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2022年9月の4件の記事

鉄道開業150周年企画⑤ 乗り鉄1年生の旅 大垣夜行編

 名古屋駅ビルの店で味噌カツを味わい、普通列車で大垣駅に向かう。大垣夜行は名古屋駅からも乗れるが、夏休みで乗客が多い時期なので名古屋駅からは乗れないかもしれない。始発の大垣駅から乗る予定でいた。普通列車で大垣駅に向かう。母は名古屋地区の普通列車が、2人掛けで進行方向に向きを変えられる座席であることに驚いていた。

 大垣では少し時間があったので、木の近くにある大垣城に行った。天守閣などは閉まっている時間だが、櫓や石垣などを見て大垣駅に引き返した。大垣駅には今夜の大垣夜行に乗る乗客が徐々に集まり始めた。私たちは交代で休憩をとりながら並んだ。私がプラットホームに並んでいる時に、熊本行きの寝台特急「みずほ」が猛スピードで通過していった。いつかあれに乗りたいと思った。

 22時少し前、緑色とオレンジ色に塗られた大垣夜行の電車が入ってきた。プラットホームに緊張が走る。それはそうだ、東京駅までは6時間40分以上かかる。座れるか座れないかは大きな問題である。座席に座って車内がす押し落ち着くと、大垣夜行は静かに大垣駅のホームを離れた。座席はほぼ埋まっている。乗客は旅行客だけでなく、帰宅を急ぐサラリーマンも多い。日常生活と非日常が同居する、それが大垣夜行の姿である。大垣夜行は大垣を発車すると各駅に停車する。夜行列車ではあるけれど、あくまでも普通列車の一員、かつては全国にこういう列車が走っていた。

 名古屋からは多くの乗客が乗ってきて、通路までいっぱいになった。お酒を飲んで帰る人も多いのか赤ら顔の乗客も多い。安城、岡崎と少し乗客が減り車内も静かになってきた。高田駅に停車した時に、「こんばんは、幸田シャーミンです」という声が聞こえてきた。その後蒲郡駅に停車した記憶がないから、幸田と蒲郡の間で眠ったのであろう。間もなく日付が変わろうとしていた。

 目が覚めると大垣夜行は長い鉄橋を渡っていた。遠くには道路が見え、たくさんのトラックが走っている。貨物列車とも何本もすれ違う。夜トラックや貨物列車を運転する人によって私たちの生活は支えられている。当然そんなことは知っていたが、こうやってみると実感できる。単なる知識は無味乾燥なものだが、実感を伴うと生き生きとしたものに変わる。しれにしても、行き交うトラックや貨物列車にともる灯りは美しい。後年、中島みゆきさんの「ヘッドライト・テールライト」を聴いた時に思い浮かべたのが、大垣夜行から見た光景である。

 次に目が覚めたのが富士川の鉄橋を渡る時であった。そこからはもう眠れなくなり、三島と熱海の間にある丹那トンネルも、小田原駅で見える小田急の電車も全て見た。横浜駅の手前で薄明るくなった。川崎を過ぎ、多摩川の鉄橋を渡る時に、東側に太陽が見えた、真赤な真夏の太陽だった。今日も暑くなりそうだ。蒲田、大森、大井町と駅ごとに電車を待つ人の姿も見える。世界有数の大都市、東京の朝の始まりを実感する。1988年、日本が最も元気な時期の最も暑い季節のことだった。品川でだいぶ降り、私たちも荷物をまとめ始めた。

 4時46分、東京駅着、まだ眠いが降りなければならない。山手線や京浜東北線の電車はもう半分近く座席が埋まっている。私たちは東京駅でしばらく休憩し、洗面や着替えを済ませると総武快速線の電車に乗り込み、茂原、安房鴨川、館山と時計回りに房総半島を回り、浜金谷からフェリーで三浦半島の久里浜に渡った。その後、横須賀線に乗って品川駅で降り、山手線、常磐線と乗り継いで夕方いわきに戻った。こうして私の乗り鉄1年生が始まった。今でも時折思い出す楽しい旅になった。

