終戦はこの日)

 この時期を描いた小説、随筆、日記、映画、テレビ番組などは数多くあります。これらの作品に触れ、戦争とは何か、平和とは何かを考える良い機会だと思います。年表風にまとめたのは、これらの作品に接するときに世の中の動きをある程度知っておいた方がより理解しやすくなると考えたからです。どうか新型コロナウイルスで家にいることが多いこの夏、少しだけ戦争と平和、考えてみませんか。

私たちに突きつけられたもの

 衝撃的な事件が起きた。難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)闘病中の女性が、2名の医師に依頼し、この医師によって致死量の鎮静剤が投与され、女性は死亡し、鎮静剤を投与した医師は嘱託殺人の容疑で逮捕された。ALSは神経変性疾患のひとつで、運動に関する神経が侵され、筋肉の萎縮や筋力の低下をもたらす疾患である。この女性の場合、口から食事の摂取ができなくなり、胃ろうで胃に直接食物を注入していた。また、身体の中で自力で動かすことができるのは眼だけだったようで、視線入力装置でパソコンを操作していた。呼吸は人工呼吸器の装着の必要はなかった。

 亡くなった女性は大学を卒業後、百貨店での勤務を経て、建築家を志しアメリカに留学、帰国後は設計事務所に勤務していた。40歳を過ぎてこれから仕事もプライベートも充実だという時にALSを発症したようだ。途切れてしまうキャリア、徐々に言うことを聞かなくなっていく身体。この方が味わった絶望感は如何程のものだろう。症状が進めば、食事、排せつ、更衣、日常生活全ての行為を他人の世話にならなければならなくなる。この方のツイートで「自分はもはや何の生産性もなく、税金を食い潰しているだけの人間だから死にたい」と訴えている。その感情が今回の事件の伏線になっているのだと思う。

 今回の事件は大きな衝撃を与えたが、元東京都知事の石原慎太郎氏は今回の医師の行為を切腹する武士の介錯(切腹する武士の苦痛を少なくするために首を切り落とす行為)に例えて賞賛しているが、私は違うと思う。医師らは女性のマンションに到着して鎮静剤を投与しておよそ10分後にはマンションを後にしている。こんな乱暴な方法があるわけがない。また、ネットでも色々な議論が巻き起こっているが、安易にこのようなことを認めると、人の手を煩わせる難病の患者や、重度の障害を持つ人などが自分の意思に反して死ぬことを強制されるようになることを強いられることを強く危惧する。

 まず、私たちや生命倫理や死生観、宗教について考えたり人と話すことから始めなければならない。これらのことから逃げてきた結果がこの事件だと思う。そこで、この条件ならという最低限の合意ができた時はじめて尊厳死についての議論ができるようになると思う。

異例な夏を

 2月に新型コロナウイルス感染症の患者が発生して以来、すっかり遠出しない生活になった。いつもならこの時期は8月上旬の旅に向けて期待に胸を膨らませているはずであったが、もしかしたら自分の自宅の半径30kmの範囲で夏が終わりそうな予感がある。

 相手が目に見えないウイルスだから文句を言ってもしょうがないし、間違っても職場で最初の感染者にはなりたくないし、私には基礎疾患があるからとにかく感染をしないというのが優先事項である。だからといって単なる我慢の夏にはしようとは思わない。今年の夏だからこそやってみたいことがある。どうせなら半径30km以内の範囲で3つの密にならないでできることをいろいろやってみたい。朝晩の涼しい時間にはクロスバイクに乗って自宅周辺やちょっと離れたところを走ってみようと思うし、昔読んでずっとほったらかしにしている本を読んでみたいし、家族などごく親しい人と一緒に過ごす時間を楽しみにしたい。いつもは「遠くに向いている意識をもっと足元に向けてみようと思う。いつみとだいぶ違う今年の夏、それでも楽しい夏にしようと思う。

