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カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の654件の記事

高校野球は変われるか

 現在、甲子園球場では夏の高校野球が行われている。ちょうど今日は福島県代表の聖光学院が宮城県代表の仙台育英と対戦するので今から楽しみにしている。高校野球を楽しみにしているのは私だけではなく、結構多いと思う。NHK放送文化事業団が調査した結果によると、観戦することが好きなスポーツの1位はプロ野球であるが、その次が高校野球、以下、フィギュアスケート、マラソン、駅伝、サッカー、バレーボール、相撲と続く。このことからも国民的なスポーツイベントと言っても良いだろう。

 夏のお盆前後の時期に行われる高校野球は、家にいることが多いお盆前後の時期に行われるので、テレビでの観戦する人も多く、都道府県代表が出場するということで、野球自体にはさほど関心がなくても地元の代表を応援するために感染する人も多いと思う。すでに100年以上の歴史を数え、風物詩としても認識されている。

 この高校野球、今、大きく変わらなくてはならないと思っている。それは昨今の暑さ対策である。近年、試合中に選手や審判が体調を崩すことが多くなってきた。多くが熱中症によるもので、原因は猛暑。甲子園球場からさほど遠くない神戸市の2020年8月の平均気温は30℃、概ね気温は上昇傾向で、この100年で4℃程度上昇した。もちろん、高等学校野球連盟も手をこまねいているわけではなく、試合の間に休養日を設けたり、積極的に給水を促すなどの対策はしているが、それも焼け石に水の感はある。

 最も効果的なのは、会場を涼しい場所に移してしまうことだろう。涼しい場所といえば、北海道だ。特に道東の釧路や根室は涼しい。釧路の2020年8月の平均気温は19.5℃、根室の2020年8月の平均気温は18.6℃、これなら思いっきり野球をやっても全く問題はなさそうである。しかし、北海道を会場にすると、西日本の高校にとっては旅費の負担が重い課題になる。現地の受け入れ態勢にしても北海道の短い夏は観光シーズンのピークでもあり、ホテルなどにも余裕はないであろう。他に涼しいところといえば、青森県から宮城県の三陸沿岸があるが、ここも抱えている事情は大差がない。

 ラグビーの聖地は花園、サッカーの聖地は国立競技場、大学野球の聖地は神宮球場になっているように、高校野球の聖地は甲子園球場になっている。選手たちは甲子園でプレーをすることを目標に練習に励んでいることを考えると、他地区への移転はそんなに簡単なことではないと思う。最も有効なのは、甲子園をドーム球場にして、どんなに暑くても安全にプレーできるようにすることだが、これには相当なお金がかかる。また、気温がピークになる時間を避けて、午前中の涼しい時間と夕方から試合を行う案もあるが、近年の暑さは朝から相当なもので、やらな合いよりはやった方がいいと思うが、これも決定打とは行かなそうだ。

 高校野球のやり方を変えるにあたって、最大の障害になっているのが「伝統」という言葉である。長年猛暑の時期に甲子園球場でやってきたという伝統がこの問題の解決を難しくしている。会場を変えるにも、やり方を変えるにも、相当な批判がありそうだと思われる。「俺たちの夏の楽しみを奪うのか」、「昔の選手も暑い中耐えてきた、最近の選手はだらしない」、「暑さという困難の中でのプレーは感動的である」などの反対意見が聞こえて来ることが予想される。しかし、熱中症は時に命に関わる問題である。近年の状態を見ると、近い将来、大きな事故の発生もないとはいえない。

 ここまで言ったら言い過ぎになるのかもしれないが、高校野球を変えることは、全ての面において古いやり方が残る日本の社会を変える大きなきっかけになるのかもしれない。伝統や過去のしがらみにとらわれない議論が必要な時期になっているのだと思う。

太平洋戦争はアジア解放のための戦いか?

 「太平洋戦争は白人が植民地支配していたアジアを解放するための戦争だった」このような言葉は昔から一部の人たちによって使われていた。果たしてそうなのだろうか?

