五浦の海岸から平和を祈る
茨城県北茨城市の五浦海岸は大小の入江、多くの岩がある磯、そして白っぽい岩が連なる断崖が連なり、海の庭園というべき美しいところである。近くにはアンコウをはじめとする魚が美味い平潟という漁場があり、今でも多くの観光客が訪れる。そればかりではなく、明治時代の終わりには、ここ五浦海岸に岡倉天心や横山大観によって日本美術院が置かれ、一時期日本の美術の中心地となったところでもある。
この美しい海岸がかつて戦争の舞台になった。1941年12月、真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、はじめこそ日本側有利に進んだが、工業力も経済力も技術力も格段に当時の日本を上回るアメリカやイギリスに押され線局は徐々に悪化していく。そして満州事変から10年以上続く戦争は、経済的にも人的にも疲弊させた。やがて日本は特攻兵器などの非人道的な戦い方をするも戦局は好転しなかった。そのような中考えだされたのは、風船爆弾である。日本をはじめとする中緯度地域の上空には西から東へとジェット気流という強い風が吹いている。このジェット気流に乗る風船を上げれば、アメリカまで到達することが可能だし、この時期は日本は太平洋の制空権を失い、航空機もパイロットも足りていない状況でも気球に吊り下げた爆弾をアメリカまで送ることは可能になると考えた。もちろん、当時の軍部の指導者もこれで大きな戦果を上げることができるとは考えていなかっただろうが、突然戦線からずっと後方のアメリカ本土に日本の爆弾が落ちたとなればこれは恐怖を与えることができると考えていたのだろう。しかも、都合の良いことに、爆弾はともかくとして、気球の主な原料は和紙とこんにゃく糊、他の戦略物質と競合しないのも、経済的に疲弊して、戦略物資の欠乏に疲弊していた青息吐息の日本にとっては好都合だったのだろう。
風船爆弾の放球は、1944年11月から、1945年3月までの間行われた。ここ、茨城県五浦のほか、千葉県の一宮、福島県の勿来からも放球が行われた。これらの場所が選ばれたのは、アメリカに比較的近い場所で、都合が良かったのと、比較的人口の多い地域で、風船爆弾の製造や放球をするための労働力を確保しやすかったこと、そしてこんにゃくの産地である関東北部に近い場所であることが理由として考えられる。実際に風船爆弾の一部はアメリカまで届き、アメリカのオレゴン州では、不発弾の風船爆弾に触れた民間人が亡くなるという痛ましい事件にもなっている。
五浦海岸の平潟寄りの場所に、忘れじの平和の碑という石碑がある。戦争という人がする中でもこれ以上ない愚かな行為がなくなることを心より願って手を合わせた。
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