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あの日のこと 2

 本震の後も余震が続いている。学校の駐車場にも地割れができていた。とはいえ、まだ新しい校舎は大きな損傷はなく、体育館には近所の人が集まりはじめていた。どうやら今夜は避難所対応で忙しくなりそうだ。私は校長に許可を取り学校から車で5分ほどの自宅に一旦戻った。ドアを開けると食器棚が完全に倒れていた。当時の私は陶磁器を色々買い集めていた。九谷焼、笠間焼、益子焼など、さほど高いものではないが、気に入って使っていたものもいくつかあった。台湾旅行で知り合った台北のおじいさんから頂いた茶器もあったが、そのほとんどが壊れていた。残念だが今はそんなことには構ってはいられない。とりあえずスーツを脱いで運動着に着替え、バッグに菓子パンなど当座の食料と、災害用に買った手回し充電のラジオをバッグに詰め込むと学校に引き返した。

 学校に戻ると、既に体育館には多くの人が集まっていた。私たちは体育館にマットを敷いたり、断水していたので、水を確保したり、アルファ米をお湯で戻したりして簡単な炊き出しを行った。それらが一段落すると、やっと体育館の床の上に横になった。私は家から持ってきた手回し充電のラジオを小さな音でかけた。ラジオから流れてくる情報は驚くべきものだった。「岩手県◯◯市□□、20mの津波、宮城県◯◯市□□、壊滅の模様」ラジオを聴いていて現実感がなかった。いや、夜になっても余震は続いていたし、体育館には重苦しい空気が流れていた。今日の昼間、職員室でスーツの上着を脱いだその時からずっと悪い夢を見ているような気がしていた。そのうち、悪夢さえ吹き飛んでしまうような情報がラジオから流れてきた。福島県内にある原子力発電所で原子炉の冷却ができなくなり周辺に避難勧告が出ているそうだ。地震が起きてからこの瞬間まで原子力発電所のことは頭の片隅にもなかった。しかし、これは本当にまずいことになるぞと思った。

 結局、寝たのかわからない状態で朝を迎えた。とはいえ職場の先輩が「お前のいびきがうるさかったぞ」と言っていたから寝たのだろう。この日は午後まで 体育館で避難所の仕事をしていた。15時少し前に学校を出て、まずは近くのコンビニエンスストアに向かった。少しでも食料を確保しようと思った。しかし、コンビニエンスストアにはお酒とアイスクリームしか残っていなかった。諦めて自宅に戻り、テレビ台から落ちていたテレビを戻し、スイッチを入れて間もなく、東京電力福島第一原子力発電所1号機が水素爆発を起こした。その瞬間、2011年3月12日15時36分、この時間も私にとって忘れられない時間になった。

あの日のこと

 2011年3月11日、金曜日、14時46分、私は福島県郡山市にある学校の職員室にいた。その日は卒業式の予行があり、私は視聴覚係としてマイクやBGMの操作をしていた。大きな問題もなく予行練習が終わり、生徒を下校させて職員室に戻り、その後の会議まで束の間の休息を取ろうとしていた。その日は3月にしては暖かく、スーツの上着を脱いでネクタイを少し緩めた。週末までもう少し、私だけでなく職員室全体がホッとした空気に包まれていた。

 不意に後者が揺れはじめた。地震?大した揺れじゃないなと思っているがなかなか揺れは治らない。そのうちに職員室のあちこちで携帯電話がなりだした。その瞬間、今まで経験したことのないような大きな揺れに見舞われた。机の上のものが落ちる、棚が倒れる、私は座っていられなくなり、椅子から立ち上がり机にしがみつく、しかし机ごと引きずられてしまうので床に座り込むしかなかった。窓の外を見ると、さっきまで暖かったのに雪が舞っている。福島県郡山市、震度6強。この世の地獄だと思った。
 