 太平洋戦争の初期、日本はフィリピンやマレーシア、インドネシアに侵攻し、現地を統治していたアメリカやイギリス、オランダの勢力を追い出した。インドネシアでは、独立運動の指導者であるスカルノを解放するなど、大胆な策に出た。しかしそれはあくまでも日本のために過ぎなかった。

 太平洋戦争当時、フィリピンに住んでいた女性はこのように書き残していた。「アジア人のためのアジアが戦争のスローガンだ。しかし、なぜ日本人がアジア人の盟主でなければならないのだろう」。この女性が感じた疑問は100%正しいのだと思う。 

 戦争を始める時には古今東西、どこだってもっともらしいスローガンを掲げて戦いを始める。「侵略するぞ、略奪するぞ」と言って戦争を始めた国など聞いたことはない。終戦の日に改めて言いたい。太平洋戦争は侵略戦争であった。その過ちを認める勇気を私たちは持たなければならない。

エアコンのある毎日

 私がエアコン付きの家に初めて住むようになったのは、23歳、大学を卒業して社会人になった時であった。高校卒業まで住んでいた実家はにはエアコンはなかったし、学生時代に住んでいたアパートにももちろんエアコンは付いていなかった。実家の所在地はいわき市、学生時代に住んでいたのは仙台市青葉区。どちらもさほど暑い場所ではないが、それでも猛暑が数日続く時があり、それはそれできつかった。実家に住んでいた時にはとにかく扇風機が頼りで、扇風機の出力を最強にしてやり過ごした。学生時代に住んだアパートは風が抜けにくい作りであったから、どうしても暑くて我慢できない時には、近所にあるゲームセンターに避難した。ゲーム機が数台あるだけの小さなゲームセンターではあったが、エアコンがよく効いていて、寒いくらいだった。ゲームはほとんどせず、文庫本などを持ち込んで読んでいる迷惑極まりない客であったが、店員さんが常駐している店でもなかったので、それをいいことにずいぶん長居をした。

 社会人になってはじめてエアコン付きのアパートに住んで、仕事を終えエアコンの効いた部屋で冷たいビールを開けた時の「贅沢だな」と思った爽快感は忘れられない。あれか25年以上が経ち、エアコンがある生活が当たり前になってきた。学生時代、ゲームセンターで涼んだ時の爽快感や、社会人1年生の時の感動を忘れてしまう時もあるけれど、今こうしてエアコンの効いた部屋で過ごせることはやっぱりありがたいことだし、頑張った自分へのご褒美なのかなと思っている。どうか皆さん、今年は猛暑です。エアコンのある方は必要に応じてエアコンを使ってください。エアコンがない方はエアコンのある場所へ移動してください。みんなでこの夏を無事に乗り切りましょう。

沖縄、復帰から50年目に

日本の多くの地域では、旧石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代と歴史が進んできましたが、沖縄では旧石器時代→ 貝塚時代→グスク時代と歴史が進んできたことをご存知でしょうか?

15世紀から1879年まで、沖縄は琉球王国という国であったことをご存知でしょうか?

太平洋戦争末期には沖縄では過酷な地上戦が行われたことをご存知でしょうか?この戦い(沖縄戦)では、米国側に2万人、日本側には軍人と市民を含めて15万人以上の多大な犠牲を出した。中学校や女学校の生徒も戦争に参加させられた。鉄血勤皇隊やひめゆり学徒隊に参加した生徒に多大な犠牲者が出た。

太平洋戦争終結後、沖縄県は日本から切り離されたことをご存知でしょうか?琉球政府が設置されたが、実質的にはアメリカの統治下に置かれた。通貨は初めは「B円」と呼ばれる日本円とは違う通貨が用いられたが、後にアメリカドルが使われた。そのため、沖縄に行くのにパスポートが必要であった。

1978年7月29日まで、沖縄では人は左、車は右側通行だったことをご存知でしょうか?アメリカ統治下で、様々な制度がアメリカに合わされており、交通についてもアメリカのルールが適用されていました。1972年5月15日、沖縄県は日本に復帰しましたが、交通に関するルールはその後6年以上日本の他の地域と異なっていました。

そして今でも沖縄県には185㎢におよぶ米軍基地があり、決して広いとはいえない沖縄県に全国の米軍基地の7割が集まっています。

沖縄は非常に魅力ある地域です。観光地として多くの人が訪れています。美しい海岸、独特の文化などが多くの人を魅了しています。沖縄が日本に復帰して50年を迎えます。この機会に沖縄の歴史、沖縄の現状、少しでも関心を持ってほしいと思います。

結婚記念日に

私たち夫婦の結婚記念日は5月4日です。先日4回目の結婚記念日を迎えました。この日を選んだのには理由があります。5月4日はみどりの日で祝日で必ず休みであること、仮に祝日法が改正になって、みどりの日がなくなったり他の日に移動しても、5月3日の憲法記念日と5月5日の子供の日に挟まれているから自動的に国民の休日になるため、夫婦でゆっくり過ごせるからです。

