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2022年10月の4件の記事

鉄道開業150周年企画⑧ 1992年夏 津軽海峡を越えて

 青森からはいよいよ津軽海峡線に乗り換える。津軽海峡線の快速「海峡」は、赤い電気機関車が先頭に立った長い編成で、乗客も多かった。私は窓際の席を確保することができた。軽い衝撃と共に発車すると、間もなく陸奥湾に沿って走り出す。しばらく走ると、蟹田という少し大きな町にある駅に停まる。この町は、太宰治の「津軽」で、風の町と言われたところである。向かいに下北半島が見える。下北半島の脇野沢までのフェリーもある。蟹田の次の中小国からは新しい線路に入る。ここまでは津軽線といい、青森から蟹田を経て、竜飛崎近くの三厩までを結ぶローカル戦であったが、青函トンネルの開通と共に北海道連絡の役割を担うようになった。

 真新しい線路を走る快速「海峡」は速度を上げ、いくつかトンネルを通過する。そしていよいよ、全長53.9km当時世界最長の青函トンネルに入る。とはいえ、格別の景色があるわけではない。ただし、トンネルの途中に駅がある。竜飛海底駅と吉岡海底駅で、トンネルの設備などの見学ができる。トンネルの上には津軽海峡があることが不思議だし、すごいことだと思う。果てしなく続くと思われた青函トンネルは唐突に終わり、北海道に出た。こと唐突さが面白い。本州から北海道に渡り、地形や植生に私に気づくほどの違いはなかったが、家の作りは変わった。北海道の家は寒さに対して相当重装備であるし、大きな灯油タンクを持つ家が多い。なるほど、これが北海道かと思う。20歳と4ヶ月、北海道初上陸である。

 木古内駅から江差線の線路に入るとカーブが多くなり、速度もやや落ちる。右側の車窓には津軽海峡が見えてくる。大瀬なセメント工場が見えると上磯駅に着く。ここから家が増え、間もなく函館駅に着く。函館駅も青函連絡船時代の名残で、海に突っ込み用な場所にあった。この日は函館に泊まり、夜はバスで函館山に登った。

 2日目は昼過ぎまで函館の街を見て歩いた。路面電車に乗って五稜郭や石川啄木が「我なきぬれて蟹とたわむる」に立待岬のほか、市内の古い建物を巡り歩いた。午後の普通列車で大沼公園まで移動し、大沼公園駅近くのユースホステルに泊まった。ほとんどの宿泊客が私と同じ学生で、大阪から来た1人旅の学生と仲良くなり、一緒に夕食を食べた。夕食後もロビーで語り続けた。

 3日目は、彼は昼ごろまで大沼公園にいるそうだが、私は小樽に向かうので朝食後、お互いの旅の無事を祈る言葉を伝えると、少し時間があるから、レンタサイクルを借りて、大沼を一緒に回らないかと言われた。時間はあまりなかったが、一緒に大沼を回り、景色を堪能し、大沼公園駅に戻ると、もう私の乗る列車が大沼公園駅に差し掛かっていた.私は彼に自転車を託し、ゆっくり別れの言葉を使えることもなく慌ただしく列車に乗り込んだ。ディーゼルカーは遠因を唸らせながら形の良い駒ヶ岳の麓を走り、森、八雲と噴火湾のそばの小さな町を走る。長万部で小樽行きの函館本線の列車に乗り換える。駅弁とお茶を買い、函館本線に乗り換える。

 函館本線という由緒ある名前であるが、ここから小樽までの区間は既にローカル線と化していた。ここから先もディーゼルカーで、乗客はあまり多くない。倶知安を過ぎるとすらりとした羊蹄山が見えてくる。山あり、集落あり、畑あり、きれいな川もありで役者が揃っている。小樽に夕方少し前に着くと、運河の辺りを少し歩いてユースホステルに泊まる。ここでも1人旅の仲間を見つけて夕食を楽しんだ。

 4日目は北海道の鉄道発祥の地である手宮に行った。ここには古い車両が展示されていてそれを見た。小樽の町は少し寂しかった。かつては小樽は重要な町で、北海道最初の鉄道は、小樽の港近くの手宮から札幌を経て、三笠市の幌内までだった。最大の目的は石狩炭田の石炭を小樽港まで運ぶことだった。ロシアや朝鮮半島にも近く、かつての小樽は賑やかだったと聞く。しかし、太平洋戦争後、北海道の経済は札幌への一極集中と、ソ連や北朝鮮との関係が途絶えたことで小樽の重要性が低下した。当時学生だった私にも街並みを見ることでそのことは理解できた、l

 小樽駅に戻り、札幌行きの電車に乗る。編成も長く乗客も多い。小樽と札幌の間は山が海ギリギリまで迫っていて、電車は石狩湾を見ながら走る。やがて札幌の町並みが見えてきた。夢にまで見た札幌の町だ。興奮を抑えながら札幌駅のプラットホームに降り立つ。4日目の午後、仙台を出て80時間と少しをかけて到着した。

