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近代日本の青春時代へ⑦

7 亜熱帯の海は宝石箱 (2007年8月9日)

 土佐清水の街は深い入り江の奥にあるわずかな平地にある。入り江の波は静かで、長閑そうな港町である。しばらく港の中を歩く。漁港町は朝が早い、すでに午後2時近く、まちは静まり返っている。港町の食堂で最近土佐清水市が売り出し中の鯖を食べてみる。5年前に長崎で食べた鯖の刺身の味が忘れられず、ここでも鯖を刺身で食べる。脂が乗っているが上品な味で、鯖と言う魚を改めて見直す。胃が満足したところで、いよいよ竜串に向かう。カーブの多い道路を20分ほど走ると竜串海岸に着く、海岸の小さな店が観光船のきっぷ売り場で、一条神社であったおじさんの名刺を差し出すと、お一人様なのに団体割引料金で切符を売ってくれた。漁港のような小さな港の防波堤に沿って歩くと、小さな船があり、これが船底の一部がガラス(またはアクリル)張りになっていて、海中を見ることができる構造になっている観光船である。ほどなく改札係のお兄さんが来て私のきっぷをチェックすると、出航まで20分ほどあるので竜串海岸を見てきてくださいという。防波堤の外はそれはそれは見事な景色で、丸太がごろごろと横倒しになったような形の岩が波に洗われていた。丸太と丸太の間には小さな潮溜まりがあり、そこにはフグの稚魚や名前はわからないけれどたくさんの魚の稚魚、イソギンチャク、たくさんの生き物達が住んでいた。フグの稚魚は潮溜まりに指を入れてみると一人前に膨らんで私を威嚇していた。私は時間を忘れて生き物たちと戯れていた。私は出航時間に少し遅れてしまったが、船は待っていてくれた。さっきの改札係のお兄さんがそのまま船長になった。港を出ると急に激しい縦揺れと横揺れがやってきた。とくに縦揺れがひどく、船の先端近くにいた私はいのあたりに不快感を覚えた。これはまずいと思い、船の中央部まで下がると気にならない程度のゆれになった。10分ほどすると船長さんは船を停めた。見てみると海中にはたくさんの襞のような模様のついた見事なさんごがあって、青や茶色の魚たちが気持ち良さそうに泳いでいた。船長さんが船室に下りてきたので、魚の名前について教えてもらう。美しい青色の魚はソラスズメダイ、茶色で、目のあたりが黒い魚はクロホシイシモチ亜熱帯の海は本当に華やかです。船はこのあと、波の侵食で面白い形の岩がたくさんある見残しに接岸して私達は上陸できることになっていたが、今日は波が荒く接岸できなかった。

 再び土佐清水に戻り、足摺岬へと急ぐ。途中に中浜と言う小さな集落がある。ここから幕末から明治初期にかけて活躍した人物がいる。中浜万次郎(ジョン万次郎 1827~1898)である。彼は漁師であったが、14歳のとき遭難し、アメリカ船に救助される。その後アメリカで英語や数学、航海術などを学び、1851年日本に帰国する。その直後の黒船来航。同じ土佐出身の坂本龍馬は自ら進んで激動の時代に足を踏み込んだが、かれは時分の思いとは関係なく、時代が彼を表舞台に引き上げた。英語を話せる貴重な人材として、薩摩藩や幕府に用いられ、通訳として活躍した。坂本龍馬も彼からアメリカ滞在時の話を聞き、大いに影響されたそうだ。そんな彼を生んだ仲間は集落は、いまでは何事もなかったかのように静かである。
 足摺岬は天然の亜熱帯植物園になっている。美咲から見える海はどこまでも遠く、地球の丸さを実感する。足摺岬のすぐそばには、四国88箇所霊場の38番札所である金剛福寺がある。自転車でやってきた学生さんのグループに話を聞くと、自転車で88箇所全てを回るそうだ。暑い中本当にご苦労様ですといった。
 足摺岬から中村を目的地にしてカーナビを頼りにクルマを走らせる。これまでなかったくらい狭い道で、すれ違い困難どころか通行困難な道を走る。西に傾いたが南国の強い太陽、時々現れるコバルトブルーの太平洋、風光明媚なところだがエアコンの効いた涼しい車内で冷や汗をかきながらのドライブになる。やっと国道321号線に戻ると、ドッと疲れが出た。中村はまだまだ先だ。息はよいよい、帰りはこわい(福島弁でこわいは疲れるという意味があります)こわいながらもとおりゃんせ、とおりゃんせ。

※8月9日分の写真をアップしました。そちらもご覧ください。

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