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2007年1月の16件の記事

維新の風に吹かれて~山口紀行⑥

【11 城下町長府】

 12月26日。旅の最後の朝は快晴だった。一晩よく眠ったら、私も少し元気が出てきたようだ。下関から普通列車に乗って、15分ほどで長府の駅に着く。駅を降りて城下町に向かって歩き始める。住宅地の細い路地をあるここと30分、長府の城下町に入ってきた。 忌宮神社という神社があった。広い境内に、社殿の屋根の緑青(ろくしょう=銅にできるエメラルド色の錆)が美しい。一隅に相撲資料館という石造りの小さな建物があった。この神社は、仲哀天皇と神功皇后がクマソ征伐のために滞在した宮の跡という古い歴史を誇るそうだ。
 古江小路という狭い坂道を歩く。よく見れば平成時代がそこかしこに見られるが、土壁に囲まれた家や門構えなど、江戸時代に戻ったようである。坂をあがると長府毛利邸。明治時代に建てられた純和風の建物は、時代を経てすっかり古びているが、それでも、今の家にはない風格が出ている。庭園をのんびり歩いてみる。
 長州の歴史を語る上で欠かせない人物といえば、高杉晋作だろう。吉田松陰の松下村塾に学び、藩政を動かすほどの力をつけ、やがて奇兵隊を組織した。彼自身は28歳でこの世を去るが、この流れがそのまま明治時代に続いていく。その奇兵隊が挙兵をしたのがこの功山寺である。馬上に乗った高杉晋作の像は有名で、写真で見たことのある人も多いだろう。
 高杉晋作のことを抜きにしても、立派な寺である。国宝にも指定されているそうで、しばし見とれるほどの建物である。この寺には、もうひとつの歴史がある。中国地方に覇をとなえた大内家の最後の当主の大内義長が毛利元就に追われ、自害をしたのがこの寺である。義長の墓でもないかと探したが、結局見つからなかった。歴史は敗者には非情である。とりあえず竹やぶに向かって手を合わせておく。

【12 唐戸と壇ノ浦】

 城下町長府からサンデン交通の真新しいバスに乗った。このバスは青海島または宇部方面からの特急バスのようで、リクライニングシートの快適なバスだ。15分ほどで唐戸につく、字面を見て想像できるとおり、唐つまり、外国への玄関口であった。唐戸は長く重要な土地であり、古くは壇ノ浦の合戦、赤間神宮から、イギリス領事間が置かれていた時代もあり、日清戦争の講和条約がここで結ばれた(下関条約、日本側全権伊藤博文、清側全権、李鴻章)こともあった。そのためか、レンガ造りの建物も多く残っている。
 はじめは下関市立水族館へ。私は、動物園、植物園、水族館などが大好きで、旅先で見かけるとほぼ必ず見ている。ここでは、フグの展示が充実していた。クサフグとトラフグ位しか知らなかったが、これほど多くの種類のフグがいたとは少々驚く。学芸員さんが、カブトガニの甲羅をひっくり返しておなかを見せてくれた、機械仕掛けのように複雑なつくりになっていて、少々グロテスクだ。
 続いて唐戸市場へ、小腹が好いてきたので、瓦そばを食べてみる。本当に瓦の上で茶そばと錦糸玉子と肉を焼いたらしく、瓦からじゅうじゅうと音がしている。炒めた茶そばが香ばしく、あっというまに平らげてしまった。この料理は、西南戦争の折、兵士たちが瓦の上で野菜や肉などを炒めて食べたのが始まりといわれている。市場に入ると、もうせりは終わっていたが、観光客向けに魚を売っており、魚料理を出す店に人だかりができていた。わたしは、さっき瓦そばを食べたばかりであったが、フグ汁に手が出た。寒い中で、体があったまるフグ汁はうまかった。
 唐戸から関門海峡を右に見ながら歩くと赤間神宮がある。赤と白の社殿は遠くからでも目立つ。この神社は、安徳天皇を祀ったそうである。安徳天皇は、高倉天皇と平徳子(建礼門院)の子供で、平清盛の孫に当たる。まさに源平の合戦が始まろうとする1180年に天皇に即位し、平家の都落ちとともに西国へ逃れ、1185年、壇ノ浦でわずか8歳の生涯を終える。大人たちの思惑によって天皇にされ、非業の最期を遂げたのだ。この神社の社殿は竜宮城を模したとも言われているが、せめて海の中には安らげる場所があってほしいと思う。
 赤間神宮を過ぎるとほどなく関門大橋の美しい姿が見えてくる。このあたりが関門海峡の最も狭くなったところで、ちょうど壇ノ浦の古戦場も、幕末の長州藩による英仏の艦船への砲撃事件もこのあたりで起きた。対岸の北九州市の布刈(めかり)まではおよそ700メートル、手にとるように見える。背後は火の山、本物の要衝である、しかも潮流は早く、10ノット(時速18kmに達するという。平家の侍たちは、ここを死に場所ではなく、勝利の場所と考えていたのではないか、海での戦いに慣れていた平家だけにそう思いたくなるような場所だ。