 揺れが収まると、職員室を飛び出し、校庭に避難した。既に校庭にはまだ校内に残っていた児相生徒のほか職員も集まっていた。みんな一様に恐怖で表情が固まっていた。そのうちに情報が入ってきて、震源が宮城県沖であること、地震の規模を示すマグニチュードが7.9であること(後に9.0に修正された)などがわかった。「マグニチュード7.9だって、関東大震災並みのとんでもない地震じゃないか」と思った。その時に、震源に近い宮城県にいる友人や親戚の顔が脳裏に浮かんだ。震源から離れている郡山でこの揺れなら、仙台や石巻は一体どうなっているのだろうと思った。

そこだけの味わい

 2020年という年は後世の人は「新型コロナウイルス」というキーワードと結ぶつける年になりそうだ。正月早々中国の武漢で新型の呼吸器感染症が流行しているというニュースを耳にして、あっという間に日本国内での感染発表、クルーズ船での集団感染、緊急事態宣言、志村けんさんの新型コロナウイルス感染症による死と続き、年末には今年の漢字が「密」、新語・流行語大賞が「三密」になるなど、まさにコロナづくしの1年になった。私個人の生活も、2月初めに仙台市のIKEAに行ったことを最後に修学旅行の引率を除けば住まいのある福島県いわき市を出ることがほとんどなくなり、友人や同僚との会食もほとんどない、職場での送別会や忘年会もない異例の年になった。

 遠くに出かけないからといって、自宅に閉じこもる生活は私は好きではないので、自宅のあるいわき市で、感染の可能性が高まる人混みや長時間の飲食をしない形で楽しみを見つけることにした。それは、市内のあちこちにある個人経営のパン屋さん巡りです。パンはコンビニエンスストアやスーパーマーケットに行けばいくらでも売っているし、最近はコンビニエンスストアが独自の商品を開発してそれがなかなか美味しいが、それでも地元の人に愛されて生き残っているパン屋さんはまだまだある。そこに行けばそこでしか味わえないパンがある。とても美味しい揚げカレーパンにも出会ったし、ポテトサラダパンの美味しさに初めて気づいたりと店ごとにあたらいい発見がある。まだまだ新型コロナウイルスの流行は続くと思うが、美味しいパンを求めてパン屋さん巡りをしていこうと思っている。

晩秋の色

 鉄道紀行作家の故宮脇俊三氏は、1978年(昭和53年)10月から12月にかけて、北海道の広尾から鹿児島県の枕崎まで最も遠回りの切符(13,319.4km、有効日数68日、運賃65,000円)を使って旅をした。その記録は翌年「最長片道切符の旅」として出版され、宮脇文学に代表作になった。この本に描かれているのは。単なる鉄道紀行にとどまらず、各地の紅葉をはじめとする自然の描写、1978年の鉄道や社会の様子を知ることができる簡潔で美しい描写が特徴的である。とりわけ印象的なのは、秋の日本列島を縦断して「日本の国菜は大根で、日本の国果は柿ではないか」という記述であった。当時は家の軒先に沢庵などの漬物を作るために大根を吊してあるのは普通のことだったし、庭に柿の木があり甘柿ならもいでそのまま、あるいは渋柿なら渋を抜いて家族で食べるのが当たり前だった。柿は全て食べずに少し残しておいてそれを鳥がついばんでいくのはよく見る光景だった。

 あれから40年と少しが過ぎ、世の中も移ろい、国菜と国果を取り巻く情勢も変わった。野菜や柿の多様化が進んだ。自宅で漬物を作る人は減ったせいか、地方に住んでいる私も家の軒先に大根を吊るしている光景はあまり見なくなった。柿の実がたわわに実っていても取り入れされずにそのまま残っている光景も見ることが増えてきた。それでも、茶色などの渋めの色合いに包まれる晩秋に大根の白や柿のオレンジ色は日本の景色を豊かにする存在だしできることなら変わってほしくないものだと思う。

