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2009年11月の11件の記事

台湾紀行~東部編 3

【12月27日 宜蘭県を行く】

 基隆氏の運転するフォードは国道5号線(日本風にいうと台北宜蘭自動車道か)を90km/hくらいの速度で走る。台湾は自動車が右側通行で日本とは反対になる。助手席に座っている私は、車の右前の席に座っているのにステアリングがない不思議な感覚を味わっている。高速道路の両側は宜蘭県の細長い平野、水田に住宅や商店、工場も混じる。運転をしている基隆氏が「3年前に高速道路が開通してこのあたりもずいぶん便利になりましたよ」という。よく見てみると真新しい建物も混じる。宜蘭県は台北に隣接していながら険しい地形に阻まれ、台北との行き来には海沿いに遠回りするか険しい山を越えなければならなかった。高速道路ができて便利になり経済活動が活性化しているのであろう。クルマは宜蘭県の行政の中心地である宜蘭(イーラン)市、商業都市である羅東(ルオトン)鎮(鎮は日本でいう町に当たる)を過ぎる。前方に重量感のある山脈が迫っている。台湾の中央山脈である。この山脈には3952mの雪山(日本統治時代は新高山、真珠湾攻撃の「ニイタカヤマノボレ」である)をはじめ3000m.級の山が並んでいる。この山脈が台湾にとても美しい景色と豊かな自然をもたらしているが、その半面、交通の発達を妨げ、宜蘭県、花蓮県、台東県の台湾東部の発達を妨げていたのも事実である。

 やがて平野が尽きると高速道路は終わりになる。一般道に下りると間もなく蘇墺(スーアオ)の町に入る。この町は台湾東部の港町として、また炭酸泉の町として知られる。蘇墺の炭酸泉は22℃と低温であるが、天然の炭酸水が地下から湧くそうだ。大きな浴場もあるそうで、今回はすぐそばを通過しただけだが、今度来たときには入ってみたい。蘇墺の市街地を過ぎると蘇芳港に入る。クルマは港湾事務所の前で止まった。何だろうと思うと、仁愛先生がどうぞという。ここで休憩をするそうだ。事務所の会議室に招かれた。会議室には仁愛先生のかつての部下である方の(蘇墺氏と呼ぶことにします)ご夫妻が待っていた。自己紹介をしながらバナナや蓮霧をいただく。台湾バナナは皆さんもご存知だと思いますが、蓮霧も美味しい果物で、りんごのような外観に、りんごよりも少しみずみずしくてシャキシャキとした歯ざわりを味わえる果物です。

 一休みをして、再び出発。基隆氏のクルマの後に蘇墺氏のクルマが続く。坂道を登り蘇墺港を見下ろす公園に行く。公演の石畳の道を歩くとき、仁愛先生のお孫さんは、高齢の仁愛先生の手をとって歩く。それを感心しながら見ている私が後に続く、商港の奥には海軍の基地があるのだろう。2艘の軍艦が休んでいた。軍艦が入らないようにシャッターを押した。その後は仁愛先生のお孫さんとカメラ談義をしながら記念撮影をした。
 クルマは狭い道を進み、漁港のある町を過ぎ、学校の前で停車した。ここは凄い絶景だった。学校の前は太平洋、学校の裏は中央山脈に続く山並み、大げさな表現でなく、75度くらいの角度で山が生みに落ち込んでいた。さらに南の花蓮市に続く道路は崖のはるか上に頼りなげにある。基隆氏によるといまでもかなり険しい道だという。私はしばらく息を飲んで絶景に見とれていた。
 再び漁港のある町に戻り、お寺を見学した後海鮮料理の店に入る。カジキの刺身、イカのフライ、その他たくさんの料理が出た。とくに美味しかったのが鴨の水かき、コリコリしてコラーゲンがたっぷり入っているので美肌になりそう。それに絡めてあるソースが美味しかった。仁愛先生と基隆氏は「やえもんさん、これもいかがですか」と次々に勧めてくれる。私も胃袋の総力を結集してそれに応じる。にぎやかで楽しい昼食になった。

森麗、おめでとう!

