「変」ってなんですか?
私はどちらかと言うと子ども時代、「変な子ども」だった。人と同じものに興味を持ったり、人と同じ振る舞いをすることに時に違和感を感じることがあった。私の小学生時代、ようやく「キャプテン翼」のヒットなどでサッカーがメジャーになりつつあったが、まだまだその当時の私の周囲の男子小学生が好きなスポーツは野球だった。当時の子どもたちの話題の中心はプロ野球、野球アニメ、クルマだった。プロ野球と野球アニメは結構好きだったので、友達と楽しく会話ができたが、実はクルマの方はサッパリで、ドアが4枚ついていれば日産・サニーも、アウディ80(現在のアウディ・A4の前身)も同じものにしか見えなかった。しかも、ゴリゴリの鉄道少年でしかなかった私はどちらかというとクルマを鉄道から客を奪う敵とみなしていたくらいだった。しかし、当時の「普通」は、男子小学生はクルマに興味を持ち、スーパーカー消しゴムを持っているのが当たり前とされていた。
話は変わって、元AKB 48で俳優の秋元才加さんも同じような疑問を感じていたようだ。彼女のコラムを読むと、彼女は父親は日本人、母親はフィリンピン人という家庭に育ち、日本的な「普通」に悩まされてきた。日本はかつては今よりも「普通」の幅が狭く、彼女のような外国にもルーツのある人は今よりも「変わった人と見られていて、嫌な思いもずいぶんしてたようだ。彼女はこう指摘する、「日本の方は日本のコミュニティだけで過ごすから、違和感への耐性が結構低いと思う」、私もそうだと思う。私もそういえば「あいつは変なやつだ」、「あの人は変わっているな」という言葉をつい使ってしまう。では、その「変」や「変わっている」の基準って一体なんだろう。結局それは造られた虚像のようなものなのかと思う。
結局私たちは、多数派であること、人と同じであることに安心したいだけのものなのかもしれない。しかし、時代は変わって、いろいろな国にルーツを持つ人が生活するようになり、色々な考え方や価値観を持つ人が増えてきた。ここで、秋元才加さんのいう、違和感への耐性をもう少し上げて、いろいろな国の人やいろいろな考え方の人がもっと生きやすいようになる時ではないかと思う。まずは、もう少し心の窓を大きく開け、身近な人の違いを「変」、や「変わっている」ではなく、そうなんだと受け取ることから始めたい。
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