墓誌から見える人生、社会

 彼岸だから墓参に行くという人も多いだろう。私も盆と彼岸にはほぼ欠かさず墓参に行くようにしている。最近墓参に行くたびに、通りながら墓誌を見るようにしている。墓誌は墓石の横にあり、墓に入っている故人の俗名(生前の氏名)、戒名(本来は仏弟子としての名前、今は亡くなった後につけられることが多い)、亡くなった年月日、享年などが石に彫られており、要するに誰のお墓か判るようになっている。家で言えば表札のようなものと言えば少し近いのかもしれない。

 墓参をしながら墓誌を見ているうちにいろいろな人生や社会の変化が見えてきた。まず気づいたのが1955年(昭和30年)頃を境に急激に子どもが死ななくなったことに気付いた。童謡に「通りゃんせ」があるが、歌詞に「この子の7つのお祝いに、お札を納めに参ります」というくだりがあるが、かつての7歳は現在の6歳、つまり小学校入学までの年齢になる前に亡くなる子どものなんと多いことか。それが1955年をすぎると目に見えて減った。栄養状態や衛生状態の改善が見られたのでしょうか。また、多くの墓は○○家の人だけが入っていることが多いが、複数の名字の人が一緒に入っている墓が案外多いことに気づく。そこには様々な人生があったのだろうと思う。私が住む福島県いわき市にはかつて炭鉱があり、全国各地から炭鉱で働くために人が集まっていた。もしかしたら炭鉱で働いていわきで亡くなって身寄りがない人を一緒に埋葬したのかもしれない。

 現在、日本では急激な少子高齢化の進展とともに家族の形が急激に変わってきている。これまで多数だった○○家の先祖代々の墓という形だけにとどまらず、生涯未婚の人が増えるに従い、個人単位の墓や血縁がない人が一緒の墓に入ることも増えるるだろう。日本では火葬が一般的だが、ムスリムの人は教義上土葬を好むから、ムスリム人口が増えつつある現在、対応が必要になるだろうう。これからも墓誌から見える人生や社会の変化に注目したい。

居酒屋賛歌

 旅の楽しみはいろいろあるけれど、旅先の居酒屋でのひとり酒も大きな楽しみのひとつです。夕陽が西の空に落ちかける頃ホテルを出て、向かうのは駅前や市街地の中心部。ガイドブックに載っているような観光客向けの店はできるだけ避け、仕事帰りのサラリーマンが仕事の疲れを洗い流したり、サンダルばきのおっさんが1杯ひっかっけにくるようなローカルな店を選ぶ。店を物色しながらぶらぶら歩くのは楽しいし、そういう旅をしているうちに少なくとも大外れを引かなくなった。
 店に入ったらカウンターに座る。テーブルだと。そのテーブルだけで世界が完結してしまって1人旅には好ましくない。カウンターなら向こう側にいる店の大将と話すこともできるし、横にいる他のお客との会話も楽しむことができる。基本的に私はそんなに積極的に他人に話しかけることはしないが、アルコールが入ると楽しくなるし、様子を見ながら話しかけるようにしている。もちろん、地元の人の話に聞き耳を立てるのも楽しい。
 飲むお酒は最初の1杯はよく冷えたビールに限る。暑い日に1日歩き回り火照った身体に冷たい水脈を作る。その後はその土地の日本酒を楽しむ。九州なら焼酎がいい。料理は肉でも野菜でもいいが私はやはり魚が好き、日本はどこに行っても大差がなくなったという人もいるがそれは違うと思う。地域によって魚が全く違うから、その土地土地で驚くほどおいしい魚に出会うことができる。広島で食べた瀬戸内海のイワシは美味かったし、長崎では酢でしめていないサバを味わった。高知のドロメと日本酒は絶品だったし、鳥取の白イカもまた味わってみたい。
 今、新型コロナウイルスで居酒屋業界はかつてない危機にあるという。どうかこの危機を乗り切って新型コロナウイルスまた日本のどこかでおいしい酒と美味しい料理の数々にさいかいしたい。

