こんどは
昨年12月~今年1月の台湾旅行の紀行文を書きたいと思います。この旅の目的は①初めての台湾旅行で知り合ったおじいさんに再会すること、②台湾高速鉄道(新幹線)に乗ること、③台湾東部を歩くことです。というわけで、例によって気が向いてかつ、エネルギーがある日しか書けないので、しばらくかかるかと思いますが、どうぞお楽しみください。
昨年12月~今年1月の台湾旅行の紀行文を書きたいと思います。この旅の目的は①初めての台湾旅行で知り合ったおじいさんに再会すること、②台湾高速鉄道(新幹線)に乗ること、③台湾東部を歩くことです。というわけで、例によって気が向いてかつ、エネルギーがある日しか書けないので、しばらくかかるかと思いますが、どうぞお楽しみください。
【8月11日 特急「オホーツク」奮闘す】
8月11日、旅の最終日になった。今日もとてもいい天気である。朝食を済ませたら網走川に沿って河口付近まで歩いてみた。暑い、しかしどこか風が爽やかだ。この6日間、雨どころか雲さえほとんど出なかった。私は雨男ではないが、旅行中は曇りのことが多い。
網走駅には9時過ぎに着いた。縦書きの網走駅の看板を見る。駅の看板は横書きが多いが、網走駅は網走刑務所を出所した人が人生の再起をかけて故郷へ旅立つ駅である。これからの人生を横道にそれずにまっすぐに生きて欲しいと願って縦書きの看板が作られたという。
網走発9時30分の特急「オホーツク4号」は、四角い顔のディーゼルカーの5両編成であった。白いボディにラベンダーとライトグリーンの帯を巻いて精一杯のおしゃれをしているが、古さは隠せない。この列車に使われている車両は、北海道の特急ではもっとも古いタイプのものである。しかし、シートはすわり心地の良いものに換えられていて、札幌まで5時間強の旅を快適に過ごせそうである。
エンジンの唸りが上がり網走駅を発車する。網走発車時点で乗車率は25%ほどであろうか。特急ではあるが、あまり旭川と網走を結ぶ石北本線はカーブが多く、途中に峠越えもあり、非力な古いディーゼルカーには難所つづきである。網走から旭川までの238km.に3時間41分もかかっている。(この間の平均65km/h)
網走湖岸を進んだ特急は、女満別(めまんべつ)に着く。ここからは森と畑の中を進む。網走を出ておよそ45分、規模の大きな市街地が見えてくると北見である。ここで乗客が増え、半分くらいの席が埋まった。北見発車10時19分、留辺蕊(るべしべ)という難しい読みの駅を発車すると、再び山の中へ分け入ってくる。この先に常紋トンネルというトンネルがあるのだが、このトンネルはいわくつきのトンネルである。トンネルの周囲は無人地帯、道路が整備されてなく資材の運搬が困難な中、本州などから集められた労働者が厳しい条件で働かされて、亡くなった者はそのまま埋まられたばかりか、人柱にもされたらしい。このトンネルはそれらの死者の亡霊が出るという噂がある。そんな残酷な歴史を秘めたトンネルなので、ぜひ見ておこうと思った。ところが、ふと目を覚ますと生田原に停車したところであった。すでに常紋トンネルを過ぎていた。
遠軽で列車は向きを変え、網走支庁と上川支庁を分ける峠へのアタックを始めた。エンジンがうなりを上げるが、きつい上り坂では60km/hくらいまで落ちる。少し離れたところには、高速道路並みの高規格の上川白滝道路が整備されていて、あちらの車の流れの方が速い。今のところ、この道路の整備は峠越えの部分だけであるが、道央自動車道から北見市、網走市方面までつながったら、そのときには「オホーツク」の大きな脅威になると思う。おそらくこれからは高速道路の建設は進まないとは思うし、そんな時代ではないと思うが。
峠を越えた列車は速度を上げ、層雲峡の入り口になる上川を発車すると平地が広がる。徐々に人家が増え、やがて高架橋に上がると旭川も近い。さすが道内第2の人口を誇る旭川市の市街地は立派である。高架橋を工事中の旭川駅には13時11分に着く。ここから「オホーツク4号」に乗る乗客は少ない。旭川から札幌までは、30分ごとに特急「スーパーカムイ」が走っていて、こちらの方が速いし車両がきれいだからである。この列車が13時13分に旭川を発車して14時45分に札幌に着くが、旭川13時30分発の特急「スーパーカムイ30号」は札幌着14時50分である。17分のアドバンテージをわずか5分までに縮められてしまう。平均速度はオホーツクの89km/hに対して、スーパーカムイは103km/hである。
旭川を発車した特急「オホーツク4号」は、ようやく特急らしい速度で走り始めた。老体に鞭を打つようにエンジンはうなりを上げるが、乗り心地は意外にもいい。不快な振動や揺れがあまりない。深川を過ぎると地図の上に定規で線を引いたようにほぼまっすぐな線路が続く。水田も多くなり、畑が多かった道東とは異なった景色になる。この周辺、列車は美唄(びばい)を通過する。ここも夕張と同じく、旧産炭地であった。ここだけではない、上砂川、三笠、歌志内、芦別、どこも旧産炭地から再建を図っているところである。
今の北海道は、過疎化、漁業の不振、財政問題など、たくさんの問題を抱えている。札幌だけ栄えて他の地方は人口流出に苦しんでいる。しかし、北海道を開拓するために血と汗を流しながら奮闘した人やその子孫の方々やたくさんいる。アイヌ民族の人々、ウィルタ民族の人々も伝統文化を守っている。そして雄大な自然がある。今は苦しくともいずれ光が見えると思うし、それを担える人材があると思う。私もそれを心から願っている。
特急「オホーツク4号」は岩見沢を発車し、札幌へ向けてラストスパートを始めた。網走を発車してまもなく5時間になろうとしている。札幌はもうすぐである。そして、非常に断片的ではあったが、北海道の歴史をたどる旅も間もなく終わる。(終)
【8月10日 網走という町】
今朝は早々と朝食を済ませると7時半過ぎにはレンタカーに乗り込んだ。今日は午前中に網走を見て回り、その後サロマ湖に沿って上湧別までドライブし、夕方オホーツク海に突き出した能取岬に立ち寄り網走の戻ることにしている。
網走は人口4万人弱、しかし、この地方の中心的な都市だけあって、行政機関や商業施設は人口の割りに充実している。オホーツク海に面し、豊富な水産資源を生かした漁業の町である。かつてはアイヌ民族、それ以前にはオホーツク文化の担い手となった民族(おそらくは現在樺太やシベリアに住むニヴフ民族)が住んだ。江戸時代後期から大和民族の進出があり、1873年に開拓使の出張所が置かれた。後には網走監獄がおかれ、凶悪犯や政治犯が収容された。「網走番外地」などの映画やテレビの刑務所のドキュメンタリー番組で網走=刑務所の町というイメージを持った方も多いと思う。私が子どもの頃は年に数回そんな番組があった。他に意外なことであるが、網走市周辺は日本で最も降水量の少ない地域である。網走の1年の平均降水量が800mm.ほどである。東京で1500mm.弱、三重県の尾鷲で4000mm.弱であることを比べるとだいぶ少ない。
網走駅前を過ぎ、国道39号線を旭川市方面に進む。しばらくすると網走川の向こうに網走刑務所の建物が見えてくる。南に川、他の三方を山に囲まれいかにも脱獄が困難そうな立地条件である。なお、現在の網走刑務所は犯罪傾向が進んだ刑期の短い者が収容されているそうで、過去のイメージにあった網走刑務所=凶悪犯というわ明けではないようだ。
8時の開館を待って北方民族博物館に行く。ここは、アイヌ民族をはじめ、網走周辺や樺太に住むウィルタ民族、先述のニヴフ民族、フィンランドのサーミ(ラップ)、カナダやグリーンランドのイヌイット(エスキモー)などのオホーツク海や北極海沿岸に住む民族の文化や歴史の研究や紹介を目的としたところである。食生活や衣服、住居など、それぞれの民族が厳しい自然条件に適応するために工夫して生活していることがよくわかった。私はイヌイットの住居というとイグルー(雪をブロック状に固めてドーム型にしたもの9を連想するが、そればかりではないことがわかった。
北方民族博物館を出て、網走監獄博物館に行く。かつての網走刑務所の建物を移築したものである。明治時代の網走は現在のようにどんなものでもそろうという状況であった、味噌でも沢庵でもなんでも刑務所内で自給していたそうだ。そればかりか、道路や鉄道の建設で酷使された。北海道の近代化にはこのような残酷な歴史も秘められていることは忘れてはならないだろう。圧巻は獄舎である。ずらりと扉が並んだ獄舎は廊下を歩いているだけで恐ろしいほどの威圧感を感じる。扉が開いている独居房に入ってみた。できれば懲役囚として入ることはしたくないが、人間は弱いものだし、私は筋金入りの意志の弱さだからひょっとしたらありえるかもしれないな、そんなことを考えた。
【8月9日 知床の大自然に抱かれて】
私が運転する日産ブルーバードシルフィーは知床半島の海岸沿いの道を順調に進む。左側にはオホーツク海、右側には知床半島の山々が迫り、険しいがとても眺めの良い道である。前の両側の窓を開け、世界遺産の風を浴びながら気持ちよく運転をする。かなり遠回りをしたから、網走を出て4時間以上が経過しているが疲れはまったく感じない。前方に岬が見えてくると、小さな駐車場があり、その奥にはオシンコシンの滝がある。私はクルマを降り、階段を登り滝を見に行く。とても豪快な滝である。落差はおよそ80メートル、とても水量が豊かである。下から眺めると鳥が今にも飛び立とうと羽を広げているようにも見える。滝のしぶきを浴びながらしばらく見とれていた。
再びクルマに乗り、岬を回りこむと間もなく饅頭みたいなまん丸な山と小さな集落が現れる。知床観光の拠点であるウトロの集落である。
私はここからさらに知床五湖まで行くつもりである。知床五湖まではクルマでの乗り入れが認められているが、知床の美しい景色をじっくり見るためには、自分でレンタカーを運転するのは適当でない。クルマを止めたウトロの道の駅近くに斜里バスのバスターミナルがあることは知っていたから、ここからバスで知床五湖を往復することにする。バスがクルマでのおよそ40分、バスターミナルのベンチで日向ぼっこをしたり、バスターミナル近くの小川で魚を探したりしていた。
ウトロのバスターミナルを発車したバスはヘアピンカーブの坂を上る。さっきまでいたウトロの町を見下ろすようになる、間もなく知床自然センターに着く。ここを過ぎると一層険しい山道になる。途中エゾジカの出迎えなどがあり、豪快かつ楽しいバス旅になった。自分で運転したらここまで景色を楽しむことはできなかっただろう。
知床五湖は、熊出没のため、5つある湖のうち3つが立ち入り禁止となっていた。それは残念であったが、羅臼岳を遠くに眺めがら原生林に囲まれた湖を歩いて回るのは楽しかった。時間が許せば、ずっとここにいたいと思うくらい気持ちが良かった。それにしても暑い、一回りしたところで、土産物屋でソフトクリームを買う。いい歳をしたおっさんがソフトクリームなどを食べている様はあまり格好いいものではないが、見てくれを気にしている場合ではない。
再びバスに乗り知床自然センターで降りる。ここから20分ほど歩くとフレペの滝があり、そこを目指す。山道をしばらく歩くと草原が広がっている。太平洋戦争の敗戦後、樺太、満州、朝鮮、台湾、南洋諸島などを失い、多くの人が着の身着のままで日本に戻ってきた。その人たちを養う余力は当時の疲弊しきった日本にはなかった。親戚などを当てにできる人はいいが、それができない人は各地で開拓にあたった。ここもその1つだそうだ。しかし、それまで開拓されなかったのにはそれなりの訳がある。ここもそうだ、ウトロの町まできつい山道を上り下りしなければならない、海が近いが断崖で港がない、その他気候の問題もあるだろう。結局、集落に住む人は他に移転して、今では原生林の中に草原として残り、僅かに集落跡の名残を留めるだけである。
フレペの滝は豪快だった。100m.はありそうな断崖の途中から水がしみだして海まで落ちている。この豪快さと原始の自然が残っているところが知床の魅力なのだと思う。知床は2005年に世界自然遺産に登録された。この自然はいつまでも守りたいものである。知床自然センターからのバスは、斜里バスの案内所のおばさんが乗ってきて、にぎやかに話をしている。私もその話に混ぜてもらって楽しく過ごす。
ウトロの道の駅で買い物を済ませ、網走に向かう。昨日と同じようにオホーツク海に沈む夕陽を眺めた。充実した1日が終わろうとしていた。
【8月9日 オレンジのユリとザンギ】
今朝は9時に網走駅の駅レンタカー事務所にクルマを借りに行けばいいから、朝はゆっくりできる。それがわかっていても、朝は5時50分になるとスイッチが入るように目が覚めてしまう。しょうがないのでロビーに下りて新聞やガイドブックを読んでいた。そうしているうちに何人か身体の大きな男達が下りてた。ある社会人ラグビーチームの面々である。私の部屋がある階は私の部屋以外すべてラグビーチームの部屋で、窓にはユニフォームが干してあったり、廊下にはシューズが置いてあったりして、まるで合宿所に紛れ込んだようであった。
男達は次々とてレストランのドアに吸い込まれていった。その中に、1人見覚えの顔の男がいた。お互い目が会うと「おはようございます」と挨拶をした。昨日、酒を飲んで帰ってきたとき、エレベーターを待つときに一緒になったのである。彼から酒井法子が逮捕されたことを聞いた。彼自身がファンなのか、それとも私いかにもノリピーのファンにに見えたのかどちらかは定かではないが。
9時少し前に網走駅に着いた。今日から2日間借りるクルマは、長距離を走ることも考え、少しだけ贅沢をして、日産ブルーバードシルフィにした。千歳で借りたのが軽自動車であったから、それと比べるとシートもゆったりしているし、内装もよい。
網走駅から知床半島を目指す。駅から1㎞ほど進むとバスターミナルや道の駅があり、そのあたりが町の中心部のようである。そこを過ぎると網走港がある。網走港からは国道244号線、通称斜里国道を行く。左手にはオホーツク海、右手には昨日乗った釧網本線の線路がある。信号が少なく快適なドライブになる。クルマはさほど多くないが、バイクはずいぶん多い。中には原付に大きな荷物を積んで走っている人もいる。スーパーカブなどのビジネスバイクだけでなく、スクーターでツーリングと言う人もいた、翌日にはホンダ・モンキーというちっちゃなバイクでツーリングしている人も見かけた。
網走市から小清水町に入ると原生花園がある。駐車場にクルマを止め、道路と海岸の間にある砂丘に行ってみる。途中に、JR釧網本線の原生花園駅があり、駅員が記念切符を売っていたので衝動的に買う。原生花園にはハマナスの花が咲いていた。ハマナスのピンクの花もきれいだが、ミニトマトに似た赤い小さな実もかわいらしかった。摘み取って口に入れてみたくなったが食べられるかどうかわからないので自重した。後で売店を覗いてみるとハマナス入りの菓子やハマナスジャムなどを売っていた。
売店に、リリーパークのポスターが貼ってあった。ポスターには見事に咲き誇ったユリの花が並んでいた。これを見て衝動的に行ってみたいと思った。少し遠回りになるが、自由が利くのが車の旅のよさである。リリーパークは広い園内にたくさんのユリが咲いているはずなのだが、今年は天候不順で開花が遅れているという。まばらに咲いたユリを見て歩く。その中にオレンジ色のユリを見つけた。なんだか不思議な感じでしばらくオレンジ色のユリに見とれていた。
回り道をしたので、予定よりも大幅に遅くなった。昼食は知床の観光の拠点であるウトロで何か食べようと思っていたが、観光シーズンで長く待たされそうなので、時間短縮を図ることにした。知床半島の付け根の斜里のスーパーマーケットでペットボトルのお茶と海苔巻きとザンギという中身のよくわからない揚げ物を買った。斜里の町を出て、知床半島の山々を見ながら畑の中を走る。しばらく走ると海岸沿いに小さな漁港があったので、そこでクルマを止めて昼食にする。ザンギとは何だろうと思いながら食べてみたら、鶏の唐揚げであった。しょうがと醤油で濃い目に味がつけてあって、母の作る唐揚げを思い出させる味だった。
この時期になると、テレビや雑誌などで紅葉(黄葉も含む)が特集されることが増えるし、実際に見に行く人も多いと思う。私も紅葉を見に行くのは好きだし、山が多い福島県は紅葉の名所と言われる場所もたくさんある。しかし、息を呑むような素晴らしい紅葉に出会った人はあまりいないのではないかと思う。紅葉は見ごろの時期がごく短いし、その年の気候によって見ごろの時期が変わる。だから、○○の紅葉の見ごろは□月×日ごろとガイドブックに書いてあっても当てにならないことが多い。それだけに、息を呑むような美しい紅葉に出会ったときの気持ちは最高のものである。
そんな気持ちを味わったことが1度だけある。福島県の桧原湖の湖岸で見た黄葉である。たまたま平日に休みが取れたときに行った。このときの黄葉はとても鮮やかだった。黄色どころじゃない、私には黄金色に見えた。紅葉は、あたり一面紅になるよりも、黄色や茶色、緑などとの色の組み合わせが絶妙になったときが一番美しいと思うが、黄葉はある程度ボリュームがないとつまらない、このときは湖の水面と空を除いて一面の黄金色になった。その黄金色も、発色が中途半端でもなく、茶色がかかっているわけでもない本物の黄金色だった。おそらく、その日しか見ることのできなかった本物の黄金色だったと思う。私はこの世のものとは思えない美しさに見とれた。その美しさは言葉にできない、「!」と表現するしかない美しさだった。
今日は福島市から国道115号線を猪苗代方面に向かった。土湯温泉を過ぎたあたりから紅葉が美しくなってきた。土湯峠を通る旧道に入ると一層美しくなった。紅の方はやや見ごろを過ぎているものもあったが、紅、黄色、茶色、緑の織り成す風景はやはりきれいだった。残念なのはカメラを忘れてしまったこと。もし明日も可能なら安達太良山方面に出かけようと思う。もちろんカメラを持って。
【8月8日 見どころ多い釧網本線】
色々なところを旅していると、不思議と相性のいい町に出合うことがある。その相性のいい町が釧路である。その中でもすきなのが、釧路川河口近くにかかる幣舞橋(ぬさまいばし)とその周辺である。今回も1時間40分ほど時期餡があるので、駅前から夏祭りをやっている通りをまっすぐ下り、昼食がてら橋周辺をぶらぶらした。僅かに潮の香りを含んだ川風を受けながら歩くのは気持ちよかった。
釧路発14時52分発、「釧路湿原ノロッコ4号」に乗る。ノロッコとは聞きなれない言葉だが、のろいトロッコという意味なのだろうか。決して呪いトロッコではない。釧路と網走を結ぶ釧網本線は豊富な観光資源に恵まれている。釧路の次の東釧路を過ぎると間もなく釧路湿原を走る。他にも、摩周湖、知床半島への玄関口になる駅がある。あとは、摩周~川湯温泉間のルートを変更して、屈斜路湖の東岸を走るようになれば完璧だろうと思う。しかし、この釧網本線をはじめ、北海道の鉄道はもっと切実な理由で建設されたことは心にとどめておくべきだろう。北方の軍事大国であるロシアの脅威は鉄度に限らず北海道開の近代史を考えるためには忘れてはならない理由であろうと思う。本州の鉄道路線がおおむね明治時代には既に町ができて人口が定着していたところを結んだのに対して、北海道の鉄道は人口が希薄で開発が遅れた地域が多かった。わざわざそんなところを選んで結んだのではなく、北海道のほとんどの地域がそうだったのである。
ディーゼル機関車を先頭にしたトロッコ列車に乗る。夫婦や家族などの乗客が多く、一人旅の乗客は少ない。甲高いホイッスルを鳴らすと、軽い衝撃があって「ノロッコ」は発車した。最近ではめったに体験できなくなった機関車牽引列車の味わいである。トロッコではあるが、かつて札幌近郊で普通列車として走っていた車両を改造したものだから、乗り心地はいい。東釧路を過ぎろと早くも湿原が現れる。しかし、本領を発揮するのは次の遠矢を通過してからである。どこまでも続く湿原、焦点をどこにあわせたらいいのかわからなくなるほど広大な風景であるが、それがいい。とつぜん車内がざわめく。右側の山の斜面にエゾジカがいたのだ、いっせいにシャッターを切る音が聞こえる、私もあわててカメラを向けるが、のろいトロッコとはいえ間に合わなかった。右を見、左を見、のろい列車で慌しくとも楽しい時間を過ごしているうちに終点の塘路に着く。27kmをおよそ1時間かかったのだから、確かに遅い。
塘路はいいところだった。駅周辺には小洒落た建物があり、白樺の木が立っており北欧の町にでも来たような気分になる。この後乗る網走行きの列車まで29分しかないから慌しい。その間に駅前を少し歩いた。
塘路発16時19分の普通列車はわずか1両であった。私は後ろのデッキにたった。塘路を過ぎても塘路湖やシラルトロ沼などの見どころがある。人口は極めて少ない。今は夏の観光シーズンだから旅行客が多く乗っているが、普段は1両で十分間に合う程度のお客だろう。厳しい経営環境が伺える。
塘路から3つ先に標茶と言うやや大きい町があり、そこなら降りる人が多いだろうと思っていたら、案の定そのとおりになって空席を見つけて座ることができた。標茶を過ぎると上り坂に差し掛かる。250馬力のエンジンを2台搭載したディーゼルカーは軽々と坂を上っていく。摩周、川湯温泉と山の中を走る。川湯温泉を過ぎると釧路支庁と網走支庁を分ける峠を越える。緑は畑に囲まれた小さな集落。坂を下るにしたがって区画の大きい畑が広がってくる。既に18時近く、夏の陽は山に落ちかかり、防風林と畑をオレンジ色に染めている。
知床半島の玄関口である知床斜里でお客が増えた。間もなく西へ向きを変えるとオホーツク海の海岸線すれすれを走る。浜小清水、北浜と進むうちに、太陽はどんどん高度を下げ、オホーツク海に没しようとしていた。まるで進みゆく時間に最後の抵抗をしようとするかのように、太陽はオホーツク海を朱色に染めていた、反対側の空には既に夜の気配が迫っている。
半ば暗くなった網走駅に18時49分に着いた。乗客はあっという間に散ってしまい、プラットホームでぶらぶらしていた私はひとり取り残された。人気のないプラットホームは午後7時前とは思えない。この瞬間、胸が締め付けられるような不思議な感情が胸のそこから湧き上がってきた。ああ、これが最果てに来たと言うことだな。
その夜は網走駅に近いホテルに泊まった。夕食にはモヨロ鍋といって、魚のツミレに、地場の魚、野菜を入れた鍋料理を食べた。塩味のスープが美味しくビールがかなり進んだ。
【8月8日 北海道の屋根を行く】
8月8日、今日もいい天気である。北海道に来て毎日好天が続いている、曇り男の私としては非常に珍しいことだ。今日は札幌から鉄道で釧路を経て網走まで行く。この区間は私がこれまで乗った日本の鉄道の中ではもっとも車窓の面白い区間だと思う。楽しみの多い日である。
札幌9時4分発の特急「スーパーおおぞら3号に乗る。シルバーのステンレスボディに両端をラベンダブルー、アクセントにライムグリーンとレッドが入る。スタイリッシュでスマートなデザインである。この車両の真価はそれだけでなく、振り子式車両といって車体を傾斜させることにより急カーブでも安全に高速で通過できるようになっている。
札幌から新夕張までは昨日と同じルートである。新夕張からは1981年開業の石勝線である。札幌から帯広、釧路に向かうには、かつては函館本線を旭川に近い滝川まで行き、富良野、新得と遠回りをしていた。石勝線の開業により、札幌から帯広、釧路までは大幅に速くなった。石勝線開業前の1978年11月の時刻表によると、特急おおぞら1号は、札幌を9時に出発して、帯広12時56分(3時間59分)、釧路15時2分(6時間2分)だったのが、2009年7月には、札幌9時4分、帯広11時34分(2時間30分)、釧路13時3分(3時間59分)と、かつて帯広までかかる時間でおよそ130km.先の釧路まで行けるようになった。
新夕張からはひたすや山と森の中を走る。うっとうしいほどまとわりついてくる道路さえほとんどない。トマム駅の近くにはそれまでの車窓から一変して高いビルがある。アルファリゾート・トマムである。この列車も停車したが、乗降はまったくない。トマム駅を発車すると、さっきまでと同じように森と山ばかりになる。
狩勝峠の長いトンネルを抜けると、眼下には十勝平野の広々とした景色が広がってくる。十勝平野は区画の広い畑が広がって、豊かで気持ちのよい景色である。高架橋に上がると帯広、人口17万人とは思えないほど建物が密集していて、都会的な風景である。
幕別を過ぎると十勝川を長い鉄橋で渡ると丘陵が迫ってきて池田に着く。ここから北見へ向けてちほく高原鉄道が分岐していたが、2006年に廃止された。私は2005年8月にこの鉄道に乗った。当時のプラットフォームが同じ姿のまま残っていた。ここを過ぎるとカーブが多くなるが、「スーパーおおぞら」は、振り子式車両の真価を発揮して軽やかに走りぬける。車窓も素晴らしい。海あり、湿原あり、山ありと役者がそろっている。降りるのが惜しくなるような素晴らしい車両だったが、列車は釧路の市街地に差し掛かりスピードを落とし始めた。車内がざわついてきた。
【8月7日 はるかなる人の面影をたどる】
夕張を発車したわずか1両のディゼルカーはわずかな客を乗せ、追分に13時33分に着いた。ここから室蘭本線の普通列車に乗り換える。室蘭本線は長万部~東室蘭~苫小牧~追分~岩見沢と室蘭~東室蘭を結ぶ鉄道である。このうち、長万部~東室蘭~苫小牧(正確には隣の沼ノ端)間は、函館や室蘭、登別などと札幌を結ぶ幹線として活況を呈している。しかし、苫小牧~追分~岩見沢間はかつては夕張をはじめとする石狩炭田の石炭を室蘭港に運ぶため、長い編成の貨物列車が行き交ったが、今では2~3時間に1本程度短い列車が走るだけのローカル線になっている。しかし、かつての栄光のなごりか、そんなローカル線でも駅のつくりは大きく、まっすぐな複線の線路は幹線そのものである。
追分13時40分発の2両編成のディゼルカーに乗る。ひとりで1つのボックスを独占できるほどのお客、JRには申し訳ないけれど一番快適な乗車率である。国鉄時代の古いディーゼルカーで、エアコンはない。窓を開け放って勇払平野を吹き渡る風を取り込むと、少し生暖かい風が入ってくる。もう少し涼しければ文句なしだが、本州の数に比べればやはり爽やかだ。
製紙工業や自動車工業を中心とする工業都市の苫小牧駅で同じ室蘭本線の普通列車に乗り換える。コカコーラの缶のような塗装の3両編成の電車である。かつては急行列車にも使われた車両である。ボックスシートを中心にした懐かしいタイプの電車である。乗客はさっきまでとは変わって多く、電車なのでスピードも速い、行き交う列車の増えて活気に満ちた旅になる。苫小牧の市街地を過ぎると、左に太平洋、右に樽前山を見ながら進み、15時17分登別に着いた。
登別から、9種類の泉質を楽しめると言う登別温泉を目指す。ただし、バスの発車まで30分強あるので、駅前を歩く。この町から知里幸恵(1903~1922)が生まれた。彼女はアイヌ民族である。彼女の少女時代、学校教育では、アイヌ民族は劣った存在として、大和民族への同化政策が進められていた。アイヌ語も、アイヌの伝統的な叙事詩であるカムイユカラを後世に残したい、それを強烈に自分の使命だと感じたのだろう。彼女は言語学者である金田一京助の援助を受けながら、カムイユカラをアイヌ語(表記はローマ字)と日本語訳で記録した。1922年9月18日、その記録は完成した。その晩彼女はわずか19年の生涯を閉じた。まるでカムイ(アイヌ民族が信仰する自然の中に存在する神々)たちがその才能を惜しんで、自分達の手元につれて帰ったかのようだ。彼女が残した記録は、、金田一らによって「アイヌ神謡集」として刊行され、現在でも岩波文庫で販売されている。
彼女がここに生きていた時代からすでに100年が経過していて、生家などはとくに残っていないが、幸恵が生まれ育った町を歩いてみたいと思った。アスファルトの道路、コンクリートの建物、これらも想像力があれば時代を超えた風景に変わってくる。かつてここに生きた人と少しだけ同じ空気を吸う、これこそ旅の醍醐味だろう。
バスに乗り登別温泉に行き、旅館に行き9種類の泉質を愉しんだ。1時間以上温泉に入っていたから、最後は少しのぼせてしまった。再びバスで登別駅に戻り、17時48分発の特急北斗15号に乗る。ここまでの疲れが出たのか、たちまち眠ってしまった、目が覚めたのは札幌到着の直前で、札幌の町明かりが銀河のように美しかった。
【8月7日 夕張の大地に光を見る】
夕張の駅前には、周囲を圧するような大きなビルが建っている。ホテル。マウントレースイである。このホテルは夕張の「炭鉱から観光へ」を象徴するものである。夕張駅はこのホテルの前に引っ越す形で移転した。気がつかなければ売店にしか見えないような小さな建物である。
夕張はこのホテルと、直結したマウント・レースイスキー場の他、ホテル・シューバロ、メロン城、石炭の歴史村などの大規模な観光開発を行った。かつて人口11万を誇った夕張市は、炭鉱閉山後も人口流出が止まらなかった。その中で観光に地域活性化をかけたが、残ったのは借金の山である。そんな思いでホテルを見上げると、非常に絶望的な気持ちになる。
気を取り直して、石炭の歴史村にある炭鉱博物館に行こうとバスを探したが、駅前のバス停には石炭の歴史村行きのバスがなかった。結局ホテル・マウントレースイのカウンターでタクシーを呼んでもらった。
石炭の歴史村は、お客の姿がなかった、そのうえ路面のアスファルトにひびが入っているのに補習された形跡さえない。わびしい気持ちで入場券とさっきのホテル・マウントレースイのランチがセットになったチケットを購入する。石炭の歴史村は、かつては遊園地の他はくせい館や化石館などがあったそうだが、いまはがらんとした敷地に石炭博物館が残るのみである。この施設全体が遺跡と化しつつある。悲しくも寂しい風景である。
石炭博物館は悪くはなかった。とくに炭鉱で働く人の生活を中心にした展示は興味深かった。とくに地下の坑道の機械を動態で保存していることはとても貴重なものである。ヘッドランプのついたヘルメットをかぶり、実際の行動を歩くのは少々怖くもあったが面白かった。それにしても、石炭とはなんて美しいのだろう。黒く光り輝いている。黒ダイヤなどという言い方があるが、まったくそのとおりだと思う。
夕張の市街地を歩きながらホテル・マウントレースイに戻る。夕張の市街地はがらんとして、かつて11万人もの人が住んだ面影は乏しかった。ホテル・マウントレースイの食事では小ぶりながら夕張メロンを半分に切ったものが出た。これまでにも夕張メロンは食べたことがあるが、16分の1か32分の1か知らないが小さなものだった。それにしても何と香りの良いメロンなのだろう。うっとりしながらたゆっくりとメロンを味わった。
祝辞が終わると12時22分の追分行き普通列車で夕張を去る。夕張の大地は過去には石炭を生み出し、現在は夕張メロンを生み出している。現在も夕張は存亡の危機の中にあるが、この豊かな大地の中に、夕張再生の希望の光を少しだけ見たような気がする。
【8月7日 夕張まで】
今朝は4時過ぎに目が覚めた。昨日は疲れていて、ホテルのレストランで夕食を済ませると9時過ぎには気絶するように寝入ってしまった。しばらくテレビを見て過ごす。
6時半過ぎにはホテルを出て札幌駅に向かう。おにぎりと豚汁の朝食を通勤途中のサラリーマンに混じって済ませる。私は乗るのが8時2分発の帯広行き特急なので時間がある。その間通勤客を満載した普通列車や函館、旭川、網走など道内各地に向かう特急列車を眺める。札幌駅は仙台駅や博多駅などと比べるとディーゼルカーの割合が高く独特の雰囲気がある。