淡々と

 ここ数日、心身ともに「お疲れモード」でした。月曜日、遅刻の時間ぎりぎりまで家でゴロゴロして、いっそこのまま休んでしまおうかと思いましたが、かろうじて誘惑を振り切って仕事に。職場でも5時までは頑張りきれずに早退してしまいました。家に帰ってからはゴロゴロ。仕事は山ほど溜まっているのですが、どうにもエネルギーが出ない。
 今日はやや復調、それでもまだペースは上げられそうにありません。まずは淡々と最低限のことをこなしながら少しずつペースを上げていこう。誰だっていつでも全力疾走できるわけではないし、いつでも笑顔でいらるわけではない。たまには土砂降りの碑もあれば、吹雪の日もある。また快晴の日になったら思いっきり走り回ろう。それまでの間ゆっくり歩くのも悪くない。

ガス欠中

 ここ数日ブログの更新を休んでいます。原因はガス欠、どうも何事もやる気が起きない状態です。とりあえず朝目が覚めると朝食を食べて仕事に行く、仕事を何とか終わらせて、夕食の材料を買いに行くいく気力が起きないのでしばらくは冷凍食品や缶詰の買い置きで済ませる。いよいよ食べるものがなくなるとやっと買出しに行く。夜は何をするでもなくなむくなったら寝てしまう。そんなここ数日間です。今日は夕方近くなってやっと部屋の掃除を済ませました。そんなわけで、元気になるまで少しだけ休みます。その間にじっくりエネルギーを蓄えておきます。エネルギーが溜まったらまたこのブログで発散します。たぶん数日以内に元気になると思います。それではまた。

人間って・・・

 仕事が終わってスパーマーケットに行くと、ちょっとした異変に気づいた。先週中ごろまでは納豆売り場は空っぽで入手困難なほどであったが、今日は納豆がうずたかく積まれていて売れていないことが傍目にもはっきりわかった。ここまで書けば皆さんお気づきのことと思いますが、某テレビ番組で納豆のダイエット効果についての研究者のコメントや被験者のデーターを捏造していた問題によるためです。

 このようなテレビ番組で、健康やダイエットの特集をすると視聴率が撮りやすいと聞きます。そういう私も、15年ほど前、両親が「野菜スープ健康法」(ダイコン、ニンジンなどの煮汁で作った「野菜スープ」を飲めばほとんどの病気がよくなるといわれたもの、後に関係者が医師法違反、薬事法違反で逮捕される)をやっているのを見て、「そんなばかばかしいことをするくらいなら、野菜たっぷりの味噌汁でも飲んだほうがよっぽどいいよ」と笑っていました。何せ、その健康法とやらは、野菜を煮て、煮汁だけを摂取するものなので、野菜の中に残った栄養分は捨ててしまうし、ニンジンややダイコンででどんな病気も治るのなら、医者も薬も要らないよと笑っていました。当時私は20歳にもならない時期で、健康に不安の1つもなかった時期です。

 やがて私も30歳を過ぎ、徐々に健康が重要なテーマになってきました。その頃はやったのが「にがりダイエット」。私自身も不安に感じるものがあったので、とりあえず同僚の時勢と一緒に始めてみました。結果は、確かにやせました、しかしお腹がゆるくなるだけではっきりとした効果は現れず。そのうちににがりは冷蔵庫の隅で忘れ去られる運命に。今ではスーパーマーケットでにがりを探そうと思ってもなかなか見つからないでしょう。その後はカプサイシンダイエット。とにかくキムチを食べまくりました。これは効きました、体重も減ったし、ベルトもゆるくなりました。しかし、その後がいけなかった、見事な痔になりました。自転車のサドルに座るにもつらいくらいな立派な痔主になりました。
  