戦争と平和について考えるヒント

 75年前の今頃は歴史が猛スピードで動いた時期だった。 

 1945年は、ドイツや日本などの枢軸国にとっては戦況が絶望的な中でのスタートだった。枢軸国のひとつイタリアはムッソリーニ政権がすでに倒れ、ムッソリーニらはイタリア北部にイタリア社会共和国を立てたが、ドイツの強い影響下にあった。ドイツ、日本とも既に主要都市への空襲が始まり、日本では本土決戦の方針が決められた。
 2月にはソビエト連邦のヤルタでアメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相のチャーチル、ソビエト連邦首相のスターリンが会談を行い。まだ日本と中立条約を結び戦闘状態になかったソビエト連邦が日本との戦闘に加わることが決定された。
 4月にはアメリカ軍が沖縄本島に上陸し、凄惨な沖縄戦が始まった。ドイツでは首都のベルリンが戦場になり、4月末には総統のヒトラーが妻のエヴァ・ブラウンと自殺した。また、イタリア社会共和国が崩壊し、ムッソリーニが処刑された。
 5月にはドイツが連合国に降伏、その後スロベニアでの戦闘が終わることでヨーロッパにおける戦闘は終結した。
 6月には沖縄戦が日本側の敗北という形で終結した。日本側19万人、アメリカ側2万人の犠牲を出す凄惨な戦いだった。
 

 7月17日には、第二次世界大戦の戦後処理を決めるため、アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソビエト連邦のスターリン首相がドイツのポツダムで会談を行った。
 7月26日にはポツダム会談の結果としてポツダム宣言が発表された。ポツダム宣言は、アメリカ、イギリス、中華民国の共同宣言の形で出された。内容は日本の武装解除、戦争犯罪車の処罰、日本の領土を本州、北海道、四国、九州とその他諸小島に限る、民主主義の復活、基本的人権の強化である。これらの条件を受け入れた上で日本側からの条件を受け入れない形での降伏を要求した。なお、この時点ではソビエト連邦はポツダム宣言には署名していない。
 7月28日には日本政府はポツダム宣言を黙殺(無視)すると発表した。この時点でまだ中立国であったソビエト連邦を通じての交渉に望みをかけていたとされる。
 8月6日にはアメリカにより広島への原爆投下が行われた。
 8月8日には日ソ中立条約の破棄を発表、日本へ宣戦布告を行った。
 8月9日にはアメリカにより長崎への原爆投下が行われた。同日、ソ連が満州(現在の中国東北部)への侵攻を行った。
 8月10日には御前会議(天皇も臨席して行われる会議)が行われ、国体の護持(天皇制の維持)を条件にポツダム宣言の受け入れが決定される。
 8月14日には、日本政府はポツダム宣言の受け入れを海外に向けて発表、国民向けには明日の正午に重大発表があることを通知。
 8月15日には玉音放送が行われた。天皇が肉声で終戦の詔書を読み上げ、それをレコードに収録したものをラジオで放送した。同日、終戦に反対する陸軍の一部がクーデター未遂を起こす。同日、鈴木貫太郎内閣が総辞職をする。
 8月17日には東久邇宮内閣が成立。皇族が首相となる内閣であった。
 8月18日には満洲国皇帝溥儀が退位。1931年の満州事変で日本が建国した満洲国はここに崩壊した。
 8月22日には灯火管制(空襲の標的になる理由で夜間の照明の利用を制限すること)が廃止、一方ラジオでの天気予報が3年8ヶ月ぶりに復活(天気予報も軍事機密だったのだろう)
 8月30日にはマッカーサー連合国最高司令官が厚木飛行場(神奈川県)に到着。
 9月2日には重光葵外務大臣が戦艦ミズーリの艦上で降伏文章に調印した。(本当の意味での終戦はこの日)

 この時期を描いた小説、随筆、日記、映画、テレビ番組などは数多くあります。これらの作品に触れ、戦争とは何か、平和とは何かを考える良い機会だと思います。年表風にまとめたのは、これらの作品に接するときに世の中の動きをある程度知っておいた方がより理解しやすくなると考えたからです。どうか新型コロナウイルスで家にいることが多いこの夏、少しだけ戦争と平和、考えてみませんか。