札幌8時4分の特急「スーパーとかち1号」は、札幌駅を発車して鋭い加速で札幌市街を駆け抜ける。まだ真新しい車両は、清潔感が合って気持ちがいいシートのかけ心地も上場である。南千歳駅を過ぎて左にカーブを切ると早くも無人の原野になる。南千歳から次の追分までは1981年に札幌と帯広、釧路方面を短時間で結ぶ目的で作られた新しい路線であるが、追分からは1892年に開通してかつては夕張線と呼ばれた路線である。ややカーブが増え、列車の速度が鈍る。8時58分夕張着。1時間もたたないうちに降りるのがもったいないくらいの列車だが、ここで降りないと夕張にはいけない。地下道をくぐって古びたディーゼルカーに乗り換える。
9時3分発の夕張行きの列車は、「スーパーとかち」とは比べ物にもならない鈍足である。かつて三菱南夕張炭鉱への鉄道があった清水沢で若干の乗客の乗り降りがあった。かつて広かったであろう駅の敷地は、今は大部分が草むらと化している。駅前の商店もシャッターが下りたままのところが多い。鹿ノ谷を過ぎると上り坂がきつくなり、非力なディーゼルカーは9時29分終点の夕張に力尽きたように静かに停車した。
夕張市は会社でいう倒産にあたる財政再建団体に指定された。テレビなどで過去の市長の観光施設などへの無謀な投資が原因と報じられたことは皆様もご存知のことだと思う。しかしこれまでの経緯を見ると、どうしても私は夕張市をには同乗したくなる部分もあるのだ。
夕張の歴史は炭鉱とともにあった。いや、近代北海道の歴史も炭鉱とともにあったというべきであろう。北海道で最小の鉄道は手宮(小樽市)から札幌を経て幌内(三笠市)を結ぶものであった。目的は幌内炭鉱から算出される石炭を小樽港まで運ぶためであった。開国して国際社会にデビューしたばかりの明治政府にとって、富国強兵は国是であった。いや、そうしなければ欧米列強にずたずたに引きかかれるという強迫観念だといってもいい。富国強兵を果たすためには、蒸気機関の動力源である石炭が必要だ。その石炭の力で機関車を走らせ、汽船を進め、電力を起こす必要に迫られた。このため、夕張を含む石狩炭田、福島県から茨城県にかけての常磐炭田、福岡県の筑豊炭田などの開発が進められた。夕張市の人口もふくれあがり、1960年ごろには人口は12万人近くになった。
そのころ、ゆっくりと夕張にもたそがれが訪れた。石炭がエネルギーの主力を勤めたのは1960年代までで、それ以降は石炭から石油へのエネルギー革命が進められた。中小の炭鉱の閉山が相次ぎ、徐々に夕張は元気をなくしていった。そんな夕張に決定的な打撃を与えたのが、1981年におきた北炭夕張新鉱のガス突出事故である。夕張新鉱は、最新の設備を備え、良質の石炭を産出し、衰えが見られた炭鉱都市夕張の復興の期待を背負っていた。しかし、坑内から出たメタンガスから発火し、救助隊も巻き込まれる大惨事になり、93人が亡くなった。鎮火に手間取った末に、行方不明者が残っている坑内に水を注入するいたましいシーンは、当時8歳の私が覚えている最も古いニュースの1つであった。
その後、炭鉱を諦めた夕張市は観光に活路を求めた。しかしそれがはかばかしくないという話は前々から聞いていた。私は夕張市と同じ旧産炭地である福島県いわき市の出身である。いわき市は炭鉱以外の産業基盤が合った。東北としては温暖な気候で、農業もいける。黒潮と親潮の潮目にあたり、漁業も盛んである。そして、東京までJRの特急列車で2時間、常磐自動車道でも3時間程度の交通の便を生かして工場の誘致にも成功して東北有数の工業都市にもなった。決して景気がいいというわけではないが、夕張のように自治体としての存続を問われるような事態にはなっていない。しかし、同じ旧産炭地の生まれの人間として、夕張の現状を知り、少しでもエールを贈りたい。そんな気持ちで夕張駅に降り立った。
【8月6日 二風谷でイナウケを作る】
平取の市街地を過ぎると間もなく義経神社がある。平泉で戦死したとされる源義経であるが、東北から北海道にかけて各地に義経の伝説が残っている。義経が後にチンギスハンになったのは荒唐無稽だが、日本人の判官びいきがそうさせるのだろうか。そこから沙流川(さるがわ)に沿って徐々に坂を上っていくと二風谷に着く。二風谷はアイヌ文化にとって重要な土地でありダム建設には相当な反対があった。結果的に反対を押し切る形でダム建設は行われ、1997年にダムは完成した。そのダム湖の周辺に二風谷アイヌ文化博物館がある。
博物館の展示内容は充実していた。とくに目を引いたのが木工製品の数々である。食器などの民具の細かい造形は惚れ惚れするほどであった。狩猟民族であるアイヌ民族にとって、手先が起用であることは非常に重要なことで、恋に目覚めた少年は、意中の少女に木製のアクセサリーを贈るのだそうだ。そうすることで、手先が器用である、つまり、良い狩人になれる、甲斐性のある男であることをアピールするのだろうだ。手先の不器用な私は、もしアイヌ民族に生まれていたら今以上にもてなかっただろう。
博物館の屋外にはアイヌ民族の家(チセという)がある。屋根だけでなく壁もかやぶきである。窓は3つと決まっていて、真ん中に囲炉裏がある。ここを歩いていると大和民族がやってくる前のアイヌ民族の集落(モシリ)を歩いているような気がする。
博物館の駐車場の向かい側にもチセがあり、「ご自由にお入りください」と張り紙があったので入ってみると、何人かの人が木製の御幣のような飾りを作ったり布を織ったりしていた。私はしばらく見学をしていたが、御幣のような飾りを作っていたお兄さんからぜひ作ってみないかと誘われた。白っぽい広葉樹の木の幹をのみのような道具で削ると、削った部分がカールして御幣のようになるという単純なものだが、これが以外に難しい。結局、お兄さんの手を借りてやっと1つ作り上げた。このとき作ったイネウケは大事に持って帰り、今でも自宅の柱にくくりつけられている。
この近くには萱野茂アイヌ資料館がある。萱野茂(1926~2006)は、二風谷生まれのアイヌ民族で、アイヌ文化の保存に大きな功績があった。途絶えていたイオマンテ(熊送りの儀式)を復興させたり、アイヌ語の辞典を作ったりした。この資料館も、アイヌ文化の貴重な遺産を集めたものである。後に参議院議員になり、アイヌ文化振興法の成立に尽力した。アイヌ民族の他、樺太(サハリン)のウイルタ民族などの資料などがあり面白かった。
二風谷を離れ、帰りは沙流川に沿って富川まで下った。沙流川流域は水田も多く本州に戻ってきた気がした。日高富川インターチェンジから日高自動車道に入り、苫小牧が近づくと勇払平野のはるか向こうに苫小牧の工業地帯の巨大な鉄塔が夕陽をバックにしてシルエットになっていた。原野と工業地帯の対比があまりにも美しかった。
【8月6日 北海道の歴史とは】
日高自動車道を鵡川(むかわ)インターチェンジでで降りる。JR日高本線の鵡川駅に立ち寄ってトイレ求刑を済ませる。私ははじめて訪れた土地で真っ先に訪れるのが鉄道駅である。たとえバスやクルマでの旅でも町の玄関である駅を見ておかないと気がすまない。鉄道ファンの性であろうか。
鵡川駅からは山に向かって走る。目指すは平取(びらとり)町の二風谷(にぶたに)である。鵡川に沿って山に分け入って行き、低い峠を越えると平取町である。ここで、北海道の歴史の基礎的な知識について説明したい。
日本の歴史は、旧土器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代→飛鳥時代→奈良時代と進んでいくが、決して日本の全土が同じような歴史をたどってきたわけではない。沖縄も独自の歴史を持っている。北海道の時代区分は、旧石器時代(1万2千年前まで)→縄文時代(1万2千年前~2世紀)と、ここまでは日本のほかの地域と同じであるが、弥生時代に入らず、続縄文時代(2世紀~7世紀)→擦文時代(7~13世紀)→アイヌ時代(13世紀~19世紀)→明治時代と進んでいく。ただしこれも北海道すべてが同じ道をたどっていくわけではなく、オホーツク海沿岸地方には、5世紀から9世紀にかけてオホーツク文化と呼ばれるアイヌ民族とは異なる民族の文化が存在していた。また、鎌倉時代ごろから渡島半島南部には和人(大和民族)が定住し、安東氏が勢力をふるった。安東氏は後に松前氏にかわり、1つの藩として認められ幕府の終焉まで北海道南部を支配した。
説明が長くなったが、要は日本は一続きの単純な歴史を歩んだのではなく、少なくとも沖縄と北海道は独自の歴史を歩んだこと、そしてアイヌ民族という大和民族とは異なった言葉を持ち、異なった生活様式を持った民族が存在していることを認識しなければならないと言うことである。
【8月6日 千歳空港・勇払平野を走る】
福島空港を離陸したボーイング737は力強く上昇を続け、厚い雲を軽々と突き破った。窓側の席を2ヶ月も前に予約していた私は、飛行機から地上を眺めることができないことは少々不満だが、久しぶりの旅行なので気分は上々だ。夏休みの観光シーズンに入り、126人乗りの機内はほぼ満席だった。
山形、花巻上空を通って、今頃は北海道に向けて太平洋上を飛んでいるのだが一向に雲が切れる様子がない。今朝は午前2時に起きて済ませる用事があったので寝不足であった。しばらくうとうとする。機体が降下を始めるとようやく雲が切れてきた。目の前には苫小牧の市街と広々とした緑色の勇払平野が広がっている。およそ2年半ぶりの北海道である。
預けていた荷物を引き取ると、スーツケースを引っ張って広い千歳空港のターミナルビルを歩き、レンタカーのカウンターに行く。駅でレンタカーを借りる場合には、駅前に事務所があり、ここで免許証などを提示すれば鍵を受け取りそのまま出発となるのだが、ここではお客が何人か集まったところでバスに案内され千歳市内にある営業所まで運ばれ、そこで受付となる。飛行機が着いたのが11時20分だから、12時前には空港を出発できると思っていたが、実際に私がシルバーのスズキ・ワゴンRでレンタカーの営業所を出発したのは13時近かった。
レンタカーは18時30分まで借りているが、今日はこれから平取町(日高支庁)まで往復およそ140km.走る予定だから少々慌しいことになった。すでに空腹だが、昼食を車内でとることにした、また苫小牧まで一般道で行こうと思っていたが、ここも高速道経由に変更した。千歳市内のコンビニに立ち寄りサンドイッチと缶コーヒーを購入する。北海道で最初の食事がこれでは少々貧相だが私は時間が何より気になる性格なのでこれでよしとする。
千歳インターから道央自動車道に入る。軽自動車で高速道路っていったいどうなのよと思っていたが、加速こそややかったるいが車内に入ってくる騒音はそれほどでもない。今の技術はたいしたものである。次の苫小牧東ジャンクションから日高自動車道に入る。苫小牧の郊外の住宅地を抜けると、平地の樹林の中をひたすら走るようになる。高架で高速道路、地平には国道236号線、高速道路の交通量は少ないし、ひたすらまっすぐである。日本離れした広々とした中を走る。しかも青空、福島ではずっと雨か曇りが続いていたからひたすら気持ちがいい。運転しながら頬張るコンビニのサンドイッチの味も格別なものに思えてくる。
後日談~銚子電鉄は走り続けるか?
私が銚子を旅したゴールデンウイークごろから、銚子電鉄について、あまりよくない噂が流れていた。それは近々銚子電鉄が運行を停止するだろうと言うものであった。銚子電鉄は以前にも軌道や踏切の整備を国土交通省から勧告されていた。そちらのほうは徐々に手を入れているが、今度は車両のブレーキシステムが現在の基準に合っていないことなどを理由に車両の置き換えを勧告されたというものである。現在銚子電鉄で使用されている車両は、デハ701、702(1942年製、近江鉄道→銚子電鉄)、デハ801(1050年製、伊予鉄道→銚子電鉄)、デハ1001、1002(1960・1961年製 営団地下鉄→銚子電鉄)の5両であるが、このうち701、702、801が置き換えなければならない車両である。仮に韓国がなかったとしても、67年~48年という歳月を経た車両であるから、遠からず置き換えが必要になることは避けられない。しかし銚子電鉄の体力では新車の導入は絶望的である。それなら中古車はどうか、それも難しい。銚子電鉄の規格が低すぎて、例えばJRの車両を入れようと思ったら、車両の裾ががプラットホームに激突してしまう。もっと小型の車両でなければならないが、現在ではそんな車両を使っている会社はあまりない。車両がなければ営業ができなくなってしまう。これはいよいよ危ないかと思われた。
ところが、最近願ってもない話が舞い込んできた。四国の伊予鉄道が、京王電鉄から中古車を購入するので、それで余剰になる電車のうち4両を銚子電鉄に譲渡するというのである。この電車は1959年~62年に製造された京王2010系電車で、やはり50~47年物の老朽車両には変わらないが、ブレーキシステムなど、際軽減の基準は満たす車両である。引退予定の3両は非常に味のある電車で、惜しいが、これにより安全性が向上し、銚子電鉄がこれから先も走り続けるのなら、それもいいかと思う。岬めぐりの小さな鉄道が、これからも多くの人に親しまれ、安全運行を続けることを願ってやまない。
4 外川~犬吠~笠上黒生~銚子
外川から乗った電車は、車掌さんが慌しく動き回っていた。見てみると戸袋の窓ガラスが割れていた。私も若い車掌さんを手伝って応急処置を手伝う。
犬吠は土産物屋を併設した屋や大きな駅で、駅前には廃車を再利用したレストランもある。さすがに人も多い。はじめに、山に向かって歩く。地球の丸く見える丘展望台を目指す。展望台からの景色は良かった。東には犬吠埼、そして太平洋。本当に地球が丸く見えるようだ。南には外川の港町、西には九十九里浜に続く海岸、北には銚子市街と利根川河口。惜しむらくはあまりの強風で長い時間たっていられないことである。
展望台の前からバスに乗り、犬吠埼で降りる。灯台を見て、波しぶきがかかりそうな海食崖の遊歩道を歩く。銚子駅まで歩いて戻るとさすがに喉が渇いた。さっきの電車レストランでアイスコーヒーを飲む。古い電車を徹底的に改造してあった。
佃煮やぬれせんべいを買いこむといよいよ帰り道に着く。途中の笠上黒生駅で電車を折り、交換(単線の鉄道での列車のすれ違い)をみるために1本電車を遅らせる。これで銚子電鉄のすべての駅に降りたことになる。
この駅で笠上という俳優か女優が黒生ビールのテレビCMでもやったら面白いだろうなと思う。そんなバカなことを考えながら20分あまりを過ごす。やがて、銚子行きの電車がやってきた。もう既に今日だけで何度も乗った区間だが最後となると車窓を見るのにも気合が入る。本銚子の坂を下ると銚子市街地に入る。今日何度目かのデキ3を見ると間もなく調子駅である。私は駅前の店でさらにお土産物を見て、銚子市役所に止めたクルマで帰途についた。
3 銚子~海鹿島…西海鹿島~外川
銚子から再び外川行きの電車に乗る。すでにお昼近くだが、犬吠埼を目指す観光客の数は多い。今度は海鹿島駅で降りる。周囲は住宅地とキャベツ畑である。この駅は関東で最も東にある駅である。次の電車がおよそ30分後なので間が持たないので、1つ手前の西海鹿島駅まで歩く。それでも次の電車まで15分くらい時間があったので、狭い西海鹿島駅のホームにあるベンチに座ってうとうとする。いつもならこんなときには径庭電話でウエブにつないでニュースのチェックなどを行うのだが、キャベツ畑の中のあまりにものどかな海鹿島駅にそんな行動は似合わない。15分があっという間に過ぎた。世の中便利になったが、この「のんびりした時間」は何物にも代えがたいものであろう。
今度は終点の外川駅を目指す。犬吠駅で半分以上のお客が降り、今日始めて座席にありつく。だが、2分ほどで終点の外川だ。この駅は今回で3回目だが、来るたびいいなぁと思う。古いのである、これがまた良い。安っぽいレトロ調などではない。長年潮風を浴び、人の手垢がついた古さなので。手書きの発車時刻表、木造の駅舎、古風な出札窓口、すべてがいい感じなのだ。この駅舎は、おそらく1923年(大正12年)の開業時から使われているのであろう。
外川は坂の多い漁港の町だ。細い道を降りて漁港まで行く。漁港では漁船が気持ち良さそうにゆらゆなと波に揺られて昼寝をしてきた。私はしばらく漁港の町を歩いて、寿司屋に入った。寿司もうまかったが、このあたりの名物なのであろう、甘くてつるっとした食感の伊達巻がとくにうまかった。
2 君ヶ浜駅~仲ノ町駅~観音駅…銚子駅
君ヶ浜駅には、ギリシア風のアーチがあったが、今は遺跡のように残骸が残るのみ、寂しい風景だ。海岸までは歩いて10分もかからないから、海岸まで行く。犬吠埼と先端の灯台が良く見える。
君ヶ浜駅からは銚子行きの電車に乗る。今度は銚子から一つ目の仲ノ町駅を目指す。仲ノ町駅は、銚子電鉄の本社。車両基地がある。本社といっても、古びた木造の建物で、とても鉄道会社の本社には見えない。ここで、150円の入場券を買うと車両基地を見学することができる。ここのアイドルは、デキ3という電気機関車である。ちょうど凸の字のような形をしている。1922年ドイツ製で、かつては宇部(山口県の炭鉱で石炭を運び、後に銚子電鉄に移り、ヤマサ醤油の原材料を運んだ。近年では観光列車の牽引をしたこともあったが、ブレーキなどが現在の車両の基準を満たしておらず、仲ノ町の車両基地で日向ぼっこをして余生を過ごしている。ざっと見て、全長は私のクルマ(スバル・フォレスター)の4.5m.とさほどかわらなそうで、小さい割には力持ちなのだろう。なんだか、遠くのおじいちゃんに久しぶりに会ったような不思議な気分になった。この車両基地には他にも貴重なものがあった。富士産業のラビットスクーターであった。かつて世界有数の航空機メーカーであった中島飛行機が、敗戦後解体され富士産業として再出発した。その製品のひとつがラビットスクーターである。富士産業はかつての中島飛行機系の企業と合併し、現在の富士重工業となる。
仲ノ町駅から一駅外川方面に進み、観音駅で降りる。この駅の名物はタイヤキである。かつて「泳げタイヤキ君」がヒットしたときに、増収対策としてはじめたものである。さっそく1つ買って見る。皮も餡も材料を目一杯使いましたという立派なタイヤキで食べ応えがあった。腹ごしらえが済んだら、この駅の名前の由来となった飯沼観音を参拝して銚子漁港に言ってみた。新鮮な魚を売る直売所があって、その一角に銚子産の牡蠣がその場で食べられるコーナーがあった。私が生牡蠣の味を覚えたのはここ数年であるが、すでに生牡蠣と聞くとそわそわするほどになっている。ふっくらと膨らんだ牡蠣を選んで殻を開けてもらう。少しだけレモンをかけると大振りの身を口へ。海の香りと豊かなコクが広がる。これはうまい!
観音駅に戻ってみたが、外川方面の電車は出たばかりだったので、2駅もどるが銚子駅まで歩く、2駅とはいえ1㎞少々だから15分程度で着いた。
昨年12月~今年1月に行った台湾旅行の写真をアップしました。今回は宜蘭、南廻鉄路、台東、東部海岸と、あまりツアーではいけないところを行ってきました。写真をご覧になりたい方は右上のタイトル「2008年12月~2009年1月 台湾紀行~台北・宜蘭・台東・東部海岸」のタイトルをクリックしてみてください。
1 銚子~本銚子~君ヶ浜
5月3日、連休2日目の朝を茨城県の神栖で迎えた。昨日は、福島から東北道で佐野まで行き、利根川に沿って関東平野を東に向かった。広々とした関東平野の風景はどこか日本離れしていた。今日は再び日本的な箱庭調の世界に戻る。
神栖のホテルを出て、鹿島港のそばの工業地帯を過ぎると太平洋が見えてくる。ゴールデンウイークとはいえ海はまだサーファーくらいしかいなかった。そんな海岸沿いに走り、利根川の河口にかかる長い橋を渡ると銚子である。市役所にクルマを止め、銚子駅まで歩く。銚子駅はローカル鉄道の始発駅に似つかわしくないほど立派であるが、これはJR総武本線の終点でもあるためだ。と言うより、JRの駅の端っこに銚子電鉄が間借りしていると言ったほうが正しいだろう。JRの改札口の駅員に「銚子電鉄に乗ります」と言えば切符を持たなくても中に入れてくれる。跨線橋を渡り、総武本線のプラットホームの端に小さな建物があり、そこが銚子電鉄の駅である。かつて地下鉄銀座線で走っていた車両が大幅な改装を受けて銚子の町を走っている。既に多くのお客がいる。少し前に東京からの特急が到着したので、乗り継ぎ客だろう。すぐに車掌が来て切符を売り始めた。私は「弧廻手形」という銚子電鉄が1日乗り放題になる切符を購入した。電車は発車するとすぐに仲ノ町駅に着く。ここには車庫があり、銚子電鉄のアイドルにもなっている小型の電気機関車であるデキ3も留置されている。早くも降りる乗客もいた。私は3つ目の本銚子(もとちょうし)で電車を降りた。
本銚子駅は銚子の市街地のはずれで、平地から犬吠埼方面の台地に向かうところにある。駅のすぐそばに細い跨線橋があり、そこが撮影の名所になっている。私は跨線橋から銚子駅方面に向けてカメラを構えた。時刻表によると間もなく銚子行きの電車がやってくる。間もなく水色に塗られた電車がやってきた。狙ったとおりの写真が取れて満足した。次の外川行きの電車は少し時間があるので、駅を観察する。駅の小さな待合室には、銚子電鉄の危機を知り、支援を引き受けた人が作成したポスターが貼られていた。古い駅だが、人の手の温もりが感じられる良い駅だった。
次の外川行きの電車は、かつて近江鉄道で使われていた電車である。小ぶりな電車は、床はオイルの滲みた木が張っている。その気の床から重々しいモーターの唸りが聞こえてくる。今ではすっかり珍しくなってしまった釣り掛けサウンドと言うものである。次の笠上黒生駅で銚子行きの電車とすれ違った。電車はキャベツ畑の中を走り、君ヶ浜駅に着いた。私はここで電車を降りた。
千葉県の北東部、茨城県との境に銚子という町がある。古くは利根川の水運で栄え、しょう油の醸造業が発展した。最近ではいわしなどの漁業の町として知られている。そんな銚子を走る小さな鉄道がある。JR銚子駅から、飯沼観音や銚子漁港が近い観音駅、関東で最も早く日が昇る犬吠埼最寄の犬吠駅、坂の多い漁業の町の外川駅の6.4km.を結ぶ鉄道である。
距離が短いことと、人口が密集している観音駅(銚子駅より1.1km.)あたりまでは、銚子駅まで徒歩圏内であることに加え、徒歩県外の笠上黒生駅以遠は人口が少ない。犬吠埼への観光客も銚子電鉄を利用する方が多いが、観光客は春から秋の休日に集中する。そのため経営は苦しかった。1913年(大正2年)に前身の銚子遊覧鉄道が開業したが、経営難のためにいったん廃業している。その後、1922年(大正11年)に銚子鉄道として復活し、後に銚子電気鉄道と開業したが、一貫して経営は苦しかった。しかし、この会社は底知れぬバイタリティというかしたたかさがあり、おもいつくかぎり様々な関連事業を行った。「泳げたいやきくん」が流行ったときには観音駅に鯛焼き店を作り、その後も濡れ煎餅を発売した。
しかし、前社長の横領などもあり、2006年秋には、車両の法定点検費用も捻出できない状態に陥ってしまう。法定点検ができなければ、車検を受けないクルマが公道を走れないのと同じように、鉄道としてお客を乗せることができなくなる。まさに、絶体絶命のピンチである。しかし、銚子電鉄は会社のホームページで会社の危機を訴え、ネットショッピングで濡れ煎餅の購入を呼びかけた。これを受けて、多くの注文が集まり、銚子電鉄に乗りに行く人も増えた。ネットを通じた支援の我が広がり、テレビでも取り上げられるようになった。このことで、銚子電鉄は車両の法廷点検を済ますことができるようになっただけではなく、設備の改善にも着手することもできた。
会津鉄道は福島県の会津地方を南北に縦断する鉄道です。会津若松市街地が近い西若松駅から、南会津の中心部の会津田島をとおり、栃木県境が近い会津高原尾瀬口までの57.4km.を結んでいます。地域の生活路線だけでなく、途中の会津田島で乗換えが発生しますが、浅草~東武鉄道~新藤原~野岩鉄道~会津高原尾瀬口~会津鉄道~西若松~JR~会津若松の広域輸送も担っています。
今回は会津若松から乗ってみます。会津若松駅の最も端の5番ホームから会津鉄道の列車が発車します。西若松まではJR只見線の線路の上を走ります。2両編成のディーゼルカーはまだ新しく、車内も清潔で加速も軽やか、同じ線路を走るJR只見線よりも格上に見えます。西若松を過ぎると会津若松の市街地を出て、部活帰りの高校生やお年寄りが駅ごとに降りていきます。芦ノ牧温泉駅を過ぎると、会津盆地が終わり、大川(阿賀野川が只見川や日橋川と合流する前はこう呼ばれます)に沿って走ります。トンネルの合間から時折深い渓谷も見えます。会津田島は小さな盆地にある町で、西若松以来初めての本格的な市街地です。この駅には車両基地もあり、色とりどりの車両が休んでいます。
会津田島からは、東武鉄道を経て東京の浅草まで直通する電車に乗り換える。ディーゼルカーの走りは軽快だったが、電車はそれ以上にパワーがある。名残おしいが、会社の境界である会津高原尾瀬口で降りる。駅舎は昔ながらの古びたものであったが、渡り廊下つづきで立派な観光物産館ができており、お土産の購入や食事にも困らない。この観光物産館前から、尾瀬の福島県側の入り口である沼山峠行きのバスに乗り換えることができる。電車で会津田島まで戻る。乗り換えに30分ほど時間があるので駅前を散策する。小さな町だが、7月の祇園祭の時には大変な賑わいとなる。
会津田島からディーゼルカーに乗り、塔のへつりで下車する。塔のへつりとは、大川の流れが崖を侵食してできた断崖で、まるで塔が並んでいるように見える奇観である。広い駐車場があり、クルマや観光バスで来た人も多いが、駅を利用する人も少なくない。揺れるつり橋を渡り、断崖の方に渡る。足場は悪いから気をつけなければならないが、洞窟の中にある祠にお参りする。


塔のへつり駅から一駅乗り、湯野上温泉駅で降りる。茅葺きの趣のある駅舎である。駅近くの旅館に入り、大川を見下ろす露天風呂に入る。しかも私ひとりで独占である。大川の向こうの崖には藤の花が咲いていた。温泉を堪能して、会津若松行きの列車に乗る。今度の列車は、かつて名古屋と高山を結ぶ特急列車に使われていた車両である。少し古びているが、リクライニングシートを倒すと、あっという間に眠ってしまった。目が覚めるともうすぐ会津若松駅であった。
【江戸 11月3日】
次に訪れるのは、近藤が師範を勤める剣術の道場「試衛館」である。試衛館は地下鉄大江戸線の牛込柳町駅の近くにある。万願寺駅からは高幡不動駅で京王線乗換えで、新宿経由が早いのだが、モノレールからの眺めがいいので、多摩センター駅までそのまま乗っていくことにする。高幡不動からは急な傾斜になる。中央大学・明星大学からは下りになり、目の前に広々とした視界が広がる。新宿からは地下鉄大江戸線に乗り、都庁前で両国方面行きに乗り換え、牛込柳町で下りる。今まで牛込柳町がどんなところかまったく想像がつかなかったが、ちょうどすり鉢の底のようなところに住宅と商店が密集しているところだった。
試衛館の場所は地図であらかじめ場所のめぼしをつけておいた。牛込柳町駅から少し飯田橋方面に進み、病院のところを右に入ったところにあった。「試衛館跡」の標柱と簡単な説明があった。現在はアパートと駐車場になっている。私はすべての歴史遺産を保存しろなどとは言うつもりはない、試衛館跡が他の建物になってしまうのはしょうがないだろう。しかし、説明版の下がごみ集積所になっていることは許せない。そんなに歴史遺産を粗末に扱うのならいっそ標柱や説明版などを撤去してしまったほうがいい。
頭にきたので、冷静になるためにルートを変更し、地下鉄新宿線の曙橋駅に向かう。牛込柳町から坂を上り、防衛庁の敷地を横目に見ると曙橋駅に着く。ここから地下鉄に乗り、神保町で三田線に乗り換える。
新板橋駅に下りたときには、既に太陽は西に沈みかけていた。埼京線の踏切を越えると近藤勇の墓がある。流山で捕まった近藤は、ここ板橋宿で罪人として処刑された。無慈悲にも侍として栄誉のある切腹が認められなかった。後にかつての同士である永倉新八によってここに墓が作られた。私がいる間にも数人の人がやってきて手を合わせていった。新選組の隊士たちが活躍した時代から150年が経とうとしている。本当の武士よりも武士らしく、幕末の動乱の時代を駆け抜けた新選組の侍たち、彼らの活躍はこれから先も語り継がれるだろう。
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【11月3日 日野】
日野は五街道の1つ甲州街道の宿場町である。甲州街道は江戸の日本橋から内藤新宿(現在の新宿)、高井戸、国領(調布市)、府中、日野、八王子を経て甲府、下諏訪まで達する街道である。ここ日野にも宿場町の施設として本陣や脇本陣が置かれた。日野駅からまっすぐ続く道がかつての甲州街道である。
かつての宿場町は今ではアスファルトの道路になってしまったが、道は狭い。かつての宿場町の中心部であった高札場跡(法令などを掲示した立て札、町の中心部におかれた)は図書館になっており、記念碑が残っていた。その近くには小さな資料館が残っており、当時の宿場の様子について展示されていた。
日野宿には本陣が残っている。ここの幕末の主が佐藤彦五郎である。彼は武芸に熱心で、屋敷内に道場を作ってしまったほどであり、近藤周助(近藤勇の義父)の門人となった。後に周助の代理として勇が江戸から出稽古にやってくるようになる。また彼は土方歳三の姉と結婚して、土方は自分の兄よりも彦五郎を慕っていて、しばしばここを訪れていた。ここもおじさんが説明についてくださった。嬉しいことに、ここは当時の建物がほぼ完全な形で残っている。さすがに本陣だけあって建物の作りも立派である。玄関から入ってすぐの部屋が、近藤が出稽古に来たときなど休んだ部屋だそうだ。もちろん畳は何度も取り替えられているだろうが
150年のときを越えて、目の前に近藤の姿が見えたような気がした。また、この家の建築には大石鍬次郎も関わっていたそうで、不思議な縁である。ここにも当時の生活を偲ばせる物が残っており、ざるそばの蒸篭があった。これを見ているうちにそばが食べたくなった。
日野駅のそばに宝泉寺という寺があり、そこに幹部の一人である井上源三郎の墓がある。彼は新選ぶ組が屯所とした京都の八木家の人の証言によると、無口だが温厚で、人望が厚かったという。後年大きな組織になった新選組であるが、決して近藤や土方だけの力では回らなかったのであろう。
日野から中央線で立川に戻り、モノレールに乗り換え2つ目の万願寺で降りる。ここは土方歳三の出身地である石田である。おそらく、近年まで農業地帯であったのだろう。割と新しい家が多い。土方家はここ石田の豪農であった。農業の収入の他に、石田散薬という薬の製造、販売で大きな利益を上げていた。そのためか、石田のあちこちに土方家があるが、そのほとんどが立派な屋敷である。土方の生家は数年前に改築されて、現在は真新しい現代的な住宅になっている。その後、石田寺に行き、墓の前で手を合わせた。石田寺の近くにはとうかんの森という小さな森があり、その真ん中に小さな稲荷神社がある。ここだけが土方が生きた時代の面影を残していた。
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【11月3日 調布】
午前5時前の中央線電車は、眠そうな乗客がぱらぱらとまばらに座っている。私は福島から夜行バスで来たので、寝不足である。電車が新宿に着くとあっという間に席が埋まり、つり革につかまる乗客も増えた、そして車内がたちまちアルコールの匂いで充満した。
