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2009年9月の14件の記事

魅力的な声

 私は学校で図書・視聴覚教育を担当している。この係の大きな仕事が芸術鑑賞教室の開催である。最近では企業が社会貢献として、学校や福祉施設に音楽や演劇などの芸術家を派遣する事業を行うことがさかんになっている。
 今日は私の学校にもある生命保険会社の事業として、バリトン歌手とピアニストを本校に派遣してコンサートを開催してくれた。私は学校側の窓口として交渉や企画に当たった。いつものことだが、民間企業の第一線で働いている方と一緒に企画ができるのは私にとっても良い刺激であった。
 今日のコンサートでは、クラシックの曲から、季節の歌、そして児童生徒が大好きなスタジオジブリのアニメの曲までピアノの演奏とバリトンの魅力的な歌を披露していただいた。それにしても声楽家の声とはなんて魅力的なのだろうと思った。豊かな声量、自在な表現力、なにより男性らしい力強さと、人の魂に響くパワーを持った声には私も魅了された。とてもよいコンサートになったし、このような素晴らしい企画にかかわることができたことをとても幸せに思う。

たくさんの出会いに感謝

 去る土曜日に、前の勤務校の同窓会総会に出席した。年に一度のとても楽しい1日である。卒業生、かつての同僚、上司など懐かしい人たちに合えるからである。久しぶりに会う生徒は、在学当時と比べて格段にたくましくなっていることに驚く。就職したよ、クルマの免許を取ったよ、進学先で頑張っているよ、作業所で頑張っているよ、いずれも頼もしい言葉である。久しぶりに会う同僚とは、かつての思い出を語り合ったり、現在のそれぞれの職場の事情を情報交換をしあったりした。かつての同僚が今は他の職場で頑張っている様子を聞くと私も負けて入られないと思う。
 総会をして、20歳を迎える卒業生を祝う会を行い、会食をすると楽しい時間はあっという間に終わってしまう。名残惜しいが、来年のこの日の再会を約束して散会する。来年はどんな元気をもらえるのか楽しみである。
 土曜の夜には古い友達と久しぶりに電話をした。この人は私にとってはとても癒される存在、数年ぶりの再会はとても楽しかった。

 私は本当にいい人たちに出会ったと思う。その出会いに感謝したいと思う。なかなか「ありがとう」と言うことはできないが、私はたくさんの人との出会いに心から感謝している。

気にならなくなったら終わりかも、しかし見ちゃってもおわりかも




コネタマ参加中: 恋人のケータイの中身、気になる? 気にならない?

 今いないけれど、いたとすればやっぱり気になると思います。昔の彼(または夫)からの電話やメールはやっぱり愉快なものではないし。それでもお互いの最低限のプライバシーは当然守られるべきものだと思います。だからもしいるとしても相手のケータイの中身のチェックは当然しません。もっとも、相手のケータイの中身が気にならなくなったらそれはそれで、その関係が終わりに近いのかもしれませんが。

北海道の歴史を歩く 6

【8月7日 はるかなる人の面影をたどる】

 夕張を発車したわずか1両のディゼルカーはわずかな客を乗せ、追分に13時33分に着いた。ここから室蘭本線の普通列車に乗り換える。室蘭本線は長万部~東室蘭~苫小牧~追分~岩見沢と室蘭~東室蘭を結ぶ鉄道である。このうち、長万部~東室蘭~苫小牧(正確には隣の沼ノ端)間は、函館や室蘭、登別などと札幌を結ぶ幹線として活況を呈している。しかし、苫小牧~追分~岩見沢間はかつては夕張をはじめとする石狩炭田の石炭を室蘭港に運ぶため、長い編成の貨物列車が行き交ったが、今では2~3時間に1本程度短い列車が走るだけのローカル線になっている。しかし、かつての栄光のなごりか、そんなローカル線でも駅のつくりは大きく、まっすぐな複線の線路は幹線そのものである。
 追分13時40分発の2両編成のディゼルカーに乗る。ひとりで1つのボックスを独占できるほどのお客、JRには申し訳ないけれど一番快適な乗車率である。国鉄時代の古いディーゼルカーで、エアコンはない。窓を開け放って勇払平野を吹き渡る風を取り込むと、少し生暖かい風が入ってくる。もう少し涼しければ文句なしだが、本州の数に比べればやはり爽やかだ。