異例な夏を

 2月に新型コロナウイルス感染症の患者が発生して以来、すっかり遠出しない生活になった。いつもならこの時期は8月上旬の旅に向けて期待に胸を膨らませているはずであったが、もしかしたら自分の自宅の半径30kmの範囲で夏が終わりそうな予感がある。

 相手が目に見えないウイルスだから文句を言ってもしょうがないし、間違っても職場で最初の感染者にはなりたくないし、私には基礎疾患があるからとにかく感染をしないというのが優先事項である。だからといって単なる我慢の夏にはしようとは思わない。今年の夏だからこそやってみたいことがある。どうせなら半径30km以内の範囲で3つの密にならないでできることをいろいろやってみたい。朝晩の涼しい時間にはクロスバイクに乗って自宅周辺やちょっと離れたところを走ってみようと思うし、昔読んでずっとほったらかしにしている本を読んでみたいし、家族などごく親しい人と一緒に過ごす時間を楽しみにしたい。いつもは「遠くに向いている意識をもっと足元に向けてみようと思う。いつみとだいぶ違う今年の夏、それでも楽しい夏にしようと思う。

我が心の夜行列車

 子どもの頃、私は上野と仙台を結ぶ常磐線の線路からさほど離れていない場所に住んでいた。近いとは言っても家から直接見えるわけではない。夏は午前4時台には空が明るくなるのでこの時期だけの密かな楽しみがあった。それは家を抜け出して線路の脇にある公園に行って夜行列車の姿を見ることである。私が持っている1978年11月号の時刻表によると、常磐線上りで私が見たと思われる夜行列車は、平駅(現、いわき駅)3時57分発の寝台特急ゆうづる12号、4時13分発の急行十和田4号、平駅5時57分発の寝台特急ゆうづる14号であったようである。いずれも青森を前日の夜に出発し、朝に上野に到着する東北北部と首都圏、あるいは青函連絡船を介して北海道と首都圏を結ぶ長距離列車であった。寝台特急ゆうづる号は583系電車というアイボリーと青に塗り分けられたどっしりとした電車、急行十和田はEF 80というローズピンクの電気機関車がロイヤルブルーに白線が入った優美なデザインの客車を曳いていた。いずれも寝台車が中心の豪華編成で、鉄道少年だった私にとっては眩しすぎる存在だった。そんな列車を見ながら、大人になったら自分の給料でこんな列車に乗って旅をしてみたいと希望に胸を膨らませていた。残念ながら、寝台特急ゆうづるも急行十和田も私が自分の給料で旅ができるようになる前に廃止になってしまい、乗ることは叶わなかった。しかし今でも私の心の中では寝台特急ゆうづるの583系電車もも急行十和田のEF80とロイヤルブルーの客車も走り続けている。

かわいいお客さん

 いつの間にか我が家の玄関脇にある換気扇の排気口のフードにツバメが巣を作ったと思ったら、いつの間にかかわいらしいひなが生まれていた。ひなは大きな口を開けて餌をねだり、親はひっきりなしに餌を運んでくる。我が家は近くに田んぼがあり、ツバメの好物である昆虫は豊富にありそうだからツバメが巣を作るにはいい条件の場所なのだろう。 私は朝夕、家に出入りする度に巣を見上げて「早くひなが孵らないかな」、「ひなはかわいいな」、「親は大変だな」などと思っていた。昨夜は友人と会食をして遅い時間に帰ってきたら、巣にひなたちと親鳥のうち1羽が、すぐ脇にある別の換気扇の排気口のフードの上にもう1羽の親鳥が眠っていた。1家寄り添ってどんな夢を見ているのだろうか。ツバメのひなは生まれてから巣立ちまではおよそ3週間のようなのでもう少しで巣立ちの日を迎えるのだろう。その日を迎えるまでもう少し楽しめそうだ。

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