午前6時前の三鷹駅、朝のさわやかな空気に包まれた。車返団地行きの始発バスまではまだ1時間近くある
そのうち30分を朝食時間、のこりを駅前をぶらぶら歩く時間にあてた。
6時30分を過ぎるとバスの発着が増える。路線バスはどこに行っても同じように思えるけれど、以外と地域差がある。私が気づいたのは、来るバスがすべてノンステップバスであることであった。私が住む福島ではまだまだ高い2段のステップ付きのバスが多い。
車返団地行きの始発バスは三鷹市南部の住宅地を走る。このバスの沿線は面白いものが多い、ひとつは富士重工の東京事業所、それから、国際基督教大学、ルーテル学院大学、東京神学大学とキリスト教関係の大学が並んで立地している。そのほかにも、野川公園と調布飛行場がある。
住宅の密度がだんだん低くなった。東京のごく近郊の住宅地とは思えない。地図を見るとわかるが、ここはJR中央線と京王電鉄京王線との間が最も離れた地域で、東京近郊の割には交通の便に恵まれない地域である。そのため乱開発を免れたのではないかと思う。
竜源寺前でバスを降りる。そのままバスの進行方向に少し歩くと近藤勇の生家跡がある。建物は戦時中に調布飛行場の工事のために壊されてしまい、わずかに井戸だけが残る。周囲には緑が多い。かつて多摩は武蔵野の森が広がっていたが、そのなごりをとどめることころはそんなに多くないだろう。近藤勇が葬られた竜源寺に行ってみる。山門前の大きなイチョウの木が少しだけ黄色くなりかけていた。近藤の墓の前で手を合わせる。会津の武士もそうだが、主への忠誠心と武士への誇りをかけて戦ったその姿は、現在の私たちにとってあまりにも鮮烈な印象を与える。とくに新選組隊士は、生まれつきの武士以上に武士らしくありたいと言う思いが強かったのだろう。だから今でも多くの人をひきつけるのであろう。
まだ8時前で時間がある。調布飛行場まで歩いていって、伊豆諸島行きのドルニエ228という19人乗りのかわいらしい飛行機を見た。かつては陸軍の航空基地であり、近くに富士重工の工場があるのは、富士重工が元々は中島飛行機といい、戦闘機などを製造するメーカーであったなごりである。近くの公園には戦闘機などを格納したコンクリートのドーム状の建物も残っていた。再びバスに乗り、三鷹駅に戻った。三鷹駅から日野駅まで中央線の電車に乗った。立川を過ぎ、多摩川を渡ると景色が広々として気持ちが良かった。
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【10月26日 会津若松】
SL「郡山会津路号」で会津若松駅に着いた。帰りは17時過ぎの快速列車と決めてある。およそ4時間あるが、その間に会津若松に残る新選組隊士の足跡をたどってみたいと思う。
言うまでもないが、新選組と会津藩のかかわりは非常に深い。清河八郎が幕府に提唱して結成された浪士組に近藤達が参加して京都に上ったが、意見の相違から近藤や芹澤鴨たちが分裂して作った組織が新選組の起こりである。そしてその当時の京都の治安維持の責任者である京都守護職にあったのが会津藩主、松平容保である。後に新選組は会津藩預かりの別働隊として幕末の京都を治安維持のために走り回った。もし山口県出身の方が居れば気を悪くするかもしれないが、私はそう見ている。
しかし、情勢は会津藩と新選組に味方せず、鳥羽・伏見の戦い(京都府)で大敗北を喫した。江戸に撤退した新選組は、甲陽鎮撫隊と名を改めて甲州街道を西に進むが、勝沼の戦い(山梨県)で破れ、再起をかけて流山(千葉県)に結集したところを新政府軍に包囲され、局長である近藤を失うことになる。
その後会津戦争に参加するが、ここでも武装の差は歴然で、有名な白虎隊の自刃のエピソードがあるように、会津藩は死に物狂いで戦ったが敗れた。その後、旧幕臣の一部と北海道に逃れ榎本武揚らと蝦夷共和国の設立を目指したが、ここでも破れ、幕末に華々しく活躍した、「最後の武士」である新選組は6年間の活躍を終えた。
会津若松駅から、マルーンに塗られた「まちなか周遊バス」に乗る。このバスは、会津若松駅→七日町→野口英世青春館→鶴ヶ城(県立博物館も近い)→御薬園→会津武家屋敷→東山温泉→会津武家屋敷→飯盛山(白虎隊士終焉の地)→会津若松駅と市内の主な観光地を循環するバスで、およそ30分ごとに運行されている。
七日町駅でバスを降りる。駅前すぐの阿弥陀寺には新選組三番隊組長を務め、会津戦争の後は土方らと別れ会津に残った。後に、会津藩が青森県下北半島に移されると(斗南藩・・・むつ市田名部に藩の本拠を置いた)、斉藤もここに移住した。後に東京で警視庁に勤めたり、学校の守衛をしたりして過ごした。そんな斉藤の花に手を合わせた。この人は謎が多く出身地さえ確定していない。なぜ会津戦争以降会津藩と行動をともにした理由もわからない。わかっているのは彼がここに眠っていることのみである。私なりに推測すると、幕末の動乱の時代、自分達の損得を考えず自分の信じるもののために命をなげうって戦った会津武士の生き様が斉藤の生き様と共鳴したかもしれない、と考える。重ね重ね、山口県出身の方を不快にしてすみません。
七日町駅に戻ると、まだ時間がある。七日町駅は「駅カフェ」して整備され、会津地方の和菓子や民現品が購入できるし、コーヒーを飲むことができる。コーヒーを飲むには時間が少々足りないが、時間がある人はゆっくりしてもいいだろう。
バスは城下町のなごりをとどめる狭い道を走る。小型のバスだからすいすい走るが、最後部のオーバーハング部に座っているせいかたて揺れがひどい。混雑している日は通常のバスがすぐ後に走るから、バスに酔いやすい人はそちらにしたほうがいいかもしれない。
バスを奴郎ヶ前(やろうがまえ)で降りる。降りて路地をしばらく歩くと天寧寺がある。この寺は、室町時代から戦国時代にかけて会津地方を支配した蘆名氏によって建てられたものである。ここに新選組局長の近藤勇と土方歳三の墓がある。坂道を登ってずいぶん奥の方に墓があった。近藤と土方の墓は並んで建っていた。新選組がこれだけの活躍ができたのは、この2人がそろって初めて可能になったのだろう。生まれた多摩でもなく、主な活躍の場となった京都でもないが、新選組にとって直接の上司になる会津藩の城下町で眠ることができるのは、彼らにとっても本望のことであろう。振り向くと鶴ヶ城と会津若松の市街を一望にすることができる。私も無意識のうちに「いい眺めだなぁ」とつぶやいていた。
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現代人は忙しい、仕事で忙しいのは止むを得ないとしても、遊びに行くにも高速道路を走ったり、新幹線に乗ったりと猛スピードで走り回っている。文明の進歩によって私たちが多大な恩恵を受けていることは否定しないが、なんだかもう少しのんびりしていてもいいような気がする。実は新幹線に乗ることよりも普通列車に乗って旅をしたり、高速道路を走るよりも一般道を旅したほうが贅沢なのではないかと思う。もっと言えば、松尾芭蕉の時代のように歩いて旅をするのは、現代人にはなかなかできない贅沢なことなのだと思う。
福島県の郡山駅と会津若松駅の間、およそ65km.(鉄道営業キロ)、磐越西線ん快速電車で1時間5分ほど、磐越道を走る高速バスなら1時間10分程度、国道49号線を自家用車で走ると2時間弱で行ける。そこを3時間かけてのんびりと走る列車がある。それが、この「SL郡山会津路号」である。
郡山駅1晩ホームにはたくさんの人が主役の登場を待っていた。やがて黒いボディのC57型蒸気機関車が入ってきた。この機関車は、1937年から47年にかけて製造された蒸気機関車で、美しい姿から「貴婦人」の相性がある。廃車になった後、199年から磐越西線での復活運行が行われている。
郡山を7割近くの乗車率で発車した。子供連れが多く、車内はにぎやかだ。郡山を出ると間もなく安達太良山が見えてくる。早くも磐梯熱海では20分の停車。急ぐ旅ではないし、のんびりプラットフォームを歩いているううちに時間が過ぎてしまった。ここからはSLにとって難所である中山峠越えである。機関車は盛大に煙を上げるが、時速30km.くらいまで落ちてしまう。そういえばかつて祖母が言っていたな、SLが坂を登るときの蒸気を排出する音が「なんだ坂 こんな坂」と聞こえると。そう思って聞いてみると本当にそう思えてくるものである。坂を上り終えるとほっとしたように足を速める。上戸を過ぎると猪苗代湖が、関都からは磐梯山が見えてくる。磐越西線の車窓のハイライトである。いつもの電車より速度が遅いから車窓をゆっくり眺めることができる。
猪苗代を過ぎると子ども達も疲れたのか車内が静かになる。私も弁当を広げて、食べ終わると少しだけうとうとする。会津盆地に向けて慎重に坂を下ると間もなく会津若松に着く。あっという間の3時間だった。
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【6 歩く博物館弘前と花輪線 8月10日】
今日は慌しい。11時過ぎの列車で帰途につくが、その前に弘前の町を一回りする予定である。まずは旧東奥義塾外人教師館を見る。ベージュとグリーンの外壁がある洋館で、なかなかおしゃれな建物である。この一角には、10分の1の大きさで再現された弘前市内の建築物のミニチュアがあり、ガリバーになった気分で見て回れる。
続いては弘前城を見る。この城は桜が有名だが、緑濃い季節の城もなかなか良い。まだ9時を少し過ぎたばかりだが既に暑く、顔から首筋まで汗まみれだが。弘前城は津軽為信によって築かれた城で、4万7千石の大名の城としてはかなり大きな城である。3層のやや小ぶりな天守閣は江戸時代当時のものである。9時になったので、城内のお店が開き始めたが、私は先を急ぐ。城の東側にはカトリック弘前教会があり、見事な尖塔がある教会建築である。ちょうどミサでもあるのか、近所の人が何人か教会の中に入っていった。私も近所の人にまぎれて入ってみようかとも思ったが、地元の人の信仰の場に土足で踏み込むのはやめておくことにする。
ホテルに戻りエアコンを思いっきり効かせて身体を冷やす。弘前駅に向かい、列車の時間まで駅ビルで時間を潰す。大館行き普通列車は駅ごとに乗客を減らし、青森と秋田の県境にある矢立峠を越える。電車は東京と同じようなステンレス車体、ベンチシートだが、車窓は深い山の中、不思議な感じがする。終点の大館で電車を降りると、花輪線の列車の発車までは2時間あるので、駅から町の中心部に向かう。草むした廃線後の踏切を渡る。かつて小坂まで通じていた小坂鉄道の跡である。カメラを廃線跡に向けていたら、通りかかったおじいさんに写真を職業にしているのかと聞かれた。たしかに普通なら写真に撮らないものだろう。
町の中心部のショッピングセンターで時間を潰し、この駅の名物である鶏飯を買って花輪線のディゼルカーに乗り込む。比内鶏のスープで炊いたご飯に、煮付けた鶏肉が入っていてなかなかうまい。いつのまにかディゼルカーは大館駅を発車していた。十和田南駅で進行方向が変わり、陸中花輪を発車したあたりで記憶が無くなり、荒屋新町駅に停車したときに一瞬目が覚めたが、安比高原も松尾八幡平も夢の中だった。目が覚めたのは好摩駅に停車する直前で、初めて乗る花輪線であったが、そのほとんどを居眠りしてすごしたことになる。もったいないことをしたものだ。
東北新幹線に乗り換え、くりこま高原を過ぎた頃あたりは真っ暗になった。みちのおくへの旅もそろそろ終わる。(終)
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【④ 津軽平野の鉄道を愉しむ 下 8月9日】
津軽鉄道は五所川原から津軽中里まで津軽平野の北部を走る鉄道である。ほぼ中間地点である金木を除きさほど大きな町は無く、ダルマストーブを装備した「ストーブ列車」や秋の「鈴虫列車」など、観光客を呼び込むことで生き残りを図っている。私が乗った列車も車内に風鈴が下がっていた。津軽鉄道名物「風鈴列車」である。発車前には車掌さんがストラップなどのグッズを売りに来た。小さいながらも奮闘する津軽鉄道に敬意を表して、列車の全面に掲げられている「走れメロス」のロゴの入ったストラップを買った。
列車はゆっくりと田んぼの中を走る。こまめに駅があるが乗客は少ない。金木駅は大きな駅で、列車が行き違いができるようになっており、立派な駅舎がある。ほとんどの乗客がここで降りた。私もここで降りた。
金木は戦前から戦後すぐにかけて「斜陽」、「人間失格」、「津軽」などの作品を残した太宰治の出身地である。どういうわけか高校時代の私の周囲には太宰のファンが多かった。私自身、「人間失格」や「斜陽」を何度も読み返した。高校時代の思い出に浸るわけではないが、バッグの中には「人間失格」の文庫本が入っている。
駅前から10分も歩くと太宰の生家である「斜陽館」に着く。「斜陽館」、つまり旧津島家は木造2階建ての非常に立派な家だった。太宰の生家である津島家は、津軽地方有数の大地主であった。大きな蔵もあった。太宰の文学に関する資料を見ながら、太宰が少年時代と1945~46年の疎開時代を過ごした家を回った。
金木駅に戻ると、駅は非常に混んでいた。私は往復切符を買うと駅に併殺された物産館に避難してジュースを飲みながら北京オリンピックの女子柔道の試合の中継を見た。どうも結果はあまりはかばかしくないようである。
たくさんのお客さんが改札を通ったが、私を除いて皆五所川原行きの列車が入るプラットフォームに行き、津軽中里行きの列車が入るプラットフォームに残ったのは私ひとりだった。添乗員さんに引率された団体さんの一団もいて非常ににぎやかだ。
津軽中里行きの列車は非常に空いていた。15分ほどで津軽中里に着いた。折り返しの列車の発車まで30分弱あったが、周囲には小さな集落があるだけなので、駅前を少しだけぶらぶらして列車に戻った。そうしているうちに観光バスが駅に横付けされ団体のおばさんたちがにぎやかに列車に乗り込んだ。津軽中里から金木までは、おばさんたちと私だけだった。
五所川原に戻り。JRで津軽平野南部の大鰐温泉駅に出た。ここから弘南鉄道のもう1本の路線である大鰐線に乗り弘前に戻った。中央弘前駅は古びていて、歴史的な建築物が多い弘前の町並みに似つかわしかった。
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【④ 津軽平野の鉄道を愉しむ 上 8月9日】
津軽平野の中心地である弘前駅は真新しい。まるで都会の駅のようだ。その弘前駅の片隅に、まるで階段に押しつぶされるような位置に弘南鉄道弘前駅がある。このように書くと、粗末な寂れた駅を連想するかもしれないが、コンパクトながらも真新しい駅で、うらぶれた感じはまったく無い。駅に発着する電車もステンレスの電車で都会的である。もっとも、つり革には東急百貨店の広告が書かれている。東京を走る東急電鉄の車両が津軽平野で第二の人生を送っているのだ。
弘前駅を発車し、間もなく弘前東高前、その後もこまめに駅がある。利用者は多く、地域の足としてしっかりこの地に根を下ろしている会社のようだ。電車は津軽平野を東へと走り、車両基地のある平賀駅の手前で北へと向きを変える。窓の向こうには弘前市街、そしてなだらかで女性的な磐木山が見える。田んぼの中をしばらく走ると黒石駅に着く。
黒石はかつて津軽藩の支藩が置かれたところである。駅から少し離れるが、「こみせ」と呼ばれる木製のアーケードのようなものが残る通りがあるので行ってみる。既に気温は上がり、汗で背中が湿ってくる。こみせには、小さな提灯が下げられている。小学生が授業で作ったのだろうと思われる。名前と将来の夢が書かれている。男の子はスポーツ選手が多い、私の頃と違うのは、サッカー選手やバスケットボール選手などスポーツの種類が多様化したことである。女の子はパティシエや保育士、花屋さんが多かった。
弘南鉄道の電車で弘前に戻り、今度は津軽平野の北部を目指す。五能線の普通列車で津軽平野を北上する。撫牛子(ないじょうし)という読み方の難しい駅を過ぎると、川部。ここから西に向かって走り出すと間もなくりんご畑が増えてくる。既にりんごの木にはたくさんの実がついていた。こんなにたくさんの実がなるものだと感心した。五所川原で津軽鉄道に乗り換えるが、40分ほど時間があるので駅前の食堂で昼食をとる。店は古びていたが、店主のおじいさんもかなりの高齢だった。
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【③ 階段国道としょうがみそおでん 8月8日】
竜飛崎からの眺めは豪快だった。眼下には津軽海峡、遠くにはうっすらと北海道が見えた。駐車場には「津軽海峡冬景色」の歌碑があり、年配の方がこの碑を背景に写真を撮っていた。もう30年以上前の歌だが、この歌が竜飛崎の名を一躍有名にしたことは間違いない。
歌碑の裏側に階段がある。何の変哲も無い階段だが、この階段が国道339号線、通称「階段国道」である。自動車が通行できない国道は全国にいくつかあり、国道291号線の群馬県と新潟県の県境である清水峠付近は登山道が国道になっている。この階段国道は幅の狭い362段の階段である。竜飛岬のバス停で帰りのバス停を待ってもいいが、バスは階段国道の下の竜飛漁港のバス停に泊まるし、ここまでかなり大回りして時間がかかるから乗り遅れる心配はなさそうだ。私は竜飛漁港まで歩いて降りることにした。
階段を下ると竜飛漁港、この漁港の風景がまたよかった。漁港で網の手入れをするおばちゃん、水面近くをのんびり飛んでいくカモメ、旅のよさって点じゃないんだよ、面なんだよ、そう思わせる風景だった。もしも、バスの中でおしゃべりに夢中になって、竜飛岬だけ観光して、またバスに乗って居眠りしながら戻ったのでは、崖の下に張り付くような漁村や、のんびりした竜飛漁港を見ることは無かっただろう。もしそうだとしたらこのたびの印象はずいぶん平坦なものになっていたと思う。
バスに乗って三厩駅まで戻り、津軽線の列車の時間まで1時間少々時間があったので、駅近くの川や海を眺めて過ごした。列車に乗り、蟹田を過ぎると徐々に家が増えてくる。列車はひたすらのんびりと海と国道280号線に祖って走り、青森市街地に入ると左へ向きを変えると終点の青森駅に着く。
青森では、昨日友人に教えてもらった店に入って、しょうが味噌おでんやイカの一夜星を肴に酒を飲んだ。しょうが味噌おでんはしょうがのさっぱりした味が以外にもおでんに合っていてうまかった。他のお客さんや女将と話が弾んでいるうちにそろそろ今日の宿泊地である弘前行きの列車の時間が迫ってきた。後ろ髪惹かれる思いで店を出る。いつの間にか真っ暗になっていた。
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【② みちのおくの突端へ】
脇野沢港を出航したフェリーは、晴天の陸奥湾を西へと進んでいる。風は強いが波はきわめて穏やか、船室にいるのがもったいないので甲板に出て陸奥湾の潮風と太陽を身体全体で浴びていた。そうしながら昨日から今日のことを振り返っていた。
昨日は大湊駅で学生時代の友人と11年ぶりに会い、酒を飲みながらお互いの近況を報告しあった。11年の間にお互い色々あったけれど、ここにこうして一緒に酒を酌み交わしあえることが何よりも嬉しい。次に会えるのは何年先になるのかわからないが、またぜひ会いたい。今朝は下北半島の西にある脇野沢港まで送ってきてくれた。そういえば学生時代は楽しかったな、そんなことを考えていた。戻れるものなら戻りたいがそれはかなわない、しかし、あの時代の最大の遺産がたくさんの友人達だ。
脇野沢港を出てしばらくすると鯛島という小島が見える。見ようによってはクジラが浮上しているようにも見える。その奥にあるのが義経伝説もある九艘泊という漁村である。前方にはうっすらと津軽半島の低い山々が見えてきた。フェリーで1時間だからたいした距離ではない。
蟹田港で降りると、蟹田駅を目指して歩く。蟹田は国道280号線に沿って細長い集落がある。フェリーの蟹田港から蟹田駅までおよそ20分かかった。蟹田から竜飛崎を目指すが、次に乗る津軽線の列車の発車時刻までまだ1時間以上ある。時間を持て余すことを恐れていたが、駅近くのコンビニエンスストアに行って雑誌を立ち読みしたり、駅の待合室で文庫本を読んでいるうちに列車の発車時刻になった。
津軽線の列車は懐かしい冷房無しの列車であった。窓を大きく開け津軽半島の緑色の風を吸い込む。蟹田の次の中小国駅はかつては小さな駅だったが、現在では、北海道へ向かう津軽海峡線が分岐して、特急「白鳥」や寝台特急「北斗星」「カシオペア」などが行き交う重要な駅になった。中小国を過ぎると山越えになる。非力な国鉄型のディーゼルカーは思いっきりエンジンをふかして勾配に挑む。坂越えがひと段落すると津軽二股駅、右側に新幹線のような立派な高架橋が見えてくる。先ほどの津軽海峡線である。将来は北海道新幹線も走ることになるが、そのころ津軽線はどうなってしまうのだろうか。
終点の三厩駅前は広場の他は林が続いているだけ。その駅前から竜飛岬行きのバスに乗る。私は後ろから2番目の座席に座る。バスは役場や病院、学校などきめ細かく止まり、お客もが入れ替わっていく。だんだん海と山が迫り、荒涼とした漁村風景になってくる。バスは竜飛漁港でいったん引き返し、急な坂を上ると竜飛岬に着く。
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【① 大湊まで 8月7日】
東北新幹線「はやて7号」は仙台を発車すると軽々と加速していく。仙台市街を抜け、利府の新幹線の車両基地を右に見ながら緩やかにカーブを切ると古川駅の直前まで一直線に丘陵地帯を突っ切っていく。一ノ関、北上をあっという間に通過すると仙台駅からわずか44分で盛岡駅に着く。盛岡駅で4分停車中に秋田行きの「こまち1号」が先に発車した。「はやて1号」は、乗客が少しへって身軽になり八戸を目指す。盛岡を過ぎると右側に姫神山が見えてくる。北上山地の中では早池峰山についで目立つ山である。15年前、はじめての一人旅のときに、盛岡から八戸に行く普通列車の中で乗り合わせたおじいさんがいろんなことを教えてくれた、そのときにこの山のことも教えてくれたことを思い出す。
列車はいわて沼宮内駅に着く。小さな町であるが、かつてはここから奥中山駅にかけては東北本線有数の急勾配の難所であった。新幹線は軽々と坂を上っていく。「はやて号」は盛岡以南は270km./h、盛岡以北も260km./hの高速で走り、鉄道の難所も昔話にしてしまった。
八戸着10時3分、八戸からの「きらきらみちのく下北号」は11時19分発なので少し時間がある。まだ新しい駅ビルを歩いたり、駅に隣接するビルに展示されている八戸三社祭の山車を見たりした。人形が満載になった楽しそうな山車であった。
「きらきらみちのく下北号」は、3両編成で、1号車と3号車が窓側にシートを向けることのできるリクライニングシート、私の乗る2号車が畳敷きのボックスシートになっている。発車間際に私より多少若い男女が私と同じボックスに座った。なんだか2人の恋の行方を邪魔するような無粋な男になってしまったようだ。
ディーゼルエンジンの唸りとともに八戸駅を発車する。快速列車であるが、時刻表では通過となっている駅にも停車しながらのんびりと進む。野辺地からは大湊線に入る。すると景色が一変した。左手には陸奥湾、右手には低木の生える荒涼とした丘陵地帯となる。海沿いで風が強いことと、夏でも気温が上がらないことがこのような景色を生んだのであろう。
原子力施設のある六ヶ所村の入り口である陸奥横浜を過ぎると目の前に下北半島で最も高い釜臥山(恐山)が見えてきた。いつの間にか向かいに座っていた男性がいない。車内で仲違いした様子はないし、どうしたのだろうと思っていたら、袈裟を着て戻ってきた。お坊さんだったのか、道理で髪を丸刈りにしていたわけだ。よく見れば女性、もう奥さんと言い切っても良さそうだが、お腹が大きくなっていた。お坊さんと妊婦さんと同じボックスで旅をしてきたのだから、私のも何かいいことがありそうだ。
二人は終点の1つ手前の下北で降りた。むつ市の市街地である田名部はこちらが近い。私は終点の大湊まで乗る。目の前に釜臥山がどんどん迫ってくる。左に急カーブを切ると終点の大湊、明治時代以来の軍港であるが、駅と軍港は離れているようで、護衛艦でも見えないかと探したが見えなかった。
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矢場町から地下鉄に乗り、神宮西で降りる。少し歩くと大きな神社がある、熱田神宮である。1960年5月19日、桶狭間の合戦を前にした信長がこの神社で戦勝祈願をした。相手は圧倒的に優勢な今川勢、このときの信長は何を思っていたのだろうか。境内には大きな楠の木がある。枝を大きく広げ、幹は太く立派で堂々たる姿である。しばらくこの楠に見とれていた。
参拝を済ませ、名鉄神宮前駅から各駅停車の電車に乗り、名古屋市南東部の住宅地を走る。名古屋市から豊明市に入り、中京競馬場前駅で降りる。駅から少し住宅地を歩くと桶狭間古戦場跡がある。(ただし、桶狭間とされる場所はこのほかに数箇所ある)南北が小高い山に囲まれて、大群の移動には不利そうな土地である。そのなかの斜面に小さな公園として残されている。今川義元の墓もあり、花も供えられている。義元はここで死ぬとは露ほども思っていなかっただろう。無念さは想像を絶するものがある。歴史はしばしば残酷な運命を人にもたらす。私も義元と名も無き兵たちの冥福を祈った。
この後慌しく電車に乗り、1つ名古屋側の有松駅で降り、東海道沿いに残る古い町並みを見て、また電車に乗り、名古屋を過ぎ新清洲で降りた。お昼時になったので駅前の中華料理店で台湾ラーメンを食べる。これは、台湾の担仔麺をもとに作られた名古屋のご当地ラーメンで、ひき肉やニラ、もやしなどと唐辛子を炒め、醤油ベースのスープと麺に合わせたものである。ピリッと辛い味がなかなかいける。(台湾の担仔麺は辛くないが)
これから、清洲城に行く、清洲城は1555年から63年にかけて信長が本拠地とした城であり、信長の死後織田家の後継者を決める清洲会議が行われた場所でもある。さらに、江戸時代の尾張藩は始めのうち清洲城に置かれた。それだけ重要な史蹟のはずなのだが、この史蹟はちっとも大事にされていない。明治時代に建設された東海道本線は清洲城跡の真ん中を通っている。戦後に東海道新幹線がその脇に建設された。その後、清洲城の天守閣が再建されたが、これは写真や図面をもとにした再建天守閣ではなく、当時の典型的な建築様式をもとに作られた城ということだ。その上天守閣の作られた場所は当時の城跡ではなく川むかいだ。このようなことから、信長の足跡をたどる上では欠かせない場所なのだが、行くべきか避けるべきか迷っていた。
東海道本線と新幹線に分断された城跡は静かだった。幸か不幸か「天守閣」は閉館日だった。当時の本物の天主台だったところは小高い丘になっている。石の上に腰をかけ目を閉じる。いつの間にかすぐそばを走る列車の音も聞こえなくなる。私が頬で感じている風の匂いから排気ガスのにおいが消え、草と木々の匂いがしてくるようになった。私はいつの間にか450年前の清洲城にいた。信長が城下町を見上げながら何か思案している。遠くでは田植えをしている人々の姿が見える。城の中を忙しく走り回っている侍たちがいる、猿みたいな顔の男がいるが彼が秀吉かもしれない。
そろそろ2008年に戻らねばならない、私は後ろ髪を惹かれる思いで工場と線路に挟まれた殺風景な道を歩いてJR清洲駅に向かった(終)
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名古屋駅構内の喫茶店で朝食をとる。コーヒー1敗の値段でバターロール、ゆで卵、フルーツ、コンソメスープがついてきて大変おとくである。職場へ急ぐサラリーマンやOLが次々とやってくる。今日はゴールデンウイークの谷間の平日である。名古屋駅からものすごい数の人が地下鉄にも駆って流れている。私も川に流される小石のようにその流れに乗って地下鉄に乗った。久屋大通駅で地下鉄を乗り換え、次の市役所駅で降りる。市役所駅を出ると目の前に名古屋城が見えてくる。
織田信長は尾張の戦国大名、織田信秀の三男として1534年ここ、那古野城で生まれる。三男であるが、正妻の子であり、信秀の後継者として育てられ、2歳で那古野城主になった。現在の名古屋城の二の丸がそれに当たるという。
名古屋城の開門は9時と言うことだが、少し時間があるので新聞を読んで過ごした。9時と同時に城内を歩き、二の丸庭園を見る。那古野城であったことを偲ばせるものはほとんど残っていない、わずかに「那古野城址」の石碑が残っているのみである。これを見て満足し、金のしゃちほこが輝く天守閣も見えるが、これは信長の時代には無かったものなので今回はこれで城を後にする。
信長は少年時代奇行が多く、「大うつけ」と呼ばれたことは知っている方も多いと思う。うつけとは「からっぽ」という意味である、どこがからっぽであるかは想像に任せるが。そんな信長の教育係として苦労をしたのが、平手政秀である。ところが、信長の奇行はおさまらず、1551年に信長の父、信秀の葬儀の際に抹香を祭壇に投げつけたそうだ。そのような信長の奇行を諌めるため、政秀は自刃をしたといわれる。(原因については諸説あり)後に、信長は政秀の菩提を弔うために寺を作った、それがこれから行く政秀寺である。
地下鉄を矢場町駅で降りる。駅の周りには松坂屋やパルコなど大型の商業施設が並んでいる。また駅のすぐ目の前には、名古屋市を南北に走る久屋大通と、東西に走る若宮大通、若宮大通の上には名古屋高速2号東山線が通っており、交通の要衝でもある。その交差点から若宮大路を西に5分ほど歩くと政秀寺がある。さほど大きい寺ではく、門も閉まっていたが、信長が、若い頃の自分を諌めてくれた政秀に感謝してこの寺を作ったという説を信じるとするならば、信長の人間臭い一面を見るようで嬉しい気持ちになり満足した。
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先週の土曜日、福島県の白河市と棚倉町を結ぶJRバス関東白棚線のバスに乗った。このバスはとても変わった歴史を持っている。この路線のルーツは、1916年に開業した白棚鉄道という私鉄であった。これが1941年に鉄道省(後の日本国有鉄道、国鉄)に買収された。しかし、1944年には戦争の激化に伴い、レールがはがされバスでの運行に変わった。戦後に鉄道復活の話もあったが実現せず、結局かつての線路跡をバス専用道路として整備して現在に至っている。
白河駅は私の好きな駅だ。堂々とした駅舎、広い待合室、しかし乗客は少なく、駅前にも賑わいが見られない、東北新幹線が発着した新白河駅に人の流れが移り、商業の中心も移ってしまった。ここから白棚線のバスが発車する。朝夕15~30分、日中は30~60分ごとと地方のバス路線としてはまずまずのサービスレベルである。
車内は高校生などで満員だった。白河の市街をしばらく走ると新白河駅、ここでも乗客が増える。新白河駅周辺はショッピングセンターが増えた。土曜の午後は駐車場が一杯と言いたいところだが、ここでも勝ち負けの差は大きいようだ。市街地を外れて間もなく何湖公園に着く。南湖公園は1801年に白河藩主松平定信によって作られた公園である。じっとしているだけで汗がにじむほど暑いが、のんびり湖の周りを歩いて松平定信を祀った南湖神社を参拝する。土産物屋でミネラルウオーターを買って飲む。ミネラルウオーターは喉から胃へ、胃から身体の細胞の一つ一つに染み渡る。いい歳をしたおじさんがやるのは恥ずかしいが、ミネラルウオーターのボトルをほほに当ててその冷たさを感じた。
