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夏の終わりに

 四季の中でどれが好きかというと、圧倒的に秋が好きです。なぜかと問われれば、暑くもなく寒くもなくほどほどに過ごしやすい気候、樹木は徐々に色を変えやがて落葉する、田んぼの稲は首を垂れ豊かな実りを迎える、夜が長くじっくり読書を楽しむのに適している。など多くの理由があるが、とにかく私は秋が好きである。

 それでは夏が終わり秋めいてくるこの時期はどうかと思うと、切ない少しだけ寂しさを感じる季節だと思っている。海水浴で賑わっていた海岸から人がいなくなり、夏の高校野球が終わり、24時間テレビが終わると夏休みの宿題を仕上げなければならない、スイカが食べ納めになり、夏休みが終わる。学校が始まり友達に会えるのは嬉しいけれど、のんびり過ごせて楽しいイベントが多かった夏への未練もある。そんな時期である。それでは今年はどうかというと、新型コロナウイルス感染症の蔓延で夏に人と会ったりどこかに行くこともほとんどなく、また夏のイベントもほとんどなく夏が終わってしまった。夏がぼやけてしまったから、夏の終わりのこの時期もなんとなくぼやけた感じになってしまった。それでも夏は終わり秋になる。

その日まで

 新型コロナウイルスの世界的な大流行(パンデミック)が始まって1年半以上が過ぎた。私は中国の武漢で感染が深刻な状態になり、日本でもクルーズ船での感染が深刻な状態になった2月上旬に旅行や行楽での自分が生活している地域(自分が住んでいる市と隣接する自治体)の外への外出をやめている。その後新型コロナウイルスの感染状況には波があり、感染が増えると外出を最小限にして外食も中止しているが、感染が減ると自分が生活している地域の範囲内で外出している地域の範囲内で外出し外食も楽しんでいる。現在は感染の第5波となり、私が住む市でも7月末から数十人の感染者が出ているので、買い物や通院以外の外出はほぼ中止している。

 私は元来家でじっとしているより、外出をしてその土地の美味しい店の食事を楽しんだり、歴史遺産を訪ねたり、海や山の景色を楽しんだり、寺社参拝をすることが好きである。必ずしも遠くでなくてよく、高級な店は性に合わないから場末のラーメン屋やおばちゃんがやっているような定食屋で十分である。それもできなくなったのは悲しい。また、かつての職場の仲間や遠くに住む友人とも会いたいけれど会えない状態であるのは辛い。

 新型コロナウイルスの世界的な流行がいつまで続くかはわからない。もし終わったらどこに行こうか、誰と会おうか今はそれを考えながら、大切な人のため、自分のためにもうしばらくステイホームを楽しみたいと思う。

世の中は変えられるか

 多くの人は、「世の中のことは自分たち市民の力では変えることはできない」と諦めている。いや、正常な感覚を持っているならそうなるのかもしれない。でも、実は多くの人が声を上げれば世の中は変えられる。しかも割とあっさりと。そんなことがここ数ヶ月に何回もあった。例えば、東京オリンピック、国際オリンピック委員会や政府などは観客を入れての開催にこだわっていたが、新型コロナウイルス感染症の蔓延や、多くの人の反対や疑問の声を受けて、パブリックビューイングや東京都をはじめとする首都圏の会場は無観客で実施することになった。過去にも、水俣病などの公害問題や環境権などで国民の声が世の中を変えた例はある。政治家だって人間、私たち市民も人間、当然そこに上下関係などあるわけがないし、人間だから間違いを犯すこともあれば気付かないこともある。そういう時に黙っていては世の中は変えられない。ひとりの大人として、間違ったことは間違っていると、良くないことは良くないと声を上げることは大事なことだと思う。Yes,we can.きっと世の中は変えられる。

そういうものに、私はなりたい

 私の住む町の小さな丘に桜の木がたくさん植えてあるところがある。ソメイヨシノだけでなく枝垂れ桜、その他何種類の桜も植えてあってそれはそれは素敵な場所である。その丘には東屋やベンチもあって座ってお茶や団子を楽しみながら桜を愛でることができる。丘の下には川が流れ、時折いわきと郡山を結ぶ磐越東線も走る列車も見ることができる。とはいえここを知っているのは地元の人が多いからいわゆる有名お花見スポットのように混雑することのない場所である。