 考えてみれば食べてやせようなんてあまりにもムシのいい話です。それでも、やっぱり食欲は抑えがたいし、健康でいたいし、痩せたいのですよね。人間ってヤツはほんとうに欲深いものです。今回の騒動、だましたテレビ局側は言語道断ですが、一時期飛ぶように売れて、今は売り場に山済みになっている納豆の姿を見ると、なんだかおかしな気分になってきます。人間って、本当に悲しくも切ない生き物なのだなと思います。もちろん、私はその最たるものですが。

維新の風に吹かれて~山口紀行⑤

【10 金子みすゞの故郷へ】

 東萩駅から1両のディーゼルカーに乗る。車内は思いのほか混んでいる。補習か部活の帰りなのだろうか、高校生が多い。萩、玉江と萩市街地の南を回り込むようにして走っていく。河口近くで地盤が悪いせいか、それとも萩城下町の人々が鉄道を嫌ってそうしたのかわからないが、駅と市街地が離れていて不便だ。40分ほどで長門市に着く。
 ここから仙崎までは山陰本線の支線もあるが、きわめて列車本数が少ない。駅前には2ヶ所にバス乗り場がある。駅を背にして左側にサンデン交通、右側に防長交通である。防長交通のバス乗り場で待っていると、サンデン交通のバスがやってきて、行き先を見ると仙崎行きだった、走っても間に合いそうに無かったので諦めたが、バス会社同士、同じ名前のバス停でも場所が違っており、旅行者にとってややこしいことが多い。待つほども無くなく、防長交通の青海島行きのバスがやってきた。はきはきとした元気のいい運転手で、こちらも元気になる。少し待った甲斐がある。仙崎の駅前でバスを降り、コインロッカーを探すが、駅にも、併設になっている観光案内所にも無い。駅前の野菜と手作りの雑貨を売っている店のおばさんに荷物を預かってもらう。
 せっかく漁港の町まで来たのだから、うまい魚を食べてみたいと思い、観光船乗り場の近くの店を物色する。繁盛している店に狙いを着け、刺身の定食を食べてみる。ブリの刺身とブリの照り焼き、ブリ図串のメニューだ。脂が乗っていてうまい、イカの刺身もなかなかのものだった。
 漁港から、青海島大橋を渡る。対岸の青海島が崖になっているため、目のくらむような高い端になっている。橋の下の海峡の流れは速く、渦を巻いている。
 青海島に渡ってすぐに、王子山公園がある。高台から仙崎の町を見下ろすことができる。みすゞの詩のひとつに「王子山」というのがあり、「わたしの町はそのなかに、龍宮みたいに浮かんでる」と詠っている。21世紀の現在では、どちらかと言うとひなびた漁村でしかない仙崎であるが、おそらく、今とそんなに変わらない姿であっただろうと思われるみすゞの少女時代(1903年・・明治36年生まれなので、少女時代というと明治の末~大正の前半と言うことになるだろう)の仙崎は、それこそ竜宮のように華やかな町だったのだろう。
 再び青海島大橋を渡り、みすゞ通りと名づけられた路地を歩く。家々には、詩を板に書いて玄関先に掲げている。町ぐるみでみすゞの町として盛り上げていこうという意気込みが感じられてとても嬉しい。
 郵便配達のお兄さんが、先輩の指導を受けているようだ。そういえばもうすぐ正月、年賀状配達のアルバイトかもしれない。心の中で「ガンバレ」と声をかける。
 みすゞ通りの一番の呼び物はみすゞ記念館だ。彼女が少女時代をすごした金子文英堂を再現した建物である。彼女が過ごした部屋も再現されている。展示物も充実しており、ぜひ一度足を運ぶといいだろう。
 私の一番好きな詩「私と小鳥と鈴と」が掲載されているものを選び詩集を買う。「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」みすゞの詩の中では有名な方である。ご存知の方も多いだろうと思う。
 
仙崎駅に戻り、列車を待つ。小さな駅ながら行き止まりで、なんだか知らない国に迷い込んでしまったような気がする。ディーゼルカーに乗って、長門市で特急「いそかぜ」に乗り換える。夕暮れの日本海は、キラキラと輝いている、もう1時間もすれば闇に支配される、今日の太陽の最後のかがやきである。列車は時折山あいに入る。1軒家があり、ぽつんと明かりが点っている。疲れが急に気分が沈んでくる。旅先でこんな気持ちになることは珍しい。いつの間にか涙が出てきた。列車はそんなことは気にも留めず夕暮れの山陰本線を疾走する。
 下関の街の明かりが見えてきた。駅を出ると、そこは何て明るいのだろう。ここ2日間、小さな町ばかり歩いてきた、まるで大都会に来たようだ。今日は下関の街を歩きながら、フグでもと思っていたが、街の明るさと人の多さに目まいがする。駅前のデパートでお弁当を買うと、早々とホテルに入ることにする。