再びバスに乗り、実業高校を過ぎるとバス専用道路になる。バス1台がやっとの道幅だ。カーブの緩やかな曲がり方など、間違いなくかつて線路であったことを物語る。表郷村の中心地である磐城金山でバスを降り、バス専用道に入るバスの写真などを撮った。磐城金山からもう一度バス専用道になる。逆川という変わった地名付近が阿武隈川と久慈川の分水嶺になるが、嶺と言うほどはっきりとした山になってはいない。ここを過ぎるとまもなく磐城棚倉駅、バスはカーブの多い棚倉の町を走り、棚倉城を右目に見、東白川農商高校をすぎ、小さな川の橋を渡ると終点の祖父岡バス停に着く。小川の橋には「久慈川」とかかれていた。河口の日立市ではあれだけ大きい川なのだが、ここでは細く頼りない流れだった。
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犬山遊園駅から、モノレールが出ている。このモノレールは日本モンキーセンターと直結している動物園駅まで行く。古いモノレール車両に乗り込むと間もなく発車した。私は終点の動物園まで乗ろうと思っていたが、そこまで行くとモンキーセンターまで行くことになってしまうので、途中の成田山駅で降りることにした。
成田山駅は、成田山名古屋別院の駐車場にあった。長い階段を上り成田山を参拝した。汗をかいたが、かなり高い床にあり、犬山城や木曽川を望むことができなかなか素晴らしい眺めだった。
山を下り、しばらく犬山の市街地を歩き、犬山城に向かう。犬山城に近づくと老夫婦や中高年の女性客など歩く人が増えてきた。小高い山の上にある犬山城は1469年、尾張国の守護大名斯波氏の家臣である織田広近によって作られた。その後、増築されたが、今でも戦国時代から江戸時代初期の建築様式を残す貴重な城である。恐ろしく急な階段を登り最上階に出ると、素晴らしい眺めである。北西の方角にはゆったりと流れる木曽川、その向こうには美濃国、東から南にかけては濃尾平野と犬山の市街地が広がっている。
既に午後3時近くだがまだ昼食を済ませていない。歩き回ったり電車に乗っているうちに昼食のタイミングを失ってしまった。結局、犬山駅の中にあるハンバーガー店でハンバーガーを食べ、広見線の電車で新可児にでて、さらに乗り換えてみた景気の電車に乗った。山間に入り、線路の回りの景色はローカル線のそれである。大手私鉄でこれが味わえる区間と言ったら、東武鉄道東上線の小川町~寄居間であろうか。終点の御嵩は、寄居よりもはるかに小さな町だったが、中仙道の宿場町の面影を残しており好ましい風景だった。その後、新可児、犬山で乗り換えて名古屋に戻った。名古屋まで1時間少々だが、山間部から郊外の住宅地になり、だんだん住宅の密度が濃くなり、マンションや工場も見えてきて最後には名古屋駅前のビル街が迫ってきた。見時間時間だが劇的な風景の変化だった。
夜は地下鉄で栄に出て、味噌カツを食べて、繁華街をぶらぶらした。名古屋の夜は街の規模の割には町から賑わいが消えるのが早いようだ。
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玉の井駅から木曽川の堤防を目指して歩く。路地ではおばあちゃんが玄関先に椅子を出して転寝をしていた。平和なんだなと思う。5分ほどで木曽川の堤防の上に出る。河原には親子連れなどたくさんの人がいてスポーツをしたり犬の散歩をしていた。しばらく下流に向かって歩くと水色の尾濃大橋が見えてきた。まだ河口までだいぶ距離があるがかなり長い橋だ。後で調べてみると、全長767.5メートルもあるそうだ。階段を上っていよいよ橋を渡り始める。両側の河原の緑が濃い、そして山が遠い、北側のはるか遠くに市街地、おそらくは岐阜市の市街地だろうが、山はそのずっと先にある。日本でこんなに広々とした景色はなかなか見れるものではない。そして風が心地よい。空気の匂いがまたいいのだ。川の水と木々と草の匂いの混じった匂い。生気に満ちた匂いである。自殺志願者と間違えられると困るけれど、しばらく橋の上から眺めと、肌に触れる風の感触と匂いを楽しんだ。
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尾濃大橋を渡ると岐阜県に入る。農地の中に住宅地が混じるようになる。須賀駅までは1時間くらいかかるかと思ったが、思いのほか早く、50分くらいで着いた。須賀駅は無人の小さな駅だが自動改札機があり、高度に合理化された駅だった。新羽島駅行きの電車も30分に1本程度かと思ったら、15分に1本もあり便利だった。2両編成の電車も真新しく色々な面で驚いた。新羽島駅は東海道新幹線岐阜羽島駅のすぐ脇にあった。新幹線のコンコースを一瞥して引き返す。須賀駅を過ぎ、笠松から名鉄本線に入るとここから急行列車になりスピードを上げ岐阜まであっという間に着いた。この後は各務原線の電車に乗り犬山城最寄の犬山遊園駅まで行く予定である。各務原線のホームに下りて電車の行先を見て「はて?」と思った。電車の行先は「中部国際空港」になっているのである。私はこういうことだけは勘がいいから、この電車は岐阜から犬山、名古屋を経由して中部国際空港まで行くのだなと理解できたが、名鉄の列車の行先はなかなか複雑だ。電車に乗って発車を待っていると、20歳くらいの男女が乗りかけてはやめ、何かを話し合っていた。それでもらちが明かなかったのか、女の子が私に「この電車は各務原に行きますか?」と尋ねてきた。私は各務原線の電車に乗るのは今日が初めてだが、常連客のような顔をして「はい、通りますよ」と答えた。二人はほっとした顔をして私の斜め向かいに腰掛けた。
各務原線はずいぶんこまめに駅がある。もっとも電車の加速性能がいいからその割にはスピードが速い。さっきの2人は各務原市役所前駅で降りていった。下りる間際、女の子は「さきほどはありがとうございました」と言って下りていった。少しいい気分になる。そんなに美人と言うわけではないが、気持ちのいい言動は周りの人を幸せにします。私も少し彼女を見習わなければ。
新鵜沼を過ぎると木曽川を鉄橋で渡る。右側に犬山城が見えてくる。間もなく犬山遊園駅に着く。
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名鉄名古屋駅は忙しい。2本の線路で膨大な量の乗客と列車をさばいている。今日は日曜の朝7時半、乗客はまだ多くないだろうが、平日の朝晩は狭い駅が人で一杯になるだろう。一宮、岐阜、犬山、津島方面行きのホームで待つと、犬山行きの普通列車がやってきた。スカーレット一色の電車は、私が子供の頃に見た名鉄電車そのままだった。長いホームに短い犬山行きの電車が停まり、発車するとまもなく私が乗る弥富行きの電車が来る。こところが発車時間が迫っても津島行きはさっぱり来ない。駅員に聞いてみると「あちらの電車です」と言う。よく見ると、長いホームの反対側の端に私が乗る津島線弥富行きの準急電車が停まっていた。長いホームを活かして、列車ごとに停車する場所を買えて設備の制約を少しでも解消しようとしているのだろう。
名古屋を出るとまもなく地上に出る。犬山線が分岐し、須ヶ口では私が乗る津島線の電車が名鉄本線から分岐する。沿線は宅地化が進んでいるが時折田んぼも見られる。高架駅の津島から尾西線に入り、JR関西本線の線路が見えると終点の弥富に着く。名古屋の喫茶店は朝がすごいと聞く。ぜひ体験しようと思って弥富まで空腹を我慢してきた。しかし駅の周囲に喫茶店はあるが「準備中」の札がかかっていた。すぐ近くの近鉄や富駅まで行ってみたが、こちらもなし。やむを得ずコンビニエンスストアのおにぎりで当座をしのぐ。
弥富から再び電車に乗り、尾西線で一宮を目指す。地図を見た限りでは、尾西線の津島~一ノ宮間は農村部を走るものだと思っていたら、思っていた以上に宅地化が進んでいて、2両編成の電車は座席が大方埋まっていた。一宮で同じ尾西線の玉の井行きの電車に乗り換える。しばらく時間があるので電車を眺めていたら、敷地を接するJRの尾張一宮駅のほうが乗客が多い。名古屋~須ヶ口間はカーブが多く、所要時間でJRに太刀打ちできないためだろうか。
玉の井行きの電車は真新しい高架橋をかっ飛ばす。一宮~玉の井間は行き止まりの盲腸線なので、もっとのどかな路線化と思っていたがそうでもなかった。終点の玉の井駅に着いたら、次は木曽川の対岸を走る竹鼻線に乗る。いま乗ってきた電車で一宮に引き返し、名鉄本線で笠松まで行き竹鼻線に乗るのが常道だろうが、今日は天気もいいし、竹鼻線の須賀駅まで歩いてみようと思う。濃尾大橋で木曽川を渡るのも魅力的だ。地図でざっと見たら1時間程度でいけそうだとわかったし、木曽川を渡れば道なりに進めば須賀駅までは道なりに進めばたどり着く。
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【3 三岐鉄道】
四日市から近鉄の普通電車に乗り富田で降りる。ホームの向かいに三岐鉄道の黄色い電車が停まっていた。かつて西武鉄道で活躍していた電車で、正面の丸みを帯びた2枚窓とステンレスの飾り帯に見覚えがある。発車まで30分近くあるから、ホームで色とりどりの近鉄の電車を眺めながら缶コーヒーを飲む。本当はこじゃれた喫茶店にでも入ってコーヒーでも飲みたいが、旅に出るとやたらと先へ先へ急ぎたがるのが私の性分である。
電車は富田駅を発車するとしばらくJR関西本線と並走する。その後JR線とはなれて住宅地と田が混じった平野を山に向かって進んでいく。乗客は多く、途中駅から乗ってくるお客も多くなかなか活気のある鉄道だ。それに、「ローカル鉄道としてはずいぶん駅の構内が広く立派な設備だ。なぜだろうと思ったら、機関車に牽かれた貨物列車とすれ違った。後で調べていると、この鉄道はセメント輸送を大きな使命として建設されたそうだ。長い貨物列車が走るための設備を有しているわけだからそれだけ広大な駅が多くなるわけだ。途中に大安という駅がある
。どんなところか期待していたら、ごく普通の田に囲まれた小集落だった。東藤原駅近くには大きなセメント工場があり、貨物列車にセメントの積み込みをしていた。ここを過ぎると山の気配が濃くなり、終点の西藤原駅に着く。のんびり歩いてみたくなったが、この先の予定もあり、帰りの切符を買って、駅構内に展示されている機関車の写真を撮って折り返しの電車に乗る。
途中の伊勢治田駅で降りて、三岐鉄道のもう1つの路線である北勢線の終点である阿下喜(あげき)駅まで歩くことにする。道路沿いにお寺がある。福島だったらかなり有名なお手rになりそうな立派なお寺だ。ここに限らず伊勢国のお寺は立派なものが多い。宗教勢力の強い土地柄なのか、裕福な土地なのか。坂を下り員弁(いなべ)川に架かる橋の向こうに阿下喜の町が見えてくる。病院の建物が一番目立つ。阿下喜駅は、新築の建物で、ローカル鉄道なのに、駅には自動改札機も備えられている。駅に停まっている電車もあたかも新車のようにきれいに整備されている。
北勢線はかつては近鉄が保有していたが、利用客が減少して苦しい経営状態になった。2003年に三岐鉄道に移管された。そのときに駅や車両の整備を行ったのだろう。昼間に乗った内部線・八王子線とともに、狭い軌間(762mm.)を採用している貴重な存在である。そのためか、カーブは他の鉄道よりもスピードを落として慎重に走る。阿下喜を発車したときには私ひとりだったこの車両も駅に着くごとにお客が増えた。スーパーマーケットに併設された駅があり、そこから一組の親子が乗ってきて私の向かいに座った。5・6歳くらいの女の子を連れたお母さんはたぶん私と同じ位の歳だろう。彫が深く、浅黒い肌をしている。フィリッピンかインドネシアから来た方だろうか。勝手の違った国での子育ては大変だろう。そんなことを考えているうちに、なんだかこのようにして鉄道に乗って遊びまわっていることが後ろめたい気持ちになってきた。俺、いったい何やっているのだろう。親子の向こうの空はすっかり夕暮れの気配だ。親子は手をつないで電車を降りていった。
今晩は名古屋で一杯やろうと思っていたが、不意に「その手は桑名の焼きハマグリ」という江戸時代のジョークが浮かんできた。なんだかもやもやとした気持ちを抱えているのも良くない。桑名駅を出て町を歩いた。
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【2 近鉄内部・八王子線】
名古屋駅を出て、駅の西口にあるホテルに荷物を預け、いよいよ東海地方の私鉄めぐりを始める。はじめに、近鉄で四日市まで出る。地下の近鉄名古屋駅から伊勢中川行きの急行列車に乗る。間もなく地上に出ると右にJR関西本線の線路が見える。近鉄のほうが列車の本数も多いし、列車の編成も長く優勢に見える。急行列車だから駅を次々と通過していく。気持ちのいい走りっぷりだ。弥富を過ぎると木曽川の長い橋を渡る。その先は三重県、伊勢国と言ったほうがしっくりくるか。ここは木曽川と長良川に挟まれたきわめて狭い島で、その名も長島という。戦国時代、長島の願証寺を中心に一向宗(浄土真宗)の勢力が大きな力を持ち信長を散々苦しめた。
今度は長良川を渡ると桑名に着く。桑名駅を出て間もなく、鉄道橋とは思えない細くはかなげな橋が列車の上をまたぐ。これが今日の夕方に乗る三岐鉄道北勢線である。だんだん家が建て込んで四日市に着く。四日市は、私などの世代は、大気汚染による公害病の代表例として「四日市ぜんそく」を社会科の時間に学習したから、イメージが良くないが、これから四日市市内を走る近鉄のローカル線2本に乗る。
ここで、「軌間」という言葉が問題である。鉄道とは2本のレールの上を車輪で走る乗り物である。軌間とは、2本のレールの感覚である。どんな鉄道でも軌間が一定と言うわけではない。JRの新幹線、京成電鉄、京浜急行、近鉄の大部分、阪神、阪急などは1435mm.の標準軌(世界の多くの国が採用している)。JRの在来線、東急、東武、西武、小田急、名鉄、南海などの日本の多くの鉄道は1067mm.の狭軌を採用している(他に、台湾、フィリッピン、インドネシア、赤道以南のアフリカ)。これよりも狭い軌間の鉄道は日本ではほとんど廃止されてしまったが、わずかに三重県に3路線が残っている。これを一気に乗ろうと思う。
内部・八王子線乗り場は改札口を出て、長い通路の先にあった。ちょうど電車が到着したところで、1両ごとに黄色・オレンジ・ピンクと異なった色に塗られたカラフルな3両編成の電車から思いがけず多くの人が降りてきた。私が乗り込んで見るとやはり小さい。幅で見れば路線バスより狭いかもしれない。1人崖の座席が通路を挟んで並んでいる。四日市を発車すると住宅地の中を走る。内部線と八王子線が分岐する日永駅はアルファベットのAの字のような変わった形をしている。この駅を出発すると右へゆっくりと急カーブを曲がると八王子線の終点の西日野、わずか3駅の小さな旅だった。
西日野駅は小さな川の前にあった。この川が曲者で、かつてはその名の通り八王子まで延びていたこの鉄道を西日野止まりにした犯人である。1974年の大雨のあと、ここから伊勢八王子までの区間が廃止になったのである。この後、内部線に乗り換えるには、この電車で日永まで戻ると内部線の電車に乗り換えることができるが、少し冒険をして、日永の南隣にある南日永駅まで歩いてみようと思う。時間は16分間、歩行距離はおよそ1.3km.、際どいが茶連にしてみようと思う。川を渡り、四日市南航行の入り口にたどり着いたときには、すでに7分が経過していた、残りの距離は半分以上ある。ここからの直線は競歩の選手のごとく猛烈な勢いで進む。11分経過、踏切が見えてきた、これで間に合いそうだ。結局14分かかって南日永駅に着いた。今度の電車間エメラルドグリーンに塗られた電車であった。だんだん田が見えてきた。福島では田植えはこれからだが、こちらでは田植えは既に終わり、苗が風に吹かれて気持ち良さそうにしていた。
終点内部駅は国道1号線と、おそらく1号線の旧道である道に挟まれて身を縮めているようだった。すぐ近くに石碑があり、見てみると「東海道」とあった。写真の手前側の狭い道がかつての東海道であったそうだ。
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福島交通飯坂線は、福島駅と言い坂温泉駅の間9.2km.を無ずぶ鉄道で、観光のほか通勤、通学の足としても活躍している。飯坂線の乗り場は少しわかりにくい。JRの東口改札を出て、駅ビルに沿って左側に行き、隣伸びるとのすき間を入ると小さな駅があり、ここを飯坂線と阿武隈急行線(福島から梁川を経て宮城県の槻木駅までの鉄道)が仲良く共用している。飯坂線は、昼間でも25~30分ごとに電車があり、時刻表無しで行っても利用できる。
かつて東急電鉄で活躍して、1991年に福島交通にきた電車に乗る。製造から40年以上経過した電車だからさすがに疲れは隠せない。座席がほぼ埋まる程度の乗客が乗った。休日の昼過ぎとしてはなかなかの乗車率である。JR東北本線に沿って北上し、2つ目の美術館・図書館前で降りる。駅から県立美術館、図書館まで続く短い通りはケヤキの新緑と通りの両側の落ち着いた町並みが好ましい。私は25分後の次の電車に乗る予定だから、図書館で少しだけ本を読むと駅に引き返した。
電車は福島の郊外の住宅地を走り、ちらほらと果樹園が見えたところで医王寺駅に着く。この駅は、源義経に従い奮戦した佐藤継信、忠信兄弟ゆかりの医王寺最寄の駅である。住宅地を15分ほど歩くとお寺がある。私は長年福島県内に住んでいながら、この寺に来たのははじめてであった。松尾芭蕉もここを訪れたそうだ。杉の並木の奥には、藤棚があった。藤は私の好きな花で、藤棚の下に行ってしばらくの間甘酸っぱい香りを楽しんだ。
医王寺駅に戻ると間もなく電車が来た。ここから飯坂温泉までは2駅、電車はスピードを落としてカーブを通過する。
飯坂温泉駅はローカル鉄道としては立派な作りの駅である。摺上川の対岸にある公園の与謝野晶子の歌碑を見て、川沿いに歩いた。新緑がとても美しい。温泉街を一回りした後は、共同浴場の鯖湖湯で一風呂浴びる。飯坂温泉の熱い湯を、少し浸かっては出てを繰り返し堪能した。帰りの電車では身体が温まったからなのか、いつの間にか眠っていた。
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去年の夏、暑さを避けるために福島県内のとある高原に行った。クルマの中でお弁当を食べたり、本を読んだり、周辺を散策したりして過ごし、夕方近くなったので、帰ろうとすると、道路を老夫婦が歩いている。バス停のある温泉街までは歩いて5キロ近くも山道を降りなければならない。気の毒に思ってクルマに乗せて温泉街まで送っていった。老夫婦は「前に来たときにはバスがあったのに・・・」と言っていた。
都会の人が聞いたら驚くかもしれないが、地方の人は本当に歩かない。極端な話、道を歩いているのは幼稚園児から高校生までと、お年寄りだけ。それ以外の年齢の人は歩かないし、バスや電車もめったに使わない。高校在学中に車の免許を取り、100m先のコンビニにもクルマで行く生活になる(少々大げさか・・・)
そんな中、電車やバスを運行する会社は苦戦が続き、ここ数年でも福島県浜通り(沿岸地方)で路線バスを運行する常磐交通と、中通り(東北新幹線沿線の内陸地方)で路線バスと鉄道を運行する福島交通が相次いで経営破たんした。そんな福島県の鉄道と路線バスを応援すべく、鉄道や路線バスの沿線の観光地やグルメを紹介して、少しでも多くの人に乗ってもらえるようになることを願っています。
最初は福島交通の電車である飯坂線からです。
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GW前半に三重、愛知、岐阜県を旅してきました。今回は、この3県の鉄道に乗ること、織田信長関係の史蹟をめぐること、名古屋のB級グルメを堪能することが目的でした。この目的のうち、後の2つは皆様も理解できると思いますが、最初の鉄道に乗ることは「さて?」と思った方も多いと思います。昨年の年末でも、大阪から京都に行くのにわざわざ京阪交野線に乗って私市まで往復したところをよんで「?」と思った方もいると思います。そこで、私が中学生の頃から目指しているあることについて説明します。
ことの起こりは中学1年生の夏。当時私は隣県の病院まで通院していた。診察を終えて古本屋さんに立ち寄った。そこで手に取った本がとても面白く、店のおじさんの白い目を無視してついに1冊読み終えてしまった。その本が宮脇俊三著の「時刻表2万キロ」であった。サラリーマン生活をしながら土日に全国の鉄道を乗りまわり、ついに国鉄(現JR)の全路線を乗り終えるまでの旅行にである。鉄道マニアが書いた独りよがりの本ではなく、家族や旅先の人との人間模様が細やかに記述されていたり、豊富な歴史や文化への知識を生かした格調高くテンポのよい文章に引きこまれた。古本と言えども中学生の身分では買えなかったが、この本をきっかけに私も鉄道旅行の世界に入っていく。高校生の頃は弟二人と一緒に普通列車を乗り継いでひたすら列車に乗り続けるたびをした。大学生になって一人旅を始た。史蹟や景勝地を巡りながら要所要所にはまだ乗っていない鉄道路線に乗るようにした。
今現在の乗車状況は以下の通りである。
○JRグループ(新幹線を含む)
12078.3km. 乗車率60.9%
○その他の会社
3115.9km. 乗車率42.4%
できれば100%を目指したいが、まとまった休みがなかなか取れない現状では1回の旅行で2~3%伸ばすのが精一杯である。楽しみながら少しずつ乗っていきたい。
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噂には聞いていましたが、やっぱりすごいですね、名古屋の喫茶店。朝食の時間ならコーヒを頼めばパン、ゆで卵、スープ、フルーツがついてきます。名古屋の人には当たり前かもしれませんが、私にとっては新鮮な体験でした。
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今日は弥冨、羽島、犬山と名古屋周辺の鉄道を楽しみました。夕食にはみそカツを食べました。旨味があるのにくどくないです。カツとみそなかなか相性がいいようです。(カツは葱の下です)
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今日から私は三重県と愛知県を旅しています。今日は三重県にあるローカル鉄道に乗りました。十分堪能して夕方近くになり「今夜はどこで飲もうかな」と考えていると、急に浮かんだのが「その手は桑名の焼きはまぐり」。「その手はくわない」にひっかけた冗談ですが、ちょうど潮干狩りの時期だし、それもいいかなと思いました。桑名(三重県)のお店で焼きはまぐりならぬはまぐりの酒蒸しでビールを。おいしかったです。
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【10 旅の終わりに】
帝塚山は、明治時代に開かれた高級住宅地である。阪堺電車の走る通りを外れると、区画が広くゆったりとして落ち着いた住宅地になっている。万代池という池のほとりで一休みすると、再び阪堺電車の線路を越え、住宅地を西に進む。左手にお嬢様学校として知られる帝塚山学院、右手に南海帝塚山駅が見えてくる。その前方に木々に覆われたこんもりとした丘が見えてくるが、これが古代の豪族である大伴金村が眠る帝塚山古墳である。この古墳のてっぺんの高さが20m、おそらく古墳自体の高さは10m.ほどだろうから、この周囲の標高は10m.程だろうと推定される。
帝塚山古墳を過ぎると急な下り坂になると共に、高級住宅地から、家と家が接しそうなほど混みあった普通の住宅地になった。前方に大きな森が見えてきた。全国の住吉神社の総本社である住吉大社である。住吉大社は海の神である住吉三神と仲哀天皇の后である神功皇后を祀っている。明日は元日なので、すでに露天が準備をしていたが、それを掻き分け、4つある本殿を一つ一つ参拝していった。このあたりまで来ると、上町台地も周囲と2~3m.程度高いだけである。この神社の南にはその名の通りの姿をした細井川が流れており、大阪城から始まった上町台地の旅もこれで終わりにする。あとは、大阪空港に行き、飛行機で福島に戻るだけである。既に午後1時を過ぎ、歩き回ったからかなり空腹であるし、大阪での最後の食事だから大阪らしいものを食べようと思ったが、なかなか適当な店が見つからなかった。歩き疲れて足も痛いので結局南海電鉄住吉大社駅の中にあるハンバーガー店でハンバーガーとフレンチポテトを食べた。
再び阪堺電車で天王寺に戻り、地下鉄で梅田に出て、阪急梅田駅から空港行きのバスに乗る。阪神高速池田線の渋滞を心配していたが、とてもスムーズに走り30分ほどで伊丹空港のターミナルビル前に着いた。福島行きの離陸まで1時間半ほどあるので、土産物を買い込んだり、10分100円のインターネットで福島県の天気を調べたりしていた。大阪は晴天であるが福島は12月としては記録的な大雪になっているようだ。空港からはクルマを運転して帰ることになっているから心配になる。落ち着かないまま過ごしているうちにたちまち離陸の時間が迫ってきた。
福島行きの飛行機は、50人乗りのボンバルディアCRJという飛行機である。小さな飛行機だがジェット機である。バスに乗り飛行機のそばまで行き、タラップを登って搭乗する。座ってしまえばさほど狭さは感じない。ただ窓が低いところにあるので外がやや見にくい。外は既に暗い。家々の明かり、店の看板、車のヘッドライトが小さな光のかけらとなって飛行機の小さな窓から見える。私は腰を前にずらし、のけぞるような姿勢になって光の宝石箱に見入っていた。そのうちにキャビンアテンダントさんが飲み物を持ってきた。わたしはコンソメスープを選んだ。スープを飲み終えると、疲れがでてきたのかしばらくうとうとしていた。やがて、目が覚めると飛行機が降下を始めていた。左側の窓に町街明かりが続いている。栃木県の佐野上空であろうか。間もなく大雪の福島に着く。旅は間もなく終わる。(終)
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【9 上町台地を行く 12月31日】
世界を見渡してみると、どんなに時代が変わっても政治・経済上重要であり続ける栃がある。例えばトルコのイスタンブールはローマの時代からアジアとヨーロッパをつなぐ重要な土地であり、ローマ帝国(ビザンツ帝国)が1000年以上にわたって都をおいた。中国の洛陽は東周の時代以来、2800年の歴史を誇る都市で、地図を見れば明らかなように、山岳部と中原(中国北部から中部の沿岸地方の平野部)の境で、黄河が流れ重要な土地である。日本で言えば大阪がこの条件に適するだろう。西に瀬戸内海、東に淀川や大和川を経て京都・奈良に通じる。日本の都市としては第一級の立地条件である。その心臓部であるのが上町台地である。大阪城から天王寺を経て住吉大社に続くなだらかな丘陵である。今日はその上町台地を歩いてみたい。
梅田のホテルで4度目の朝を迎えた。同じホテルに4泊もするのは始めてである。もう、すっかりマイルームと化して、ガイドブックはここ、洗面用具はここと物の置き場が決まっている。のんびり朝のニュースを見て、8時過ぎに朝食のバイキングに行く。毎日朝早く出発していたから、今日くらいは朝はのんびりとしたい。9時少し前にホテルを出ると風が冷たい。この旅行の前半は暖かかったが、すっかり冬らしくなった。今日福島に帰るが、福島は大雪の予報が出ている。
すっかりおなじみになった天満橋駅で地下鉄を降り、コートの襟を立てて大阪城に向かう。大阪城の緑の向こうには大阪ビジネスパークの高層ビルが見える。高さがまちまちではなく、大体そろっているから美しく見える。現在ある大阪城は大阪夏の陣で落城した後、将軍徳川秀忠によって再建されたものである。秀吉の大阪城は現在の大阪城の地下に埋もれている。それ以前は浄土真宗の総本山の石山本願寺があり、寺内町を形成していた。この寺内町が「小坂」であり、それが「大坂」→「大阪」となり現在に至っている。寒いが、大阪城の堀に沿って歩道があり、ジョギングをしている人がいる。私は大阪城内に入る。天守閣は今日は開いていないが、この立派な天守閣と石垣を見るだけでも十分満足する。大阪城の立地条件は最高である。東と北は大川、寝屋川、平野川が流れ、天然の堀になっている。西側は急な坂である。弱点は南側だけである。さすがの家康もこの城を落とすのにはそうとう苦戦した。
大阪城を出ると、南側に大きな通りがある。大阪市を東西に貫く中央大通である。高架で阪神高速東大阪線、地下には地下鉄中央線が走っている。この通りを東にJR森ノ宮駅方面に歩いても、西側に本町・弁天町方面に歩いても急な下り坂になっており、上町台地が周囲とかなりの標高差があることがわかる。大阪城から中央大通をはさんで南側には、難波宮跡がある。645年、大化の改新の際に中大兄皇子(天智天皇)によって都が作られた。その後藤原京、平城京を経て、744年聖武天皇によって再び都が置かれた。今は広い公園になっていて、当時の建物の基礎部分だけが残っている。近くには大阪府庁をはじめとする官庁街があり、1400年近くにわたって上町台地北端のこの地が大阪の心臓部であったことを実感する。坂道を登ったり降りたりしたからうっすらと汗をかく。コートを脱いだ。北風がセーターのすき間から身体を冷やす。これがとても心地よい。
近くの谷町四丁目駅から地下鉄谷町線に乗り、3つ先の四天王寺前で降りる。こんどは、聖徳太子が建てた四天王寺を見に行く。駅前の雰囲気が、官庁街の谷町地4丁目駅とは違って、下町的な商店街である。四天王寺の仁王門、五重塔、金堂、講堂などの主要な建物は、戦後の再建された鉄筋コンクリート作りである。少々残念であるが、当時の姿をいくらかでも伝えているのであればよしとしなければならないか。日本は木造建築物が多く貴重な文化遺産が戦火や火災で度々失われている。ここから天王寺駅に向かってなだらかに坂を下っていく。
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台湾南部の工業都市である高雄市(人口151万人、台湾第2位)に捷運(地下鉄)が開業した。今回開業したのは、高雄市を南北に走る紅線で、南部の小港駅から、高雄国際機場駅(空港)、デパートなどが集まる三多商圏駅、六合夜市も近い美麗島駅、台湾鉄路局乗り換えの高雄駅、台湾高鉄(新幹線)乗り換えの左営駅、などを結び、高雄市の北隣の頭橋郷にある頭橋駅までのおよそ27kmを結ぶ。3月9日に開業し、当初の1月間は無料開放される予定である。高雄市ではこのほかにも海東西に走る橘線として、海鮮料理が美味しい旗津半島への入り口になる西子湾駅から美麗島駅、高雄市東部を経て、東隣の鳳山市の鳳山駅を経て大寮郷の大寮郷の大寮駅までおよそ14kmが建設中である。これにより、日本人の観光客にとっても高雄での移動がよりすむーずになることと思われる。
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【8 びゅわーんと播州平野の鉄道を楽しむ(下) 12月30日】