 先日のブログにも書いた、序の口の力士、森麗が、大相撲11月場所13日目で、同じ千葉県出身の琴岡崎を破り、初めての勝ち越し(3勝4敗)を決めました。39場所目ではじめての勝ち越し。長い間、負けても負けてもあきらめずに土俵に上がり続けた結果が出たと思います。本当におめでとうございます。森麗は現在22歳、力士としてはこれからが脂の乗った時期になると思います。これからの活躍を心から願っています。今日の酒は、森麗のために乾杯をしたいと思います。

がんばれ森麗

 かつて、地方競馬にハルウララという競走馬がいた。走っても走っても負け続け、1度も勝利しないまま113連敗という記録を作った。しかし、負けても負けても走り続けるその姿は多くの人を感動させ、一種のブームをおこした。
 馬と人間を直接比較したら失礼に当たるかもしれないが、日本の国技相撲にも、負けても負けても諦めずに戦い続ける男がいる。序の口の力士森麗(もりうらら)である。先場所までは森川という四股名(であり苗字でもある)で相撲をとっていた。
 森麗は平成15年7月場所で序の口にデビュー。平成21年9月場所終了時点の成績は64勝199敗(通算勝率は2割6分6厘)、デビュー以来38場所(1年は6場所だから6年以上)連続負け越しは怪記録といってもいいだろう。彼を紹介する記事の中には森麗を史上際弱力士と紹介しているものもあった。

  森麗を紹介する記事(毎日新聞)
   http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091103k0000m040067000c.html

 これまで何度も親方から引退を示唆されたことのある森麗、しかし彼は本当に心から相撲が好きだったのだろう。負けても負けても諦めずに相撲をとり続けた。いつの間にか後から入門した力士に番付で遅れをとるようになっても諦めなかった。最近は相撲内容がよくなったといわれ、勝ち越しには届かないものの、成績は向上しつつある。今場所は2連敗のあと3連勝。ついに勝ち越しに王手をかけるようになった。本当に大好きなことをコツコツ頑張っている。プロの世界はそれだけで通用するほど甘い世界ではないことはわかっている。それでも森麗には勝ち越して、いずれ序二段、三段目、幕下と出世して欲しいと思っている。相撲の神様もそんな森麗の姿をどこかで見ていると思っている。がんばれ、森麗!

台湾紀行~東部編 2

【12月27日 雪山トンネルを越えて】

 昨日はだいぶ夜更かししたのに、今朝は6時前にきっかり目が覚めた。われながらたいしたものだと思う。今日ははじめての台湾旅行のとき出会ったおじいさんと再会する日である。2006年1月、日本に帰国するために桃園駅前で出会ったおじいさんと数分間話した。それがきっかけになって文通をするようになり、同年12月に台湾を裁縫したときにもお会いすることができた。ご自宅に招いていただき暖かい歓待を受けただけでなく、翌日にはかつて部下だった方にクルマを出してもらって、台北近郊の九份(「千と千尋の神隠し」の妖怪の村のモデルとも言われる)と歴史ある港町の基隆市を案内していただいた。その後も手紙でのやり取りは続き、今回は3回目の台湾旅行になるが、およそ2年ぶりの再会を希望した。

 9時過ぎ、ホテルのロビーに懐かしい顔が現れた。おじいさん(以下仁愛先生とします)は90歳近い年齢であるが、相変わらずお元気そう。その部下の方(以下基隆氏とします)もふくよかな身体に笑顔をたたえてお元気そうであった。このお二人だけでなく、今日は仁愛先生の孫娘の方と基隆氏の奥様も同行してくださるとのこと、まったくこのような歓迎振りには頭の下がる思いである。
 基隆氏の運転するフォードに5人が乗り込んだ。私が簡単な自己紹介をすると仁愛先生と基隆氏が中国語に翻訳して女性のお二人に翻訳してくれる。私は中国語はまったくだめである。旅行会話の本を持ち歩いているが、中国語は声調と呼ばれる音節内での高低の変化がが難しい、私は無アクセント地帯と呼ばれ「端」と「橋」の発音の区別ができないうえにひどい音痴である。旅行会話の本のとおり発音してもまず通じたためしがない。英語もあまり込み入った会話は無理である。それでも一生懸命翻訳してる、一生懸命聞いてくれることはとても嬉しい。
 さらに嬉しいことに、今日は宜蘭県に行きましょうということになった。宜蘭県は台北県の東にある県であるが、日本のガイドブックにもここのことはあまり大きく触れられていない。そもそも、ガイドブックの中には台北市内とその周辺、後はせいぜい高雄周辺と花蓮周辺を取り上げておしまいというものさえあるから情報が少ない。しかし見どころがたくさんあるらしいということは知っている。ぜひ地元の人に案内してもらいたいと思っていたところだ。もうひとつの楽しみは、最近台北と宜蘭県を結ぶ高速だうろが開通したが、その高速道路に雪山トンネルというトンネルがある。そのトンネルが全長12.9km.もあり、世界で5位の長さである。日本で最長の関越トンネル(関越自動車道がおよそ11km.だから、それよりもだいぶ長い。