時間をこえて

私は今、横浜にいます。学生時代の友人とおよそ11年ぶりに会ってぎました。彼とはサークルが一緒だったわけでもなく、ゼミが一緒だったわけでもありませんでした。たまたま同じ講義を受講していて、たまたま席が近いので話したことがきっかけでした。一緒にアルバイトをしたこともありましたが、卒業してからは年賀状をやりとりする程度の付き合いにとどまっていました。
ところが、去年の12学月、絵画や造形、写真のグループ展を行うという葉書が彼から届きました。これは私にとって本当に嬉しい話でした。
今日、11年ぶりに友人と会って、話し方も、雰囲気も全く変わっていなくて本当に嬉しかった。古い友人と一緒にいると、時間を飛び越えてあの頃に戻ることができる。わたしはとても良い時間を過ごすことができた。これからも、長らくご無沙汰している友人達に会ってみよう。お互い元気を分けあえるようになるかもしれない。

維新の風に吹かれて~山口紀行④

【9 萩城下と晋作くん】

 12月25日。萩の朝は、小雨で始まった。日本海側に来ていることを実感した。
 ホテルの近くのバス停から、西回りの循環バス「晋作くん」に乗る。10分もかからずバスは指月(萩)城の広い駐車場に着いた。8時少し過ぎの萩城は、眠ったように静かで、周りにはだれの姿も見えない。傘を差して小雨降る中お城の見学に行く。
 天守閣跡に行く。不安定な石段を登る。中国地方の太守から、周防・長門の2カ国に減らされた歴代の藩主の心境はいかばかりのものであっただろうか。この城に立地を考えれば、野望があったような気がする。北側を山に、東と西を海に、南側を松本川に囲まれたこの城は攻めにくく守りやすい。
 城の北側の山は12月の末だというのに、木々の緑が濃い、照葉樹林というのだろうか、東北地方では見られない森林である。指月神社に参拝し、階段を下りようとすると、おじいさんとおばあさんが階段の下から拍手を打っている。まるで、私に向かって拍手を打っているようで妙な気持ちになる。
 お城の石垣に添って歩くと、海岸に出る。海岸の向こうには萩野町が見える、こういうお城は珍しいだろう。
 萩城を後にして、敵方の「新撰組」(NHKの大河ドラマ)の看板を横目に、城下町へ歩く。口羽家屋敷の門が見えた。庭先で掃除をしているおばさんに声をかけると、色々と説明してくれた。押入れに見せかけた避難口など、武家屋敷ならではの仕掛けが面白かった。やっと観光客も動き出してきたらしく、60歳くらいのおばさんと、私より少し年上と思われる娘の親子など、女性が多かった。
 鍵の手になっている小道を歩くと、萩学校教員室がある。明治20年ごろに作られた黙想の建物で、現在でも萩高等学校の一隅に保存されている。アイボリーとベージュに塗られたおしゃれな建物で、当時の萩の人たちの目を驚かせただろうと思われる。
 萩博物館という真新しい建物があった。戊辰戦争を子供の喧嘩にたとえた風刺絵が面白い。戦争で迷惑をこうむるのは、名も無い庶民達である、せめてもの権力への抵抗だろうか。地域の小・中学校と協力して、総合的な学習の時間に、昔の食料や郷土の歴史について研究したことを、博物館の展示で取り上げている。こうした取り組みは、子供たちの歴史への関心を育てることにつながり、とてもよいことだと思う。
 先ほどの口羽家が武家屋敷の代表的なものなら、こちらの菊屋家は商家の代表的なものである。御用商人の屋敷ということで、武家屋敷に比べて豪華な作りである。倉には千両箱がいくつも入りそうな地下室があった、莫大な財力の一端が想像できる。
 近くには、木戸孝允の生家がある・医者の家ということで、さほど大きな屋敷ではないが、このあたりは、古い町並みをよくとどめており、うっかり、幕末に踏み込んでしまったような錯覚を覚える。
 小さな街の割にはにぎやかなアーケードを通り、野山獄に行く。ここは、吉田松陰が投獄されたところである。当時は監獄も身分別であり、この野山獄は上士用の監獄であった。現在は身分制度も無くなり、武士の子孫も百姓の子孫も同じ刑務所に入るようになった。いい時代になったといってよいだろう。雨が激しくなってきた。傘を差していても身体が冷える。急ぎ足でホテルに戻り荷物を受け取る。ホテルのフロントマンの笑顔を見て少し元気になる、こういったちょっとした対応の差で、その街の評価が変わってしまうことがあるのだ。