三木駅前で所在も無く過ごしていたが、折り返しの列車の発車までは40分以上も無い。時間を潰せそうな本屋さんやショッピングモールなども見当たらない。そこで、線路に沿って、厄神に向けて歩いてみることにした。駅の裏側に回ると、三木鉄道に沿って走る県道がある。この道路に沿って歩けば三木駅の列車の発車時間さえ覚えておけば三木鉄道はきめ細かく駅があるから乗り遅れることはない。南側にはなだらかな山、北側には三木鉄道の線路、その向こうには住宅地と田、車が多いが、澄んだ空と冷たい空気が心地よい。駅のそばに大きな神社のある高木駅に寄り道して、2つ目の別所駅まで歩く。古い木造駅は、ここ数年補修された形跡が無く、この小さい鉄道会社の厳しい経営環境を物語っている。ここから列車に乗り厄神に戻る。
厄神からJR加古川線に乗る。厄神の小さな車両基地を右に見ると、列車は左にカーブを切り、水量の多い加古川を渡る。川、水田、民家、低い山々、日本の農村の原風景の中を列車は走る・車内は混んでいて座れないが、車窓を堪能している。粟生駅は、加古川線の他、神戸の新開地まで行く神戸電鉄、私がこれから乗る北条鉄道が乗り入れていて、小さいながらもターミナル駅になっている。多くの乗客が降りたが、北条鉄道に乗り換えたのは私を含めて2、3人だった。北条鉄層の車両はレールバスと呼ばれる、軽量・小型の車両で、窓のサッシなどバスと同じような作りである。当時バスボディの大手メーカーだった富士重工(スバル)の製造である。走り出すと車体が軽いのか、加速はなかなか警戒ながら、フワフワと縦揺れがする。車窓は、これまでよりも一層ひなびてきて、完全な農村風景になる。目に前に急に市街地が現れると終点の加西市の中心部にある北条駅に着く。もっとも、市街地をはさんで北側には中国自動車道が走っていて、大阪駅前まで高速バスで1時間10分。北条鉄道から、加古川線、山陽本線経由でも神戸電鉄、阪神電鉄経由でも1時間半はかかるし、2回の乗換えが必要になる。
駅前にビルがあり、ショッピングモールやクリニックが入っている。その一角のラーメン屋さんで昼食をとり、折り返しの列車に乗る。帰りは揺れにもなれて、うとうとしながら粟生に戻った。
粟生からの加古川線の列車も満員だった。1両だし、向きを変えられる快適なシートが災いし、座席数が少なくなっている。だんだん前方に山が迫ってくると西脇市に着く。この列車はここで終点になる。ここから先谷川までは列車本数が極端に少なくなる。私が乗るのは13時41分発(第4土曜運休)だが、その前の列車は10時12分(第4土曜運休)になる。第4土曜にいたっては、その前の列車は8時20分になる。今日の日程作成にあたっては、この西脇市~谷川間が鍵となった。西脇市発13時41分、反対側から谷川発12時17分の列車を軸に、それに乗り継げるように逆算してプランを立ててみた。その結果、西脇市発13時41分の列車を軸にするこの日程李落ち着いた。
西脇市を過ぎると徐々に山が迫ってくる。とはいえ、なだらかな中国山地だから、山あいの湿っぽさは無い。左側から急カーブで福知山線が迫ってくると終点の谷川に着く。
谷川駅はその名の通り加古川が作る狭い谷底にある。空気はいっそう冷たく、雪もちらついてきた。駅前の小さな商店で熱い缶コーヒーを買った。小さな駅は待合室まで一杯だったので、雪がちらつくプラットフォームで缶コーヒーを飲んだ。冷え切った身体を120円の缶コーヒーが心地よく暖める。120円で買える小さな幸せ。
10分ほど遅れてやってきた篠山口行きの電車は座席もほとんど埋まっていた。車窓は一層山深くなる。しばらく走ると小さな盆地に出る。終点の篠山口である。ここから大阪までの快速電車に乗る。大阪~宝塚~篠山口間の福知山線は、国鉄時代とJRになってからで最も大きく姿を変えた路線の1つである。国鉄時代はディーゼルカーや機関車が牽引する客車が1時間に1本(他に城崎方面への特急・急行列車が1本)走るのみであったが、現在では1時間に快速電車が6本、普通電車が4本、特急列車が1本走るようになり、列車の速度も大幅に向上した。民営化によるサービス改善のモデル的路線であった。沿線の三田市が1990年代を中心に全国有数の人口増加率を示した要因のひとつは、福知山線のサービス改善により大阪方面へのベッドタウンとしてニュータウンの建設が相次いだことによるものだろう。しかし、2005年4月25日、宝塚発同志社前行き快速列車が、塚口~尼崎間のカーブで、制限速度の70㎞/hを大幅に超える116㎞/hで進入し、脱線、横転し107名の方が亡くなる大きな事故がおきた。その後ダイヤの見直しや、新型ATSの接地が行われた。列車は、宝塚で大勢の人が乗りこみ、満員になった。私は進行方向左側の窓際に座って窓の外に目を凝らす。川西池田までは落ち着いた住宅地、北伊丹からは線路沿いに工場が増える。猪名川の向こうにはダイハツ工業の大きな工場が見える。車内は、これから大阪に遊びや買い物に行くのだろうか、楽しそうなにぎやかな声があふれていた。快速列車は塚口駅を通過するとスピードを落とす。事故現場となったカーブはこの先にある。車内のにぎやかな声がぴたりとやんだ。列車はブレーキをかけてゆっくりとカーブを通過する。列車は何事も無かったかのようにカーブを通過した。左カーブから右カーブに代わると間もなく尼崎に着く。
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【7 びゅわーんと播州平野の鉄道を楽しむ(上) 12月30日】
バイキングの朝食を早々と済ませ、午前7時前にホテルを出る。昨日までは暖かかったが、今日は肌寒い。昨日まではホテルのクローゼットに仕舞われっ放しだったコートが、今日は威力を発揮しそうだ。大阪駅から東海道線の普通列車に乗り新大阪駅に向かう。淀川を渡り、新大阪駅に着く直前に、3月のダイヤ改正で廃止になる寝台急行「銀河」とすれ違う。
新大阪駅はたくさんの人が行き交っていた。どのホームにも新幹線を待つ人が行列を作っていた。しかし、一番端の20番線だけは閑散としていた。ここからは岡山・広島方面への「こだま」と博多方面への「ひかりレールスター」が発着する。そんな20番線から「こだま635号」が発車した。この列車は1985年に登場した東海道・山陽新幹線初のモデルチェンジ車で、2階建てのグリーン車と食堂車があることで話題になった。いまは2階建て車は廃車となり、山陽新幹線の「こだま」で余生を送っている・この列車ががらあきのまま発車すると、プラットフォームはますます閑散とする。「500系のぞみ」やら「700系ひかり」などが発着する他のプラットフォームと同じ駅とは思えない。
発車20分ほど前になって、見覚えのある丸いボンネットが新神戸側から近づいてきた。これが「こだま639号」、初代新幹線車両の0系を使った列車である。1972年生まれの私にとって、子供の頃絵本や図鑑で見た新幹線車両といったら、丸いボンネットのこの車両だった。「びゃわーん、びゃわーん走る、青いひかりの超特急」などという歌を子供の頃よく歌っていたことを思い出す。東京オリンピックがあった1964年に登場し、当時世界中で叫ばれていた「鉄道斜陽論」(旅客鉄道は旅客機や自動車に押されて衰退するだろうとされた仮説)を吹き飛ばし、鉄道の安全性、高速性、定時性、大量輸送力を遺憾なく発揮した。日本の新幹線の成功がその後、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、イギリス、ベルギー、オランダ、アメリカ、韓国、台湾などで高速鉄道を開発することにつながった。そのため、この0系新幹線は日本の鉄道史上最高傑作と評する人もいる。私もまったく同感である。
車内整備が終わり、ドアが開く。通路を挟んで3列と2列のシートが並んでいた車内は、グリーン車並みに通路を挟んで2列-2列に改められたため、シートはきわめてゆったりしている。そのほかは角ばった天井のエアコン吹き出し口などかつての0系を思い出させる部分が多く残っていた。走り出すと、現在の車両と違って、加速は鈍重だが、どっしり感のある走りで、快適な乗り心地だ。新神戸を過ぎ、トンネルをいくつか過ぎると市街地が開けてきて西明石に着く。新大阪を発車して30分ほどでまだまだ名残惜しいがここで降りる。ここで「のぞみ」に道を譲るので10分ほど停車する。私は、乗り継ぎの電車の時間を気にしながら、最後尾の車両に行って、もう乗ることが無いと思われる0系とのお別れに、最大の特徴である丸いボンネットを撫でた。「たくさんの人たちに夢と希望を与えてくれてありがとう。そして本当にご苦労様でした。私達はあなたが鉄道の新しい時代を築いたこと、世界中の高速鉄道の魁になったことを忘れません。さようなら。」そう心の中でつぶやくと後ろを振り返らずに階段を下りた。
西明石駅から新快速電車に乗り換えて加古川で降りる。加古川から播州平野を走る加古川線とそこから分岐する2本のローカル鉄道に乗る予定である。加古川駅からシルバー地に色々な色がパッチワーク状に塗られた電車に乗る。加古川を発車すると、山陽本線とは明らかに社葬が違う。農地が増え、家の作りも古びたものが多い。3つ目の厄神で降りる。駅の周囲には黒い壁に銀色の屋根の古い作りの家が並んでいる。ここで3月末に廃止になる三木鉄道に乗り換える。1両のディーゼルカーは車内は古びていた。座席はほぼ埋まっていた。後ろのほうに座っていたおじさんが、朝から1杯引っ掛けてきたのであろうか、とても陽気である。少しでもお客を増やそうとする経営努力の跡なのだろうか、わずか6.6km.の鉄道に9つの駅がある。そこを14分かけて走る。終点の三木駅は国鉄時代からの古い駅舎であった。三木には、1578年から80年にかけて豊臣秀吉と別所長治によって戦われた合戦があり、長期にわたる篭城戦になり、最後は城内の食料も水も絶え、「三木の干殺し」とよばれる悲惨な戦だったらしい。城主の別所長治の切腹により戦は終結する。時間があればそんな三木城址を見てみたかったが、駅の中に張り出されている地図を見ると、折り返し列車の発車までに見てくるのは困難な距離であった。
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「大阪・京都・神戸~私の三都物語」のフォトアルバムに写真を追加しました。2日目(京都)と3日目(神戸)の写真です。詳しくは。右側の「マイフォト」の一番下、「大阪・京都・神戸~私の三都物語」をご覧ください。
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BlogPet 今日のテーマ 海外旅行
「海外(国外)に行った事がありますか?どこの国へどんな目的でどのぐらいの期間行きましたか?」
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【5 平清盛の夢の跡(上) 12月29日】
今日は平清盛と平家の人々の足跡をたどりながら神戸を歩いてみたいと思う。阪神電鉄梅田駅から普通列車で西へと進む。阪神電車に乗ったらぜひ普通列車に乗って欲しい。駅と駅の間が短い阪神電車では、普通列車の加減速性能を高めることが肝心である。軽やかな加速は特筆できるものである。武庫川駅で列車を降りる。この駅はその名の通り武庫川に架かっている橋の上にプラットフォームがある。その川向こうの土手の下に婿が和戦の乗り場がある。2両編成の電車に乗り込むと小さな駅を2つ過ぎると終点の武庫川団地前駅に着く。わずか1.7キロメートルのミニトリップであるが、これで阪神本線、似審査河川を含めて阪神電鉄線は全て乗ったことになる。大手私鉄では、関東地方の京浜急行、相模鉄道に次いで3社目になる。
武庫川団地前駅付近は高層アパートなどもある住宅地で、駅前にあるスーパーマーケットは既に開いて買い物客がいた。駅前を少し歩いて折り返しの電車に乗る。再び武庫川駅に戻り、更に西に進む。阪神沿線は工業地帯と住宅街、商業地域が混在していて、おおむね庶民的な雰囲気の地域が多いが、香枦園駅周辺や芦屋駅周辺は落ち着いた高級住宅地になっている。神戸の市街地に入ると地下に入り、神戸の商業の中心三ノ宮駅、南京町が近い元町駅を過ぎると、会社名が神戸高速鉄道に変わる。市街中心部西端近い新開地駅で降り、有馬温泉行き電車に乗り換えて湊川駅で降りる。
湊川駅を出ると、広い公園がある。この公園を湊川公園という。このあたりが、平清盛が1180年に造営しようとした福原京の跡地である。清盛は、宋(当時の中国の国号)との貿易拡大、そのための海洋国家作りを目指していた。それだけ貿易による利益が大きかったのだろう。そのため、貿易の拠点として大輪田の泊を整備し、政治の中心を大輪田の泊を見下ろす福原に移転しようとした。しかし、1180年6月に安徳天皇が福原に入り、同年11月には安徳天皇が平安京に戻っているから、わずか半年ばかりの都だし、あまりにも長い時間がたってしまった。当時を偲ばせるものは何一つ残っていなかった。僅かに地名だけが福原町といったが、そこは繁華街になっていて、朝から風俗店の客引きがいた。「お兄さん、いい娘がいますよ」などといわれても、こちらは清盛を偲びながら歩いていたのだから気分がぶち壊しだ。その後、湊川神社まで歩く。ここは清盛の時代から150年後、南北朝時代の初期、北朝(室町幕府)側の足利尊氏と南朝(後醍醐天皇)側の楠木正成の間で湊川の戦が行われた。楠木正成は戦死したが、後に彼を祀る神社として、湊川神社が建てられた。この神社の一角に水戸黄門こと徳川光圀の像がある。彼が編集した「大日本記」の中で、楠木正成を中心の代表として取り上げた縁だろう。
高速神戸駅から須磨浦公園行きの電車に乗る。西代から山陽電鉄線になる。地上に出ると神戸郊外の住宅地になり、やがて北に山、南に海が迫ると須磨浦公園駅に着く。ここは古くから知られた景勝地で、源平の戦いの一の谷の古戦場がある。まず、上から眺めてみたいと思い、駅から出ているロープウエィに乗る。ぐんぐん上に上がるにつれて、海岸や遠く神戸市街地まで見えてきてなかなかの絶景であったが、ロープウエィを降りて、古めかしいレストハウスでジュークボックスなどをいじっているうちに霧が出てきた。眺望は望めそうも無いが、せっかく一番奥までの往復切符を買ったので、乗り物を楽しむことにする。次の乗り物はカーレーターといい、公園にあるローラー式の滑り台の上を果物や野菜を入れる籠に椅子を取り付けたような物に乗って山を登っていく。上下にがたがたと揺れて乗り心地は良くないが、私はこのような乗り物に乗るのは初めてなのでとても楽しい。その次は、谷の向こう側にある遊園地までのリフトである。今日はすこぶる客が少ないらしく、ロールウエィは私の他には男性2人組、カーレーターに乗ったのは私だけで、そのため、私を乗せる為に全ての籠を動かした。リフトも、私のためだけにモータを入れた。古めかしいリフトは、今やスキー場でも珍しいシングルリフト(1人乗り)である。たいていのスキー場では、ペアリフト(2人乗り)やクワッドリフト(4人乗り)である。私はスノーボードをやるから、リフトには乗りなれているが、リフトで山を下りた経験は無い。前につんのめって落下しそうで怖い、リフトの棒をもつ手に力が入る。中央部を過ぎるとリフトは上昇をして、遊園地に付く。サイクルモノレールや、ミニカーなどが人待ち顔で佇んでいる。これは懐かしい。私が小学生の頃行った、昭和時代の遊園地である。最近このような施設はディズニーランドやユニバーサルスタジオなどのテーマパークに押されて全国的に苦戦しているというが、ここではどっこい生きていた。
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【4 雨の洛北 12月28日】
出町柳から、鞍馬や比叡山方面に行く叡山電鉄は、少し小ぶりの電車を走らせている。狭い出町柳駅の構内は、色とりどりのかわいらしい電車が発着していた。相変わらず雨は一向にやむ気配がない。しかし、この時期の福島ならたとえ雨だとしても詰めたい氷のような雨が降るのだが、京都の雨はコート要らずの温かい雨だ。今度の鞍馬行き電車は、車体の上部を朱色、下部をアイボリーに塗り分けた電車で、窓も大きい上に、他の電車なら網棚になっている部分に小さな窓があり、斜め上の景色も見ることができるようになっている。出町柳駅を発車するとしばらくの間は住宅と京都大学、京都繊維工芸大学などがある学園地帯になっている。木野を過ぎると本格的な登りにかかる。鞍馬線のイメージは観光路線であったが、以外にも地元の人の利用が多い。二軒茶屋を過ぎると本格的な山岳路線の雰囲気になってきた。美しい杉林と清流の間を電車は走る。終点の鞍馬駅の駅前には大きな天狗のオブジェがあった。鞍馬山には鞍馬天狗がいたという伝承が残っている。
雨のせいか、それとも年末のせいか、駅前の土産物屋にはほとんど人がいなかった。蔵まで蘭山門を入ると間もなく右側に建物があって、ここがケーブルカー乗り場になっている。もちろん歩いて上がっても良いが、今日は雨だし、ケーブルカーの力を借りて登ることにする。鞍馬寺は平治の乱で敗れた源義朝の子、義経が少年時代に預けられていた寺である。鞍馬寺は今日から近いが、当時は宗教勢力が強く、鞍馬寺にはたくさんの僧兵がいたということで、さしもの平清盛も手が出せなかったのであろう。
100円を払って小さなケーブルカーに乗り込む。乗務員は作務衣を着たお坊さんだ。小さいながらも急な坂をぐんぐん上っていく。終点に着くと、ベビーカーを押したお母さんの手伝いをしたりとなかなか忙しい。多宝塔を見て、いよいよ本殿へ向かう。こちら側の参道は傾斜もゆるく歩きやすい。立派な本殿を参拝する。この奥には木の根道とよばれる山道があり、奥の院や貴船神社へと行くことができるが、相変わらずの雨で、断念する。今日は断念ばかりだが、ひとまずここまで来れただけで満足する。義経はこの寺にいる間に武芸と学問を磨き、その後の源平の合戦へ向けて飛躍のときを待つことになる。
帰りはケーブルカーを使わないで、九十九折の石段を降りることにする。12月なのに、石段の両側の杉の木の緑が美しい。山門近くまで降りると小さな滝があり、そこに立て看板があった。そこにはこう書かれていた「この滝で滝行をしないでください」。
駅付近の土産物屋さんはあまりに人がいなく、うっかり入ったら何か買わなければ出られなくなりそうだったので、敬遠して、ふたたび叡山電鉄に乗り出町柳駅に戻ることにする。向かい側のシートに座ったおばあさんの3人組はとてもにぎやかだった。それでも、それまでが余りに静かすぎたから、なんだか楽しげで良い。
出町柳駅前は、ちょうど賀茂川と高野川がY字状に合流するところである。その合流地点すぐにあるのが下鴨神社である。ここまでなら雨が降っていてもさほど苦労せずに行くことができる。高野川に沿ってしばらく歩き、橋を渡るも間もなく糺の森とよばれる森がある。神社の周囲の樹木といえば、針葉樹を思い浮かべる方が多いと思われるが、ここは広葉樹が主体である。ひょっとしたら、平安京ができる以前の京都の森林が残っているの
かも知れない。僅かに効用が残っている木もある。広い森を抜けて参拝を済ませる。初詣の準備なのだろう、布で覆われていて本殿の様子は良く見えなかった。
出町柳駅から京阪本線の特急列車で大阪に帰る。京阪電鉄はサービス精神旺盛な会社で、特急列車にテレビ月の車両を走らせたり、2階建ての車両に特別料金無しで乗れたりする。テレビは、今では携帯電話でも見られるが、京阪電鉄にテレビカーが登場したのは1954年(昭和29年)だから、テレビがある家庭が珍しかった頃である。私はテレビを見ているより車窓を見ているほうが楽しいから、2階建て車に乗る。東福寺でJR奈良線の電車と併走した。淀、樟葉付近までは良く覚えていたが、枚方市、寝屋川市付近は夢の中であった。気がついたら、もう天満橋駅の手前だった。ここで特急を降りて、地下鉄で梅田に出た。夜は曽根崎を歩き回った。店を物色しながら歩くのはとても楽しかった。
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【3 京阪間の鉄道を楽しむ 12月28日】
梅田地下街の朝は、行き交う人たちがひときわ早足だ。福島では私は早足のほう、東京でもまぁ標準的、ところが大阪の梅田地下街では私よりもずっと年上の人にもどんどん抜かれていく。まるで激流に翻弄される小魚のように私は歩いている。
地下鉄御堂筋線に乗り淀屋橋で京阪本線に乗り換える。乗り換えの地下通路で私はまた激流に揉まれるようになる。淀屋橋駅は地下にあり、狭く細長い敷地をうまく活用するために列車が縦列で停車している。ここから緑色の濃淡二色の電車に乗る。天満橋駅を過ぎると地上に出る。雨が激しく窓ガラスを叩く。その向こうに大阪城の天守閣が少しだけぼやけて見える。JR大阪環状線との乗り換えである京橋駅で少しお客が増えたが、平日大阪から遠ざかる列車なので、通勤の流れと逆向きなので空いている。この列車は急行列車で、京橋を過ぎると小さな駅を通過して高速運転する。しかし、細かいカーブがずいぶん多い。明治時代に当時の集落をつなぐ形で開業した歴史的な事情によるもので、京阪電鉄カーブ式(株式)会社などとも呼ばれている。守口市、寝屋川市など大阪のベッタウンとなる市の中心駅に停車する。枚方市で列車を降り、ここから分岐する交野線に乗り、終点の私市まで寄り道をする。起点の枚方市(ひらかたし)にしても、路線名の交野(かたの)線にしても、終点の私市(きさいち)にしてもそろいもそろって難読地名である。交野市駅を過ぎ、次の河内磐船駅手前でJR片町線(学研都市線)をまたぐと、やや急な上り坂になる。目の前に山が迫ると終点の私市に着く。もうこれ以上進めませんよというような線路の引き方である。改札口を通り、駅前を少し見ただけで折り返しの電車に乗る。
再び枚方市に戻り、三条(京都)行きの普通電車に乗る。古事記の崇神天皇記で、山城国の反乱との決戦が行われた久須婆の渡しが地名の由来とも言われる樟葉駅に着く。列車の進行方向右側には小高い山、左側には淀川が迫る。淀川の対岸は大阪府島本町、その北側に京都府大山崎町になる。雨は一向に降り止む気配がない。今日は京都市の洛北、鞍馬と大原を歩こうと思っていたが、鞍馬はともかく歩行時間がかなり長くなる大原は断念せざるを得ない。その代わりにこの先、あちこち寄り道をしながらさまざまな鉄道を楽しんでみようと思う。京都府に入ってすぐ、八幡市で列車を降りる。
八幡市から男山ケーブルカーが出ている。終点からすぐ石清水八幡宮がある。ケーブルカーの乗客は私ひとりで電気を使って走らせるのが申し訳ない気持ちになる。歩いたらかなりきつそうな坂を軽々と上り、山上に着く。石清水八幡宮というと、中学校の国語の時間に吉田兼好(兼好法師)の徒然草にある「仁和寺にある法師」という話を学んだ人も多いだろう。仁和寺にいた僧侶が念願かなって石清水を参拝する機会を得たが、麓にある神社を参拝しただけで満足し、今いる寺社が石清水だと思い込んで山上にある石清水八幡に登らなかったという話。「どんな小さなことにも案内する人が必要である」という教訓を含んだ話である。神社はちょうど初詣の準備の最中で、男の人が参道を掃除していたり、巫女さんが走り回っている最中であった。私は恐縮しながら彼らの邪魔にならないように参拝を済ませた。晴れていれば男山から京都盆地を見下ろした景色は素晴らしいだろう。この神社の位置を考えれば重要性がはっきりわかる。平安京のある京都盆地の南西側の出入り口、しかもこの神社付近で木津川、宇治川、桂川が合流している。防衛の面でも、交通の面でも、治水の面でもこれ以上の立地はないだろう。この後、坂本龍馬ゆかりの寺田屋近くの中書島駅から京阪宇治線に乗り、六地蔵駅から京都市営地下鉄に乗り三条に出た。宇治や伏見は3年前の春に見たが、晴れていればまた歩いてみたいところだ。三条から京阪電車で蔵毎期の電車が出る出町柳に出た。まだ11時半だが、今日はだいぶ歩き回ったので既に空腹である。京都らしい物を食べたいが、この雨では遠くまではいけないし、出町柳駅から見える範囲にそのような店も無い。駅の中にあるハンバーガー店でハンバーガーセットの昼食を摂る。
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【2 新選組の足跡をたどって】
大宮駅で電車を降りた。すでに午後2時近いが、まだ昼食を摂っていない。駅から近い場所にラーメン屋さんを見つけたのでそこで昼食を摂る。細麺に脂の強いこってりとしたスープで身体が温まった。
細い路地に入ると間もなく光縁寺に着く。この寺の門の前には「新選組乃墓」と彫られた石碑がある。この寺には総長の山南敬介(1833~65)の他、野口健司、葛山武八郎などの新選組隊士がここに眠っている。しかし門には「見学の方はお断りします」と表示されている。少しの間どうしようかと考えたが、墓参なら言いのだろうと考え、中に入った。声をかけると小柄だがきつそうなお坊さんがやってきた。新選組隊士の墓参がしたい旨を告げると、墓参料と引き換えに線香とパンフレットをいただいた。本堂の裏手に回ると狭い墓地があり、その一番奥が新選組隊士の墓になっていた。墓石は幕末に作られたため、だいぶ古びていた。そこには山南敬介をはじめ隊士の名前がずらりと彫られていた。この寺と新選組の縁は、当時の住職と山南が同じ年齢で、個人的にも親交が厚かったことにはじまるという。その縁があり、戦死したり切腹したりした隊士をここに葬るようになった。もっとも、山南自信がここに葬られるようになるとは夢にも追っていなかっただろうが。墓に線香をあげ、手を合わせた。幕末、この国にとって未曾有の危機に立ち上がった若者達、ほんの少しの立場の違いで対立し、殺しあった。一体どれだけの有能な人材が失われたのだろう。若き新選組の隊士達も、京都で、江戸で、会津で、函館で多くが若い命を散らしていった。山南は、学識があり、心優しい性格で壬生の人たちから慕われていたという。空を見上げた、宇宙まで透けて見えそうに青い。私は幕末に生き、若い命を散らした人々が高い空から見守っているような気がした。本堂に戻るとさっきのお坊さんが、本道に案内してくれた。山南をはじめとする隊士の位牌があったので、焼香をしてきた。怖そうに見えたお坊さんの顔がやさしげに見えた。
綾小路を西に進むと旧前川邸がある。ここは新撰組の屯所だったが、現在は公開されていない。そのすぐ向かいにあるのが八木邸である。ここも新選組の屯所だったところである。1863年(文久3年)京都の治安維持のために新選組は京都の西の郊外に当たる壬生の八木邸、前川邸に本拠を構えた。ここで隊士を増やし、京都の治安維持のため尽力することになる。座敷に案内されると説明を受ける。この部屋は新選組の内部粛清で、芹澤鴨一派が殺害された部屋である。私が座っているところにも芹澤達の血が流れたのであろう。その時の刀傷も残っていた。京都に新選組が活躍していた当時の建物はあまり残っていない。良くぞ残っていたと言いたくなるくらいである。道に面していたところが土産物屋になっていて、ここで壬生名物の壬生菜が入った餅をいただく。新選組がいた当時、八木家には男の子がいて、かれが昭和のはじめまで健在であり、新選組の生き証人となった。
八木邸のすぐそばに壬生寺がある。広い寺で、幼稚園や老人ホームなども敷地の中にある。ここに近藤勇の銅像がある。角ばった顔で、意志の強さと威厳を感じる。この広い境内で沖田総司が子供達で遊んでいたのだろうか、天才剣士と子供達の組み合わせはなんとなくおかしくほほえましい。もっとも、この寺で大砲の訓練をしていたそうだから、寺としては迷惑千万だったのだろうが。
次は、新選組の活躍の場として池田屋跡に行こうと思うが、少し遠回りして千本通を二条駅前まで歩いてみようと思う。千本通は、かつての平安京の中央を天皇がいた大内裏から南の出口の羅城門まで南北に貫く朱雀大路とほぼ同じである。かつての朱雀大路は道幅84メートルであったが、現在の千本通はその10分の1もないだろう。周りは住宅や町工場が並んでいて、予備知識が無ければかつての朱雀大路とは気付かないだろう。そんな千本通をしばらく進み、三条通との交差点を過ぎると片側2車線の立派な道路になった。間もなく二条駅に着く。ここから地下鉄で京阪三条に出て、江戸日本橋から続く東海道の終点になっている三条大橋を渡る。間もなく池田屋跡に着く。現在ではビルの前に小さな石碑が一本あるだけである。まだ午後4時半であるが、寝不足のせいだろうか、だいぶ疲れてきた。ここから高瀬川沿いに木屋町通りを歩いて、阪急で大阪梅田に戻ることにする。
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【1 京都まで 12月27日】
誰だってそうだと思うが、小学生の頃、遠足の前の晩は良く眠れなかった。私は今だってそうだ、旅立ち前の晩は良く眠れない。今年は忙しかったから8月に高知。愛媛に行って以来県外にほとんど出ていなかったから尚更だ。何度も目が覚めた挙句4時過ぎには完全に目が覚めてしまった。
クルマで福島空港を目指す。旅への期待感と寝不足のための妙なハイテンションでついついアクセルを踏みすぎてしまう。100km./h制限の高速道路を大幅な速度オーバーで走っていた。
福島空港9時50分発の日本航空便に搭乗する。離陸するとなすだけを初めとする山々、日光の中禅寺湖などが次々と現れる。山々は雪を抱いて美しい。甲府盆地、赤石山脈(南アルプス)、木曽山脈(中央アルプス)を見て、中部国際空港(セントレア)が見えた。衛星写真を見ているようで楽しい。ここから名張(三重県)、桜井(奈良県)、河内長野(大阪府)を経由するのが最短距離であるが、日本航空機は紀伊半島南部の山岳地帯を通過すると田辺(和歌山県)沖で右に大きく旋回した。それから紀伊半島の海岸線に沿って北上する。ずいぶん遠回りであるが騒音問題を避けた結果なのだろうか。
関西空港には予定どおりの11時10分に着陸した。ここで、大阪・京都・神戸地区の私鉄(阪急・阪神・京阪・近鉄・南海など)、地下鉄が連続する3日間乗り放題になる「スルッとKANSAI 3dayチケット」を購入する。これから3日間、大阪を拠点に京都や神戸を回ることにする。まずは大阪に向かう。南海電鉄関西空港駅のプラットフォームには、濃紺色の鉄仮面にも潜水艦にもウルトラマンにも見える特急「ラピート」が見える。きっぷを買い足してこれに乗る。車内の天井から窓回りにかけてベージュ、窓より下はカフェオレ色、窓は楕円で非常に明るく地中海風といったところか。座席もゆったりしていていい。関西空港と対岸の泉佐野市に渡ると未来的な風景から典型的な日本の郊外の風景になる。そんな中をラピートが走る。かつて豊臣秀吉が茶会を行ったという天下茶屋でラピートを降り、地下鉄堺筋線に乗り換える、さらに次の動物前船で地下鉄御堂筋線に乗り換える。御堂筋線は何度も乗っているがいつ乗ってもお客が多い。梅田で降り、着替えなどの入ったバッグをホテルに預けた。
阪急梅田駅は私鉄のターミナル駅としては例外的に大きな駅だ。神戸線・宝塚線・京都線それぞれ3本のホームがある。そこにずらりとマルーン一色の列車が並んでいる様は壮観である。私の乗った河原町(京都)行きの列車が梅田駅を出るとほぼ同時に宝塚行きと新開地(神戸)行きの列車も発車する。威風堂々、貫禄すら感じる。十三駅でそれぞれの方向に別れた。高槻を過ぎると両側に山が迫り、わずかながら農地も現れる。私が乗っている阪急の線路と東海道新幹線がぴったりとくっつき、右側には国道171号線、左側にはJR東海道本線、少しはなれて左側の山の中腹には名阪自動車道がトンネルに出入りしながら見える。サントリーの山崎工場が見えると、1582年に本能寺の変で織田信長が亡き後、豊臣秀吉と明智光秀が天下の行方をかけて争った山崎の古戦場になる。秀吉が本陣を置いたのが天王山である。そのような経緯を知らなくても、この地が京都を防衛するのに重要な土地であることは車窓からでも十分理解できる。京都市内に入り、桂駅で各駅停車に乗り換える。京都市内に入ると阪急線は四条通の地下を走る。私は壬生の新撰組関連の史蹟を見るために大宮駅で列車を降りた。