我が心の夜行列車

 子どもの頃、私は上野と仙台を結ぶ常磐線の線路からさほど離れていない場所に住んでいた。近いとは言っても家から直接見えるわけではない。夏は午前4時台には空が明るくなるのでこの時期だけの密かな楽しみがあった。それは家を抜け出して線路の脇にある公園に行って夜行列車の姿を見ることである。私が持っている1978年11月号の時刻表によると、常磐線上りで私が見たと思われる夜行列車は、平駅(現、いわき駅)3時57分発の寝台特急ゆうづる12号、4時13分発の急行十和田4号、平駅5時57分発の寝台特急ゆうづる14号であったようである。いずれも青森を前日の夜に出発し、朝に上野に到着する東北北部と首都圏、あるいは青函連絡船を介して北海道と首都圏を結ぶ長距離列車であった。寝台特急ゆうづる号は583系電車というアイボリーと青に塗り分けられたどっしりとした電車、急行十和田はEF 80というローズピンクの電気機関車がロイヤルブルーに白線が入った優美なデザインの客車を曳いていた。いずれも寝台車が中心の豪華編成で、鉄道少年だった私にとっては眩しすぎる存在だった。そんな列車を見ながら、大人になったら自分の給料でこんな列車に乗って旅をしてみたいと希望に胸を膨らませていた。残念ながら、寝台特急ゆうづるも急行十和田も私が自分の給料で旅ができるようになる前に廃止になってしまい、乗ることは叶わなかった。しかし今でも私の心の中では寝台特急ゆうづるの583系電車もも急行十和田のEF80とロイヤルブルーの客車も走り続けている。

駒吉機関車が走った時代

 以前、キワ90というローカル線の効率化を目指しながら失敗に終わった車両の紹介をしたが、今回は内燃機関という新しい技術に挑戦した福岡式石油発動機関車、通称駒吉機関車について取り上げます。

 内燃機関とは、シリンダーなどの機関内でガソリンなどの燃料を燃焼させてそれによって発生させた燃焼ガスをエネルギーを得る原動機である。エンジン内でピストンを往復運動させるレシプロエンジンの他、ローターを回転させるロータリーエンジンの他、ガスタービンエンジンやジェットエンジンなども含まれる。

 時は19世期末、機械を動かす動力源は蒸気機関から内燃機関に移り変わりつつあった。1885年、ドイツのゴットリープ・ダイムラーはガソリンエンジンを搭載したオートバイを発明した。また、同年同じくドイツのカール・ベンツはガソリンエンジンを搭載した3輪自動車を発明した。この両名は奇しくもドイツを代表する自動車会社の名前に今に至るまで名前を留めている。1889年には小型でも馬力を出せる2ストロークエンジンが、1891年は簡易な構造である焼玉エンジンが開発された。そして20世紀、内燃機関は人類を空に連れていくことになる。1903年には人類初の動力付きの飛行機、ライトフライヤー号がアメリカのライト兄弟によって初飛行に成功した。20世期は内燃機関の時代といっても間違いはないだろう。

 20世期に入り、内燃機関の活用が広がるとこれを鉄道の動力源とする試みを広がった。当時の日本の鉄道の動力源は石炭を燃料とする蒸気機関が一般的であったが、ローカル鉄道では馬に車両を引かせることや人が押す場合もあった人が押す鉄道車両というのは今では考えられないが、現在の京成金町線の源流になった帝釈人車軌道や小田原と熱海を結んだ豆相人車鉄道などもあった。しかし、19世紀末、日清戦争が起きると軍馬の需要は増え、餌の経費も上がり、馬力の使用はあまり経済的なものではなくなった。そこで馬に変わる経済的な動力源として内燃機関の使用を考えたのが大阪にあった機械メーカーの経営者であり技術者であった福岡駒吉氏であった。彼は蒸気機関車に似たボディーに出力5馬力の焼玉エンジンを搭載した福岡式石油発動機関車(駒吉機関車)を制作し、主に九州地方の軌道事業者に採用された。当時は各地に道路上に軌道を敷設し、物資や旅客の輸送に従事していた事業者が多数あった。5馬力とはあまりにも非力すぎる気がするが、当時は道路上を走る列車は、機関車の他、1両の客車か貨車しか牽引できないという規則があり、歩行者や荷車など他の交通と一緒に走る以上スピードは出せない状況ではわずか5馬力でもそこそこ使えたのだろう。しかしあまりに非力すぎたようで後に出力は7馬力に引き上げられた。

