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2022年2月の5件の記事

いわき地区の炭鉱鉄道を訪ねる その3

 古河好間炭鉱専用鉄道は、トンネルで内郷地区と好間地区を隔てる低い丘陵地帯を越える。実際歩いてみるとわかることだが、この鉄道のルート選択には全く無駄というものがない。鉄道には今も昔も変わらず苦手なものがある。ひとつは急カーブ、自動車よりもはるかに車体の長い鉄道車両は小回りがきかない、そのため線路のカーブは道路とは違って緩やかな放物線状のカーブを描くことが多い。もうひとつ苦手なのは急勾配で、山が多い日本ではいかにして山を越えるかが鉄道建設の大きな課題だった。戦前の道路はできるだけトンネルを避けてつづら折りの坂道で山を越えることは多かったが、鉄道に関しては昔からトンネルを多用していた。

 トンネル2つを越え、好間地区に出ると、かつての線路は現在国道49号バイパスになっている。右側には現在は好間の住宅地が、おそらく当時は田んぼが多かったのだろう。そして前方には水石山というこの地域では高い山が目の前にそびえている。線路は緩い下り坂になり、機関士も気持ちよく運転できる区間になったのだろうと思う。

 1kmほどバイパスを進むと、左側に古河ロックドリルの工場が見えてくる。現在ではトンネル工事などでロックドリルが使われているが、昔は炭鉱や鉱山でロックドリルが使われていた。時代が変わって産業構造が変わっても歴史の生き証人はは何らかの形で残る、そしてここにはかつて古河好間炭鉱があった場所である。炭鉱の閉山後もいわき市内には古河系の企業が立地している。

 さらに進むと、前方に小さな山が見えてくる。バイパスは容赦なく山を切り通しで抜けていくが、線路は緩く右にカーブをして山の麓を走る。現在線路跡は生活道路になっている。ジャンボシュークリームで有名な白土屋菓子店の裏には稲荷神社があるがその参道も線路は突っ切っていたようだ。山を回り込むと、そのまま山の麓に沿って進み、やがて好間川にぶつかる。ここにはかつての鉄橋がそのまま残され、錆び付いてはいるが2本のレールもそのままの形で残されている。ここは第一級の産業遺産と言ってもいいだろう。

小さな声を集めれば。

 90年くらい前のお話です。ある国が現在ののロシアのように自分勝手な理由をでっち上げて他の国の領土を勝手に奪うという暴挙に出ました。その試みは成功しましたが、世界各国の人々がその国を非難しましたが、それに耳を貸さず孤立の道を歩みました。国内にもその動きを非難する人はいましたが、その国はひどい言論弾圧を行い、その国の人々も戦争に反対する人を助けようとはせず沈黙してしまいました。をして、15年間の戦争という泥沼にはまってしまいました。戦争の結果、その国では国土が焼け野原になり、多くの人命が失われました。またその愚を繰り返してほしくない、どの国の人にも戦争の悲惨さを味合わせたくないと思う。たとえ他の国のことでも沈黙はダメです。戦争に反対する声を上げましょう。わたしたちの小さい声も集まれば力になります。

いわき地区の炭鉱鉄道を訪ねる その2

 内郷駅は現在は小さい駅である。かつては貨物の取り扱いがあり、炭鉱への専用鉄道も複数あった。現在はその敷地の一部は駅北側の住宅地になっている。今回たどるのは古河好間炭鉱専用鉄道、内郷駅からいわき市好間町北好間を結ぶ5.7kmの鉄道である。開設は1908年、廃止は1972年である。

 内郷駅西側の住宅地から古河好間炭鉱専用鉄道を辿ってみる。しばらくは常磐線の線路と住宅地の間を進む。新川に架かる橋のところで一旦常磐線から少し離れる。鉄橋を特急ひたちがいわき駅に向けてラストスパートをかける。鉄道はどんなに時代が変わってもやっぱり素晴らしい。

 しばらく歩くと線路沿いにパチンコ店やスーパーマーケットがあり常磐線の線路から離れる。古河好間炭鉱専用鉄道はおそらくこれらの店舗の敷地を走っていたものと思われる。スーパーマーケットの少し先で左に緩やかに分岐している。ちょうど砂利が敷かれた空き地があるあたりである。この辺りは住宅地になり当時の面影はないが、少し先のジムの駐車場が道路に対して斜めになっている。これは、駐車場の敷地の一部がかつての線路だったからだろうと思う。バス通りを超えてかつての線路跡を辿っていくと、見覚えのある中華料理店に辿り着く、この店の駐車場も道路に対して斜めになっていて傾斜もついて何故だろうと思ったら線路跡を転用した敷地だからだろうと思う。