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私は12月27日から31日まで、大阪、京都、神戸を旅行してきました。関西地方をじっくりと旅行するのは、学生時代の1994年(京都・大阪)、卒業後の1998年(京都・奈良)以来久しぶりでした。今回は京都では壬生周辺、鞍馬。大阪では大阪城から住吉大社までの谷町台地。神戸では須磨、福原京、大輪田泊と平清盛の足跡をたどりました。他に間もなく引退する0系新幹線と播州平野のローカル線に乗ってきました。これから少しずつ書いていきたいと思いますので、どうぞお楽しみに。なお、写真も左側の「マイフォト」の一番下にアップしました。こちらも紀行文の進み方にあわせて写真を増やしていきたいと思います。なお、題名の「三都物語」ですが、お気づきの方もいらっしゃると思いますが、ディケンズの小説「A Tale of Two Cities」 (邦題「二都物語」)から借用しました。
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私はよく「寅さん」に似ていると言われる。寅さんと言っても10代や20代の方はわからないと思うので少しだけ説明をしたい。渥美清主演、山田洋次監督による喜劇映画のシリーズで、1969年から1995年の間に48作が制作され、松竹の屋台骨を支えたヒット作になった。寅さんと言うのは、渥美清が演じる役名で、本名を車寅次郎と言い、フーテン暮らしのの的屋で、旅先で美しい女性に出会い惚れてしまうが、毎回結局振られてしまう。その車寅次郎と言うのが実に魅力的な男なのだ。背が高いとか顔がいいとかそんなことじゃない。むしろ顔は下駄のような四角い顔だし、足だって長くない。男の本当の優しさってこんなのだろうな、そんな風に思えるときがある。その優しさは、美しい女性だけではない、恋に悩む若い男達にも向けられる。むしろ中期以降の作品では、自分は身を引いて若い男の恋愛指南役に徹するときもあった。寅次郎の最大であり最後の恋愛の弟子は甥の満男(吉岡秀隆・・・Drコトーですね)であった。そんな恋愛指南役をしている寅さんがとても好きだ。不器用だけど一生懸命になれる、たまにはまるっきり的外れなことをしてしまうこともあるけれど、ここまで他の人に一生懸命になれる人はなかなかいないでしょう。
鉄道博物館に行った翌日、私はそんな寅さんの舞台を訪れるためにおよそ15年ぶりに柴又に行くことにした。牛田で東武伊勢崎線を降り、京成関屋から京成線に乗るというと、ずいぶん面倒な乗りかえをしたように思われるだろうが、実際は牛田駅を出て道路を渡るとすぐ京成関屋駅である。駅名をそろえないのは何か理由があるのだろうか。京成関屋から各駅停車に乗り、京成高砂で降りる。この駅は狭いホームに、京成、都営地下鉄、京浜急行の車両が頻繁に行き交い面白い駅だ。柴又に行く金町線は20分に1本しかないが、飽きることなく待つことができた。
柴又駅は何度も「寅さん」の名場面になっている。恋に破れて柴又を去るときに、妹のさくら(倍賞千恵子)との別れの場になったり、あるいはマドンナが自分のもとを去っていくのを涙をこらえて笑顔で見送ったこともあった。改札機が自動改札になっていたが、柴又の町も駅も映画の頃と大きくは変わらずに残っていることが嬉しかった。柴又駅前には寅さんの銅像がある。おなじみの服装に木のトランクを持って立っている。今日は祝日でもあるのでたくさんの観光客に寅さんはもみくちゃにされていた。ここから柴又帝釈天(題経寺)までは参道を歩いてすぐである。参道の両脇には団子屋や川魚料理屋がひしめき合うように並んでいる。帰りにぜひ見てみようと思う。
帝釈天は少し早い七五三のお参りをする家族連でにぎわっていた。晴れ着を着た子供達の笑顔が輝いていた。私には子供がいないが、見ているだけで少しだけ幸せを分けてもらったような気がする。この帝釈天の境内も何度も寅さんと源公(佐藤蛾次郎)が小突きあったり、寅さんがマドンナを案内して散歩をしたりした場所である。
次いで、江戸川の土手に出てみる。ここはオープニングの歌のとき、寅さんが歩いているところである。さすがに江戸川の河原は広々して気持ちがいい。河原はスポーツ広場になっていて中学生が身体を動かしていた。私は寅さんのように土手に腰を下ろしてしばらくそれを眺めていた。ここまで来たのでついでに矢切の渡しに乗ってみようと思う。船頭に100円を払うと、手漕ぎの船に乗れる。流れがある川なのにぴたりと対岸の正確な位置につけることができることに驚く。対岸の千葉県松戸市の下矢切は畑が広がるばかりである。再び矢切の渡しに乗って柴又に戻る。この後は寅さん記念館を見て、帰りに草団子でも食べて戻るとしよう。
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「近代日本の青春時代へ」の写真を追加しました。本文、写真ともこれで全て掲載しました。ずいぶん長い文章になってしまいました。もしずべて読まれた方がいらっしゃれば、心から御礼申し上げます。また、写真もぜひご覧ください。
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11 曲がり角の日本人へ~はるかなる時代を生きた人々より (2007年8月11日)
17時を過ぎても松山の町には熱い風が吹いていた。私は松山駅の小さなステーションビルの中でお土産を買い足したり、待合室でテレビを見たりして過ごした。発車30分前、改札を通る。今晩の宿となる寝台特急「サンライズ瀬戸」は側線に大柄なボディを休めていた。私は、駅弁とビール、おつまみを買い込んで東京までの13時間の旅に備えた。
発車10分ほど前いよいよプラットホームに「サンライズ瀬戸」が入線してきた。一部を除いて2階建てで、車体上部をローズレッド、下部をベージュに塗りわけ、その間にはゴールドの細い帯を入れ、これまでの寝台列車とは一線を画したデザインとなっている。サービス面でも、プライバシーに配慮し、寝台車は全室個室で、トイレや洗面所なども清潔感のあるように設計されている。また、これまでの機関車牽引の列車に比べて、電車方式である「サンライズ」は速度が速く、旅先で有効に時間を活用できるようになった。
列車に乗り込み、個室に入ると、これから13時間、誰にも邪魔されない隠れ家が完成する。広さはたたみ一畳ほどだろうか。狭いが、ベッドの他に、カップホルダー、小さなデスク、ハンガー、BGM装置、冷房の強さを個人で変えることができるのも個室だからできるサービスだろう。既に列車は松山駅を発車していた。駅弁をあけ、缶ビールの蓋を開けちびりちびりとやる。残念ながら海側の個室ではなかったが、その代わりにすれ違う列車を見ることができる。壬生川に停車中に周囲は真っ暗になってしまった。私はベッドの上に横になり、MDウオークマンから流れるポップスを聴きながら目を閉じる。
今回の旅は、幕末から明治時代の末期、日露戦争の頃に活躍した人の足跡をたどることが目的だった。坂本龍馬、板垣退助、ジョン万次郎、幸徳秋水、正岡子規、夏目漱石、秋山好古、秋山真之。それぞれ、経済・政治・語学・文学・軍事の分野で先駆者として活躍した人たちである。坂本龍馬はいちはやく海運と貿易の重要性に目をつけ、大胆な発想で明治維新の立役者となった。板垣退助は全国に自由民権運動が広がり、組織化するにあたって重要な役割を果たした。ジョン万次郎は英語を話せる日本人がほとんどいなかった時期に、日本とアメリカの架け橋となって活躍した。幸徳秋水は日本の資本主義の発達に伴って起きた矛盾を、社会主義を持って解決しようとした先駆者であった。正岡子規は短い生涯をかけて俳句の革新運動に取り組んだ。夏目漱石は近代人の抱える問題に深く切り込みすぐれた小説を残した。秋山好古と真之は、陸海軍でロシアとの困難な戦争を勝利に導くために大きな働きをした。彼らに深く共通するのは、開国し、国際社会の中で地位を確立したいと願うよちよち歩きの近代日本が持っている危うさと可能性をしっかりと認識し、それぞれの分野で先駆者であろうとしたことだろう。彼らの生きた地を歩き、彼らの残した足跡を見つけた。私たちが今生きている時代は、ひょっとしたら日本にとって大きな曲がり角なのかもしれない。そんな時、人は歴史から学ぶことがもっと重要になるだろう。近代日本の青春時代に生きた彼らがもっと光り輝くときが来るのかもしれない。
列車は高松駅に着いた。20分近く停車するので私もプラットホームに降りる。讃岐うどんの店は既に閉まっていた。歩き回っている間に発車時間になった。15分ほどで坂出、まもなく瀬戸大橋を渡る。坂出の街灯りがだんだん小さくなる。やがて真っ暗な海の向こうに小さく見えるだけになってしまった。旅の終わりは近い。
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翌日、雨が降っていた。私達は仙台市の北隣の利府町に梨狩りにいこうと思っていたが、この天気ではどうしようもない。その代わりにどこかに行こうという話しになり、結局石巻市にあるサンファン館に行くことになった。友人2人と私の3人で出発し、利府から三陸道に乗った。三陸道に乗れば石巻まではあっという間である。市街地の東にある牧山をトンネルで抜け、牡蠣の養殖が盛んな万石浦の入り口を短い橋で渡ると間もなくサンファン館がある。ここには、戦国時代を生き延び欧州の覇者になった伊達政宗が大いなる野望を抱き、慶長遣欧使節として支倉常長(1571~1622)を乗せたサン・ファン・バイティスタ号が復元され、展示されている。
政宗の野望とは、まだ体制が固まっていない江戸幕府に代わり天下を取ろうとしたものだ。そのためにスペインと貿易関係を結び、そこから得られる利益を天下取りの為の資金にしようと考えた。そのためにスペイン人宣教師ソテロと支倉常長を使節として派遣した。困難な航海を経て常長たち一行はメキシコのアカプルコを経てスペインに着いた。しかし、この頃から幕府によるキリスト教の禁教が本格化したこともあり、交渉はうまくいかなかった。状況を打開するためにローマ法王パウルス5世に謁見したが、うまくいかなかった。1620年目的を果たせず帰国し、間もなく失意のうちに常長は死んだ。
復元されたサン・ファン・バウティスタ号は、内部にわたるまで精密に再現されていた。日本初の西洋式帆船であったが、細かい装飾に和風の意匠が見られた。このタイプの船(ガレオン船)は、それまでの帆船に比べると大幅に性能がよくなったとはいえ、太平洋横断には大きな危険が伴っただろう。居住性だって個室を与えられたのは船長とソテロ、常長のみ。残りの180名の一行のほとんどが雑魚寝で乗り組んだ。缶詰や冷蔵庫のような便利なものはない、硬いビスケットや干物ばかりの食事、水だってすぐに腐ってしまうだろう。幸い、この時代の航海の大きな問題だったビタミンCの不足による壊血病は、仙台味噌を持ち込むことによることで解決したことは幸運だった。
それにしても、帆船は美しい。高くそびえるマスト、船体が全体として弓なりにそり、いかにも船足が速そうだ。こんな船に乗って旅をして見たいなと思った。
結局、慶長遣欧使節団の派遣は失敗に終わったが、実は小さな種を残した。数人の日本人がスペインに残り、その子孫がハポンさんとして、スペインの大地に根を下ろし、今ではスペイン全土に1000人以上のハポンさんがいるのだという。中には、1996年にミス・スペイン選ばれたハポンさんもいるという。ちなみに、ハポンとはスペインで日本を意味する。サムライの子孫は、スペイン社会の中で一定の地位を築いているようだ。天国の常長も、微笑んでいるのかもしれない。
私達は、サン・ファン・バウティスタ号の形をしたパズルをしたり、ウニご飯をいただいたりして楽しく過ごしたが、じつは常長の旅の様子を再現した映画を上映したシアターではひそかに涙を流していたことは友人2人には内緒である。決してそのシアターが揺れたからではない。
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9 坊っちゃんと歩く松山(下) (2007年8月11日)
夏目漱石の代表作の1つに「坊っちゃん」がある。江戸っ子で正義感が強く気が短い主人公が四国の中学校(旧制中学校、現在の高等学校に相当する)に赴任し、そこで織り成す人間模様を描いた作品である。作品中に舞台が松山であるとはっきり書かれている部分はないのだが、漱石が実際に赴任したのが松山の中学校であること、作品中の記述から舞台は松山であると言われている。そのためか、松山名物は坊っちゃん団子、高松と松山を結ぶ高速バスは「坊っちゃんエクスプレス」(ちなみに、岡山と松山を結ぶ高速バスは「マドンナエクスプレス」マドンナも「坊っちゃん」の登場人物である)、球場は「坊っちゃんスタジアム」と、坊っちゃん尽くしである。
今日は快晴、猛烈な暑さになりそうである。1日のエネルギーを補給すべく、朝食をしっかりと食べる。サワラの塩焼きが美味しい、東北ではあまりなじみがない魚であるから、旅に出た実感を改めてかみしめる。松山駅前から市街地の北部を循環する路面電車に乗る。上一万で道後温泉息の電車に乗り換える。松山駅前から乗り換え無しに道後温泉に行ける電車もあるのだが、今日は松山の路面電車全てに乗っておこうと思ったのでこのような面倒なルートにした。
道後温泉駅は白い壁の洋風建築である。路面電車の駅としては立派な駅で駅の中には売店がある。駅から続く商店街を進むと椿の湯という公共浴場があり、安い値段で入ることができる。まだ時間が早く観光客は少なく地元のおじいさんが多い。道後温泉は古代から続く歴史のある温泉で、日本三古泉といえば、この同語温泉と有馬温泉(兵庫県)に、伊豆山温泉(静岡県)、白浜温泉(和歌山県)、いわき湯本温泉(福島県)のいずれか1つを入れるのが通説になっている。ふるくは「にきたつの湯」とよばれ、聖徳太子が病気療養のために滞在したと言う伝承もある。私も大きな浴槽に入り手足を伸ばした。アルカリ性の泉質なので、しばらく浸かっているうちに肌が滑らかになってきた。
椿の湯を出て温泉街を歩く。間もなく「坊っちゃん」にも出てくる道後温泉本館がある。木造の堂々とした建物で、「千と千尋の神隠しの」湯屋を思い浮かべていただければ大体当たりである(実際、モデルになったとも言われている)。坊っちゃんはここの大きな浴槽を泳いだそうだ。今でも浴室には「坊っちゃん泳ぐべからず」との看板があるらしい。さらに温泉街を歩き、長い階段を上り伊佐爾波神社を参拝した。温泉につかって体が温まっているところに階段を上がったものだからこれはこたえた。
道後温泉のすぐそばに、鎌倉時代から戦国時代にかけての伊予国の雄、河野氏の居城である湯築城址がある。今は城跡の面影はほとんどなく、堀と小高い丘が残るのみである。公園になっているが、さすがにこの暑さでは歩いている人も少ない、それでも高校生くらいの男女のグループがダンスの練習をしていた。あついので水分補給だけはしっかりとしてください。この公園に正岡子規博物館がある。正岡子規と周りの人々の様子についての展示が充実していた。正岡子規という人は本当に面白い人だ、学生時代に時分や周囲の友人(その中に先ほどお話した秋山兄弟の弟のほうの真之も含まれる)を採点した一覧表を作ったり、当時は死の病と言われた結核にかかり喀血してもなお衰えることのない情熱で俳句の革新運動にまい進したり、野球が大好きで、野球用語の中には子規が翻訳した用語のうち、「直球」「四球」「飛球」「打者」「走者」などは今でも使われている。一時期は時分の雅号を「野球」にしてしまったほどである。そして、子規の衰えることのない食欲、とくに果物、なかでもみかんと柿を好み、みかんなら15個ほど一度に食べたという。
再び同語温泉駅に戻り、大街道から行き止まりになっている本町線の電車に乗り終点の本町六丁目まで行き、松山駅前を通る環状線の電車に乗り松山使役に着いた。ひらがなの「ひ」の字を書くような大回りルートだが、これで松山の路面電車は全て乗った。松山市駅から、高浜、郡中港、横河原と3方向に郊外電車が出ているが、高浜は広島行きのフェリーと組み合わせて、今後乗ることになると思う、内陸部に向かう横河原よりも海に向かう郡中港のほうが多少は涼しそうだからこちらに乗る。オレンジ色の電車に乗り、住宅地の中をおよそ35分、郡中港駅に付いた。JRの伊予市駅もすぐ底にある。港がすぐそばにあるので港に行ってみる。真夏の午後2時前の港には人影がない。漁船がたくさんつながれていて魚がたくさん泳いでいる。魚の大きさが大きい、一体どんな魚がいるのだろうか、私はしばらく釣りをしていない、夏の夜の堤防でのアジ釣り、またやってみたくなった。
再び松山に戻り、あまりの暑さに駅に併設されているいよてつ高島屋に行って売り場を見ながら涼むことにする。
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9 坊っちゃんと歩く松山(上) (2007年8月10日)
松山駅前のホテルにチェックインして、しばらく休憩を取る。松山駅前には路面電車が頻繁に発着している。松山市駅行き、道後温泉行きがあり、市内の主な観光地はこの電車に乗れば行けるようになっている。既に夕方近くになっているので、今日は市街中心部の大街道に最近できた坂の上の雲ミュージアムと松山城に行ってみることにした。オレンジ色に塗られた電車の中には、新しい電車も混じっていて、プラットホームと車内の間にまったく段差がないものもある。利用客も多い。道後温泉行きの電車に乗ると、間もなく踏切がある。電車が踏み切りを通過するのも妙だが、こちらは市街を走る路面電車、向こうは郊外に行く電車、性質が異なるのである。大街道で電車を折り、松山の繁華街を少し駅方面に戻ると坂の上の雲ミュージアムがある。司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の主人公である秋山兄弟(兄、好古 1859~1930、日本陸軍騎兵の父と呼ばれる。弟、真之 1868~1918、海軍で日本海海戦の参謀を務めた)の出身地が松山であることにちなんで今年4月にオープンしたものである。時間が押しているので少し急ぎ足の見学になったが、明治時代に多くの一般の人が「建白書」という方法で政府に提案や陳情をしていた。それだけ多くの人が当たらし時代に期待をしていて、近代化が多くの人々に幸せをもたらすのだろうと確信していた、そんな時代なのだろう。
城に向かって歩く。細い路地沿いに秋山兄弟の生家跡があり、現在では団体の建物になっている。松山城は平山城で、天守閣まではかなり登らなければならない、暑いし疲れてもいるから、ロープウエィに乗って楽をすることにする。松山城からは瀬戸内海が見えた、広島行きのフェリーが出る高浜港だろうか。その向こうには島々が見える。天守閣は時間切れで入れなかったが十分堪能した。それにしても暑い。売店で愛媛県産みかん100%のジュースを飲む。おじさんがよく振ってくださいといいながら瓶を渡す。飲んでみると暑いせいもあるかもしれないが、こんなみかんの味の濃いジュースは初めてだ。値段は少し高いがジュースでここまで感動したのは初めてだ。
再び電車に乗り松山駅前に戻る。駅近くの飲み屋さんで鯵の刺身とオコゼの唐揚げを肴に酒を飲んだ。新鮮な鯵は身の甘みも旨味も濃く、オコゼの唐揚げもグロテスクな会見に似合わずに繊細な味でうまかった。飲んだ後は道後温泉に行って温泉を堪能するつもりだったが、お酒が進みすぎて席を立つのが億劫になってきた。結局すっかりできあがってしまい、千鳥足でホテルに引き返した。いつの間にか涼しい風が吹いていた。
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8 キハ32と瀬戸の花嫁 (2007年8月10日)
中村発8時4分の特急「南風10号」は高知に買い物やよさこい祭り見物にいるのだろうか、家族ずれやグループで満席近かった。一昨日見た景色を逆回転にして見る。窪川と土佐佐賀の間にあるループ線(鉄道は急勾配に弱いので、らせん状に大回りして勾配を緩和するもの)もしっかりと確認できた。窪川から予土線に乗り換えて宇和島に行くのだが、乗り換えの待ち合わせが1時間少々ある。駅の待合室でじっとしていてもしょうがないので駅の周辺を歩く。山を背にした小さな町は静かでクルマの通りも少なかった。それに反して駅は大きく。鉄道の要衝であることがわかる。
窪川から県境を越えて宇和島まで行く予土線の列車はキハ32というやや小ぶりの列車1両である。国鉄末期にJR四国の経営の安定を図るために投入された車両である。長いベンチシートに、バスによくある円形の冷房噴出し口、電光掲示式の運賃表、両替機能付き運賃箱、鉄道車両とバスの中間的な車両である。座席がほぼ埋まった列車は中村方面に戻り、若井駅を過ぎると中村方面への路線と別れる。ここから四万十川に沿ってゆっくりと下っていく。中流域の四万十川もエメラルドグリーンの流れは変わらない。私も含めて観光客が多いようで、四万十川が右側に見えればカメラを構えた人は右に移動し、左に見えれば左に移動し、なかなか忙しい。半家(はげ)というすごい名前の駅を過ぎ、江川崎で小休止する。私はその間にトイレに行く。四国の普通列車はトイレ無しの列車が多い。合理化策なのだろうがやや不便だ。その代わりに運転手に言えばトイレが済むまで待っていてくれることになっている。江川崎からは登りになる。間もなく愛媛県に入ると駅ごとに宇和島に買い物や部活に行くのであろう、中学生や高校生が乗ってきて小さな車両は通路まで一杯になった。私は席を立って車両最後尾の貫通路のところに陣取って流れ去る景色を見ていた。普通の車両だったら車掌がいる場所だから、ワンマン運転のおかげである。務田から北宇和島は急な勾配を下る。この小さな車両にとっては過酷な環境だろう。
宇和島駅前は椰子の木の並木がある。歩いたら面白そうだが、この暑さで長くは外にいられない。駅に戻るとベンチに座り列車の時刻を待つ。
宇和島12時47分発の「特急しおかぜ22号」に乗る。車内で駅のコンビニで買った弁当を開ける。宇和島駅にはかつては名物の闘牛にちなんだ「斗牛弁当」などがあったがいつの間にか販売をやめた模様である。相変わらず海と山が近い。そして山の頂上付近まで柑橘類の果樹園が広がっている。みかんだろうか、それともいよかんだろうか、私は果物の中でもとくに柑橘類と梨が好きだ。いまは柑橘類の季節ではないけれど収穫の時期にきたらそれは見事だろうと思う。このまま特急に乗っていれば14時3分には松山に着くのだが、鉄道はこの先内子を経由する路線と伊予長浜を経由する路線に分かれる。特急は内子を経由するが私は景色の良さそうな伊予長浜経由の列車に乗ってみようと思う。13時18分八幡浜着、特急列車からここで降りる。ここから再び13時41分着のキハ32の列車に乗る。八幡浜を過ぎて間もなく昼夜峠を越える長いトンネルに入る。伊予大洲を過ぎるといよいよ内子経由の路線と分かれる。乗客は部活帰りの高校生、駅ごとに降りていきにぎやかだった車内はだんだん静かになっていく。伊予長浜を過ぎると車窓に瀬戸内海が広がる。山が迫っているが港を作るのに好都合な湾はない、波は静かでまるで湖の岸を走っているようだ。みていて気持ちのよい景色なので、つい「瀬戸の花嫁」を歌っている、といっても曲の冒頭とサビしか知らないが。太平洋を見て育った私にとってはこんなに穏やかな海は驚きである。水がきれいな上に遠浅なのであろう、海底の石が透けて見える。串という駅を過ぎると、松山の都市圏に入るのであろう、だんだん乗客が増えてきた。それにしても、「串」という字を見ると焼き鳥を連想してしまう。甘党の人なら団子を連想するのかもしれない、松山に着いたら焼き鳥を肴に一杯やろうと思う。
伊予市で列車を乗り換え、坊ちゃんスタジアムの最寄り駅である市坪を過ぎると15時49分松山に着く。今日は夕方近くになってもさっぱり気温が下がる気配がない。
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6 エメラルドグリーンの水竜に抱かれて (2007年8月9日)
中村の市街地を出て、国道441号線を北に進む。中村の市街地が途切れるとトラクターが国道を走る農村地帯になる。国道から左側に入る道に入り、しばらく行くと四万十川がエメラルドグリーンの帯となってゆったりと流れている。高知県津野町の不入山を源流とする四万十川は、同県四万十町窪川で太平洋まで5キロ程度のところまで接近するが、山に阻まれ、海から遠ざかるように西へ流れる。いくつかに支流を集めて四万十市の江川崎から南へ流れ中村城の西側を流れ太平洋に注ぐ。全体としてSの字をひっくり返したような形に流れている。「日本最後の清流」とよばれていることはご存知の方も多いと思う。
間もなく見えてくるのは佐田沈下橋。四万十川にはこのような欄干がない橋がたくさんある。増水時に欄干が抵抗となり橋が破壊されたり洪水の原因になったりすることを防ぐ目的があるそうだ。暑い日だが、沈下橋の上で川風に吹かれるとさすがに気持ちいい。中村駅から四万十川めぐりをする観光バスもここで下車し観光をしている。川の底が透けて見える。福島だって川の底が透けて見えるような川はいくらでもあるが、これだけの推量があり、しかも下流域でこれだけ澄んだ水が流れている川はそうはないだろう。
クルマに戻り、さらに上流を目指す。この先に三里沈下橋があるので、そこまで行ってみようと思う。道はますます狭くなる、やがてすれ違いが困難なほどの道幅になる。対向車が来る。すれ違いできる場所まで百メートル以上もバックしたこともあった。しかし、景色は素晴らしい。四万十川に注ぐ沢が道路端に小さな滝を作っている。そして水竜のように左右に身をくねらせながらも悠々と流れるエメラルドグリーンの四万十川。
三里沈下橋は、観光客は私だけだった。他にはキャンプの親子が数組いた。私の目の前で40歳くらいの父親が沈下橋から四万十川に飛び込む。それを見ていた小学校高学年くらいの娘が歓声を上げる。きっと中のいい親子なのだろうな、ほほえましくなる情景である。私も泳いでみたくなったが、着替えも水着も持ってこなかったので断念する。
ここから国道441号線に出て、中村の市街地を通り四万十川最下流にある四万十大橋を渡り国道321号線を経て漁業の街である土佐清水を目指す。カーナビと到着予測では3時間近くかかると表示されているが、これはあまりにも遅すぎる。どれだけ詰めることができるだろうか。
中村市街地を過ぎ、四万十大橋を渡る。四万十川の両側はずっと山ばかりだったが、中村からは平野が広がる。相変わらずエメラルドグリーンの水の色は変わらないが、平野に出たら左右に蛇行することをやめまっすぐ流れている。エアコンの効いた車内は快適そのもので、景色もいいし道路も空いているし快適この上ないドライブだ。60~70km/hを維持している。カーナビの到着予想が1分、また1分と早くなっている。四万十川を小さくしたような清流に沿って走る。高知県の川は本当にきれいだ。まもなく、左側にコバルトブルーの太平洋が見えてくる。さっきから早い車につつかれていたが、道が狭く適当な場所がなかった。砂浜を見下ろす駐車場があったのでそこに入り後ろのクルマを先に行かせる。ドアを開けるとメガネが真っ白に曇る。白い砂浜にコバルトブルーの海、どこまでも明るく清らかな風景だった。結局カーナビの予測の半分ほどの1時間30分ほどで土佐清水に着いた。
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5 四万十川の憂鬱 (2007年8月9日)
今日は薄曇でとても蒸し暑い。一昨日は7時前に家を出たし、昨日は8時前にホテルを出たからこのところ毎日早起きをしていたが、今日は9時に中村駅前のレンタカー営業所に行けばいいので、8時くらいまで寝ていてもかまわないのだが、いつも通り5時40分にスイッチが入るように目が覚めた、することもないのでテレビのニュースを見ていて、7時の朝食バイキング開始に間に合うようにレストランの前に並ぶ。
9時きっかりにレンタカー営業所に着く。私が一人でレンタカーに乗るときには1000~1300ccクラスのクルマを予約することにしている。このクラスでは過去に日産マーチ、日産キューブと日産車が続いているが、今回は三菱コルトだった。ボンネットからフロントガラスまでが一本のラインになっているワンモーションフォルム(同時期のホンダフィットなどもワンモーションフォルムを採用している)
カーナビの目的地を為松公園(中村城址)にセットし、中村市街地を西に進む。室町時代に関白一条教房が応仁の乱の戦乱を避けてこの地に移り住み、中村を京都に似た町並みに整備した。以来100年近くにわたって一条氏は高知県西部を支配するが、5代目の当主の一条兼定は暗愚な武将で家臣の信望を失いついに四国の覇者、長曽我部元親に滅ぼされた。クルマ一台がやっと通れる急坂を登り為松公園に着く。ドアを開けるとメガネが曇る、よほど気温と湿度が高いのだろう。コケが生えて滑るコンクリートの歩道を歩きながら考えた。本当に兼定は暗愚な男だったのだろうか。歴史は勝者によって都合よく書き換えられることはよくあることだ。例えば、日本書紀の武烈天皇に関する記述として「妊婦の腹を割いて、胎児を見る」「人を木に登らせて射落す」などのは、日本書紀の著者が勝者、つまり継体天皇の子孫達に使えた人々が記述したものだからであろう。つまり武烈天皇から継体天皇への政権交代を正当化するために敗者である武烈天皇のことをことさら悪く書いたとしか考えられない。
郷土資料館がある。四万十川で取れたアカメという魚(本来は海の魚であるが、川の下流にも住む)の標本がある、体長1メートルにもなる大きな魚である。標本を見ながら圧倒される思いで見ていた。歴史のコーナーでは土佐一条氏に加えて幸徳秋水に関する展示があった。幸徳秋水(1971~1911)も近代日本の青春時代を生きた一人である。彼は、ジャーナリストとして帝国主義への批判、日露戦争への反対を唱えたが、1910年の大逆事件で明治天皇を暗殺しようとした疑いで逮捕され、翌年死刑になった。しかしこの事件は社会主義思想が広がることを恐れた政府によるでっち上げの事件で、冤罪であると言われている。
中村市街地に戻り、一条神社を参拝する。おじさんとおじいさんの2人組がいて、竜串、見残しにぜひ行くように勧められる。そういえば一昨日の特急列車に乗り合わせたおじさんからも勧められた。当初の予定には入っていなかったが、行ってみようと思う。急に大粒の雨が降り出した。二人にお礼を言うと石段を駆け下りてクルマに戻った。
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4 宿毛の夕陽にふられる (2007年8月8日)
再び播磨屋橋にもどり、昼食を取り土産を買う。あちこちで土産を見て歩くのは私の性に合わないので、1箇所で買って自宅宛に配達してもらうようにしている。それにしても暑い、これでは街歩きどころではない。今回の旅ではこのような事態を予想して、暑い時間はできるだけ移動時間にするように工夫している。今日はこれから高知の路面電車で適当なところを往復し、高知駅16時27分の特急で高知県西部の宿毛に向かうことにしている。