 桜の花を愛でる時には視線はどうしても上を向くことが多いだろう。足元を気にしながら桜の花を見る人はおそらくそうは多くないだろう。私だってそうだ。ある人が私に教えてくれた、足元にスミレが咲いていることを。よく見れば、そのスミレは半分以上が踏みつけられていたし、私も気づかずに踏んでしまったかもしれない。上の方で美しく咲く桜は誰でも気付く、しかし、足元にひっそりと咲くスミレに気付く人は少ない。しかしスミレだって胸を張って精一杯咲いている。そんな花に気付く人は素晴らしいと思うし、そういうものに私はなりたい。

あの日のこと 2

 本震の後も余震が続いている。学校の駐車場にも地割れができていた。とはいえ、まだ新しい校舎は大きな損傷はなく、体育館には近所の人が集まりはじめていた。どうやら今夜は避難所対応で忙しくなりそうだ。私は校長に許可を取り学校から車で5分ほどの自宅に一旦戻った。ドアを開けると食器棚が完全に倒れていた。当時の私は陶磁器を色々買い集めていた。九谷焼、笠間焼、益子焼など、さほど高いものではないが、気に入って使っていたものもいくつかあった。台湾旅行で知り合った台北のおじいさんから頂いた茶器もあったが、そのほとんどが壊れていた。残念だが今はそんなことには構ってはいられない。とりあえずスーツを脱いで運動着に着替え、バッグに菓子パンなど当座の食料と、災害用に買った手回し充電のラジオをバッグに詰め込むと学校に引き返した。

 学校に戻ると、既に体育館には多くの人が集まっていた。私たちは体育館にマットを敷いたり、断水していたので、水を確保したり、アルファ米をお湯で戻したりして簡単な炊き出しを行った。それらが一段落すると、やっと体育館の床の上に横になった。私は家から持ってきた手回し充電のラジオを小さな音でかけた。ラジオから流れてくる情報は驚くべきものだった。「岩手県◯◯市□□、20mの津波、宮城県◯◯市□□、壊滅の模様」ラジオを聴いていて現実感がなかった。いや、夜になっても余震は続いていたし、体育館には重苦しい空気が流れていた。今日の昼間、職員室でスーツの上着を脱いだその時からずっと悪い夢を見ているような気がしていた。そのうち、悪夢さえ吹き飛んでしまうような情報がラジオから流れてきた。福島県内にある原子力発電所で原子炉の冷却ができなくなり周辺に避難勧告が出ているそうだ。地震が起きてからこの瞬間まで原子力発電所のことは頭の片隅にもなかった。しかし、これは本当にまずいことになるぞと思った。

 結局、寝たのかわからない状態で朝を迎えた。とはいえ職場の先輩が「お前のいびきがうるさかったぞ」と言っていたから寝たのだろう。この日は午後まで 体育館で避難所の仕事をしていた。15時少し前に学校を出て、まずは近くのコンビニエンスストアに向かった。少しでも食料を確保しようと思った。しかし、コンビニエンスストアにはお酒とアイスクリームしか残っていなかった。諦めて自宅に戻り、テレビ台から落ちていたテレビを戻し、スイッチを入れて間もなく、東京電力福島第一原子力発電所1号機が水素爆発を起こした。その瞬間、2011年3月12日15時36分、この時間も私にとって忘れられない時間になった。

あの日のこと

 2011年3月11日、金曜日、14時46分、私は福島県郡山市にある学校の職員室にいた。その日は卒業式の予行があり、私は視聴覚係としてマイクやBGMの操作をしていた。大きな問題もなく予行練習が終わり、生徒を下校させて職員室に戻り、その後の会議まで束の間の休息を取ろうとしていた。その日は3月にしては暖かく、スーツの上着を脱いでネクタイを少し緩めた。週末までもう少し、私だけでなく職員室全体がホッとした空気に包まれていた。