 基隆氏のフォードは新生南路に入り高層ビルの間を抜け順調に台北市内を南下する。新生南路から辛亥路に入ると間もなく左側に緑に囲まれた大学のキャンパスが見えてくる。仁愛先生が「あれがかつての台北帝国大学ですよ」と教えてくれる。帝国大学は、東京、京都、仙台、福岡、札幌、大阪、名古屋に置かれ、現在の東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学の前身となった。大日本帝国の最高学府とされ、日本の学界、政界をリードした。これらの他に、当時外地と呼ばれた朝鮮に京城帝国大学、台湾に台北帝国大学が置かれた。朝鮮や台湾、関東州、南洋諸島などは1945年、太平洋戦争での敗戦を受けて日本の統治から離れたが、現在の韓国のソウル大学は京城帝国大学の建物などの施設の一部を引き継いでいる。また台北帝国大学は台湾大学の前身になっている。

 間もなく国道3号線にはいる。国道といっても日本でいう高速道路に当たるもので、国道1号線と3号線は台湾の西岸を南北に走るものである。これをしばらく北に進み、ジャンクションをとおり国道5号線にはいる。しばらく山の中を走るといよいよ雪山トンネルに入る。トンネルはさすがに長い。全長13キロメートルとして、基隆氏のフォードはおよそ90km/hで進んでいるから、抜けるのに10分くらいかかった。トンネルの10分はひたすら長い。走っても走っても先が見えない感じである。ようやく抜けると目の前にはそれまでの山がちの地形から一変して平野になる。宜蘭県である。少し遠くには太平洋と亀山島という島も見える。トンネルを過ぎて風景ががらっと変わる。そのときの「おおっ」という驚き、これがトンネルの醍醐味だと思う。

台湾紀行~東部編 1

【12月26日 台北まで】

 12月26日15時、成田空港。年末年始の旅行シーズンに入ったはずなのだが閑散としていた。秋からのアメリカからおこった不況の影響だろうか。それでも、空港の建物に入るとこれから海外に向けて出発するのだという気持ちが高まってくる。屋上の展望デッキに上がると、いろんな国の飛行機が離発着している。中国国際航空、イラン航空、ユナイテッド航空(アメリカ)、その他たくさんの国の航空機が終結しているところを見るのは楽しい。私が乗るのは18時20分の台湾・台北行きANA1083便だからまだまだ時間はある。さすがに成田の師走の風は冷たく、長くは外にはいられなかった。
 空港ターミナルビルのレストランでコーヒーを飲み、それでも時間があったので友人にメールを出す。17時少し前に出国手続きに行く。出国手続きを済ませ、搭乗口の南ウイングの一番奥のサテライトに向かう。普段なら、南ウイングにもかかわらず中森明菜の「北ウイング」でも歌いながらうきうきと向かうところだが、今回は少々気が重い。1月ほど前から右足がアキレス腱付着部炎にかかっていて、長く歩くのがきつい。幸い今日はすこぶる調子がいいが、旅行になると普段より多く歩くことになるから心配である。
 サテライトのベンチに座って待っているうちに友人からメールが返ってきた。なんと赤ちゃんの写真が添付されてある。つい数日前に生まれたそうだ。もちろん祝福のメールを送っておく。

 ANA1083便は定刻18時20分から少し送れて成田空港のスポットを離れた。そこから延々と空港を走った。成田は大きな空港だし、相当混雑している空港だということはしっているが、まだるっこしい。ようやく19時ごろ離陸した。離陸すると西に向きを変える。房総半島から三浦半島の上空を飛ぶ。眼下にはキラキラと町明かりが輝いている。やっぱり夜間飛行はいい。しばらく空からの夜景見物を愉しんでいたが、静岡市上空を過ぎると雲がかかってしまった。そのうちに機内食が配られた。サフランライスとシチューの機内食を食べると手持ち無沙汰になる。今日は偏西風が強く、座席のモニターに表示される速度は500km/h台。ジェット機とは思えない鈍足である。幸い映画のメニューに「鉄道員」があったので、それを見ることにする。暖かい国に行くのに、北国が舞台の映画を見るのも変な話だが。それでもやっぱり健さんはいい、男の中の男だ、渋すぎるぜ健さん。大竹しのぶもいい。見ているうちに涙が出てきた。飛行機の中だぞ、隣に人が座っているんだぞ、自分にそう言い聞かせても涙腺は言うことを聞いてくれない。