高知の路面電車は、南北に走る高知駅~播磨屋橋~桟橋通期五丁目の路線と、東西に走る後免町~播磨屋橋~伊野間の路線からなる。東西の路線は全長20km.を越え、路面電車としては長い路線である。そこで、東側の後免町までの区間は次回の楽しみに取っておいて、西側の区間だけ乗ることにした。電車は高知市街の中心部から、だんだん住宅地にさしかかる。相変わらず乗客は多い。下駄代わりに利用されているようで、頻繁に乗降がある。鏡側にかかる橋を渡ると、片側1車線のあまり広くない道を電車が走る。つまり、電車が来るとクルマは対向車繊維寄って電車を通すことになる。ドライバーにとっては迷惑だろうが、車が走るようになるずっと前から電車が走っているのだろうから、すっかり地元のマナーとして定着したのだろう。やがて郊外から農村風景になり、およそ40分で伊野に着く。このような電車がクルマ万能時代に打ち勝って地域の足として定着していることが本当に嬉しい。いつまでも路面電車が走り続けてほしいと思う。
路面電車の伊野駅からJRの伊野駅までは歩いて5分ほど。JRの列車まで少し間があったので駅前の喫茶店でレモンスカッシュを飲む。店で絞ったレモンジュースを使っていて、程よい酸味が心地よく疲れが吹き飛ぶ。発車直前に駅に行ったら1両の列車は座席がほとんど埋まっていた。
高知駅に戻り、ホテルに行って荷物を受け取るとしばらく時間が余った。早めにホームに入り、かつて東北地方の国鉄線で活躍した車両と同じ形式の車両の写真を撮ったり、椅子のかけ心地を試したりしていた。その後自由席の長い行列に並んだ。
高知駅17時27分発の特急「南風13号」は、高知駅をほぼ満席で出た。再び伊野を過ぎると仁淀川の鉄橋を渡る。高知県は四万十川が清流として知られているが、仁淀川も川の底が透けて見える清流である。カーブが多いが、高知までの区間に比べてややスピードが出ていないようだ。既に稲刈りを終えた田圃もある。社会科の授業で習ったと思うが、高知県は水稲の二期作が行われている。刈り入れ直前で倒れてしまった稲もある。なぜ二期作を行うかというと、気温が温暖であることが大きな理由だと思うが、台風の被害を防ぐこともあるのかと思う。稲は刈り入れ近い時期になると穂が重くなり強風に対して弱くなる。高知県はとくに台風の被害が多い。8月の上旬までに刈り入れをすれば台風の被害にあう確率が低くなるし、9・10月の台風シーズンは二期作目の成長途中でまだ背が低く倒れにくい。そんなことを考えながら乗っていた。
須崎で車内が少し空いた。窪川から土佐くろしお鉄道線に入る。窪川は四万十川上流の町だが、そこから長いトンネルで山を下り、土佐佐賀は海沿いの町である。このあたりの地形の変化は目まぐるしい。高知県西部の中心地の中村(四万十市)でほとんどの乗客が降りる。私も中村に泊まる予定だが、線路はその席宿毛まで続いているので、宿毛までいったん行ってから中村に引き返す。そろりそろりと列車は宿毛駅に滑り込む。
宿毛は夕陽がきれいな町だそうだ。私は1時間後の普通列車で中村に引き返そうと思っていた。それまでの間駅の近くの松田川にかかる橋から夕陽でも見ようかと思っていた。時間は18時40分過ぎ、日没の遅い四国にも夕闇は迫っていた。しかし、駅の掲示には19時37分の列車は9月2日まで運休とあった。その次の列車は宿毛発20時43分、あまりに遅すぎる。結局18時53分の特急で中村に戻った。さっき私が乗ってきた列車の折り返しそうである。さっきの列車にも乗っていた車掌が不思議そうな顔で私を見る。
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3 龍馬の見た海(2007年8月8日)
朝食を済ませ、ホテルのフロントに荷物を預け、高知駅に行く。今日は桂浜~五大山と高知市内観光をして四万十市の中村に向かうことにしている。南国土佐の太陽は朝8時前にもかかわらず強烈だ。路面電車に乗って桟橋通五丁目行きの電車に乗る。OLさんや学生さんで座席はほぼ埋まっていたが、終点に向けて徐々に空いていき、桟橋通五丁目の駅で降り立ったのは私1人だった。この駅はすぐ目の前に船が見えるが高い防波堤に阻まれ海は見えない。桂浜への幹線道路がすぐそばを走っていて、そこで桂浜行きのバスを待つ。バスはすぐにやってきた。トンネルをくぐると浦戸湾沿いの住宅地を走る。高知の代表的な観光地である桂浜行きのバスだが、私のほかは数人のどう見ても観光客には見えないおばあさんだけ、高知の観光業界の先行きを案ずる。
「まもなく終点、長浜営業所です」のアナウンスを聞いて心臓が止まりそうになる。しまった、桂浜と長浜を間違えてしまった。平静を装ってバスを降り人目につかないところでガイドブックの地図を見る。幸い長浜は桂浜に行く途中である、次のバスを待つか、たいした距離ではなさそうだからタクシーを拾ってもいい。待つほどなく桂浜行きのバスが来る、こちらは観光客で通路までぎっしりだった。案ずるのは高知の観光業界ではなく私のそそっかしさだった。間もなく、歓声が上がる。何事かと振り向いてみるとコバルトブルーの太平洋が広がっている。
バスはヘアピンカーブの急な坂を登って降りると桂浜に着く。バスを降りるとまずは坂本龍馬象を見る。太平洋を見つめる龍馬、一体何が見えたのだろうか。明日の日本への希望か、それとも欧米列強に翻弄される立ち遅れた日本の姿か。彼にとって海とは運命的なつながりがある。土佐から剣術就業のため江戸に出た1953年、アメリカのペリーが浦賀に来航した。その後幕府の海軍操練所で航海術を学ぶ、その後に亀山社中、海援隊を結成し私設海軍、貿易会社として大活躍した。かれの活躍は近世から近代へと時代の変革の原動力になった1人であろう。私も海を見た、龍馬ほどの構想力も野心もない私だから、龍馬の生き様は本当に光り輝いてまぶしく見える。
それにしても暑い。アイスクリンを食べ、土佐闘犬センターに行く。土佐犬の子犬のかわいいこと、まるでぬいぐるみである。それに比べると成犬の貫禄のあること、道端でばったり会うことは絶対に避けたい犬である。横綱としばらくの間柵越しの対面をして闘犬センターを後にする。さっきの山を登り、坂本龍馬博物館で坂本龍馬関係の資料を見る。最も感心したのが、龍馬の歩いた足跡を日本地図上に電光掲示で表したもので、土佐、江戸、京都、大阪、長州、長崎、薩摩・・・・交通機関が発達していない時代とは思えないほどの足跡を残している。
桂浜からバスに乗り浦戸大橋を渡る。ずいぶん高い橋で眺めが素晴らしい。渡り終えると温室が並ぶ農業地帯になる。しばらく走ると五台山の細い道を登る。私は五台山の展望台から高知市外と浦戸湾の眺めを楽しみ、四国88箇所の31番札所の竹林寺を参拝した。白衣に傘をかぶったお遍路さんがたくさんいた。私と同じ位の年齢の女性のお遍路さんもいた。
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2 自由民権運動の本場から(2007年8月7日)
高知駅を出ると暑く湿った空気が私の体にまとわりつく。ああ、南国なのだなと実感する。今日は高知駅前のホテルを予約してある。さっそくチェックインして少し部屋で休もうと思う。6階の部屋に落ち着くと冷房を強く効かせてしばらくベッドに横になる。この暑さのせいもあるし、乗りっぱなしとはいえ長時間移動したせいだろう。1時間ほど休憩してだいぶすっきりした。窓から駅前広場が見える。色とりどりの路面電車が発着している。これからこの電車に乗って幕末から明治にかけてたくさんの人材を生んだ高知城下を歩いてきたい。
古びてはいるがよく手入れされた電車に乗る。私のほかに女性が2人、左右に車体を揺らしながら走る、やっぱり路面電車はいい。播磨屋橋で少しお客を増やし、町の中心部からやや外れかかった枡形が終点になる。電車を降りて国道33号線の歩道を少し歩く。建物の間に石碑がぽつんとある。ここが幕末に一瞬だけ彗星のごとく表れ、明治維新を目の前にして消えた坂本龍馬の生家の跡である。龍馬は少年時代寝小便たれで、塾に行けば落ちこぼれるありさまであったという。その彼が薩摩藩と長州藩を結びつけ、西郷隆盛をして「龍馬の度量や到底測るべからず」と言わしめた。ここから高知城を経て播磨屋橋までは歩いていける距離である。お城の西側から入った。周りは落ち着いた住宅街になっている。天守閣は公開時間が過ぎていたが、高知町を見下ろして満足しておく。お城の中には、初代藩主の山内一豊、妻の千代の他、明治時代自由民権運動の旗手となった板垣退助の銅像があった。
お城を後に高知市街へと向かう。明後日からよさこい祭りが始まるから、踊りの練習をしているグループがいる。これは狙ってのことだ。祭り当日は待ちも交通機関も混雑していらいらすることが多い、祭りの後は寂しい。それなら祭りの前なら祭りの雰囲気をいくらかは楽しむことができる。歩いているうちに小さな公園があった。ここはかつて立志社があった跡である。立志社は国会開設を求めて板垣退助らがおこした結社である。ここから自由民権運動のうねりが全国に広がっていくことにある。「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい」のよさこい節で知られる播磨屋橋は小さな橋である。堀にかかっている小さな橋であるがこの歌のおかげで有名になった。もっとも、有名な橋だからきっと立派なものだと思っていくと期待を裏切られることになる。有名になったことがこの橋にとって幸福だったのか不幸だったのか私にはわからない。
播磨屋橋の近くの店でドロメとカツオのたたきを肴に飲んだ。ドロメとは、カタクチイワシの稚魚で、普通は塩茹でして干したものをシラス干と呼んでいる。こちらでは生のものを酢醤油で食べる、コクと甘みがありうまかった。
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私は今四国高知にいます。東北新幹線、東海道・山陽新幹線、土讃本線を乗り継いでおよそ9時間かかりました。土讃本線の特急では隣りに座ったおじさんと話をしていろいろな話をきけました。これはついています。これから高知の市街地を歩いて、祝杯をあげて来ます。
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【5 さようなら、北の大地、北の大空 8月3日】
8月3日、根室の町は濃い霧に覆われていた。朝食を済ませ、根室駅前のバスターミナルへ向かう。バスターミナルは規模が大きく、お土産店などを併設していた。納沙布岬行きのバスの時間を確認しようとしていたら、花咲岬、納沙布岬、金毘羅神社をまわる観光バスのほうが路線バスで往復するよりも安いことに気づく。
根室駅に発車したバスは、霧の中を花咲岬へ向かう。天気さえよければ眺めはよさそうであるが、今は窓の外は真っ白だ。花咲岬は車石という昭和14年に国指定の天然記念物となった世界的にも珍しい奇岩がある。車輪を想わせるような形をした玄武岩で溶岩が水中を流れた時に この様な形になったといわれ 、直径が6mにもなる。海と車石を対比させた写真が撮れたら面白いだろうなと思う。
バスに乗り込み、日本最東端の東根室駅をチラッと見て、根室半島を東へ進む。景色が荒涼としてきた。日本最東端の小学校、はたして何人の児童がいるのやら。納沙布岬からの展望は、今回の旅のハイライトとして、わざと最終日にもってきた。双眼鏡もここで使うために持ってきた。しかし、目の前10メートルが何とか見えるだけだ。本来なら、現在ロシアが実効支配している貝殻島や総称島が見えるはずなのだが・・・。展望はあきらめて、北方領土の資料館を見る。開拓の歴史や、千島列島の自然についての展示があった。はたして、解決はいつのことになるのだろうか?
バスは、根室市内に戻る。根室金毘羅神社に着く。やっと霧が晴れてきた。参拝を済ませ、高田屋嘉兵衛(1769~1827)の像を見る。淡路島で生まれ、一水夫から大商人に上り詰めた嘉兵衛は、いちはやく北海道や千島列島の豊かな物産に目をつけた。北海道の歴史を開いた功労者のひとりとして、もっと知られていい人物である。現在、嘉兵衛は根室の町を見下ろしている。まるで、この町を守っているかのように。私も根室の町を見下ろしてみる。しばらく荒涼とした景色を見てきたので、ひときわ大きな町に思える。
根室発釧路行きの列車は、昨日の列車と同じくディーゼルカー1両のみだった。半分強の席が埋まり発車する。昨日見た景色を逆回しで見る。釧路から特急に乗り換える。すでに自由席のドアの前には長い行列がきていた。あっという間に自由席は満席になった、根室にいたころとは別世界に来たようだ。何とか空席を探す。走りっぷりも今までとは違う。1時間ほどで池田に着く。ここからふるさと銀河線に乗ったのはわずか2日前なのだが、10日も20日も前のことのように思える。
しばらく眠っていた。いつのまにか新得を過ぎ、石勝線に入っていた。あと1時間強で南千歳、寝台特急「北斗星2号」に乗り換えれば、いよいよ北海道ともお別れだ。今度北海道に来られるのは何年後だろうかそれでも、また来ます。北海道の空、北海道の大地、北海道の人々、その日までさようなら。(終)
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【4 最果ての町へ】
8月2日朝。北見は小雨が降っていた。2両編成の柿色のディーゼルカーは高校生で座席がほとんどふさがっていた。エンジンの唸りが高まり、ゆっくりと加速する。今ではすっかり懐かしい国鉄型ディーゼルカーの感触だ。2つ、3つと駅を過ぎるうち、住宅地が切れ、タマネギ畑が広がるころになると、高校生たちが降りていってすっかり静かになった。空港のある女満別を過ぎると、網走湖が広がってくる。静かな湖だ。湖に向かって釣り糸をたれている人がいる。どんな魚がつれるのだろうか?私もしばらく釣りをしていない。またやってみたくなった。
網走川をはさんで少し遠くに網走刑務所が見えてくる。網走といえば刑務所、刑務所といえば網走というほど有名である。私が今乗っている石北本線の工事にも、網走刑務所の受刑者が動員されたそうだ、厳しい寒さ、過酷な労働、前近代的な労務管理、たくさんの命が失われたという。北海道というフロンティアの開発には、残酷物語がいくつも隠されていることを忘れてはいけない。網走では45分ほどの待ち時間になるので、網走の駅前を歩く。ご当地のポテトチップスなどもありなかなか面白い。
網走から、釧網本線の1両のディーゼルカーに乗る。特急に使われていたリクライニングシートが並んでいる。すこしクッションがへたっているが、これまでの車両とは比べ物にならないくらい快適である。網走を発車するとすぐに海沿いに出る。まもなく市街地を出ると、オホーツク海の海岸沿いに出る。私はこれで、日本を囲む4つの海(太平洋、日本海、東シナ海、オホーツク海)全てを見たことになる。それにしても、何と寂しい海岸だろう。時々壊れかけた小屋が見えるだけでほとんど人の気配がない。ただ、赤いハマナスの花が所々に咲いているだけである。すっかり名所になった浜小清水の原生花園だけはにぎやかであったが、それを過ぎるとまた寂しい海岸に戻る。最近ユネスコの世界遺産に登録された知床斜里で半分近くのお客が降りる。列車は身軽になって、山を登っていく。エンジンを2台積んだ強力なディーゼルカーは、こともなげに山を越えていく。川湯温泉駅で私は降りた。
川湯温泉駅は赤い三角屋根の山小屋風の造りだ。駅の中には喫茶店も入っていて、旅の途中に立ち寄ると楽しいだろう。この駅前から温泉行きのバスに乗る。乗客は私ひとり。がら空きのバスは駅を出ると牧場の中の1本道を走る。カーブを曲がるときの遠心力で私の荷物が倒れる。運転手は済まなそうに謝るが、荷物をしっかり持っていなかった私の責任であろう。
川湯温泉のバスターミナル近くの旅館の風呂に入る。川湯温泉には硫黄泉、重曹泉、単純泉の3種類の温泉があるが、ここは硫黄泉である。湯に浸かると硫黄の香りが心地よい。少し熱めの湯であったので、入ったり出たりしながら20分以上堪能した。風呂から出るとロビーに牛乳の自動販売機が合った。普通の牛乳、コーヒー牛乳、フルーツ牛乳があったので、フルーツ牛乳を選んで飲んでみる。私が飲むにはちょっと甘すぎたが、温泉で温まった身体に、心地よい冷たさだった。バスの時間まで少し間があるので、旅館の近くを散歩する。横綱大鵬(横綱在位1961~71年)の銅像がある。樺太(現在ロシアのサハリン州)敷香(現在のポロナイスク)に生まれた大鵬は、1951年から、角界入りする1956年までここに住んだという。相撲資料館もあったが、バスの時間が迫っているので、そちらは諦めることにした。
今度の列車は川湯温泉始発だった。昔弟子屈といった摩周駅からお客が大勢乗ってきて席はほとんど埋まった。標茶を過ぎると釧路湿原に入る。先ほどの温泉でからだがあたたまったのと、列車の適度な揺れで眠くなってきたが、それをこらえて車窓に目を凝らす。驚くべき広大さである。天気が悪く、小雨が降っているが、それでも、見える範囲すべて湿原である。タイミングが悪いのか、花はあまり見えなかったが、この広大さ、この荒涼としたところが釧路湿原の真価であろう。 突然急ブレーキがかかった。線路上にエゾジカがいたのだ。大きな角を生やしていたから雄だろうか。悠々と走り去って行くその姿は大地の王者の貫禄があった。湿原から急に住宅地に入ると東釧路。根室本線と合流し、間もなく釧路に着く。急な車窓の変化に驚く。
釧路駅でも待ち合わせの時間を利用してお土産を買った。それでも時間が余るので、キオスクのおばさんに荷物を預かってもらって、和商市場まで行ってみる。トキシラズ(シロザケのうち、秋ではなく夏に返ってくるもの)が大量に水揚げされたらしく、値段も安かった。筋子の赤い色が目にまぶしい。ホッケ、花咲ガニ、タラなどの北の海の幸が並んでいて見るだけでも楽しかった。釧路駅から根室行きの普通列車に乗る。買い物帰りなのだろうか、通勤客の帰宅には早い夕方の列車は、通路までいっぱいになった。釧路港外の駅で、次々とお客を降ろして行く。厚岸の手前で太平洋が見えるようになる。寒々しい海だ。私の住む福島なら、冬の海の光景だ。厚岸でたくさんのお客を降ろすと、空席が目立つようになる。この先、大きな町は浜中と根室だけである。いよいよ最果ての地だ。おだやかな厚岸湖を右に見ると、再び湿原になる。浜中でお客がさらに降りると、車内にひんやりとした空気が流れてきた。8月なのに、秋のようだ。ひたすら続く森の中を列車は進む。こんな最果ての地まで鉄道が通じたのは、北海道開拓にかける意気込みの現れであろう。先人の苦労には頭が下がる。いよいよ人の気配が薄くなる。牧草地でさえ少なくなり、駅の周囲に何軒かの家しかない。そんな駅にも止まる。それでも、降りる人がいろ。おじいさん、おばあさんが多い。生活の不便さは想像に難くない。夕闇が迫るころ、東根室の駅に着く。土を固めたホームが1本と、「日本最東端の駅」の碑があるだけの駅である。
列車が根室駅に滑り込むころには、すっかり夕方の気配が濃くなっていた。広い駅前広場に人が散って行き、すぐに静かになった。今日の旅館までは歩いて10分ほどである。半袖では肌寒い最果ての町の夕暮れであった。
旅館での夕食は豪華だった。花咲ガニが半身も出たのには驚いた。そのほかに、北の海の魚たち。私は1時間以上かけて食べた。まだ9時前なのに、根室の町は物音さえしない。
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【3 ボクとチハルとラワンブキ 8月1日】
8月1日、札幌は暑い雲に覆われていた。8時20分過ぎ、札幌駅に行く。平日の札幌駅は、多くの人が行きかい、あわただしかった。この駅には、動力を持たない客車を改造して、ディーゼルカーに改造した車両や、電車とディーゼルカーを併結した列車など変り種の列車も楽しめる。8時50分ごろ、ラベンダー色に塗られた流線型の先頭部が特徴的なディーゼルカーが手稲方向から入ってきた。自由席は半分強の席があっという間に埋まる。9時5分に軽やかなエンジン音とともに発車する。札幌の市街地を過ぎ、南千歳から石勝線に入ると、牧場の中を走る。追分駅からはひたすら山の中である。どこまで行っても人の姿の見えない秘境である。そんななかに、突然異変のように高層建築のホテルが建っているトマムリゾートがある。バブルの崩壊後は元気のない状態で、降りる人もほとんどいない。新得から農村地帯に戻り、突然人家が増えだすとまもなく帯広に着く。帯広で半分以上の人が降りる。高架橋で、ビルもちらほら見え、大都会に来たようだ。帯広過ぎると次は池田である。
池田から「ふるさと銀河線」に乗る。国鉄の赤字ローカル線であった池北線第三セクターで存続したものであるが、人口が少ないうえ、距離が長く、経営は厳しかった。路線を廃止することが最近決まったばかりである。ふるさと銀河線の列車は、池田駅の長いホームの端に、わずか1両だけ、ちょこんと停まっていた。列車は、懐かしいアニメ「銀河鉄道999」のキャクターが描かれていた。若いお母さんが、運転手さんに何か頼んでいた。聞き耳を立ててみると、子ども4人だけで、本別まで乗るので、本別に着いたら、降ろしてほしいということだった。都会の電車では考えられないことである。本別までは35分ほどかかる。ちいさい4人の旅人にとっては、大冒険だろう。
列車は、ジャガイモや麦、トウモロコシ畑の中を進む。ちょうど北海道では麦の取り入れの時期のようだ。冷房のない列車なので、窓を大きく開けて、道東の空気を思いっきり吸ってみる。本別駅には、初老の夫婦が待っていた。4人の小さい旅人は降りていった。彼らが大きくなるころは、公共交通機関が利用可能な状態で残っているのだろうか?本別から2つ先の足寄で下車する。立派な駅舎と跨線橋があるが、列車を降りた乗客は、みんな線路を歩いて行く。私もそれに続く。
足寄駅は、道の駅も兼ねていて、立派な建物である。1回には、物産の販売店が、2階にはこの地出身の歌手である、松山千春の資料館がある。とくにファンというわけではないが、ひととおり資料を見てみる。展望台があり、名前が「千春ありが塔」という脱力しそうな名前であった。階段をひたすら上ると、足寄の町が見渡せた。盆地状の地形に、思ったよりも広い範囲に集落が散らばっている。北海道の集落は、中心部といえども密度が低く、広々している。町を歩くと、そば屋さんを見つけたので、天ざるそばの昼食にする。特に期待しないで入った店だが、思いのほかしっかりとしたそばと、さくさくしたてんぷらでおいしかった。次の列車までまだ2時間近くあるので、町を歩いてみる。思いがけない発見をした。オート三輪を発見した。高度成長期の初期の働き者であるオート三輪は、私の記憶にすらほとんどない。それが、ぴかぴかで自走できそうな状態である。ものすごく活きのいいシーラカンスを発見したようなものだ。
町を見下ろす公園を歩いてみる。野球場やテニスコートなど、町の規模の割にはスポーツ施設が充実している。通りかかった足寄町役場の職員と思われるお兄さんも、3人組の中学生も、私を見ると挨拶してくれる。気持ちがいい。芝生の上に寝転んで、空を見てみる。昨日の札幌に比べればかくだんにさわやかな風、きれいな青空、きれいな空気、有名観光地にいるよりも心地よい。有名観光地などクソクラエという心境になる。足世路駅に戻り、売店でラワンブキのソフトクリームを食べる。最近は何でもかんでもジェラートやソフトクリームにするが、フキを使うのは珍しい。かすかにフキの香りのするソフトクリームであった。
足寄から再びふるさと銀河線に乗る。それほど高いわけではないが、北見と十勝を分ける峠にかかる。線路のすぐそばまで湿原が広がっている。訓子府を過ぎると再び畑が広がる。今度は、タマネギ畑が広がっていろ。車内にも少しタマネギの香りが広がった。今日の夕食は、カレーライスと、オニオンサラダとオニオンスープにでもしようかと思う。北見駅近くのホテルに泊まり、北見の町を歩いてみる。人口が10万少々の割には立派な町であった
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【2 北の大地、再び 7月31日】
午前4時20分過ぎ目が覚める。寝台車のカーテンを開けて、外を眺めてみる。広々とした田んぼが広がっている。通路に出て車窓を見てみると、通過する駅の駅名票が「中沢」と読めた。定時ならとっくに北海道に入っている時間だが、まだ青森を過ぎたばかりだ。もう一度寝台車で一眠りし、6時20分ごろ、人の話し声で目が覚める。遅れはどのくらいか車掌に尋ねているようだ。既に遅れは1時間半ちかい、やっと函館の手前のようだ。できれば12年前と同じように北海道上陸の瞬間の喜びを味わってみたかったが、やもうえない。
着替えと洗面を済ませ、ロビーカーに行く。函館を過ぎると、まもなく大沼公園になる。大沼・小沼、ふたつの湖の間を列車は進む。静かな湖畔で、12年前の旅では、ユースホステルで知り合った大阪の大学生と一緒に自転車で一周したことを思い出した。
霧が出てきた。その中を、列車は進んでいく。長万部から洞爺にかけての海岸線は、時に高い断崖が海岸線まで突き出していて、豪快な風景である。食堂車で朝食を食べる。パンにスクランブルエッグ、ハム、ソーセージ、サラダ、フルーツ、最後にはコーヒーもついている。列車の中で、豪快な景色を楽しみながらの朝食は贅沢な気分になる。
列車の遅れはさらに広がって、1時間40分になる。苫小牧は久々に大きな町だ。製紙工場もあれば大きなショッピングセンターも見える。しかし、それを過ぎると、野鳥の生息地として有名なウトナイ湖の近くを走る。その後は、左手に千歳空港がちらりと見える。また牧場とトウモロコシ畑になるとまもなく札幌である。1時間40分遅れの11時25分ごろの到着だ。
札幌駅は12年前と同じように活気があった。10番線まであるホームにはひっきりなしに長距離の特急列車から札幌近郊の普通列車までたくさんの列車が発着していた。 私は、駅の中の店で冷やしラーメンの昼食を終えると、岩見沢行きの普通列車に乗って、次の駅、苗穂(なえぼ)で下車した。ここから、歩いて15分ほどで、サッポロビール博物館にたどり着けるはずである。
苗穂駅は古びていて、小さかった。駅前に、周辺の地図でもないかと探したが、そんなものはなかった。タクシーはいるが、初日から贅沢はしたくない。詳細な地図を用意しておけばよかったが、今回はそこまでの準備はしていなかった。やむを得ずこちらだと思われる方向に歩き出す。 線路をくぐると、大きな工場が見えてきた、JR苗穂工場である。北海道の車両のメンテナンスや改造を行ってきた工場だ。珍しい車両ばかりなのでカメラを向けると、工場のおじさんが近づいてきて、あと30分も待つと「スーパー宗谷がやってくるよ」と教えてくれる。それはそれで魅力的な被写体なのだが、そんなにのんびりしていられないので礼を言って先を急ぐことにする。このことで、だいぶ遠回りをしていたことが判明した。バスでもないかと探したが、バスはついさっき出たばかりで、あと20分も待たねばならない。今日の札幌は強烈な日差しが照りつけ、かなり蒸し暑い。近くに休めるような店も見当たらない。待つのも地獄、歩くのも地獄となれば、少しでも進んだほうが気分的にはいい。結局40分ほど歩いて、やっとサッポロビール博物館にたどり着いた。
私は飲兵衛である。とくにビールが好きだ。それだけの理由でここを選んだのではない。北海道の発展において、食品工業の果たす役割は大きかったと思う。その中で代表的な存在としてサッポロビールを選んだ。レンガ造りのビール博物館に入る。エレベータで3階に上り、ビール製造の歴史について見る。黒田清隆をはじめ、開拓史にとって、ビール製造は重要な事業だった。北海道の風土に適し、北海道で野性のホップが発見されたことも追い風であった。実際にビールの醸造に使うホップや二条大麦も見ることができる。途中には試飲のできるコーナーもあり、明治9年、創業当時のビールを再現したものも飲むことができる。無ろ過のビールは、やわらかい口当たりのビールだった。真昼にもむビールは、グラス1杯でほどよく酔いが回った。
バスに乗り、大通公園をあるく。ここは、札幌に来るたびに歩いたところで、広々とした公園は本州ではなかなかまねのできないところだろう。前回は行くことのできなかった北大植物園に行く。広い園内は、残念ながら花に軸ではなかったが、「少年よ大志を抱け」の北大の古い校舎が園内保存されていた。暑さでだいぶ参っていたので、ゆっくり見て回ることができなかったのが残念だった。まだ午後4時だが、いったんホテルに戻ることにする。贅沢だが、ホテルまではタクシーに乗る。
ホテルの部屋で一眠りして、午後6時、再び札幌駅に行く。駅の窓口で「ドニチカきっぷ」という切符を購入する。この切符は、土曜日・日曜日・祝日のみ札幌市営地下鉄全線が乗り放題になる。この切符を使って、札幌市営地下鉄のミニ散歩をした。まずは東豊線で、南の端の福住へ。ここは、札幌ドームが近い。大きなバスターミナルが隣接していて、ひっきりなしにバスが発着していた。ここから大通りに戻り、東西線の西の端宮の沢に行った。ここは、先ほどの福住に比べればやや古い住宅地といった雰囲気である。これで札幌市営地下鉄は全線に乗ったことになる。感心したことは、電車の内装の壁面に、時計台や道庁、ライラックの花やすずらんなど、札幌の名物が描かれていた。電車の内装は無機質なものとほぼ決まりきっている中で珍しい。
大通り駅で降り、公園を歩く。昼間の暑いのがウソのようにさわやかな風、さすが北海道だ。狸小路に行き、しばらく店を物色しながら歩く。楽しいものだ。ここで飲んで、ラーメンを食べ、地下鉄で戻る。札幌ドームでコンサートがあったらしく、電車の中は「SMAP」のグッズを持った女性でいっぱいだった。ファンの年齢層は70代から10代とかなり広いようだ。
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東急世田谷線は三軒茶屋と下高井戸の間、5.0kmを結ぶ路線です。路面電車型の小型のかわいらしい電車が走っています。
渋谷から東急新玉川・田園都市線に乗り三軒茶屋駅で降り、地下道を歩き、キャロットタワーと言うビルの陰に世田谷線の三軒茶屋駅がある。待つほどなくスカイブルーのかわいい電車がやってきた。
まだ土曜の午前7時過ぎだが、座席が埋まって立っている人もいる。しばらくして都内有数の大動脈である環状7号線と交差する踏切がある。ここでは、電車がクルマを待つこともある。私の乗った電車もしばらく待ってからそろり、そろりと環状7号線をわたる。しばらくすると松蔭神社前駅に着く、ここかで途中下車してみる。雨が強く振っているが、ここから松蔭神社は商店街を歩いてすぐである。松蔭神社は長州藩(山口県)の思想家・教育家で、木戸孝允、高杉晋作らに強い影響を与えたが、安政の大獄に連座して処刑された。その後門弟達がここに改装したのがこの松蔭神社である。雨に煙る境内には人っ子ひとりいない、私も横から吹き付ける雨に閉口して早々と参拝を済ませると松蔭神社を後にした。もし天気がよければ境内に松下村塾を模した建物があるので、そちtらも見るとよいだろう。
再び世田谷線の列車に乗り、3つ先の宮の坂駅に着く。この駅の近くに豪徳寺がある。ここは室町時代に世田谷城が置かれ、招き猫発祥の地であるとされる。門前の並木が雨に打たれて緑が一層鮮やかだ。広い境内だがここにも人影はなかった。松蔭神社を参拝したときよりも幾分雨が弱くなって空が明るくなってきた。庭園をしばらく歩いた。宮の坂駅に戻り、電車に乗ると間もなく山下駅、頭上を小田急線が走っていてすぐ近くに小田急の豪徳寺駅がある。その2つ先が下高井戸、京王線乗換駅である。下高井戸駅の片隅に肩をすぼめるようにして止まると小さな旅は終わる。