 不意に後者が揺れはじめた。地震?大した揺れじゃないなと思っているがなかなか揺れは治らない。そのうちに職員室のあちこちで携帯電話がなりだした。その瞬間、今まで経験したことのないような大きな揺れに見舞われた。机の上のものが落ちる、棚が倒れる、私は座っていられなくなり、椅子から立ち上がり机にしがみつく、しかし机ごと引きずられてしまうので床に座り込むしかなかった。窓の外を見ると、さっきまで暖かったのに雪が舞っている。福島県郡山市、震度6強。この世の地獄だと思った。
 
 揺れが収まると、職員室を飛び出し、校庭に避難した。既に校庭にはまだ校内に残っていた児相生徒のほか職員も集まっていた。みんな一様に恐怖で表情が固まっていた。そのうちに情報が入ってきて、震源が宮城県沖であること、地震の規模を示すマグニチュードが7.9であること(後に9.0に修正された)などがわかった。「マグニチュード7.9だって、関東大震災並みのとんでもない地震じゃないか」と思った。その時に、震源に近い宮城県にいる友人や親戚の顔が脳裏に浮かんだ。震源から離れている郡山でこの揺れなら、仙台や石巻は一体どうなっているのだろうと思った。

そこだけの味わい

 2020年という年は後世の人は「新型コロナウイルス」というキーワードと結ぶつける年になりそうだ。正月早々中国の武漢で新型の呼吸器感染症が流行しているというニュースを耳にして、あっという間に日本国内での感染発表、クルーズ船での集団感染、緊急事態宣言、志村けんさんの新型コロナウイルス感染症による死と続き、年末には今年の漢字が「密」、新語・流行語大賞が「三密」になるなど、まさにコロナづくしの1年になった。私個人の生活も、2月初めに仙台市のIKEAに行ったことを最後に修学旅行の引率を除けば住まいのある福島県いわき市を出ることがほとんどなくなり、友人や同僚との会食もほとんどない、職場での送別会や忘年会もない異例の年になった。

 遠くに出かけないからといって、自宅に閉じこもる生活は私は好きではないので、自宅のあるいわき市で、感染の可能性が高まる人混みや長時間の飲食をしない形で楽しみを見つけることにした。それは、市内のあちこちにある個人経営のパン屋さん巡りです。パンはコンビニエンスストアやスーパーマーケットに行けばいくらでも売っているし、最近はコンビニエンスストアが独自の商品を開発してそれがなかなか美味しいが、それでも地元の人に愛されて生き残っているパン屋さんはまだまだある。そこに行けばそこでしか味わえないパンがある。とても美味しい揚げカレーパンにも出会ったし、ポテトサラダパンの美味しさに初めて気づいたりと店ごとにあたらいい発見がある。まだまだ新型コロナウイルスの流行は続くと思うが、美味しいパンを求めてパン屋さん巡りをしていこうと思っている。

晩秋の色

 鉄道紀行作家の故宮脇俊三氏は、1978年(昭和53年)10月から12月にかけて、北海道の広尾から鹿児島県の枕崎まで最も遠回りの切符(13,319.4km、有効日数68日、運賃65,000円)を使って旅をした。その記録は翌年「最長片道切符の旅」として出版され、宮脇文学に代表作になった。この本に描かれているのは。単なる鉄道紀行にとどまらず、各地の紅葉をはじめとする自然の描写、1978年の鉄道や社会の様子を知ることができる簡潔で美しい描写が特徴的である。とりわけ印象的なのは、秋の日本列島を縦断して「日本の国菜は大根で、日本の国果は柿ではないか」という記述であった。当時は家の軒先に沢庵などの漬物を作るために大根を吊してあるのは普通のことだったし、庭に柿の木があり甘柿ならもいでそのまま、あるいは渋柿なら渋を抜いて家族で食べるのが当たり前だった。柿は全て食べずに少し残しておいてそれを鳥がついばんでいくのはよく見る光景だった。

 あれから40年と少しが過ぎ、世の中も移ろい、国菜と国果を取り巻く情勢も変わった。野菜や柿の多様化が進んだ。自宅で漬物を作る人は減ったせいか、地方に住んでいる私も家の軒先に大根を吊るしている光景はあまり見なくなった。柿の実がたわわに実っていても取り入れされずにそのまま残っている光景も見ることが増えてきた。それでも、茶色などの渋めの色合いに包まれる晩秋に大根の白や柿のオレンジ色は日本の景色を豊かにする存在だしできることなら変わってほしくないものだと思う。