鉄道開業150周年企画④ 乗り鉄1年生の旅 中央本線編

 私には弟が2人いる。もう既にみんな同じ市内にそれぞれの家庭を構えている。最近はそれぞれの家族優先の生活をしているが、かつて、一緒に旅をしていた時期がある。それは、私が高校生であった3年間であった。今でも学生の長期休みの時期には「青春18きっぷ」というJRの普通列車が乗り放題になる切符が発売されている。その切符を使って何度か鉄道に乗りまくる旅をした。私たち3兄弟のうち、私と下の弟は鉄道が好きである。上の弟はそこまで鉄道が好きというわけではないが、旅が好きである。

 私が高校生になり、いよいよ鉄道旅行をしようという話が持ち上がった。はじめは兄弟3人で行こうと考えていた。行き先を考えているうちに、どうせなら「大垣夜行」に乗ろうという話になった。「大垣夜行」とは、東海道本線の東京〜静岡〜名古屋〜大垣(岐阜県)を結ぶ夜行の普通列車である。さらに、下の弟が学校で「大垣夜行に乗る」と友達に話したのだろう。友達も一緒に参加することになった。時刻表をいじり回し、東京から中央線経由で名古屋まで行っても大垣発の下りの「大垣夜行」に余裕で間に合うことがわかり、コースの大枠が固まった。あとは両親を説得するだけという順番になったが、さすがに子どもだけではいかせてもらえず、母も一緒に行くことになった。

 1988年夏、ついにその日がやってきた。母37歳、上の弟14歳、下の弟とその友達12歳、そして私が16歳、人生最初の本格的な乗り鉄の旅である。湯本駅から常磐線の普通列車に乗り、上野から山手線、東京駅からオレンジ色の中央線快速電車に乗る。電車がゴトリと動き出した時の興奮は今でも忘れられない思い出だ。新宿、三鷹、立川と夢のように過ぎ、終点の高尾で青と白に塗り分けられた小淵沢行きの普通列車に乗り換える。電車の色が変わっただけでなく、車窓もこれまでの都会の街並みから一気に山岳地帯になる。大月までの区間は深い谷の中を走る。東京から1時間少々でこんな山の中になってしまうことに一同驚いた。

 やがて左側に富士山が見えてきた。すらりとした山の形はやはり美しい。富士山が見えるとやはり車内がどよめく。笹子トンネルを抜けると甲府盆地を目指して坂を下り始める。勝沼あたりは一面の果樹園が広がっている。人はこんなに果物を食べるのだと改めて驚く。甲府は駅も町も立派だが真夏の太陽が照りつけ暑かった。中央線は山岳路線というイメージを持っていたから涼しいのだと思っていたが、予想を越える暑さにエアコンの効いた車内に避難する。

 甲府を過ぎると終点の小淵沢に向けて山を登る。左側には南アルプスの山々が見える。当時はGoogle mapなどなかったから、山の名前はわからなかったが、後で調べてみると、日本で2番目に高い北岳や甲斐駒ヶ岳でせうことがわかった。終点の小淵沢はそんなに大きな町ではないが、高原らしい清潔感のある町で好感が持てた。しかし次の電車はすぐで、急き立てられるように松本行きの電車に乗り継いだ。諏訪湖が見え、岡谷を過ぎると塩嶺トンネル、その後は塩尻である。名古屋に行くのならここで乗り換えだが、次の電車までは時間があるし、その電車のこの先の松本が始発なのでそのまま松本まで行くことにする。松本駅のそば屋で遅い昼食にするが、何の変哲もないそばがとにかく美味かった。初めての旅の興奮、美しい信州の風景、大好きな鉄道に乗っていること、いろいろな要素が加わっているのだろうがとにかく美味い蕎麦だった。

 松本から中津川行きの電車に乗る。塩尻を過ぎると木曽路に入る。奈良井、薮原、木曽福島、深い谷の底にある宿場町にある駅に丹念に停車しながら走っていく。さすがに疲れたのか母は気持ちよさそうに寝息を立てている。上松駅の少し先に寝覚の床という花崗岩の岩と木曽川の流れが美しい景勝地が見えるが母を起こすのはやめにした。それにしてもカーブが多い路線で、列車はその度に速度を落とす。もっともその方が景色が良く見えるから私にとってはその方が良かった。 