 製紙工業や自動車工業を中心とする工業都市の苫小牧駅で同じ室蘭本線の普通列車に乗り換える。コカコーラの缶のような塗装の3両編成の電車である。かつては急行列車にも使われた車両である。ボックスシートを中心にした懐かしいタイプの電車である。乗客はさっきまでとは変わって多く、電車なのでスピードも速い、行き交う列車の増えて活気に満ちた旅になる。苫小牧の市街地を過ぎると、左に太平洋、右に樽前山を見ながら進み、15時17分登別に着いた。

 登別から、9種類の泉質を楽しめると言う登別温泉を目指す。ただし、バスの発車まで30分強あるので、駅前を歩く。この町から知里幸恵(1903~1922)が生まれた。彼女はアイヌ民族である。彼女の少女時代、学校教育では、アイヌ民族は劣った存在として、大和民族への同化政策が進められていた。アイヌ語も、アイヌの伝統的な叙事詩であるカムイユカラを後世に残したい、それを強烈に自分の使命だと感じたのだろう。彼女は言語学者である金田一京助の援助を受けながら、カムイユカラをアイヌ語(表記はローマ字)と日本語訳で記録した。1922年9月18日、その記録は完成した。その晩彼女はわずか19年の生涯を閉じた。まるでカムイ(アイヌ民族が信仰する自然の中に存在する神々)たちがその才能を惜しんで、自分達の手元につれて帰ったかのようだ。彼女が残した記録は、、金田一らによって「アイヌ神謡集」として刊行され、現在でも岩波文庫で販売されている。
 彼女がここに生きていた時代からすでに100年が経過していて、生家などはとくに残っていないが、幸恵が生まれ育った町を歩いてみたいと思った。アスファルトの道路、コンクリートの建物、これらも想像力があれば時代を超えた風景に変わってくる。かつてここに生きた人と少しだけ同じ空気を吸う、これこそ旅の醍醐味だろう。

 バスに乗り登別温泉に行き、旅館に行き9種類の泉質を愉しんだ。1時間以上温泉に入っていたから、最後は少しのぼせてしまった。再びバスで登別駅に戻り、17時48分発の特急北斗15号に乗る。ここまでの疲れが出たのか、たちまち眠ってしまった、目が覚めたのは札幌到着の直前で、札幌の町明かりが銀河のように美しかった。

時の流れを感じるな

 今晩、とても懐かしい番組を見た。と言っても懐かしいと思うのは30代以上の人だろうか。かつてお化け番組とも、PTAが選ぶもっとも子どもに見せたくない番組とも言われた番組である。そう、「8時だヨ!全員集合」である。かつて、土曜の夜8時にはテレビの前に家族全員集合してこの番組を見ていた。この番組をもっとも楽しみにしていたのは私たち3兄弟であったが、その次に楽しみにしていたのは先日のブログでも取り上げた祖父であった。
 感想は?まず面白いね、こんなに笑ったのは久しぶりというくらい笑った。学校コントは、私の最も好きなコントだったし、志村けんの「七つの子」の替え歌もよく歌った、早口言葉もなつかしいし、桜田淳子とひげダンスもはやったなぁ。その次の感想は「俺も年取ったなぁ」である。テレビの中の志村けんは髪の毛がふさふさとしているし、加藤茶も若い、とっくに天国へ行ってしまったいかりや長介も元気だし、仲本工事もきびきびとした身のこなしで体操をしていた。変わっていないのは高木ブーの体型くらいかもしれない。ゲストだって、先述した桜田淳子は23歳、本木雅弘にいたっては19歳(シブがき隊だよ!懐かしすぎる)であった。そりゃ、私も年取るわけだな。