あれから12年

 今日は1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災から12年が経った。この日の5時46分、兵庫県淡路島北部を震源として、阪神地区、淡路島で震度7の激しい揺れを観測した。この震災で死者 : 6,436名  行方不明者 : 3名、怪我をした方は4万人以上の大きな災害になった。この震災で問題になったのは、古い建物の安全性と、ライフラインの確保であった。ビルや家屋の倒壊で下敷きになったり、木造家屋の密集地では、大規模な火災が発生したりしたことで、被害を大きくしたことが指摘されている。また、電気、ガス、水道、道路、鉄道などのライフラインが破壊され、それが被災した方の生活や救助活動に大きな妨げになった。 建物の安全基準やライフラインのバックアップ体制は私たちにはなんともできないことであるが、国内活断層とプレート境界だらけのこの国に住むものとしてできるものは何かないだろうか。最低限の避難するときの物資を用意すること、地域の避難所や防災施設について把握すること、隣近所にどんな人が住んでいるか把握すること、sの位は私たちでも何とかなるだろうし、災害にあったときには役に立つことだろう。そういう私も懐中電灯の電池が切れていた。これではいけない・・・

維新の風に吹かれて~山口紀行③

【7 萩まで】

 山口から萩まではバスでおよそ1時間20分である。かつての萩往還(山口と萩を結ぶ街道)に沿った道で見所も多いのだが、周遊きっぷ(JRグループ共通の割引乗車券で、特定のゾーンと、そこまでの行き帰りの乗車券が割引になる)をもっているので、山口-益田-東萩と大回りの乗車を楽しむことにする。
 山口12時38分発の特急「スーパーおき4号」に乗る。ステンレスボディがまぶしい、真新しい車両であった。1両しかない自由席は混んでいて、通路側にやっと1つだけの空席を見つけた。カーブと勾配の多い山口線を、新型特急は強力なエンジンでぐいぐい走っていく。益田では乗り換えの時間が50分ほどあるので、駅前の古びた喫茶店に入りコーヒーを飲む。おじさんが話しかけてきて、ヤマナシの話を聞く。
 益田から東萩までは、特急「いそかぜ」に乗る。赤とクリーム色に塗り分けられた昭和40年代前半に作られたベテランディーゼルカーの3両編成である。外見は古いが、車内はきれいに整備されていて、シートのモケットも、さわやかな色に張り替えられていた。 益田発14時50分、「いそかぜ」は、重厚なエンジン音を響かせて発車した、私の乗った最後尾の自由席は、私以外だれもいない。益田を発車してまもなく日本海に出る。波は静かだが、鉛色の雲が重々しい、これが日本海なのだ。
 カーブや勾配が多いが、新型車両のような軽快な加速はできない、70~80キロくらいだろうか、特急とは思えない鈍足である。車窓も時折小さな漁村が現れたりしてひなびている。益田から東萩までのおよそ1時間、わたしは海ばかり見ていた。

【8 東萩駅と松陰先生】

 東萩駅は山陰本線の主要駅である。しかし、ホームは短く、駅の規模も小さく、本線の名に反してローカル線である実態がわかる。東萩駅から、市内循環バス「松陰先生」に乗る。真っ赤なバスである。「東光寺前」でおりると、ここは吉田松陰の生誕地であり、墓地でもある萩を見下ろす小高い丘がある。ここから萩の町を見下ろすと、なんと小さな町だろうか、こんな小さな町から時代を動かす人物が何人も出たことが不思議である。
 ここから小川に沿って10分ほど歩くと、松下村塾がある、2間しかない小さな小屋である。しかしここから、高杉晋作、木戸孝允(桂小五郎)、久坂玄瑞、山県有朋、伊藤博文といった人物が巣立っていったのである。まことに不思議なめぐりあわせというしか他はない。
 その日は、萩市内のホテルに泊まった。大きなお風呂に浸かり、フグをはじめとする料理に満足した。テレビを見ているうちにいつの間にか眠ってしまった。