墓誌から見える人生、社会

 彼岸だから墓参に行くという人も多いだろう。私も盆と彼岸にはほぼ欠かさず墓参に行くようにしている。最近墓参に行くたびに、通りながら墓誌を見るようにしている。墓誌は墓石の横にあり、墓に入っている故人の俗名(生前の氏名)、戒名(本来は仏弟子としての名前、今は亡くなった後につけられることが多い)、亡くなった年月日、享年などが石に彫られており、要するに誰のお墓か判るようになっている。家で言えば表札のようなものと言えば少し近いのかもしれない。

 墓参をしながら墓誌を見ているうちにいろいろな人生や社会の変化が見えてきた。まず気づいたのが1955年(昭和30年)頃を境に急激に子どもが死ななくなったことに気付いた。童謡に「通りゃんせ」があるが、歌詞に「この子の7つのお祝いに、お札を納めに参ります」というくだりがあるが、かつての7歳は現在の6歳、つまり小学校入学までの年齢になる前に亡くなる子どものなんと多いことか。それが1955年をすぎると目に見えて減った。栄養状態や衛生状態の改善が見られたのでしょうか。また、多くの墓は○○家の人だけが入っていることが多いが、複数の名字の人が一緒に入っている墓が案外多いことに気づく。そこには様々な人生があったのだろうと思う。私が住む福島県いわき市にはかつて炭鉱があり、全国各地から炭鉱で働くために人が集まっていた。もしかしたら炭鉱で働いていわきで亡くなって身寄りがない人を一緒に埋葬したのかもしれない。

 現在、日本では急激な少子高齢化の進展とともに家族の形が急激に変わってきている。これまで多数だった○○家の先祖代々の墓という形だけにとどまらず、生涯未婚の人が増えるに従い、個人単位の墓や血縁がない人が一緒の墓に入ることも増えるるだろう。日本では火葬が一般的だが、ムスリムの人は教義上土葬を好むから、ムスリム人口が増えつつある現在、対応が必要になるだろうう。これからも墓誌から見える人生や社会の変化に注目したい。

居酒屋賛歌

 旅の楽しみはいろいろあるけれど、旅先の居酒屋でのひとり酒も大きな楽しみのひとつです。夕陽が西の空に落ちかける頃ホテルを出て、向かうのは駅前や市街地の中心部。ガイドブックに載っているような観光客向けの店はできるだけ避け、仕事帰りのサラリーマンが仕事の疲れを洗い流したり、サンダルばきのおっさんが1杯ひっかっけにくるようなローカルな店を選ぶ。店を物色しながらぶらぶら歩くのは楽しいし、そういう旅をしているうちに少なくとも大外れを引かなくなった。
 店に入ったらカウンターに座る。テーブルだと。そのテーブルだけで世界が完結してしまって1人旅には好ましくない。カウンターなら向こう側にいる店の大将と話すこともできるし、横にいる他のお客との会話も楽しむことができる。基本的に私はそんなに積極的に他人に話しかけることはしないが、アルコールが入ると楽しくなるし、様子を見ながら話しかけるようにしている。もちろん、地元の人の話に聞き耳を立てるのも楽しい。
 飲むお酒は最初の1杯はよく冷えたビールに限る。暑い日に1日歩き回り火照った身体に冷たい水脈を作る。その後はその土地の日本酒を楽しむ。九州なら焼酎がいい。料理は肉でも野菜でもいいが私はやはり魚が好き、日本はどこに行っても大差がなくなったという人もいるがそれは違うと思う。地域によって魚が全く違うから、その土地土地で驚くほどおいしい魚に出会うことができる。広島で食べた瀬戸内海のイワシは美味かったし、長崎では酢でしめていないサバを味わった。高知のドロメと日本酒は絶品だったし、鳥取の白イカもまた味わってみたい。
 今、新型コロナウイルスで居酒屋業界はかつてない危機にあるという。どうかこの危機を乗り切って新型コロナウイルスまた日本のどこかでおいしい酒と美味しい料理の数々にさいかいしたい。

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