 中華料理店を過ぎて狭い道を左に曲がる。ここからははじめて歩く道である。住宅地を歩くと間もなく左側からかつての線路跡の築堤が見えてくる。築堤が小川を渡るときに赤れんが製の立派な橋台が残っている。廃線から既に50年、よく残っていたものと関心する。その先は築堤の上を歩けるようになる。線路跡を歩くのは気持ちがいい。人間には想像力という素晴らしい能力がある。ちょっと想像力を働かせば炭鉱に向けて列車が走っていく姿が想像できる。築堤をしばらく歩くと、線路はトンネルに突き当たる。残念ながらトンネルは通行禁止になっている。

いわき地区の炭鉱鉄道を訪ねる その1

 かつて地球は動かず、太陽や月などの地球以外の天体が地球の周りを回っていたと考えられていたが、コペルニクスの観測により、地球が太陽の周りを回っているいわゆる地動説が唱えられ、地球や宇宙に関する見方が一変した。この現象をコペルニクス的転回というそうだ。新型コロナウイルス感染症の蔓延で遠くに旅行に行けなくなってはや2年、一向に終わりの見えない状況で一旦遠くに行く考えはやめて足元の地元の良さを見つめてみようと思った。

 私が住む福島県いわき市は、歴史の長いお寺や神社もあるし、美味しい店もある、きれいな太平洋もある。冷静に考えたら結構なんでもあるじゃないかと思う。いろいろあるが、今回は産業遺産としての鉄道を巡ってみようと思う。かつていわき市は日本有数の炭鉱があった。大需要地である首都圏に近いという有利な条件があったから、炭鉱全盛期には相当栄えた。しかし1960年代からのエネルギー革命で炭鉱は衰退し、1976年の常磐炭鉱の閉山で歴史を閉じた。しかし、現在でも炭鉱の痕跡は多数残っている。また、かつて炭鉱と常磐線の駅を結んだ貨物線もあり、その痕跡を辿ってみるのも楽しそうだと思った。今回は常磐線の内郷駅から出発する。内郷駅は常磐線のいわき駅から上り電車に乗って最初の駅、最近建て替えられた駅舎はコンパクトながら使いやすい。近くには高校の他病院も多く利用客の多い駅である。

「変」ってなんですか?

私はどちらかと言うと子ども時代、「変な子ども」だった。人と同じものに興味を持ったり、人と同じ振る舞いをすることに時に違和感を感じることがあった。私の小学生時代、ようやく「キャプテン翼」のヒットなどでサッカーがメジャーになりつつあったが、まだまだその当時の私の周囲の男子小学生が好きなスポーツは野球だった。当時の子どもたちの話題の中心はプロ野球、野球アニメ、クルマだった。プロ野球と野球アニメは結構好きだったので、友達と楽しく会話ができたが、実はクルマの方はサッパリで、ドアが4枚ついていれば日産・サニーも、アウディ80(現在のアウディ・A4の前身)も同じものにしか見えなかった。しかも、ゴリゴリの鉄道少年でしかなかった私はどちらかというとクルマを鉄道から客を奪う敵とみなしていたくらいだった。しかし、当時の「普通」は、男子小学生はクルマに興味を持ち、スーパーカー消しゴムを持っているのが当たり前とされていた。

 話は変わって、元AKB 48で俳優の秋元才加さんも同じような疑問を感じていたようだ。彼女のコラムを読むと、彼女は父親は日本人、母親はフィリンピン人という家庭に育ち、日本的な「普通」に悩まされてきた。日本はかつては今よりも「普通」の幅が狭く、彼女のような外国にもルーツのある人は今よりも「変わった人と見られていて、嫌な思いもずいぶんしてたようだ。彼女はこう指摘する、「日本の方は日本のコミュニティだけで過ごすから、違和感への耐性が結構低いと思う」、私もそうだと思う。私もそういえば「あいつは変なやつだ」、「あの人は変わっているな」という言葉をつい使ってしまう。では、その「変」や「変わっている」の基準って一体なんだろう。結局それは造られた虚像のようなものなのかと思う。

 結局私たちは、多数派であること、人と同じであることに安心したいだけのものなのかもしれない。しかし、時代は変わって、いろいろな国にルーツを持つ人が生活するようになり、色々な考え方や価値観を持つ人が増えてきた。ここで、秋元才加さんのいう、違和感への耐性をもう少し上げて、いろいろな国の人やいろいろな考え方の人がもっと生きやすいようになる時ではないかと思う。まずは、もう少し心の窓を大きく開け、身近な人の違いを「変」、や「変わっている」ではなく、そうなんだと受け取ることから始めたい。

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