男の色気

 昨日、今日とスキー場に行ってスノーボード三昧の2日間を過ごした。朝の6時前に家を出て、午前中いっぱい滑って家へ帰る。もちろん滑りっぱなしではなく、疲れたら車に戻り、車の中で読書。既に若いとはいえない私はマイペースを崩さない範囲で楽しんできた。それでも、人の少ない朝のうちに練習を積んだ結果、これまでよりもすべりがだいぶよくなってきた、スピードを上げて風を切って滑るのは本当に爽快だった。
 10時を過ぎると人が増えてくる。福島県外の中学校の団体も来ていた。おそらくスキーをつけるのが初めてなのであろう。おっかなびっくり滑っていたのがなんともほほえましかった。そうしているうちに、男の色気と言うか、男の悲しい性が頭をもたげてきた。すこしうまいところを見せてやろうと思って、コブをつかってジャンプなどをしてみた。結果は無様な失敗。だいたい、練習すらまともにしたことのないものが成功するわけがないのだが・・・。男の色気も悪くはないがたいがいにしておかないと。それでも自分をかっこよく見せよう、強く見せよう、大きく見せようと思うのが、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類を問わず男の色気。男って困った生き物なのです。

維新の風に吹かれて~山口紀行②

【4 山口まで】

 12月24日。宇部新川駅は、椰子の木が生えていて、南国風であるが、この日の宇部は寒かった。仙台の友人からメールが入る。奥州から長州まで一瞬のうちに情報がやり取りできるとは、すごい時代である。
 宇部新川駅は、電車が着くと、高校生や通勤客が乗り降りし、なかなか活気があった。しかし、電車が去ってしまうと、乗客はすぐに散ってしまい、物音ひとつしなくなる。そうしているうちに1両の電車が入ってきた。車体裾に入っている車番を見ると、昨日小野田線で乗った電車だった。宇部新川と、新山口の間を走る、新幹線への乗り継ぎのための快速電車だ。
 快速電車は、小さな駅を次々と通過する。宇部線は、駅と駅との間隔かいので、ひとつの駅を通過したかと思うと、すぐに次の駅に着く。実際のスピードはそんなに出ているわけではないのだろうが、スピード感だけはある。
 新山口で、2両編成のディーゼルカーに乗り換える。20分ほどで山口に着く。駅前広場は広いが、がらんとしている。県庁所在地とは思えないのどかな駅である。

【5 山口】

 今回の日程の都合で、山口ではあまり時間をとっていない。短時間でポイントだけを絞ってみようと思って、下調べをした。瑠璃光寺(国宝の五重塔があります)を核にすれば、まず、バスで県庁まで行くのが得策である。
 山口駅前のバスターミナルで、バスを待っていると、行き先表示板に「県庁・防府」と書かれたJRバスがやってきた、県庁と防府は方向が違うが、市街地を回って防府方面に行くのだろうと思い、そのバスに乗った。駅前を走り出したバスは、まっすぐ防府方面に向かった、これは乗り間違えたと思って、2つ目のバス停で降りた。目の前には山口中央高校、幹線道路沿いではあるが、近くに川があるのか、広々としている。思わぬ土地との出会いである。私はこれはこれでいいかなぁと思った。乗り間違いをしなければ出会えない風景である。旅での出会いは意外なものほど思い出に残るのかもしれない。道路を渡り、まもなく、県庁を通るバスが来た。
 県庁のバス停で降り、まもなく、旧藩庁がある。萩藩が幕末に、藩の機能を交通の不便な萩からここに移したのである

【6 山口、戦国から大正まで】

旧藩庁と同じ敷地に、現在の山口県庁がある。政治の中心地は現在でも変わっていないようだ。その中に、石造りの堂々とした建物がある、大正5年に作られた旧山口県庁である、建物は現在でも現役として使われており、国体の委員会や、県の物産の展示などに使われている。外見だけではなく、建物内部も大正時代の雰囲気を残しており、内部を見学するのは楽しい。
 県庁の裏側の山は、香山公園と呼ばれており、ここには、毛利元就の菩提寺となった洞春禅寺や、国宝の五重塔がある瑠璃光寺がある。ここで面白かったのは、うぐいす張りの石畳と言うものがあり、地団駄を踏むとキュッ、キュッと音がする。面白いので、何度も地団駄を踏んでいる。老夫婦も、少年少女の戻ったかのように面白がって地団駄を踏んでいる。また、瑠璃光寺には、閻魔大王の像がある、覗き込んでみると閻魔大王は手鏡を持っていて、覗き込んだ人の顔が写るようになっている。地獄は人の心の中にあるといいたいのだろうか?