ニューヨーク底辺物語 境セイキ著 扶桑社

 ニューヨークといえばどんなことを連想するだろうか。マンハッタンの高層ビル街、ブロードウエィのミュージカル、ウォールストリートの証券取引所、イーストサイドの国連本部。まだまだ出てきそうだ。文化、経済、政治において揺るぎない世界の中心地である。また、様々な肌の色の人種、様々な宗教、様々な文化が入り乱れる魅力あふれる都市だと思う。これまでもニューヨークを舞台とした旅行記やテレビのドキュメンタリー番組はよく見てきた。今回は少し変わった切り口で描かれているニューヨーク生活記を読んでみた。

 この著者は24歳でニューヨークに渡り、アパレル商社の社長になった。しかし、やがでドラッグにはまり、ビジネスも住居も失いホームレスになる。そこでであった様々な出身地で、様々な事情を抱えるホームレス達、そしてホームレスのハッスル(仕事)事情、意外に豊かな食事情、公衆電話の奇想天外の利用法。これまで読んだニューヨーク紀行にはない面白い視点の話が満載です。

北海道の歴史を歩く 5

【8月7日 夕張の大地に光を見る】

 夕張の駅前には、周囲を圧するような大きなビルが建っている。ホテル。マウントレースイである。このホテルは夕張の「炭鉱から観光へ」を象徴するものである。夕張駅はこのホテルの前に引っ越す形で移転した。気がつかなければ売店にしか見えないような小さな建物である。

 夕張はこのホテルと、直結したマウント・レースイスキー場の他、ホテル・シューバロ、メロン城、石炭の歴史村などの大規模な観光開発を行った。かつて人口11万を誇った夕張市は、炭鉱閉山後も人口流出が止まらなかった。その中で観光に地域活性化をかけたが、残ったのは借金の山である。そんな思いでホテルを見上げると、非常に絶望的な気持ちになる。
 気を取り直して、石炭の歴史村にある炭鉱博物館に行こうとバスを探したが、駅前のバス停には石炭の歴史村行きのバスがなかった。結局ホテル・マウントレースイのカウンターでタクシーを呼んでもらった。

 石炭の歴史村は、お客の姿がなかった、そのうえ路面のアスファルトにひびが入っているのに補習された形跡さえない。わびしい気持ちで入場券とさっきのホテル・マウントレースイのランチがセットになったチケットを購入する。石炭の歴史村は、かつては遊園地の他はくせい館や化石館などがあったそうだが、いまはがらんとした敷地に石炭博物館が残るのみである。この施設全体が遺跡と化しつつある。悲しくも寂しい風景である。
 石炭博物館は悪くはなかった。とくに炭鉱で働く人の生活を中心にした展示は興味深かった。とくに地下の坑道の機械を動態で保存していることはとても貴重なものである。ヘッドランプのついたヘルメットをかぶり、実際の行動を歩くのは少々怖くもあったが面白かった。それにしても、石炭とはなんて美しいのだろう。黒く光り輝いている。黒ダイヤなどという言い方があるが、まったくそのとおりだと思う。

 夕張の市街地を歩きながらホテル・マウントレースイに戻る。夕張の市街地はがらんとして、かつて11万人もの人が住んだ面影は乏しかった。ホテル・マウントレースイの食事では小ぶりながら夕張メロンを半分に切ったものが出た。これまでにも夕張メロンは食べたことがあるが、16分の1か32分の1か知らないが小さなものだった。それにしても何と香りの良いメロンなのだろう。うっとりしながらたゆっくりとメロンを味わった。

 祝辞が終わると12時22分の追分行き普通列車で夕張を去る。夕張の大地は過去には石炭を生み出し、現在は夕張メロンを生み出している。現在も夕張は存亡の危機の中にあるが、この豊かな大地の中に、夕張再生の希望の光を少しだけ見たような気がする。

田舎の文学青年




コネタマ参加中: あなたのおじいちゃん・おばあちゃん自慢、聞かせて!