今年の結婚記念日はしないの寿司店で美味しい寿司をいただきました。他の夫婦よりも遅く結婚した分、一緒にいれる期間は短いかもしれませんが、美味しいものを食べ、美味しいお酒に良い、綺麗な景色を見て、美しい花を眺め、そして、たまには喧嘩をして、後悔なく一緒に生きたいと思います。

驚くべき光景

 先日、クルマに乗っていたら、驚くべき光景を目撃した。赤信号で停車している車のドライバーが、飲み終わった飲み物のペットボトルを道路脇の草むらに放り投げていた。私は思わず呆気に取られていたが、最近道路周辺のゴミが増えていることは気になっていた。30年くらい前は今よりもゴミ捨てのマナーは悪かったが、最近はずいぶん良くなったと思っていた。しかし、ここ数年はまた道路周辺のゴミがまた増えてきたという印象を持っている。とくにここ2年ほどは新型コロナウイルスの流行で地域や学校の清掃活動が行われなくなってきていることも影響しているのかもしれない。ネット上などで子どもや若い人の行動を批判する人は多いが、それは大人の振る舞いの影響も大きいと思う。私たちひとりひとりが子どもや若者に恥じない行動をしなければならないと思う。

トキワ荘、フォーエバー

 1952年、東京都豊島区南長崎に1軒の木造アパートが建築された。当時の東京によくある、2階建てで、4畳半トイレとキッチンは共用であった。そんなよくあるアパートは名前を知られることなく、1970年代か1990年代に建て替えられ、住んでいた人の思い出の中だけに残る存在であっただろう。しかし、1人の神様がこのアパートに住んだことでこのアパートの名は後に全国に知られるようになった。

 その神様とは、漫画の神様、手塚治虫。手塚は当時連載していた「漫画少年」という雑誌の編集者の紹介でトキワ荘に入居した。その後、「漫画少年」に連載を持っていた若手漫画家が次々と入居して、共同生活の場であり、切磋琢磨し合う場所になっていった。

 ここに住んだ漫画家は、前述の手塚治虫(「火の鳥」、「鉄腕アトム」、「ジャングル大帝」)のほか、石ノ森章太郎(「仮面ライダー」、「サイボーグ009」)、赤塚不二夫(「天才バカボン」、「おそ松くん」)、漫画家としての活躍は短かったが、寺田ヒロオ、森安なおや、ラーメン大好き小池さんのモデルとなった鈴木伸一などがいた。そして、オバケのQ太郎を合作し、「ドラえもん」、「パーマン」で知られる藤子・F・不二雄、「忍者ハットリくん」、「怪物くん」が代表作である藤子不二雄Aがいた。

 トキワ荘に住んで漫画に人生をかけた漫画家は多くがこの世を去った。そして先日、藤子不二雄Aがこの世を去った。「忍者ハットリくん」も、「怪物くん」も大好きな作品だったから寂しさはある。しかし、トキワ荘に住んだ漫画家の作品はこれからもずっと読み継がれていくと思う。本当にありがとうございました。

50歳になって

 昨日50歳になりました。気がつけばあっという間でした。10代、20代はともかく、30代の頃はまだ最近だと思っていたら、あっという間に50歳になってきました。月日の流れというものは思っていたよりも早いのかもしれません。

 50歳になっての抱負ですが、そろそろ未来に何を残せるかを考えていかなければならない時期になっているのかと思います。好むと好まざるとに関わらず、人はいずれ死ぬ。そうなっても、世の中は続いていく。私はそんなに大したことができる人間だとは思っていないが、それでも何かを残しておきたいと思っている。その何かを考える年にしたいと思っている。

 そして、新型コロナウイルス感染症が治ったら、行ってみたいこと、会ってみたい人がたくさんある。もう少しかかるかもしれないが、そんな日を待ち遠しく思っている。

 最後に、私は、家族に、友人に、同僚に恵まれて幸せ者です。本当に感謝しています、そしてこれからもよろしくお願いします。

歴史を学ぶ意味

 高校生に苦手な教科のアンケートをとると、日本史や世界史が結構上位に来ることが多い。理由としては、「覚えることが多い」、「難しい漢字や読みにくい外国語の人物名や地名が出てくる」、「何のためにやるのかわからない」と言った理由が考えられる。確かに歴史は覚えないと理解できないことも多いし、入試や定期考査で点数をつけて序列化することが目的だからどうしても無味乾燥になってしまいがちだ。