 鹿児島の町明かりが見え、飛行機は南向きに進路を変える。偏西風の影響が少なくなったのかようやくジェット機らしい速度になった。やがてぽつりぽつりと町明かりが見えてきた。台湾北部の福隆あたりだろうか。やがて飛行機は光の海の上を飛ぶ。人口270万人(大阪市とほぼ同じ)の台北市と、都市圏人口650万人(名古屋都市圏よりやや少ない)の台北都市圏の町明かりである。きれいだなとしばらく見とれていた。これを見るために進行方向左側の窓際の座席をリクエストしたのだ。

 22時(日本時間23時)近く、飛行機は桃園国際空港に着陸した。肌寒かった成田と違って暖かい。空気がかすかに八角(スターーアニス)の香りがする。「あ、また台湾に来たな」と実感する。しかし喜んでばかりはいられない。私が泊まるホテルの最寄のバス停を通るバスは22時30分が最終である。できればこれに乗りたい。しかし、他の到着便が重なっているのか、入国審査には長い行列ができていた。結局入国審査を通ったのは22時30分過ぎ、最終バスは既に出ていた。台北行きのバスは他にもあるが、私の泊まるホテルからは少々遠いところを通る。やむをえず、タクシーを拾い高鉄(新幹線)桃園駅に向かう。タクシーは10分ほどで駅に着き、23時5分の最終の高鉄に間に合った。東海道新幹線700系そっくりの車両に乗り込む。この高鉄に乗ることもこの旅の目的だったが、できれば昼間に台北から乗りたかった。
 23時25分台北着。捷運(地下鉄)に乗り換え、ホテルの部屋に収まったのは0時を回っていた。日本時間で言えば1時を回っていた。着替えを済ませ、缶ビールを飲むとたちまち疲れと眠気が襲ってきた。

こんどは

 昨年12月~今年1月の台湾旅行の紀行文を書きたいと思います。この旅の目的は①初めての台湾旅行で知り合ったおじいさんに再会すること、②台湾高速鉄道(新幹線)に乗ること、③台湾東部を歩くことです。というわけで、例によって気が向いてかつ、エネルギーがある日しか書けないので、しばらくかかるかと思いますが、どうぞお楽しみください。

新型インフルエンザのまとめ 09/11/11

 新型インフルエンザは9月から中学生・高校生を中心にかなりの猛威を振るっていました。休校になる学校が相次いだり学校行事が中止になるなどの影響が出ましたが、このところ中学生・高校生の方はピークをやや過ぎたようです。現在は小学生や幼児の間で感染がかなり広がっています。
 小学生や幼児の場合、特徴的なことは発症から重症化するまでの期間が極端に短い事例が見られることです。ある症例ですが、38度の熱を出した翌日の昼まではまだ元気があったのですが、夕方嘔吐してそのまま呼吸停止、死亡に至った例があります。その他にも発症から死亡まで1~3日という例があり、かなりの注意が必要です。とくに、インフルエンザの症状が現れた後、意識がはっきりしない、呼吸の苦しさを訴える(あるいは呼吸が苦しそう、会話が長く続かない)などの症状があれば一刻も早く受診させてください。

秘密のファミコン


ブログネタ: あなたが一番最初に買ったゲーム機は何?参加数

 ゲームが欲しかったけれど親に買ってもらえなかったので、兄弟3人でお金を出し合って親に内緒でファミコンを買いました。初めて買ったソフトは、ロールプレイングゲームの「ドラゴンクエスト2」(う~ん、歳がばれるな)とシュミレーションゲームの「キングオブキングス」でした。親に「おやすみなさい」と言って寝た振りをして、親が寝静まるのを待ってこっそりファミコンをしたものです。そのうちファミコンの存在はばれてしまいましたが、没収はされませんでした。

新しいアルバムをアップしました。

 右側のサイドバーの「マイフォト」に、新たに「2009年5月 岬めぐりの銚子電鉄」と「2009年8月 北海道の歴史を歩く」のアルバムをアップしました。どうぞお楽しみください。

北海道の歴史を歩く 13

【8月11日 特急「オホーツク」奮闘す】

 8月11日、旅の最終日になった。今日もとてもいい天気である。朝食を済ませたら網走川に沿って河口付近まで歩いてみた。暑い、しかしどこか風が爽やかだ。この6日間、雨どころか雲さえほとんど出なかった。私は雨男ではないが、旅行中は曇りのことが多い。
 