 岐阜県に入り、中津川で名古屋行きの電車に乗り換える。中津川からは平野も見られるようになり、街の規模もやや大きくなる。みんな疲れているのか、弟2人も、弟の友人も眠ってしまった。私も疲れてはいるが、眠くなるほどではなく、1人車窓を眺めている。あれだけエネルギッシュだった真夏の太陽も既に落ち掛け、西側の空をオレンジ色に染めている。駅ごとに自宅に帰る人たちが急ぎ足で降りていく。線路沿いの家には明かりが灯り始める。遠くへきたなと改めて実感する。そして少しだけ切ない感情も湧いてくる。

 焼き物で有名な多治見を過ぎると山の中の景色になる。古虎渓、定光寺とほとんど人家が見えないような駅にも降りていく人がいる。次の高蔵寺からは景色が一変して名古屋近郊の住宅地になる。夕焼けの中を疾走する電車は名古屋市に入ってすぐの新守山で特急に道を譲るために数分停車した。その間に夏の日は落ち真っ暗になった。次の大曽根からは街明かりが煌めくようになる。名古屋の市街地をほぼ半周して名古屋駅に到着した。

鉄道開業150周年企画③ 我が思い出の急行「ときわ」我孫子〜上野

 我孫子を発車すると次の停車駅は終点の上野、あと一息であるが、ここまで来ると急行「ときわ」は、これまでの快走を忘れてしまったかのようなノロノロ運転になる。その理由は、まだ朝の8時30分過ぎ、ラッシュの時間帯で、急行「ときわ」の行方を上野に向かう通勤電車が阻んであるからである。しかし、何も焦ることはない。この区間はわたしたちが走ってきた線路だけではなく、地下鉄千代田線に直通する各駅停車の電車が走る線路も走っている。こちらは我孫子から先、北柏、柏、南柏、北小金、新松戸ときめ細かく停車していく。しかし、急行「ときわ」がノロノロと走って行くから、駅と駅の間では各駅停車が追い上げて、各駅停車が駅に停まっている間に急行「ときわ」が先行するデッドヒートがしばらく続く。

 東武の打線の電車が見えると柏、ここからはほぼ市街地が途切れることがなくなる。ここから快速で上野までは30分近く、各駅停車霞ヶ関までは1時間 近くはかかるか、それでもホームにはびっしりと人が立っている。通勤ラッシュは今と比較にならないくらい混んでいた。こんなにしてまで通勤しなければならないとかと驚いた。

 北小金駅を過ぎたところで、右側に分かれて行く線路がある。武蔵野線南流山駅に続く線路で、貨物列車が走ろための線路である。鉄道には旅客を運ぶだけでなく、貨物を運ぶという重要な役割があることを、ここで改めて気づいた。車窓は私にとって教科書そのものだった。

 新松戸を過ぎると可愛らしい総武流山電鉄の電車が、松戸の手前では津田沼からの新京成電鉄に電車に出会う。さまざまな電車が行き交う首都圏に住みたいと心の底から思った。ついさっき柏駅の混雑を見たばかりなのに浅はかなことだと思うが、地方の鉄道少年に共通する夢なのかもしれない。

 松戸を過ぎると江戸川の鉄橋を渡り、東京都に入る。東京都に入るとずっとビルが立ち並んでいる光景を予想していた私には意外だが、金町や亀有の駅の周辺を除けばそんなに高い建物はない。それでも田んぼも空き地もない光景を見るとやはり東京は違うなと思う。東武伊勢崎線の並走するようになると、いよいよ急行「ときわ」の旅もクライマックスになる。当時の東武伊勢崎線はセージクリーム一色に塗られた電車が走っていた。今考えるとそれはそれでおしゃれな塗装だと思ったが、当時の私には物足りなく見えた。小菅の拘置所が左に見えると、常磐線は、地下鉄千代田線、東武伊勢崎線と並んで荒川の鉄橋を渡る。地方にはないダイナミックな姿だ。大きな北千住駅を通過する。今度は地下鉄日比谷線の電車が並行し京成本線が上を跨ぐ。南千住の駅の先で地下鉄日比谷線は地下に潜る、慌ただしいけれど楽しい時間が続く。