 しかし、それで歴史嫌いが増えてしまうのはいかにももったいない話だし、大きな損出だと思う。歴史を知ることは今を知ることができるし、場合によっては未来を知ることができるとても面白い学問だと私は思っている。

 歴史は過去のことを扱っているのにどうして今や未来を知ることができるのか不思議に思う人がいるだろう。私が考えるには、過去も未来も、歴史は人間が作り、人間が行ってきたことの結果だからだと思っている。

 人間は700万年の歴史の中で大変素晴らしいものを作り上げてきた。人間が言葉を身につけることで、コミュニケーションが生まれ、音楽が生まれた。文字を発明することで、文学が生まれた。二足歩行をすることによって少ないエネルギーで長距離を移動できるようになり、地球上のほとんどの地域で生活するようになり、多様な生活様式が生まれた。手を自由に使えるようになり、石器にはじまり、土器、金属製品、そして現在様々な物を人間は生み出した。しかし、人間は様々な失敗をしてきたし今現在も失敗をし続けている。失敗の例は、犯罪、虐殺、差別、貧困、公害そして戦争だと思う。

 歴史を学ぶことは人間の営みの素晴らしさと時に愚かな失敗をしてしまうことを学び、私たちがどのように考え生きればいいかを示してくれる物だと考える。別に分厚い難しい本を読むだけでなく、今は漫画もあれば、映画、テレビ番組インターネットの動画などいろいろな方法がある。政治や歴史、社会の変化などむずかしい内容でなくてもいいと思う。例えば、ファッションは好きな人なら、ファッションの歴史を辿ってみるのも面白いし、スポーツ観戦が好きならスポーツの歴史もいい。アニメーションが好きなら、作品の舞台になった時代や国のことを調べてみるのもいい。

 歴史がもっとみんなにとって身近になれば、人間の素晴らしい営みがより光り輝き、愚かな失敗が少しでも減ると思う。そうなることをこころより願っている。

「変」ってなんですか?

私はどちらかと言うと子ども時代、「変な子ども」だった。人と同じものに興味を持ったり、人と同じ振る舞いをすることに時に違和感を感じることがあった。私の小学生時代、ようやく「キャプテン翼」のヒットなどでサッカーがメジャーになりつつあったが、まだまだその当時の私の周囲の男子小学生が好きなスポーツは野球だった。当時の子どもたちの話題の中心はプロ野球、野球アニメ、クルマだった。プロ野球と野球アニメは結構好きだったので、友達と楽しく会話ができたが、実はクルマの方はサッパリで、ドアが4枚ついていれば日産・サニーも、アウディ80(現在のアウディ・A4の前身)も同じものにしか見えなかった。しかも、ゴリゴリの鉄道少年でしかなかった私はどちらかというとクルマを鉄道から客を奪う敵とみなしていたくらいだった。しかし、当時の「普通」は、男子小学生はクルマに興味を持ち、スーパーカー消しゴムを持っているのが当たり前とされていた。

 話は変わって、元AKB 48で俳優の秋元才加さんも同じような疑問を感じていたようだ。彼女のコラムを読むと、彼女は父親は日本人、母親はフィリンピン人という家庭に育ち、日本的な「普通」に悩まされてきた。日本はかつては今よりも「普通」の幅が狭く、彼女のような外国にもルーツのある人は今よりも「変わった人と見られていて、嫌な思いもずいぶんしてたようだ。彼女はこう指摘する、「日本の方は日本のコミュニティだけで過ごすから、違和感への耐性が結構低いと思う」、私もそうだと思う。私もそういえば「あいつは変なやつだ」、「あの人は変わっているな」という言葉をつい使ってしまう。では、その「変」や「変わっている」の基準って一体なんだろう。結局それは造られた虚像のようなものなのかと思う。

 結局私たちは、多数派であること、人と同じであることに安心したいだけのものなのかもしれない。しかし、時代は変わって、いろいろな国にルーツを持つ人が生活するようになり、色々な考え方や価値観を持つ人が増えてきた。ここで、秋元才加さんのいう、違和感への耐性をもう少し上げて、いろいろな国の人やいろいろな考え方の人がもっと生きやすいようになる時ではないかと思う。まずは、もう少し心の窓を大きく開け、身近な人の違いを「変」、や「変わっている」ではなく、そうなんだと受け取ることから始めたい。

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