 もう10年以上前に亡くなってしまったが、私の父方の祖父はちょっとした田舎の文化人だった。職をいくつも転々としたようですし、農業に関しても父いわく「工夫をしようとかさっぱり思っていなかったようだ」というくらいなので、社会人としては?マークがつく人ですが、詩を書かせたり、歴史を書かせたりするとかなりのものでした。私もその血を引いているはずなのですが、悪いところばかり影響されているのかもしれません。
 そういえば、祖父は若い頃は灯台守になりたかったそうです。ムーミンパパの職業も灯台守。なんとなく共通しているところがあるのかもしれません。

日本航空よどこへ行く

 航空業界というのは外から見ると非常に華やかなものに見える。パイロットは新幹線の運転手やスポーツ選手と並んで男の子の憧れの職業(最近はそうでもないのかもしれないが)だと思うし、私自身憧れていた時期もあった。キャビンアテンダントも看護士、保育士などと並んで女の子の憧れの職業だと思う。私たちがなかなか行くことができない遠い国まで行くことができるし、やっぱりジェット旅客機はとてもかっこいい。
 そんな華やかさとは裏腹に、航空業界は長らく厳しい生存競争が続いている。1960年ごろから世界の空はジェット化が進み、速度の向上とともに大量輸送の時代になった。これらのおかげで、かつては飛行機に乗るのは私たち庶民にとって高嶺の花だったが、今ではさほど特別なものではなくなった。しかし航空会社にとっては激しい競争と供給過剰に慢性的にさらされることになった。
 1980年代まで、大相撲の千秋楽の表彰式で優勝力士に少したどたどしい日本語で表彰状を渡していた白人男性を覚えているだろうか。また、かつて「アメリカ横断ウルトラクイズ」の決勝の会場はどこだった覚えているだろうか。どちらも、かつて世界の航空業界をリードし続けたパンアメリカン航空と深い関係がある。大相撲で表彰をしていたのは、デビット・ジョーンズ氏といい、パンアメリカン航空の極東地区支配人だった。また、「アメリカ横断ウルトラクイズ」の決勝会場として一時使われたのが、パンナムビル(パンアメリカン航空を縮めて「パンナム」と呼ばれていた)であった。1860年から80年代にとってのパンナムはまさに、強いアメリカの象徴だったのである。
 そんなパンナムも、1970年代以降、航空業界の競争激化と高コスト体質に苦しめられ、赤字経営が慢性化していた。ついに、1991年12月、ついに力尽きた。
 日本航空も国内線では大手の全日空をはじめ、スカイマークなどの低コストで運行する航空会社との競争にさらされている。新幹線のスピードアップも脅威である。国際線では、格安航空券の利用が当たり前になり、どこの航空会社も利益が上がりにくい中で体力勝負の持久戦の様相になっている。人件費などのコストの高い日本の航空会社は当然不利である。
 日本航空にとって、これから先の生き残りは相当厳しそうだが、何と階に残って欲しいと思う。太陽のマークを尾翼につけた日本航空の飛行機がこれからも世界の空を飛び続けることを切に願う。

自殺予防週間(9月10日~16日)

 さて、クイズです。年齢、性別の死亡原因についてです。男性の20~44歳、女性の15歳~34歳で最も多い死亡原因はいったい何でしょうか?

 正解は自殺です。このほかの年代でも、自殺は日本人の死亡原因の上位になっています。そして、日本は残念ながらG8諸国の中でも2番目に自殺者が多い国となっています。現在の日本では1年間に3万人以上の人が自殺によって尊い生命を絶っています。そしてその数は増加傾向にあります。ひょっとしたらあなたの家族、親族、友人、同僚の中にそのような人がいるかもしれません。当たり前のことですが、人はより良く生きたいと願っている。それを自ら絶ってしまう本人の無念さ、家族や周囲の人への衝撃の大きさ。私は友人の一人を自殺によって失っています。親友と言うわけでない、浅い付き合いの友人だったが、その人の自殺の知らせを聞いたときには、足が振るえた。その後も機会あるごとに何もできなかった自に後悔の念を抱いた。これが家族や近い親類、親友だったらいったいどれだけの衝撃の大きさだろう。