 日暮里駅の手前で、山手線、京浜東北線、東北本線、京成本線の線路が現れる。おそらくこの辺りが日本で最も線路が密集している地域だろう。黄緑の山手線、スカイブルーの京浜東北線。オレンジと緑色の東北本線、ファイヤーレッドの京成本線、素晴らしい光景が広がっていた。しかし間も無く上野駅に着く車内の乗客は荷物をまとめて降りる支度をしている。私も親に急かされながら降りる支度をする。上野駅まではあとわずかだ。

鉄道開業150周年企画② 我が思い出の急行「ときわ」水戸〜我孫子

 水戸駅は賑やかな駅だ。湯本からさほど大きな駅はなかったから、水戸駅の大きさと人の多さには驚いた。急行「ときわ」はここでほとんど席が埋まる。水戸駅を発車すると電気機関車や水郡線を走るディーゼル機関車が止まっている車両基地が見える。車両基地を過ぎるとまもなく右には日本三名園の偕楽園、左には水をたたえた千波湖、車窓から目を離すいとまもないほど楽しい車窓が続く。赤塚を過ぎると農村風景になる。あれだけ都会だった水戸駅周辺からの変化の大きさに驚く。

 友部で笠間や小山に至る水戸線が分かれると林や畑の混じった緩い丘陵地帯になる。関東平野と言っても必ずしも平坦であるばかりではなく、緩い丘陵地帯も結構あることを私は小学校低学年で知った。急行「ときわ」の車窓は教科書よりももっと早い時期に私に日本地理への関心を高めてくれた。石岡が近づくと筑波山が見えてくる。さほど高い山ではないが、周囲が平野か丘陵地帯なのでとても良く目立つ山である。何かと得をする場所に立っている山である。

 土浦が近づくと蓮根畑が増えてくる。今でこそ土浦周辺の宅地化が進んでいるが、私の子供時代はちょうど宅地化が進み始めた頃で、蓮根畑の多い場所という認識だった。それが1985年前後のつくば万博の頃から宅地化が急激に進んだ。土浦駅を発車する頃には急行「ときわ」は通路までいっぱいになった。流石に鉄道好きな私でも混雑はあまり好きではない。しかし、終点の上野まではあと1時間、車窓を眺めながら乗っていればさほどそんなに問題ではなかった。

 牛久、佐貫(現在の竜ヶ崎市)と駅周辺に住宅が建ち並んだ駅を通過する。水戸以北なら急行の停車駅になりそうだが、ここまで来れば普通列車でもさほどかからない、急行「ときわ」は軽やかに通過していく。湯本から上野までの行程で最もスピードが出るのはこの辺りだろう。平坦で比較的直線が長い。牛久駅と佐貫駅の間で国道66号と並走するが、もはや国道は渋滞が多く全く勝負にならない。こちらは全速力で駆け抜ける歓びを味わっていた。

 藤代を過ぎて田んぼの中にカップヌードルの工場が見えると急行「ときわ」はスピードを落とす。車内の照明を短時間消える。これは取手以北の交流電源と取手以南の直流電源を切り替えるためで、今なお続く常磐線に乗ると必ず避けて通れない関門のようなものだ。ただし最近は速度は落ちるものの車内の照明は消えなくなった。関東鉄道常総線とエメラルドグリーンの常磐線快速電車の快速電車が見えると取手駅である。子供の頃の私にとって、首都圏はどこからかと聞かれれば、取手駅からと答えた。エメラルドグリーンの快速電車は首都圏である象徴の一つだった。

 利根川を長い鉄橋で渡ると、天王台駅、そこからすぐに我孫子駅に着く。我孫子は上野の前最後の停車駅になる。現在は柏駅の重要性が増しているが、当時は我孫子駅の方が重要性が高かったようだ。そういえば時代が違うが山下清は働いていた駅弁屋はこの駅で営業していた弥生軒である。現在、弥生軒は駅弁の販売はしていないが、蕎麦屋の営業をしていて、唐揚げ蕎麦が名物になっている。

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