 この機関車は日本初、世界でも相当早い時期に内燃機関を使用したものであった。世が世なら福岡駒吉氏とこの機関車は鉄道史に刻まれる存在になったのだろうが、福岡駒吉氏の死去により開発と改良がストップし、使用された事業者が零細な事業者が多かった。また、この機関車が登場して間もなく、道路上を走る列車の連結両数の規制が緩和された。こうなるとこの機関車は7馬力にパワーアップしたとはいえ、数十馬力は軽く出る小型蒸気機関車に太刀打ちできず、多くの事業者から姿を消すことになる。ただし、福岡県の南筑軌道という会社では1940年までこの機関車が使用された。「ポン、ポン」と排気音を立てながら八女茶の産地を走るこの機関車が牽引する列車、タイムマシンがあれば乗ってみたいものである。

かわいいお客さん

 いつの間にか我が家の玄関脇にある換気扇の排気口のフードにツバメが巣を作ったと思ったら、いつの間にかかわいらしいひなが生まれていた。ひなは大きな口を開けて餌をねだり、親はひっきりなしに餌を運んでくる。我が家は近くに田んぼがあり、ツバメの好物である昆虫は豊富にありそうだからツバメが巣を作るにはいい条件の場所なのだろう。 私は朝夕、家に出入りする度に巣を見上げて「早くひなが孵らないかな」、「ひなはかわいいな」、「親は大変だな」などと思っていた。昨夜は友人と会食をして遅い時間に帰ってきたら、巣にひなたちと親鳥のうち1羽が、すぐ脇にある別の換気扇の排気口のフードの上にもう1羽の親鳥が眠っていた。1家寄り添ってどんな夢を見ているのだろうか。ツバメのひなは生まれてから巣立ちまではおよそ3週間のようなのでもう少しで巣立ちの日を迎えるのだろう。その日を迎えるまでもう少し楽しめそうだ。

なつかしい人

 インターネット上で個人の日記や評論などを掲載するブログは2002年ごろから急速に広まり、2005年ごろには1500万人ぐらいの利用者がいると言われた。その後SNSの普及によって利用者は減少し、現在でも続いているブログはすっかり少なくなった。私は人生うまくいっている人のブログより、悩みを抱えていたり、困難な状況に立ち向かっている人のブログからエネルギーをもらったり、生きるヒントを見つけたりしていた。そのような状況の中で私はとても気になっているブログがあった。そのブログの主は東京に住むホームレスの男性、以前はサラリーマンをしていたが、訳があって辞め、ホームレスになった。ホームレスになっても彼は前向きだったし、愛される人柄だった。そんな彼のことをずっと応援していたし、共感していた。とはいえ、不安定な生活故か、更新は途切れ途切れになり、2015年を最後にぱったり更新は途絶えた。不安定で心身の負荷が大きい生活でどうしているか心配していたが、およそ半年ぶりにブログを見てみると、つい数日前になんと5年振りに彼のブログが更新されていた。早速無事を祝うコメントを書き込んだ。彼とは会ったことがないが、懐かしい友人に数年振りにあったような嬉しさがあった。

走れ!キワ90

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 「帯に短し、襷に長し」というか、アイディアは素晴らしいが出来栄えは残念というかそんな話。今は日本国中どこに行っても立派な道路があり、トラックがバンバン走っているが、1960年代までの日本の物流を支えていたのは貨物列車であった。今は貨物列車が走るのは幹線ばかりになったが、かつてはローカル線にも貨物列車が走っていた。貨物は貨車に積まれるが、貨車にはモーターやエンジンなどの動力装置が積んでいない、そのため、機関車に牽引されることになる。ローカル線はお客の数が少ないが、貨物の量も少ない、蒸気機関車やディーゼル機関車が2、3両の貨車を牽いてトコトコ走っている様子はそれは美しい光景だっただろう。しかし、当時たくさんのローカル線を抱える国鉄にとってはそんなのんきなことは言ってられなかった。ちょうどこの時期、ローカル線の旅客列車はディーゼルエンジンを床下に積んだディーゼルカーが普及していた、ディーゼルカーは蒸気機関車よりも速度が速く、少ない人数で走らせることができ、終点で機関車を付け替える必要が無かった。ディーゼルカーはローカル線の旅客輸送のサービス水準と効率の向上に貢献した。それなら貨物輸送も床下にディーゼルエンジンを積んだディーゼル貨車を開発したらローカル線の貨物輸送の効率化が図れるのではないかと当時の国鉄の人は考えた。