 その後、2日ほど札幌に滞在し、さっぽろから夜行列車で青森に戻り、可愛らしいディーゼルカーが走る南部縦貫鉄道や十和田観光鉄道などに寄り道をしながら仙台に戻った。あの旅から30年が過ぎたが、今でも懐かしい旅であった。

伝説のバイプレイヤー

 和製英語だが、バイプレイヤーという言葉がある。日本語で言うと脇役になるが、単なるちょい役ではなく、とはいって主役の邪魔をする訳でもない。もちろん敵役でもない。しかし、その人がいることで組織がより活性化したり、より良い作品になる。そう言う存在の人は組織や作品にとって非常に大切な人ということになる。

 1980年年代の子どもたちにとって、土曜日の20時はTBSテレビの「8時だヨ、全員集合!」の時間だった。志村けん、加藤茶、いかりや長介、高木ブー、そして仲本工事のドリフターズの5人とゲストたちのコントが主な内容だった。PTAなどからしばしば有害番組と呼ばれながらも、多くの子どもたちに楽しい時間を届け続け、驚異的な視聴率を記録した番組である。この番組で最も強い光を放っていたのが志村けん、彼はストイックすぎるほどストイックに人を笑わせることに取り組んだ努力の人、ついで加藤茶、彼は間の取り方などが天才的だと言われていた。時に志村を凌駕する人気を博すこともあった。そして、いかりや長介、彼らのリーダーとして、時に番組の進行を、そしてコントの内容などを中心的に作り上げた人。高木ブーはいかりや長介の言葉を借りれば明日地球が滅びようとも変わらない強烈な個性を持った人。存在するだけで面白い人であった。そして最後の仲本工事、体操など彼独自のすごさは子供の私にもわかったが、どちらかというと、志村や加藤の脇役的な存在と理解していた。

 大人になって、改めて彼らのコントを見ると、仲本工事の凄さに気づいた。普段は志村や加藤の立場から一歩下がった立場にいるが、彼らのコントを面白くしているのは仲本工事の功績が大きいのだ。ドリフターズのコントは基本的には言葉ではなくアクション。体操が得意な仲本はまさにそのアクションが素晴らしい。ドリフターズのコントに幅を広げたのは彼の功績だと言うべきだろう。その功績は誰に劣ることもない、伝説のバイプレイヤーというべきだろう。

 思わぬ形でこの世を去ることになった仲本工事さん、心よりご冥福をお祈りします。

鉄道開業150年記念企画⑦ 1992年夏、北へ

 1992年8月、アルバイトで貯めたお金と道南ワイド周遊券(かつて販売されていた特定地域が乗り放題になり、そこまでの往復が割引になるきっぷ)を手に仙台駅にいた。これから普通列車を乗り継いで北海道に向かう。これが私の本格的な一人旅デビュー、胸が高鳴っていた。仙台から一ノ関行きの普通列車に乗る。塩釜を過ぎると右側に小さな島々が見える。日本三景の松島である。松島を過ぎると日本有数の米どころである仙台平野が広がっている。広々とした平野を気持ちよさそうに電車は快走する。小牛田は鳴子に向かう陸羽東線、石巻に向かう石巻線が分岐する。しばらく仙台平野を走り、少し山が迫ると一ノ関に着く。

 ここまでは電車であったが、ここからは同じ普通列車でも客車になる。電車は車両の床下にモーターを積み、その動力で走る車両である。一方客車は車両自体はモーターやエンジンなど動力を発生させる装置を持っておらず、機関車に牽引されて走る。150年前の鉄道開業の時には電車は存在せず、すべての旅客列車が客車であった。その後、加減速に優れ、終点で機関車の付け替えの必要がない電車に置き換わっていくが、この当時の東北本線一ノ関以北はまだまだ客車の天下だった。

 盛岡行きの列車は赤い電気機関車を先頭にレッドトレインと呼ばれていた赤い客車を連ねた列車に乗り込む。ピーと機関車のホイッスルが聞こえ、ガクンと軽い衝撃があって一ノ関駅を発車する。ワンテンポ遅れて加速が始まる。客車の乗り心地だ。走り出せば結構な速度で走る。冷房のない車両だから窓を開け風の心地よい癇癪を楽しむ。岩手県の風景はよく、北上川も見える。減速は流石に電車に比べると鈍い。停車すると乗客の声以外何の音もしない。これが客車の乗り心地である。

 水沢の少し先に六原という駅がある。この駅に着くと少し離れた席から「六波羅探題」という声が聞こえて来る。駅の名前を使った駄洒落は、鉄道好きあるあるに入れていいと思う。北上、花巻を過ぎて盛岡が近づいてくる。左側に形の良い岩手山が近づいてくる。仙台以来久しぶりの大きな町になるのが盛岡である。しかし、私は青森行きの普通列車に乗り換え先を急ぐ。