 網走駅には9時過ぎに着いた。縦書きの網走駅の看板を見る。駅の看板は横書きが多いが、網走駅は網走刑務所を出所した人が人生の再起をかけて故郷へ旅立つ駅である。これからの人生を横道にそれずにまっすぐに生きて欲しいと願って縦書きの看板が作られたという。
 網走発9時30分の特急「オホーツク4号」は、四角い顔のディーゼルカーの5両編成であった。白いボディにラベンダーとライトグリーンの帯を巻いて精一杯のおしゃれをしているが、古さは隠せない。この列車に使われている車両は、北海道の特急ではもっとも古いタイプのものである。しかし、シートはすわり心地の良いものに換えられていて、札幌まで5時間強の旅を快適に過ごせそうである。

 エンジンの唸りが上がり網走駅を発車する。網走発車時点で乗車率は25%ほどであろうか。特急ではあるが、あまり旭川と網走を結ぶ石北本線はカーブが多く、途中に峠越えもあり、非力な古いディーゼルカーには難所つづきである。網走から旭川までの238km.に3時間41分もかかっている。(この間の平均65km/h)
 網走湖岸を進んだ特急は、女満別(めまんべつ)に着く。ここからは森と畑の中を進む。網走を出ておよそ45分、規模の大きな市街地が見えてくると北見である。ここで乗客が増え、半分くらいの席が埋まった。北見発車10時19分、留辺蕊(るべしべ)という難しい読みの駅を発車すると、再び山の中へ分け入ってくる。この先に常紋トンネルというトンネルがあるのだが、このトンネルはいわくつきのトンネルである。トンネルの周囲は無人地帯、道路が整備されてなく資材の運搬が困難な中、本州などから集められた労働者が厳しい条件で働かされて、亡くなった者はそのまま埋まられたばかりか、人柱にもされたらしい。このトンネルはそれらの死者の亡霊が出るという噂がある。そんな残酷な歴史を秘めたトンネルなので、ぜひ見ておこうと思った。ところが、ふと目を覚ますと生田原に停車したところであった。すでに常紋トンネルを過ぎていた。
 遠軽で列車は向きを変え、網走支庁と上川支庁を分ける峠へのアタックを始めた。エンジンがうなりを上げるが、きつい上り坂では60km/hくらいまで落ちる。少し離れたところには、高速道路並みの高規格の上川白滝道路が整備されていて、あちらの車の流れの方が速い。今のところ、この道路の整備は峠越えの部分だけであるが、道央自動車道から北見市、網走市方面までつながったら、そのときには「オホーツク」の大きな脅威になると思う。おそらくこれからは高速道路の建設は進まないとは思うし、そんな時代ではないと思うが。

 峠を越えた列車は速度を上げ、層雲峡の入り口になる上川を発車すると平地が広がる。徐々に人家が増え、やがて高架橋に上がると旭川も近い。さすが道内第2の人口を誇る旭川市の市街地は立派である。高架橋を工事中の旭川駅には13時11分に着く。ここから「オホーツク4号」に乗る乗客は少ない。旭川から札幌までは、30分ごとに特急「スーパーカムイ」が走っていて、こちらの方が速いし車両がきれいだからである。この列車が13時13分に旭川を発車して14時45分に札幌に着くが、旭川13時30分発の特急「スーパーカムイ30号」は札幌着14時50分である。17分のアドバンテージをわずか5分までに縮められてしまう。平均速度はオホーツクの89km/hに対して、スーパーカムイは103km/hである。
 旭川を発車した特急「オホーツク4号」は、ようやく特急らしい速度で走り始めた。老体に鞭を打つようにエンジンはうなりを上げるが、乗り心地は意外にもいい。不快な振動や揺れがあまりない。深川を過ぎると地図の上に定規で線を引いたようにほぼまっすぐな線路が続く。水田も多くなり、畑が多かった道東とは異なった景色になる。この周辺、列車は美唄(びばい)を通過する。ここも夕張と同じく、旧産炭地であった。ここだけではない、上砂川、三笠、歌志内、芦別、どこも旧産炭地から再建を図っているところである。

