会津・多摩・江戸~新選組の足跡をたどる ①
【10月26日 会津若松】
SL「郡山会津路号」で会津若松駅に着いた。帰りは17時過ぎの快速列車と決めてある。およそ4時間あるが、その間に会津若松に残る新選組隊士の足跡をたどってみたいと思う。
言うまでもないが、新選組と会津藩のかかわりは非常に深い。清河八郎が幕府に提唱して結成された浪士組に近藤達が参加して京都に上ったが、意見の相違から近藤や芹澤鴨たちが分裂して作った組織が新選組の起こりである。そしてその当時の京都の治安維持の責任者である京都守護職にあったのが会津藩主、松平容保である。後に新選組は会津藩預かりの別働隊として幕末の京都を治安維持のために走り回った。もし山口県出身の方が居れば気を悪くするかもしれないが、私はそう見ている。
しかし、情勢は会津藩と新選組に味方せず、鳥羽・伏見の戦い(京都府)で大敗北を喫した。江戸に撤退した新選組は、甲陽鎮撫隊と名を改めて甲州街道を西に進むが、勝沼の戦い(山梨県)で破れ、再起をかけて流山(千葉県)に結集したところを新政府軍に包囲され、局長である近藤を失うことになる。
その後会津戦争に参加するが、ここでも武装の差は歴然で、有名な白虎隊の自刃のエピソードがあるように、会津藩は死に物狂いで戦ったが敗れた。その後、旧幕臣の一部と北海道に逃れ榎本武揚らと蝦夷共和国の設立を目指したが、ここでも破れ、幕末に華々しく活躍した、「最後の武士」である新選組は6年間の活躍を終えた。
会津若松駅から、マルーンに塗られた「まちなか周遊バス」に乗る。このバスは、会津若松駅→七日町→野口英世青春館→鶴ヶ城(県立博物館も近い)→御薬園→会津武家屋敷→東山温泉→会津武家屋敷→飯盛山(白虎隊士終焉の地)→会津若松駅と市内の主な観光地を循環するバスで、およそ30分ごとに運行されている。
七日町駅でバスを降りる。駅前すぐの阿弥陀寺には新選組三番隊組長を務め、会津戦争の後は土方らと別れ会津に残った。後に、会津藩が青森県下北半島に移されると(斗南藩・・・むつ市田名部に藩の本拠を置いた)、斉藤もここに移住した。後に東京で警視庁に勤めたり、学校の守衛をしたりして過ごした。そんな斉藤の花に手を合わせた。この人は謎が多く出身地さえ確定していない。なぜ会津戦争以降会津藩と行動をともにした理由もわからない。わかっているのは彼がここに眠っていることのみである。私なりに推測すると、幕末の動乱の時代、自分達の損得を考えず自分の信じるもののために命をなげうって戦った会津武士の生き様が斉藤の生き様と共鳴したかもしれない、と考える。重ね重ね、山口県出身の方を不快にしてすみません。
七日町駅に戻ると、まだ時間がある。七日町駅は「駅カフェ」して整備され、会津地方の和菓子や民現品が購入できるし、コーヒーを飲むことができる。コーヒーを飲むには時間が少々足りないが、時間がある人はゆっくりしてもいいだろう。
バスは城下町のなごりをとどめる狭い道を走る。小型のバスだからすいすい走るが、最後部のオーバーハング部に座っているせいかたて揺れがひどい。混雑している日は通常のバスがすぐ後に走るから、バスに酔いやすい人はそちらにしたほうがいいかもしれない。
バスを奴郎ヶ前(やろうがまえ)で降りる。降りて路地をしばらく歩くと天寧寺がある。この寺は、室町時代から戦国時代にかけて会津地方を支配した蘆名氏によって建てられたものである。ここに新選組局長の近藤勇と土方歳三の墓がある。坂道を登ってずいぶん奥の方に墓があった。近藤と土方の墓は並んで建っていた。新選組がこれだけの活躍ができたのは、この2人がそろって初めて可能になったのだろう。生まれた多摩でもなく、主な活躍の場となった京都でもないが、新選組にとって直接の上司になる会津藩の城下町で眠ることができるのは、彼らにとっても本望のことであろう。振り向くと鶴ヶ城と会津若松の市街を一望にすることができる。私も無意識のうちに「いい眺めだなぁ」とつぶやいていた。
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