 最近、フィンランドなどでは自殺を防ぐ取り組みが功を奏しつつあるそうです。私たちでもできそうな取り組みに山王になりそうな資料として、日本政府の共生社会政策統括官ホームページより、「自殺予防のための行動~3つのポイント」を書き写してみました。

○周りの人の悩みに気づき、耳を傾ける
  家族や仲間の変化に敏感になり、心の悩みを抱えている人が発する周りへのサインになるべく早く気づきまし ょう。
  「手を差し伸べ、話を聞くこと」は絶望感を減らすための重要なステップです。時間をかけて、できる限り傾聴し ましょう。
  話題をそらしたり、訴えや気持ちを否定したり、表面的な励ましをしたりすることは逆効果です。相手の気持ち を尊重し、共感しましょう。

○早めに専門家に相談するよう促す
  心の病気の兆候があれば、本人の置かれている状況や気持ちを理解してくれる家族、友人、上司といったキ ーパーソンの協力を求めましょう。

  治療の第一歩は、相談機関、医療機関の専門家への相談から始まります。キーパーソンと連携して、専門家 への相談につなげましょう

○温かく寄り添いながら、じっくりと見守る
  身体や心の健康状態について自然な雰囲気で声をかけて、あせらずに優しく寄り添いながら見守りましょう。
  自然に応対するとともに、家庭や職場での体や心の負担が減るように配慮しましょう。 
  必要に応じ、家族と連携をとり、主治医に情報を提供しましょう。

 あなたの周りにSOSを発信している人はいないでしょうか?もしあなたに余裕があれば見渡してください。そして、ひとりでも1度しかない人生を希望を持ってい来ることができるようになることが私の願いです。

~詳しくは 日本政府共生社会政策統括官ホームページ~
  http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/index.html

北海道の歴史を歩く 4

【8月7日 夕張まで】

 今朝は4時過ぎに目が覚めた。昨日は疲れていて、ホテルのレストランで夕食を済ませると9時過ぎには気絶するように寝入ってしまった。しばらくテレビを見て過ごす。
 6時半過ぎにはホテルを出て札幌駅に向かう。おにぎりと豚汁の朝食を通勤途中のサラリーマンに混じって済ませる。私は乗るのが8時2分発の帯広行き特急なので時間がある。その間通勤客を満載した普通列車や函館、旭川、網走など道内各地に向かう特急列車を眺める。札幌駅は仙台駅や博多駅などと比べるとディーゼルカーの割合が高く独特の雰囲気がある。

 札幌8時4分の特急「スーパーとかち1号」は、札幌駅を発車して鋭い加速で札幌市街を駆け抜ける。まだ真新しい車両は、清潔感が合って気持ちがいいシートのかけ心地も上場である。南千歳駅を過ぎて左にカーブを切ると早くも無人の原野になる。南千歳から次の追分までは1981年に札幌と帯広、釧路方面を短時間で結ぶ目的で作られた新しい路線であるが、追分からは1892年に開通してかつては夕張線と呼ばれた路線である。ややカーブが増え、列車の速度が鈍る。8時58分夕張着。1時間もたたないうちに降りるのがもったいないくらいの列車だが、ここで降りないと夕張にはいけない。地下道をくぐって古びたディーゼルカーに乗り換える。
 9時3分発の夕張行きの列車は、「スーパーとかち」とは比べ物にもならない鈍足である。かつて三菱南夕張炭鉱への鉄道があった清水沢で若干の乗客の乗り降りがあった。かつて広かったであろう駅の敷地は、今は大部分が草むらと化している。駅前の商店もシャッターが下りたままのところが多い。鹿ノ谷を過ぎると上り坂がきつくなり、非力なディーゼルカーは9時29分終点の夕張に力尽きたように静かに停車した。