 今の北海道は、過疎化、漁業の不振、財政問題など、たくさんの問題を抱えている。札幌だけ栄えて他の地方は人口流出に苦しんでいる。しかし、北海道を開拓するために血と汗を流しながら奮闘した人やその子孫の方々やたくさんいる。アイヌ民族の人々、ウィルタ民族の人々も伝統文化を守っている。そして雄大な自然がある。今は苦しくともいずれ光が見えると思うし、それを担える人材があると思う。私もそれを心から願っている。
 特急「オホーツク4号」は岩見沢を発車し、札幌へ向けてラストスパートを始めた。網走を発車してまもなく5時間になろうとしている。札幌はもうすぐである。そして、非常に断片的ではあったが、北海道の歴史をたどる旅も間もなく終わる。(終)

北海道の歴史を歩く 12

【8月10日 湧網線に沿って】

 かつて北海道には網の目のように鉄道路線が整備されていた。日本は道路整備が遅れていたし、自動車の信頼性も低く、寒さが厳しい北海道では鉄道が最も確実な交通機関であった。現在でもその傾向はわずかに残っていて、峠越えをしなければならない帯広、釧路への特急は冬になると乗客が増えるそうだ。
 そのような鉄道も、1980年代になると国鉄の膨大な累積赤字の解消と、道路整備による交通環境の変化、過疎化による乗客の減少によって次々と廃止された。網走からサロマ湖岸に沿って中湧別までを結ぶ湧網線もそのひとつである。
 
 網走監獄を出て、国道238号線、通称オホーツク国道を西へ進む。網走の市街地が尽きると左側に網走湖が見えてくる。鏡のような穏やかな湖面である。その網走湖と国道の間に自転車道がある。これがかつての湧網線の跡である。国道は線路に沿って続いている。カーブはあるが、交通量も少なく見通しもいいので、80㎞/hで走っていてもバイクや地元ナンバーの車に抜かれていく。網走湖から能取湖の湖岸に出ると間もなく卯原内駅跡である。ここで車を止め、駅跡に残っている蒸気機関車と客車を見る。昔懐かしい旧型客車である。ドアが自動で開閉しないので、走行中でも開けっ放しにできる。
 さらに進むとオホーツク海に出る。オホーツク海に面した小さな漁港のある町が常呂である。ここは近年ではカーリングの町として知られる。2006年のトリノオリンピックでは、女子カーリングチームのうち3名が常呂出身者であった。ここが網走を出て以来はじめての町らしい町である。常呂からオホーツク海にそって少し進むと常呂遺跡がある。ここは縄文時代、続縄文時代、擦文時代と、複数の時代にまたがる遺跡である。竪穴式住居も時代により微妙に形態が異なるところが面白かったが、湿った森の中にある遺跡なので蚊がたくさんいた。数か所刺されて腕を掻きながら遺跡を後にした。

 いよいよ日本第3位の面積を誇るサロマ湖畔に出る。何と言ったらいいのだろう、これこそ絶景というのだろうか。山があるわけでもない、町があるわけでもない、まっ平らな湖面とまっ平らな平地が広がっている。有ではなく、無の絶景、クルマを道路わきに止め、しばらく絶景に見入っていた。
 サロマ湖畔の計呂地駅は、駅の建物とSLと旧型客車が残されていた。旧型客車の車内に入れたので、ニスの塗られた重厚な窓枠や座席など、懐かしい鉄道風景を楽しんだ。すでに午後1時過ぎでさすがに空腹である。道の駅でホタテフライやホタテの甘露煮の定食を味わった。オホーツク沿岸はホタテの用癪が盛んである。それにしても牡蠣やホタテなどの二枚貝は何とうまいのだろう、進化の方向を間違えてしまった。もし彼らがまずかったら人間の手にかかって命を落とすことがなたっただろうに。
 道の駅からしばらく畑の中を走ると道の駅上湧別、かつての中湧別駅である。ここは、4方向に鉄道が伸びていたジャンクションであったが、すべての鉄道が廃止されてしまった。それでも、かつての駅のプラットホームや車掌車などが残されていた。ここでしばらく休憩をして、帰りは能取岬からオホーツク海の眺めを満喫して網走に戻った。2日間旅を共にしたブルーバードシルフィに別れを告げた。

 今晩はこの旅の最後の晩餐になるので、市街地の居酒屋で飲んだ、刺身のほか、ソウハチというカレイを焼いてもらった。ソウハチは中学生の頃読んだ紀行文の中で絶賛されていて、一度食べてみたいと思っていた。20年以上かかったが、ついにその機会がやってきた。ソウハチの味はとてもよかった。脂が乗っていてうまみもあった。酒もかなり進んだ。隣の席に座っていた、おじさんとの話も弾んだ。ホロ酔いをちょっと通り越して火照った身体で浴びる風が心地よかった。いい夜だった。

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