磐城平城を歩く 2
本丸跡を出て、狭い道路を西へ進む現在は閑静な住宅地になっている。ここで、磐城平城の立地条件を改めて確認してみる。磐城平城の北と東には夏井川と好間川が流れ、橋さえ壊してしまえば防御に有利な地形になっている。南には平地が広がり、ここに城下町があり、現在のいわき市の中心市街地があった。その南には新川が流れ、やはりここも防御の拠点だったと思われる。西は磐城平城から続く丘陵地帯で、飯野八幡宮のほか寺社が多く、さらに西には戦国時代に岩城氏の居城であった大館城がある。磐城平城と大館城を比べると、防御の面でも、城下町の発展という点でも磐城平城が断然有利で、1600年に石城氏の当主岩城貞隆は関ヶ原の合戦への不参加を理由に所領を没収され、代わりに鳥居忠政がいわき地区の大名になったが、岩城氏時代の大館城を改修して使うという手もあったが、長期的な発展を考え磐城平城を築いたのだろうと考える。今の磐城平城周辺に城下町の面影は少ないが、それでも大工町や紺屋町などの地名が残り、ここが城下町であったことを伝えている。
国道399号の切り通しが見えると磐城平城は終わりである。かつて国道は堀であった。その向こうには飯野八幡宮がある。磐城平城は北と東と南に川がありそこで防御ができるが、西には小高い丘陵があるだけだが、寺社があればそう簡単には攻めてこれない。東大寺の大仏を焼き払った松永久秀のような例外はいるが。これはうまい配置だと思う。ここから引き返し、再び城跡を歩く。しばらく歩くと磐城桜ヶ丘高校の校舎が見える。高校の敷地に沿って進み、校庭が途切れるところまでがかつての磐城平城である。そこを過ぎるとすぐに寺が見える。この寺が長源寺といい、鳥居忠政が父である鳥居元忠をはじめ、鳥居家の菩提寺として建てた寺である。お寺の中に入ると、いくつかいくつか古い墓石があったが、どれが鳥居元忠の墓か特定することはできなかった。そして思いがけずに恩師の墓も見つけてしまった。心配ばかりかけた不肖の生徒ですが、今こうして頑張っていますと報告をした。
寒いけれど太陽の光は強い日だった。鳥居元忠の墓は見つけることはできなかったが、満足した。さあ、歴史散歩はこのくらいにしてまた令和の世に戻ろう。
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