 夕張市は会社でいう倒産にあたる財政再建団体に指定された。テレビなどで過去の市長の観光施設などへの無謀な投資が原因と報じられたことは皆様もご存知のことだと思う。しかしこれまでの経緯を見ると、どうしても私は夕張市をには同乗したくなる部分もあるのだ。
 夕張の歴史は炭鉱とともにあった。いや、近代北海道の歴史も炭鉱とともにあったというべきであろう。北海道で最小の鉄道は手宮(小樽市)から札幌を経て幌内(三笠市)を結ぶものであった。目的は幌内炭鉱から算出される石炭を小樽港まで運ぶためであった。開国して国際社会にデビューしたばかりの明治政府にとって、富国強兵は国是であった。いや、そうしなければ欧米列強にずたずたに引きかかれるという強迫観念だといってもいい。富国強兵を果たすためには、蒸気機関の動力源である石炭が必要だ。その石炭の力で機関車を走らせ、汽船を進め、電力を起こす必要に迫られた。このため、夕張を含む石狩炭田、福島県から茨城県にかけての常磐炭田、福岡県の筑豊炭田などの開発が進められた。夕張市の人口もふくれあがり、1960年ごろには人口は12万人近くになった。
 そのころ、ゆっくりと夕張にもたそがれが訪れた。石炭がエネルギーの主力を勤めたのは1960年代までで、それ以降は石炭から石油へのエネルギー革命が進められた。中小の炭鉱の閉山が相次ぎ、徐々に夕張は元気をなくしていった。そんな夕張に決定的な打撃を与えたのが、1981年におきた北炭夕張新鉱のガス突出事故である。夕張新鉱は、最新の設備を備え、良質の石炭を産出し、衰えが見られた炭鉱都市夕張の復興の期待を背負っていた。しかし、坑内から出たメタンガスから発火し、救助隊も巻き込まれる大惨事になり、93人が亡くなった。鎮火に手間取った末に、行方不明者が残っている坑内に水を注入するいたましいシーンは、当時8歳の私が覚えている最も古いニュースの1つであった。
 その後、炭鉱を諦めた夕張市は観光に活路を求めた。しかしそれがはかばかしくないという話は前々から聞いていた。私は夕張市と同じ旧産炭地である福島県いわき市の出身である。いわき市は炭鉱以外の産業基盤が合った。東北としては温暖な気候で、農業もいける。黒潮と親潮の潮目にあたり、漁業も盛んである。そして、東京までJRの特急列車で2時間、常磐自動車道でも3時間程度の交通の便を生かして工場の誘致にも成功して東北有数の工業都市にもなった。決して景気がいいというわけではないが、夕張のように自治体としての存続を問われるような事態にはなっていない。しかし、同じ旧産炭地の生まれの人間として、夕張の現状を知り、少しでもエールを贈りたい。そんな気持ちで夕張駅に降り立った。

北海道の歴史を歩く 3

【8月6日 二風谷でイナウケを作る】

 平取の市街地を過ぎると間もなく義経神社がある。平泉で戦死したとされる源義経であるが、東北から北海道にかけて各地に義経の伝説が残っている。義経が後にチンギスハンになったのは荒唐無稽だが、日本人の判官びいきがそうさせるのだろうか。そこから沙流川(さるがわ)に沿って徐々に坂を上っていくと二風谷に着く。二風谷はアイヌ文化にとって重要な土地でありダム建設には相当な反対があった。結果的に反対を押し切る形でダム建設は行われ、1997年にダムは完成した。そのダム湖の周辺に二風谷アイヌ文化博物館がある。
 博物館の展示内容は充実していた。とくに目を引いたのが木工製品の数々である。食器などの民具の細かい造形は惚れ惚れするほどであった。狩猟民族であるアイヌ民族にとって、手先が起用であることは非常に重要なことで、恋に目覚めた少年は、意中の少女に木製のアクセサリーを贈るのだそうだ。そうすることで、手先が器用である、つまり、良い狩人になれる、甲斐性のある男であることをアピールするのだろうだ。手先の不器用な私は、もしアイヌ民族に生まれていたら今以上にもてなかっただろう。
 博物館の屋外にはアイヌ民族の家(チセという)がある。屋根だけでなく壁もかやぶきである。窓は3つと決まっていて、真ん中に囲炉裏がある。ここを歩いていると大和民族がやってくる前のアイヌ民族の集落(モシリ)を歩いているような気がする。
 博物館の駐車場の向かい側にもチセがあり、「ご自由にお入りください」と張り紙があったので入ってみると、何人かの人が木製の御幣のような飾りを作ったり布を織ったりしていた。私はしばらく見学をしていたが、御幣のような飾りを作っていたお兄さんからぜひ作ってみないかと誘われた。白っぽい広葉樹の木の幹をのみのような道具で削ると、削った部分がカールして御幣のようになるという単純なものだが、これが以外に難しい。結局、お兄さんの手を借りてやっと1つ作り上げた。このとき作ったイネウケは大事に持って帰り、今でも自宅の柱にくくりつけられている。
 この近くには萱野茂アイヌ資料館がある。萱野茂(1926~2006)は、二風谷生まれのアイヌ民族で、アイヌ文化の保存に大きな功績があった。途絶えていたイオマンテ(熊送りの儀式)を復興させたり、アイヌ語の辞典を作ったりした。この資料館も、アイヌ文化の貴重な遺産を集めたものである。後に参議院議員になり、アイヌ文化振興法の成立に尽力した。アイヌ民族の他、樺太(サハリン)のウイルタ民族などの資料などがあり面白かった。