 盛岡から先も客車の普通列車である。同じボックスに乗り合わせたのは、60代くらいの退職した校長先生か博物館長という感じのおじさんで、私が大きな荷物を持っているのに気づき、旅行者だと気づいたらしい。おじさんもかつて周遊券で旅をしたそうで、車窓から見える景色をいろいろ教えてくれた。初めて知ることも多くとても勉強になった。

 おじさんが降りていくと、徐々に山が迫り、勾配がきつくなっていく。昼も過ぎ疲れてきたので少しだけ眠る。目が覚めると金田一駅、長かった岩手県もここで終わり、次の目時からは青森県に入る。今度は徐々に降り始め、八戸に着く。このまま普通列車に乗り通しても函館に着くが、明るいうちの函館に着きたいと思っていたので、ここから青森までは特急「はつかり」に乗る。

 東北の名門特急であった「はつかりも、この時点では盛岡と青森、函館を結ぶ新幹線に接続することが使命の列車になっていた。それでもさすがに特急だけあってスピードは速い。三沢で十和田観光電鉄の電車が見えたと思うと野辺地、丸っこくてかわいいレールバスと呼ばれる小型の車両が見えた。野辺地を過ぎると陸奥湾が見える。同じ東北でもいわきや仙台と比べると海の色が重い。寒い海なのだと実感する。夏泊半島の付け根を突っ切ると浅虫、海沿いに温泉旅館が見える。青森の市街地を時計回りに半周すると青森駅、かつては青函連絡船が出ていたから、海に突っ込むような形で駅が設置されている。私は青森駅のホームに降り立つと深呼吸をした。潮の香りがした。

鉄道開業150周年企画⑥ 1992年の仙山線

 1992年4月、私は仙台市にある大学に入学した。アパートは仙山線の線路沿いにある2階建てのものだった。さほど特徴があるアパートではなかったが、私には非常に気に入っていた点があった。それは、アパートの裏の崖の下に仙山線の線路があったことである。列車の走行音は、鉄道が好きではない人にとっては騒音なのかもしれないが、好きな者にとっては至高の音であった。

 仙山線は仙台駅と山形駅を結ぶ鉄道路線である。仙台市と山形市は県庁所在地同士ではあるが、双方の市街地同士は50kmほどしか離れておらず、買い物や通勤、通学など日常的なつながりは深い。それに加えて、仙台市の人口増加で、仙山線沿線の人口も増加し、1984年から1991年にかけて、仙台市内の仙山線に、東照宮、北山、国見、葛岡の4駅が新設された。

 私がここに住み始めた時期は、2つの理由で仙山線が最も忙しい時期になった。1つ目の理由は、先述した仙台市の人口増加による需要の増加で、新駅の開設や列車の増加が行われていた。とくに仙台市街地の北西部にあたる国見駅、陸前落合駅、愛子(あやし)駅周辺の市街化は急速で、それまでのんびりとしたローカル線だった仙山線は、仙台〜愛子間を中心に列車の増発が行われ、急速に都市型の路線の変貌した。もうひとつは、山形新幹線の開業である。従来、秋田や横手、新庄、山形、米沢の人が東京に行くには、特急「つばさ」か奥羽本線普通列車に乗り、福島で東北新幹線に乗ることが一般的であったが、山形新幹線の工事が本格化した1991年8月からは、奥羽本線福島〜山形間を運休してバス代行した。このため、特急「つばさ」は、山形から仙山線に入り、仙台駅で東北新幹線に接続するようになった。これに加えて、仙台駅と山形駅を結ぶ快速列車も多数運転され、仙山線の線路はお祭り騒ぎのような状態になった。

 1992年7月、山形新幹線が開業し、特急「つばさ」は、山形新幹線の列車名になり、仙山線からは消えていったが。それでも仙山線は寂しくなるどころか、活気があった。仙台都市圏の普通列車はますます活況を帯びていたし、夜には夜行の急行「津軽」が仙山線の線路を走った。急行「津軽」は、上野から、宇都宮、福島、仙台を経て、仙台から仙山線に入り、山形、新庄、横手、秋田、大館、弘前を経て青森を結ぶ長距離列車で、非常に歴史の長い列車である。青森行きの下り列車は午前4時過ぎにアパート裏の仙山線を通っていたから見る機会はなかったが、上野行きの上り列車は夜ふかしした日は姿を見たことがあるし、目が覚めた時に走行音を聞くこともあった。そういう時には無性に旅に出たくなった。だって、すぐ裏は線路で、線路の先にはまだ見ぬ町が待っている。

 朝も列車の走行音で目を覚ました。5時40分過ぎの仙台行きの始発列車では目を覚まさないが、3本目の6時20分過ぎの山形行きで目を覚ます。そんな生活が4年間続いた。鉄道は時間に正確だからできることだろうと思う。

 4年間の学生生活を終え、仙台市を離れる時にも同じように列車は走っていた。卒業後何回か当時住んでいたアパートに行ってみた。アパートはすっかりきれいになっていたが、仙山線の列車は同じように走っていた。

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