 早速ディーゼル貨車は試作されて、宮崎県の妻線で運用された。しかし運用された結果は芳しいものではなかった。まず、エンジンのパワーが不足していた。180馬力のエンジン1基搭載では、比較的軽い旅客ならまだしも、重い貨物の輸送には力不足であった。さらに、妻線だけで完結する輸送ならともかく、幹線である日豊本線を経て福岡、北九州、大阪方面への輸送では他の貨車に積み替える必要があった。これでは効率化もへったくれもない。結局、キワ90は短期間使われただけで持て余される存在だった。

 私がこの哀れな存在の車両を知ったのは、子供の頃読んだ鉄道図鑑だった。当時はキワ90の写真の下に「現在は使用されていません」という表記がされているのが気になった程度であるが、今は妙にこの哀れな存在の車両が気になるようになった。それに、他の車両の半分以下の8mのボディに飾り気の全くないデザイン。これはこれで好ましく思えるようになった。もし、キワ90が登場した60年前の宮崎に行くことができれば、昼にはこいつが走っている姿をじっくり眺め、夜には芋焼酎で美味い地鶏料理を味わいたいものである。

楽しみは身近にある

 ゴールデンウィークには毎年どこかしらに遠出していた。例えば去年は、福島県いわき市の自宅から、クルマで秋田県・山形県に2泊3日で出かけた。横手焼きそばは美味かったし、増田の古い町並みも良かった、菜の花畑の向こうにそびえる鳥海山は美しかったし、旅館の部屋から見る日本海に沈む夕日は最高だった。遠くにいかなければ、見たり味わったりできないものはたくさんあると思う。

 しかし、今年は一変して新型コロナウイルスの蔓延で外出の自粛が続いている。私も自宅とその周辺で過ごしている。つまらない連休かと思う人もいるかもしれないが、意外とそうでもない。毎日1度か2度は徒歩や自転車で自宅周辺の散歩に行っている。そうすると色々いいものが見えてくる。フジの花は見頃になっているし、ツツジの花も萌えるようだ。自宅からさほど離れていないとこに麦畑があることは知らなかったし、田んぼに水が張られるようになると賑やかなカエルの合唱が聴こえるようになってきた。時間があるから普段よりもずいぶん時間をかけてクルマをピカピカにすることができたし、テイクアウトで自宅で美味しいものを食べることができた。自宅やその周辺で過ごすゴールデンウィーク、それはそれで案外悪くないと思う。

ご無事で

 新型コロナウイルスの感染は拡大を続け、世界での感染者は206万人、死者は14万人、日本での死者は1万人を超え、死者は150人を超えた。最初の感染が確認されたのが中国湖北省の武漢市で公式に確認れた感染者が12月8日、それから4ヶ月ほどで200万人を軽々と超えてしまったわけである。こうなると、2009年の新型インフルエンザ(世界で死者1万4000人以上)や2002年のSARSコロナウイルス(世界で感染者8000人以上、死者700人以上)を軽々と超え、1968年の香港かぜ(世界で死者75万人)や1957年のアジアかぜ(世界で死者100万人)クラスの大規模な感染になるかもしれないし、悪くすれば11918年から1920年にかけて世界で5000万人から1億人が亡くなったと言われるスペインかぜに匹敵する事態だってあり得なくはないだろう。

 考えたくないことだが、私の周囲の人や大切な人の中にも新型コロナウイルスに感染する人もいるかもしれないし、ひょっとすると亡くなる人がいるかもしれない。このまま感染が拡大すれば、医療体制が機能しなくなり、たとえ新型コロナウイルスに感染しなくても他の病気や怪我で十分な治療が受けられなくなるかもしれないし、世界的な物流が滞り生活に必要な食料品や日用品が行き渡らなくなるかもしれない、場合によっては行政や警察の機能が低下し治安の確保もままならなくなるかもしれない。経済へのダメージも相当で、既に就職活動をしている学生には影響が出ていると聞いているし、飲食業、宿泊業、航空、バス、音楽などの業界は深刻な影響が出ている。

 とにかく今できることは、新型コロナウイルスに感染しないこと、感染者が増えればそれだけ医療体制に負荷がかかり、助かる人が助からなくなる。そして、周囲の人や大切な人とのつながりを大事にして、心身の健康を守るようにすることだろうと思う。感染が収束するまで外出は控えるし、人に会うことも出来る限り減らすが、感染が収束したあかつきには、ぜひお会いして無事だった喜びを分かち合いましょう。とにかくそれまではご無事で。

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