 二風谷を離れ、帰りは沙流川に沿って富川まで下った。沙流川流域は水田も多く本州に戻ってきた気がした。日高富川インターチェンジから日高自動車道に入り、苫小牧が近づくと勇払平野のはるか向こうに苫小牧の工業地帯の巨大な鉄塔が夕陽をバックにしてシルエットになっていた。原野と工業地帯の対比があまりにも美しかった。

眠気解消は




コネタマ参加中: 睡魔に襲われたとき、どうやって眠気を覚ます?

 仕事の途中で眠くなったら、2,3分歩いてきます。これでしばらくは眠気が解消します。会議中に眠くなったら、歩き回るわけには行かないので、腕をつねって眠気を紛らわします。
 クルマを運転中に眠くなったら、大声で歌います。歌は下手ですが、奏せ誰も聞いていないので大声でやります。これは結構効きますよ。

北海道の歴史を歩く 2

【8月6日 北海道の歴史とは】

 日高自動車道を鵡川(むかわ)インターチェンジでで降りる。JR日高本線の鵡川駅に立ち寄ってトイレ求刑を済ませる。私ははじめて訪れた土地で真っ先に訪れるのが鉄道駅である。たとえバスやクルマでの旅でも町の玄関である駅を見ておかないと気がすまない。鉄道ファンの性であろうか。
 鵡川駅からは山に向かって走る。目指すは平取(びらとり)町の二風谷(にぶたに)である。鵡川に沿って山に分け入って行き、低い峠を越えると平取町である。ここで、北海道の歴史の基礎的な知識について説明したい。
 日本の歴史は、旧土器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代→飛鳥時代→奈良時代と進んでいくが、決して日本の全土が同じような歴史をたどってきたわけではない。沖縄も独自の歴史を持っている。北海道の時代区分は、旧石器時代(1万2千年前まで)→縄文時代(1万2千年前~2世紀)と、ここまでは日本のほかの地域と同じであるが、弥生時代に入らず、続縄文時代(2世紀~7世紀)→擦文時代(7~13世紀)→アイヌ時代(13世紀~19世紀)→明治時代と進んでいく。ただしこれも北海道すべてが同じ道をたどっていくわけではなく、オホーツク海沿岸地方には、5世紀から9世紀にかけてオホーツク文化と呼ばれるアイヌ民族とは異なる民族の文化が存在していた。また、鎌倉時代ごろから渡島半島南部には和人(大和民族)が定住し、安東氏が勢力をふるった。安東氏は後に松前氏にかわり、1つの藩として認められ幕府の終焉まで北海道南部を支配した。
 説明が長くなったが、要は日本は一続きの単純な歴史を歩んだのではなく、少なくとも沖縄と北海道は独自の歴史を歩んだこと、そしてアイヌ民族という大和民族とは異なった言葉を持ち、異なった生活様式を持った民族が存在していることを認識しなければならないと言うことである。

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