維新の風に吹かれて~山口紀行①

 ここでは、私が以前作成した旅行記を掲載します。2004年12月の山口旅行の記録を掲載します。

【1 小野田まで】

 2004年12月23日、「のぞみ87号」は、東京駅をがらがらで出発した、これは快適な旅になりそうだと思ったが、品川、新横浜で多くの人が乗ってきて、ほぼ満席になった。それでも、京都、新大阪でだいぶ降りて、山陽新幹線に入ると車内の空気も穏やかになってくる。東京で買った駅弁をあける「21世紀出陣弁当」といい、昔ながらの味を詰め合わせたものであるそうだ。旅立ちにぴったりではないかと思った。
 新山口着、14時32分。私にとっては小郡といった方がなじみ深い駅名である。昔からの鉄道の要衝で、今でも駅の構内にはたくさんの車両が休んでいる。津和野行きの「SLやまぐち号」もここからでている。
 新山口駅14時47分の山陽本線普通列車で小野田に向かう。ベンチシートの通勤電車であるが、車内で弁当を食べている人がいる、こういう光景は珍しい。
 今日の大きな目的は小野田線に乗ることである。小野田線の次の列車まで1時間弱あるので、駅の周りを散歩する。とくに入りたくなるような店は見当たらず、庭木として植えられているみかんをおいしそうだなと眺めていた。福島が寒かったのが嘘になるような暖かい午後であった。

【2 小野田線】

 小野田発15時12分の宇部新川行き普通列車に乗る。わずか1両の電車である。小野田を出るとすぐに右に急カーブをする。次の目出(めで)は変わった駅名なので、どんなところかと目を凝らしていると、川の堤防の上に、短いプラットホームがあるだけの吹きさらしの駅であった。南小野田、小野田港と、市街地と工業地帯を走る。セメントの大きな工場がまるで巨大軍艦のように見える。そのような中を、のんびりと走る。他のローカル線とは違った味わいがある。
 雀田で長門本山行きに乗り換える。こちらも小野田線である。途中の浜河内で2人の女性が降りると、残った乗客は私を含めて3名になった。その3名の乗客は、長門本山で降りると、いずれも電車や駅の写真を撮り始めた。つまり、まともな乗客は誰一人としていないのだ。
 折り返しの発車まで30分ほどある。海岸まですぐ近くなので、しばらく防波堤によじ登って、海を眺めていた。このあたりは、「きららビーチ」といって、夕陽がきれいな海岸であるそうだが、今日はあいにく曇っている。それでも、もう17時近く、日没の遅い山口県でも夕闇は間近に迫っていた。
 長門本山17時03分。帰りは、近所の高校生と思われる女の子が1人乗ってきた。

【3 宇部】

 宇部駅裏にあるホテルに荷物を預けると、さっそく町を歩いてみる。宇部市は、どの観光ガイドブックにも無視されている町だ。これといった見所がないからであろう。工業都市で観光には余り力を入れてないからかもしれない。それでも、未知の町を探検する楽しさには変わらない。宇部に泊まったのは、小野田線に乗るためというのもあるが、観光ガイドブックに載っていない町を歩いてみたいという意図もあったからだ。
 しばらく町をぶらついて、色々な店を検討して入った店が当たりで、イカ刺しも、フグのから揚げもうまかった。

寒くなってきました

 1月も早くも10日、ここ数日やっと冬らしい寒さがやってきました。私の住んでいるアパートは、1階の3世帯続きの真ん中の部屋で、2重ガラスになっていて、比較的保温性のいい構造になっているのですが、それでもここ数日は朝起きるのがつらくなっていました。私は普段は午前5時40分になったら、スイッチが入ったようにぴたりと起きることができると言う特技を持っていますが、ここ数日はこのスイッチも故障中で、6時過ぎにならないと目が覚めない、それから布団から出るまで10分少々かかるという毎日が続いています。夕方になるとあたたかい鍋物が恋しくなります。こればかりは一人で食べても楽しくないし、量が多くて持て余すことになります。学生の頃は気軽に友達を誘って鍋をやったこともありましたが、今はなかなかそうも行きません。何かいい方法はないだろうか、思案中です。

銚子電鉄のぬれ煎餅

 千葉県の東部、漁業としょう油醸造で知らている銚子市に、小さな鉄道会社があります。その名前を銚子電気鉄道(銚子電鉄)といいます。JR銚子駅から銚子市南部の小さな漁港のある外川までの6.4km、わずか10駅、住宅地とキャベツ畑の中を19分かけてのんびりと走ります。地元の人の通勤・通学などの生活の足として、また犬吠埼を訪れる観光客の足として、1922年(大正11年)以来走り続けていました。昭和40年代以降は自家用車の普及で乗客の減少が続いていましたが、合理化と、タイヤキ、ぬれ煎餅などの副業での黒字で鉄道部門の赤字をカバーしながら鉄道営業を続けてきました。しかし、前社長による横領事件が発覚し、行政からの補助金も昨今の財政難などの関連もありストップし、昨年秋にはついに車両の法定点検(自動車の車検に相当)の費用にも事欠く状態になった。しかし、銚子電鉄の社員達はあきらめなかった。自社のホームページで「電車運行維持のためにぬれ煎餅を買ってください!! 電車修理代を稼がなくちゃ、いけないんです。」と訴えた。それに答えて、全国から1万件を越えるぬれ煎餅の注文が殺到した。(現在、ネットでのぬれ煎餅の注文の受付は停止している)私自身、一昨年の夏銚子に行く機会があり、その際にぬれ煎餅を買っているので、なんとか応援したい気持ちがあったが、ぬれ煎餅の販売が東京・千葉を中心とする地域に限られていて、なかなか買えなかった。偶然、福島県内のスーパーマーケットで発見したので、さっそく買ってみた。袋を開けると、しょう油のいい香りが食欲をくすぐる。ぱりっとした歯ごたえではなく、少し柔らかいせんべいをかじると、濃厚なしょう油の味が口の中に広がる。他の煎餅ではなかなか味わえない食感です。

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銚子電鉄ホームページ  http://www.choshi-dentetsu.jp/

祝 台湾高鉄開業

 今日の午前7時(日本時間午前8時)、台湾の台北~板橋~台中~高雄間、345㎞を結ぶ台湾高速鉄道(台湾新幹線)が開業します。当分の間は台北~板橋間(10km弱)はトンネル工事などのため未開業ですが、台湾西部の各都市の旅行やビジネスが大幅に便利になります。最も早い列車は、板橋と高雄(左営)の間を、台中のみ停車で1時間30分で結びます。それまでの特急列車(自強号)で4時間かかっていたのですから、大幅なスピードアップです。台湾の経済活動、観光が活性化されることが期待されます。

 この鉄道には、日本の新幹線の技術が大幅に取り入れられていることが特筆されます。車両は、東海道、山陽新幹線で使用されている700系を台湾向けに改良した700T型を使用します。白と青に塗り分けられた新幹線に対して、大胆にオレンジを使用した台湾高鉄車両、だいぶ印象が違いますが、兄弟分といって差し支えないと思います。日本の新幹線は、他の(フランス、ドイツ、イタリアなどの高速鉄道と比べると、大量輸送性に優れ、地震に対する安全システムなど多くの特徴を持っています。人口密度が高く、地震の多いことは日本にも台湾にも共通した特徴です。日本の技術が台湾の人々の役に立てることを誇りに思っています。台湾高速鉄道の無事故と、台湾の経済、観光のより一層の活性化を心よりお祈り申し上げます。

故郷の色~2007年1月

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 今年もよろしくお願いします。今日からお仕事という方も多いと思います。私の2007年も今日から始動します。新たな気持ちでがんばりたいものです。このブログも3年目に入りました。私の毎日を振り返りながら、もしかしたら皆様に楽しんでいただけることを少しでも書いていければと思います。

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 私は福島県の海沿いの町で生まれました。海以外これといって特筆するものはない町です。それでも海はきれいでした。私の家は海からは少々離れていましたが、中学生になると自転車に乗って、あるときは友達と、あるときは一人で片道およそ40分かけて海を見に行きました。春夏秋冬、あるいは天候によってさまざまな姿を見せてくれる海ですが、私は穏やかな夕暮れ近くの海が何より好きです。夕方に向かってだんだん色を変えつつある海、絵や写真では表しきれない美しさだと思います。

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 昨日・今日と故郷に帰省して、帰る前に海を見に来ました。今日の海は私の好きな穏やかな夕方近くの海でした。1月とは思えない暖かな日でした。港の近くにクルマを止め、港、砂浜、そして海を見下ろす小さな岬を歩いてきました。思いがけずとてもいい景色に出会えました。

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 どうぞ今年1年皆様のご多幸とご健康を心よりお祈り申し上げます。

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