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私は昨日東京に行ってきた。正確に言うと一昨日の深夜バスで福島を出発し、昨日の早朝東京に着き、昨日の深夜東京を出発し今日の早朝福島に戻ったと言うのが正しい。つまり0泊3日東京の旅である。かなり慌しく、ハードスケジュールだったけど楽しかった。東京では久しぶりに東急世田谷線(三軒茶屋~下高井戸)のかわいい電車に乗り、沿線のお寺や神社を参拝した。その後渋谷のミニシアターで福島では見れない映画を見て、神保町に行って古本街で掘り出し物を探し、最後に御徒町の居酒屋さんで焼き鳥をつまみに一杯飲んで、東京駅八重洲口のバスターミナルで全国各地に向けて出発する夜行バスを見送り23時59分発の福島行きのバスに乗った。
「田舎の勉強より都会の昼寝」という言葉があるが、東京に来るととても多くの刺激を受ける。午前5時半の渋谷駅、酔いつぶれて駅のホームや階段で眠り込んでいる人が増えていた、ひょっとしたら戦後最長の景気拡大の効果なのか、それとも、格差社会で浮かび上がれない故の自棄酒か。東京は来るたびに多国籍化が進んでいる。世界有数の経済都市はアメーバのように絶えず姿を変えている。一方では、神社やお寺の杜はどこも美しく整備されていた。そんな昔と変わらない面もある。日本の「今」を知るには経済学や社会病理学の本を読むよりも東京を1日歩いたほうがより実感できるのかもしれない。
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今日、町中に買い物と図書館に本を借りに行った。ショッピングセンターの駐車場にクルマを止めて歩いて回ることにした。私が町中の出かける場合、すべてクルマで移動するのではなく、適度に徒歩も入れるようにしている。こうすることで普段見えないものが見えるのがとても楽しい。今日は、お寺と神社を巡ってきた。
私が住んでいる町は、奥州街道(江戸日本橋~宇都宮~白河間の五街道の部分ではなく、白河~仙台~盛岡~三厩間の脇街道の部分)の宿場町として発達した町である。今では町中に宿場町の面影はないが、細い路地に入ると面白いものがたくさんある。立派なお寺と神社、私はお寺や神社を見るのが好きなのでしばらく見入った。お寺や神社の周辺は閑静な住宅地になって、大きなお屋敷もある。車で移動していては絶対に見ることのできない風景である(道幅も狭いし、よそ見していたらクルマが傷だらけになりそうな路地である)最後は、神社からかつての街道までの表参道を歩く。日本酒の種類のずいぶん豊富な居酒屋さんを見つける、これはぜひ行ってみたい。
旅は日常性からの舵手つと考えると、案外近所にも非日常の部分が残っているのではないか。旅には出たいけどなかなか時間がないという方、あなたのご近所の通ったことのない道をあることいいと思います。きっとそこから小さな小さな旅が始まるかもしれません。
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今回も私の過去の旅行記です。2005年の夏、北海道に行ってきましたその時の旅行記です。どうぞお楽しみください。
【1 12年目の旅立ち】
2005年7月30日(土)、私の住む街は夕方から激しい雷雨に見舞われた。私は、予定より1本早いバスに乗った。バスに乗って、窓の外を眺めているうちに、大切なことに気がついた。私にとって、初めての一人旅は、ちょうど12年前の今頃であることを。
日通のアルバイトでためたお金と、たくさんの期待感をポケットに、仙台から普通列車を乗り継いではじめての一人旅に出た。一ノ関、盛岡、青森と乗り継いで、青函トンネルをくぐり、初めての北海道を目にしたときの興奮した気持ちを今でも昨日のように覚えている。その後、函館、大沼公園、小樽、札幌と回った。ユースホステルに泊まり、同宿の人と楽しいふれあいもあった。初めての北海道では、私にとってとても優しかった。
一人旅を始めて12年、21歳だった私は33歳になった。普通列車でどこまでも行っていた私が、飛行機や新幹線、寝台特急を使える身分になった、しかし、そんな表面的なことを抜きにすれば、12年前とあまり変わらない自分がいると思う。12年、ちょうど節目の年に意識せず、同じ北海道を行き先に選んだことは、決して偶然ではないだろう。
駅に行ってみたら、案の定、栃木県内の大雨のため東北本線の列車が運転を見合わせていますということであった。早めにホームに入り、ベンチに座って列車を待つことにする。20時過ぎの駅はまだ帰宅を急ぐ人で混み合っていた。
いつの間にか雨もやんで涼しい風が吹き始めた。そうしているうちに、寝台特急「北斗星81号」は、およそ1時間20分遅れで、21時25分ごろ赤い電気機関車を先頭に郡山駅のホームにはいってきた。B寝台上段に荷物を置くと、さっそく食堂車へ。サッポロクラシックと北海道ソーセージの盛り合わせを注文する。二本松、福島・・・見慣れた町の風景が今日は特別に見える。
食堂車の隣には、ロビーカーがあり、ソファーが並んでおり、車窓を眺めながらゆっくりとくつろぐことができる。私の寝台車が上段で、ほとんど外が見えないし、はしごの上り下りでほかの乗客に迷惑をかけるといけないので、就寝までここで過ごすことにする。岩沼、名取、だんだん仙台が近づいてきた。仙台は19歳から23歳までの時期を過ごした町で、いまでも特別な思い入れがある。23時過ぎの仙台駅は人影もまばらだった。仙台発車を機に寝台車に戻ることにする。
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瀬波温泉を過ぎ、JR羽越本線を高架橋を過ぎると間もなく村上の市街地に入る。村上は江戸時代に藩がおかれ、初めは村上市、その後何回か大名の配置換えが会って最終的には内藤氏が藩主となって明治維新を迎えた。村上はお茶の栽培の北限地帯で、跨線橋からも茶畑が見えた。また、村上市内を流れる三面川は鮭の遡上する川として知られている。市街地に入って間もなくイヨボヤ会館がある。イヨボヤとはこの地域の方言で鮭のことである。早速中に入って展示を見てみることにしてみる。このなかでとくに私の目を引いたのが、今では北海道・東北・北陸の各地で当たり前のように行われている鮭の人工増殖が江戸時代の村上藩で始まったということである。私は、山が切り開かれ、川の汚染が進み、鮭が減った近年担って始まったものだと思っていた。

市街地中心部に向けてクルマを走らせる。目の前に小高い山が見えてくる。この山を臥牛山と言い、かつて村上城があったところである。村上の町はかつては武家地区と町人地区にはっきりと分かれていた。お城に近い東側が武家地区である。上の写真は若林家住宅、150石取りの中級の武士の屋敷である。家の中は質素なつくりである。軒先に塩引き鮭が吊るされていた。この屋敷はL字型の間取りであったが、村上ではこの間取りは珍しいそうだ。次いですぐ近くのまいづる公演に行く、近年整備された公園で、広い敷地の中に3件の武家屋敷が移築されて建っている。武家屋敷は石高(つまり、格式ですな)によって間取りや使われる材料などが規定されているそうで、250石取りの今で言う課長クラスと100石取りの武士の屋敷を比べるとはっきりする。上士の屋敷は間取りもゆったりしているし、客を迎えるための玄関、家族の男子が使う玄関、家族の女子と使用人が使う勝手口と都合3箇所の出入り口と、客の従者の控え室である控えの間が用意されている。立派な床の間のある座敷もあり、天井には漆が塗られている(ここのガイドをしてくれたおじさんによると、漆は明治時代に塗られた可能性もあるそうです)一方100石取りの武士の屋敷は客と家族の場所が明確に分かれていないし、作りも一層質素になっている。
町人の住んでいた地区に行く途中、道路で市をしていた。地元のおじいちゃん、おばあちゃんがシートを広げて野菜や魚、菓子などを売っていた、商業の原点を見るようなささやかで懐かしいような市だった。
町人の屋敷はあまり残っていないようだった。面白かったのは、黒い塀を連ねた細い路地があった。路地の奥にお寺があったりした。日本の都市は城下町から発展したところが多いが、明治時代以降の都市開発や戦災によって消失してしまったところが多い、村上は奇跡的に21世紀まで城下町の雰囲気を残している町である。歴史遺産を大切にしながら町の発展を図ってほしい、そう願いながらクルマを北へと走らせた。(つづく)
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5月11日午前4時前に私は自宅を出た。ずいぶん速い出発だが、これにはわけがある、4時前に高速道路に入るとETCの深夜割引が使えて、走行距離にかかわらず通行料金が3割引きになる。東北自動車道から磐越自動車道に入ると交通量は一層少なくなる。私は眠気防止のために、インターチェンジの区間ごとに緩急をつけながら走る。こうすると適度なメリハリが着いて眠気がおきぬくい。新潟県に入った阿賀野川サービスエリアでしばらく仮眠を取る。これが東北道や関越道のサービスエリアだったら、エンジンをかけっぱなしで休憩しているクルマのエンジン音に仮眠を邪魔されることがあるのだが、何せクルマの少ない磐越道のこと、2時間ほどぐっすりと休むことができた。
家で作っておいたサンドイッチで朝食を済ませると阿賀野川サービスエリアを出発する。間もなく新潟平野に入り広々とした田んぼが広がる。新潟市街地手前の新潟中央ジャンクションから日本海東北道に入りる。立派な橋で阿賀野川を渡るが、この道も無残なほど交通量が少ない。新潟は高速道路と大差ないほど立派な国道のバイパスがあるから、私だって割引料金でなければ国道のほうを使っただろう。全国的にも珍しいトイレしかない豊栄サービスエリアがちらりと見えた。敷地は以外と広い、日本海東北道が鶴岡方面まで延伸したら売店やレストランが整備されるのだろうか。現在の日本海東北道の終点は中条インターチェンジ(胎内市)に着く。胎内市とは珍しい地名だが、一説にはアイヌ語で「清い水が流れるところ」という意味の言葉からきたそうだ。
インターチェンジから10分も走ると日本海に出る。小さな港があって、おじいさんが網の手入れをしている。海岸線に沿って小さな小屋が並んでいる。その奥にはどこまでも続く青く澄んだ日本海、気持ちのいい景色だ。クルマから降りて日本海の潮風を思いっきり肺に入れる、身体の奥底の見えないスイッチが入ったように元気になる。太平洋と日本海の違いがあっても、海は私の故郷だ。元気をチャージすると再び海岸沿いに北へと向かう。国道113号線から分岐して345号線に入り、しばらくすると岩船港が見えてくる。ここは、新潟県沖にある粟島へのフェリーと高速船が発着する港である。ちょうどフェリーと高速船が並んで停泊していた。今回は時間の関係で難しいが、今度は粟島に渡ってみるのも面白そうだ。岩船港を過ぎると間もなく海岸線に瀬波温泉の温泉街に入る。時間は朝9時、ちょっと贅沢なようだが旅館に入り朝風呂とする。海を見下ろす露天風呂に入って身も心もリフレッシュした。(続く)
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私は旅に出るのが好きだが、言葉を失う絶景に出会うことはなかなかない。単にきれいな景色だから絶景というわけではないと思う。天候、季節、私の機嫌、同行者の機嫌、腹の空き具合、懐具合その他いろいろな条件に左右される。例えば、夜景で有名な北海道の函館山、私は2度登ったがいずれも小雨が降っていて函館の町を見下ろすことはできなかった。霧のかなたにかすかに町明かりが見える、これではとても絶景とはいえない。長野県の木曾谷は雨がしとしと降っているときに通った。霧に煙る山が水墨画のように美しかった。ここも、もし晴天時に木曾谷に行ったらたいして感動しなかったのかもしれない。長崎の稲佐山に登った時には無残だった。夜景を見に行くロープウエィの中はカップルや家族連ればかりだった、一人旅は私ひとり、しかも離婚後初の一人旅、ロープウエィは稲佐山をぐんぐん登っていくが私のテンションは下がる一方、結局夜景を禄に楽しむ間もなく下りのロープウエィに載った。きっと美しい夜景だったのだろうな。
そんな私が文句無く絶景と認めたとことろがいくつかある。
① 太魯閣(タロコ)渓谷・・・台湾(中華民国)
初めての海外旅行、期待が大きかったが、その期待を裏切らない絶景だった。ほとんど垂直に切り立った断崖、一体どのくらいの高さがあるのだろう。そして、要所要所には美しい祠がある。途中の天祥という小集落は桃源郷という名がふさわしかった。紀行にも天候にも同行者にも恵まれ最高の条件だった。
② 屋久島の縄文杉・・・鹿児島県
荒川ダムの登山口から登ること4時間半、足も痛くなり、身体もしんどくなっていること現れる。一説には7200円の樹齢を誇る大木。雪をかぶって白く化粧する姿は神々しくさえあった。大自然の前では人間とは何と小さいのだろうと実感した。
③ 根釧台地・・・北海道
どこまでも続くなだらかな丘陵と牧場、草を食む乳牛たち。日本にいることを忘れてどこ名他の国にいる錯覚さえ覚えます。
④ 笹川流れ・・・新潟県
新宿からの夜行列車を村上で降り、鈍行列車に乗り換える。真冬の日本海は波も荒く荒涼とした風景だ。そのに、波打ち際まで山が迫り、わずかな平地にはへばりつくように家々が密集している。胸が押しつぶされるような厳しい景色です。
その他、長野県の木曾谷、福島県の尾瀬沼、岩手県の三陸海岸、、秋田県の寒風山(男鹿半島)なども候補になるでしょうか。あなたの知っている絶景、ぜひ教えてください。
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1964年(昭和39年)に東海道新幹線(東京~新大阪)が開業してすでに40年以上の歳月が経過した。新幹線が開業する前、欧米各国では鉄道は既に過去の交通機関として「鉄道斜陽論」が叫ばれていた。しかし、新幹線の示した高速性、大量輸送性、安全性、定時性の実績はついに先進諸国に鉄道を見直すきっかけとなり、現在では、フランス、ドイツ、イタリア、ベルギー、イギリス、スペインなどの西欧諸国に加え、近年では韓国、台湾、中国でも高速鉄道が開業した。
日本の新幹線ネットワークは、その後山陽、東北、上越、北陸(高崎~長野)、九州(新八代~鹿児島中央)と広がり、さらに東北・北海道新幹線が新青森を経て新函館まで、北陸新幹線が金沢まで、九州新幹線の博多~新八代間が開業に向け建設が進んでいる。新幹線がもたらした経済効果は計り知れないものがあるだろう。もし、新幹線が無かったら、道路の混雑は一層激しくなり、自動車の排出する排気ガスによる影響は大きくなり、交通事故による悲劇も一層増加しただろう。空港も、東京~大阪線など今以上に混雑していただろう。羽田空港や伊丹空港など、離発着の容量を越え、需要があっても供給が追いつかなくなるかもしれない。(全日空のボーイング747-400型機の定員が569人、対して700系のぞみ16両の定員が1323人)
1992年、新幹線のネットワークに新たな仲間が加わった。新幹線直行特急(ミニ新幹線)である。奥羽本線の福島~山形間のレールの幅を広げ、専用の車両を新幹線から山形まで直通させるというものである。この方法は、速度向上の効果は小さいが、乗り換えの解消により心理的な距離感を短くすることができる。通称「山形新幹線」と呼ばれ、利用者にも好評で後に山形県北部の新庄まで延長された。1997年には「秋田新幹線」も開業し、こまち号が東北新幹線盛岡から田沢湖線・奥羽本線秋田まで乗り入れることになった。
こまち号に使用される車両が上の写真の車両である。新幹線の車両は数あれど、私はこの車両が一番好きだ。全体的に丸みを帯びて、ホワイトとシルバーに塗り分けられたボディーにピンクの線が本当に似合っている。車内も荷物棚から天井に向かって緩やかなアーチ状の支柱が走っており、車内の圧迫感を提言していると共に車内の雰囲気を柔らかくしている。車窓だって一級品だ。盛岡を過ぎると、スピードが落ちるが、みちのくの香りはいよいよ強くなる。線路際で牛が寝転んでる、今の時期だったら水芭蕉まで見ることができる。川の水は透き通っていて、日本にもまだこんな景色が残っているのだと嬉しくなる。
こまち号に乗って、角館、田沢湖、乳頭温泉、男鹿半島、白神山地、見所がたくさんある極上の秋田に行ってみてはいかがでしょうか?
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仙台空港で行き交う飛行機をしばらく見た後、新しくできた駅を訪ねながら戻ることにする。再び仙台空港線の電車に乗る。初めに訪れたのは美田園駅、上の写真にもある通り、駅前には何もない。わずかにロータリーに売り出し中の住宅団地の説明会の会場への送迎バスが止まっているのみ。そのバスも空気を乗せて走り去ると聞こえる音は鳥のさえずりのみ。間違っても夜にこの駅には降り立ちたくはない。はるか遠くには昔からの集落があるし、数年後には一戸建ての住宅やマンションが建ち並ぶようになっているかもしれない。
次いで杜せきのした駅で降りる。駅前には巨大な軍艦のように「ダイヤモンドシティ・エアリ」の建物がそびえてみる。この駅で降りた乗客もほとんどがそちらに向かっている。私も入ってみようと思う。内部はすごい混雑である。広大な駐車場がほぼ一杯になっているから、電車で来たお客よりもクルマで来たお客のほうがはるかに多いのだろうが、地方の郊外型ショッピングセンターで公共交通機関の便がここまでいいのは珍しい。私が知る限りにおいては、同じ仙台都市圏内にある「ザ・モール仙台長町店」が仙台市営地下鉄長町南駅前と地下通路で結ばれている例があるくらいである。これから高齢化が進み、クルマを運転できない人が増えるだろうから、このような取り組みは大いに評価できると思う。
「ダイヤモンドシティ・エアリ」のメインテナントは三越とジャスコ、他にシネマコンプレクスのワーナーマイカル、未来屋書店、ムラサキスポーツ、ユニクロなどが入っているので、1日楽しめそうなくらい充実している。私は三越の食品売り場でベルギー産のビールを買った。再び電車に乗り、高架橋を降りると間もなく名取駅に着く電車は東北本線に乗り入れる。私は名取から2駅先の太子堂駅で降りた。この駅も3月18に開業した駅である。

この一帯は「あすと長町」として仙台市の南の副都心として再開発が進んでいる地域である。いまはまだ何もないだだっ広い未開発地に道路だけが走っている。駅前に世にも珍しい道路の輪切りがあった。この道路は再開発によって付け替えられた道路で、私も何回か通ったことがある。隣の長町駅までわずか1キロなので歩いてみようと思う。東北本線の向こうには長町駅前のビル街が見える。長町は地盤が悪く高層ビルは無理だという話を聞いたことがあるが、建築技術の向上の賜物だろうか、ここ10年くらいで見違えるように高層ビルが増えた。今は何もない「あすと長町」であるが、10年後、20年後には高層ビルが建ち並んでいるのだろうか。選挙カーが通りかかった、周りには人も車もいない、よそ者の私に向かって候補者名を連呼している、これは応えなくては申し訳ないような気がしたので、手を大きく振る。選挙カーからは「ご声援ありがとうございました」という大きな声が聞こえてくる。何度も言うが、私は仙台市の有権者ではないのだが。もうすぐ夕方、そろそろ家に帰る時間である。
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先月のJRグループのダイヤ改正で仙台地区の鉄道が大幅に生まれ変わった。東北本線の名取駅から仙台空港まで仙台空港線が開業し、快速電車は仙台駅と仙台空港駅を17分で結ぶようになった(それまでの空港リムジンバスでは40分以上かかっていたから、大幅なスピードアップである。その他、東北本線の南仙台~長町間に太子堂駅が、仙山線の北山~国見駅間に東北福祉大前駅が開業した。車両も国鉄時代からの古い車両を置き換えるために新車が大量に投入された。生まれ変わった仙台地区の鉄道の姿を見てみたい。
少し朝寝坊してしまったので、仙台駅に着いたときには11時を過ぎていた。11時24分発の仙台空港行き普通列車はステンレスのボディをキラキラと輝かせていた。車内に入ると通路までぎっしりだ。それもそのはず、僅か2両編成であった。小さい子供を連れた人やおじいさんおばあさんもいる。鉄道に乗り慣れていない人にとってこの混雑は厳しいだろう。まさかこの人たち全員が仙台空港まで行くとは考えられない。南仙台や名取で降りてしまうようでは仙台空港線の経営が心配になる。一体どうなることやら。
電車は仙台駅を出て、広瀬川を渡ると東北新幹線と並行して真新しい高架橋を走る。長町駅の手前で東京行きの「はやて・こまち号」がこの列車を猛スピードで追い抜いていった。長町駅を出るとすぐに太子堂駅、帰りにこの駅の周りを歩いてみたいと思う。太子堂を過ぎると地平を走るようになる。これまでの東北本線・常磐線の電車だけでなく、仙台空港線の電車も走るようになったので、踏切が渡れない時間が大幅に増えたそうである。南仙台、名取でも乗客は減らず、相変わらず満員のまま仙台空港選に入る。電車は急な勾配で高架橋を駆け上がると左にカーブを切る。県立がんセンターや農業センターのある丘陵地帯が見える。間もなく杜せきのした駅に着く。ここでほとんどの乗客が降りる。お目当ては東北最大級の商業施設「ダイヤモンドシティ・エアリ」である。乗客が少なくなったので、じっくり車内の観察ができる。白色系の木目の内装や青系統のシートファブリックは東北本線の新車と同じであるが、空港連絡用の列車らしい装備としてスーツケースを収納することのできる大きな荷物棚が備えられている。最新の車両だけ合って加速はすこぶるいい。遮音性もなかなかのもの。また、車内の低床化が図られ、ステップがなくなりフラットな車内が実現したのは東北地方の電車としては画期的なことである。(東北地方の駅では、プラットホームの高さが首都圏のそれよりも低く、プラットホームと車両の床に大きな段差ができるか、ステップ付きの車両が多かった)美田園を過ぎると松林の中を走り、短い距離だが仙台空港の敷地の端を地下で声、再び地上に出ると仙台空港駅になる。短いながら楽しい旅だった。

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【3 浅草・向島】
2004年7月3日、両国駅。少し蒸し暑い。今日はここから浅草方面を目指すことにする。両国駅から国技館の前を通る。今日は大相撲開催中ではないため、国技館の中はまったく人の気配がない。せめて、相撲博物館だけでも見ようと思ったが、ここも閉まっていた。安田庭園は小規模な庭園であるが、隣にある丸いドームの両国公会堂がすっかり庭園の雰囲気の中に溶け込んでいて、好ましい景観になっている。この公園の池は汐入の池であり、隅田川から水を引いていた。川の水の状態が近くの庭園の風景まで左右するのだ。
安田公園からすぐに横網町公園に着く。ここは、もと陸軍被服廠跡である。関東大震災のころにはここは空き地になっていて、地震により発生した火災から避難した人がここにたくさん集まったが、火災はここまで焼け広がり、多くの人が亡くなったそうだ。今は、関東大震災と東京大空襲の慰霊堂がある。筆舌にあらわしきれぬ恐怖を味わった人々の気持ちを察しながら手を合わせる。公園の一隅には資料館もあり、ひしゃげた自転車のフレームや溶解して原形をとどめないコインなど、災害の恐ろしさを感じた。
横網町公園を出て、隅田川沿いに歩く。対岸のビル群は、少し低くなってきたようだ。頭上には首都高速6号線の高架橋がある。うっとうしいが、今日は蒸し暑いので日差しを遮ってくれるだけでもありがたい。ここにもいくつものダンボールハウスがある。観察してみると、角材でしっかりと骨組みを作ったダンボールハウスもある。ここでの生活もかなり長期化しているのだろうか。自転車があったり、ラジオがあったり、洗濯物が干してあったりと生活の香りが色濃くなっている。
吾妻橋は赤く塗られていて、遠くからでもよく目立つ橋である。その近くには、金色のオブジェをてっぺんに載せた吾妻橋ホールがある。本当は何をかたどったのかは私にはよくわからないが、浅草の名物といえるだろう。今日は、だいぶ汗をかいてのども渇いてきたので、ここで小休止することにする。
吾妻橋ホールの隣のアサヒビールビルに上って、最上階のトイレからは、例のオブジェと両国方面の景色がよく見える。ビールが飲める店が開いていたので、昼間からビールを楽しむことにする。窓の外には、東武鉄道伊勢崎線鉄橋が見える。鉄橋の前後がカーブになっていて、とくに浅草駅側はかなりの急カーブである。鉄橋を渡る電車はそろりそろりと這うような速度ですすんでいく。
そのうち、隅田川には水上バスがやってくる。これは面白い。昼間のビールは心地よく身体に染み渡り気持ちよくなってくる。このままずっと座っていたい気がする。
いつまでもこうしているわけにもいかないので、先へすすむことにする。隅田公園を通って、国道6号線(水戸街道)に出る。ここから東向島まではたいした距離ではないが、蒸し暑いため、だんだん歩くのが億劫になる。しかも、車がたくさん走る国道など選ぶのだからなおさらである。東向島駅には、東武博物館が併設されている。かつて日光行きの特急列車に使用された車両などが展示されている。ここは子供連れの家族がたくさん来ていて、トレインシュミレーターなどに行列を作っていた。いつの時代でも男の子は乗り物好きが多い。展示内容は大いに興味があったが、私はこの場所に似つかわしくないような気がしてきた。
東武鉄道で浅草に戻った。地下鉄浅草駅からな細くて古びた地下街が延びている。なんだか時代が戻ったかのような地下街である。ラーメン屋に入り、冷やし中華を食べていると、隣に座ったおじいさんが話しかけてきた。カメラが好きだそうで、私が持っていたデジタルカメラに興味を示していた。しばらくカメラ談義に熱中した。いつまでも好きなものがあるのは元気の秘訣なのだろう。どうか、いつまでもお元気で。(終)
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【2 清澄・両国】
2004年5月23日朝、空はどんよりと曇っている。神田駅から東京メトロ銀座線に乗る。改札口へと下る階段の天井までの高さは170センチ、私の身長とほとんど同じだ。天井に頭をこすり付けるようにして階段を下りる。銀座で日比谷線に乗り換える。次の東銀座駅はすぐそこで、加速したかと思うとまもなくブレーキがかかる。
築地で地下鉄を降りるとすぐ目の前に築地本願寺がある。日本の寺では珍しい石造りの寺である。インド様式の荘厳な建築である。前庭を抜けて建物の中に入ってみるとかなり広い。ぎっしりと詰まったパイプいすの数はいくつあるのだろうか?そういえば、数年前に有名芸能人の葬儀が行われたときの参列者の行列を思い出す。本堂の脇には、通りに面して仏具屋がある。初めからテナントが入れるようなつくりになっているのだろうか?なかなかしたたかかである。築地川は埋め立てられて公園になっている。どういうわけか、端の欄干部分だけが残っており、ここが川であったことを叫んでいるかのようだ。欄干には「びぜんばし」名前がついている。なんだか廃屋の表札のようだ。ちなみにこのあたりは、芥川龍之介の生誕地であり、浅野内匠頭邸の会った場所でもある。
聖路加看護大学のキャンバスを歩く。小規模であるが、こざっぱりとしたキャンバスである。つつじの花がきれいだ。隅田川に向かってすすむと、聖路加国際病院がある。高校生のとき、看護職志望の友人と東京に行ったとき、聖路加国際病院を見てみたいといわれ、理解できなかったことがあるが、今は少しわかる気がする。聖路加タワーに上ってみようとも思ったが、まだ時間が早いのか人影はない。裏手に回ると隅田川が見えてくる。少しさかのぼると、前回に通った佃大橋である。
川沿いの遊歩道を歩く。川の水は少し生臭いにおいがするが、思ったほどではない。夏になれば違うのかもしれないが。堤防に掲示がある。見てみると、隅田川の汚染の具合がグラフになっていて、おおむね1974年ごろを境に少しずつ改善されていることがわかる。前年の1973年はオイルショック。開発と経済成長一辺倒の時代から少し変わり始めた時代だといわれる。1972年生まれの私には、やや実感がわかないが。佃大橋の下には、たくさんのダンボールハウスとその住人たち、これから先、無数に見ることになるだろう。大都市東京のもうひとつの姿である。
亀島川の水門を越えると、鉄砲州という。ここは、江戸時代寛政のころには、南北8丁の中州で、射撃練習場だったそうだ。稲荷神社があり、大きな銀杏木の下に30貫と35貫の大きな石がある。ためしに持ち上げようとしたがまったく動かない。1貫は3.75キログラムだから、たしかに重たいわけだ。小さな橋を越えると、東京住友グループの未来都市のようなビル街がある。日曜日の午前中だから人気がなくひっそりとしている。そんなところを歩くのは、秘密の場所へ行くような不思議な気持ちである。再び隅田川に出れば、向こうには佃島、そして、少し川上にはラベンダーブルーの永代橋がある。永代橋は元禄年間にはじめてかけられた橋である。当然現在の橋は鉄骨の近代的な橋である。何代目の橋なのだろうか?
今度は、江東区側の堤防沿いに歩く。首都高速9号線と一般道の2階建てになっている隅田川大橋をくぐり、さらにさかのぼると、仙台堀の水門がある。水門は、いわゆる0メートル地帯が多い江東区にとって、水害を防ぐ大切な役割を持つ。隅田川から少し離れて清純庭園に行く。ここは三菱財閥の創始者である、岩崎弥太郎が、社員の慰安や、内外の賓客を接待するために作ったもので、現在は東半分が残っている。麩を買って池の鯉にやることにした。子供じみたことだが、見ていると飽きないものである。鯉にも要領のいい者と悪い者がいて、要領の悪い鯉に麩をあげようとするが、鯉も人間の動きをよく見ているのか、結局要領のいい鯉ばかりが食べてしまう。
清住庭園を出て、清洲橋を渡り細い路地に入ると大鵬部屋、もう少し先に行くと北の湖部屋がある。北の湖部屋の前を通りかかると、2階のベランダからお相撲さんが身を乗り出していた。声をかけると気軽に写真撮影に応じてくれた。まだまだ髷の結えない下位力士であるが、いずれ関取になってテレビ中継に出るようになることを祈りたい。小名木川にかかる萬年橋を渡ると、芭蕉庵の跡がある。いまでは、隅田川の堤防近くに小さな神社があって、堤防の上には芭蕉の像がある。対岸は日本橋の高層ビル街である。この界隈の変化を芭蕉はどう見るだろうか。
再び隅田川沿いに歩く。首都高速6号線(向島線)と7号線(小松川線)が隅田川の上で分岐している。高速道路のランプウエィの曲線はどことなく艶かしい。春日野部屋は大鵬部屋や北の湖部屋の建物よりもさらにいかめしい作りであった。このあたりには、ほかにもいくつもの相撲部屋がある。国技館はではもうすぐそこである。京葉道路の南側に回向院というお寺がある。ここは、江戸時代から1909年(明治42年)に国技館ができるまで相撲興行が行われた場所である。さほど広い境内ではないので、そのころの面影を残すものはほとんどない。鼠小僧の墓もここにある。上野駅を小さくしたような両国駅を過ぎ、国技館にはたくさんの幟がはためいていた。今日は夏場所の千秋楽である。当日券がないかと思ったがさすがに売り切れであった。
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今月の18日にJRグループのダイヤ改正があります。この改正に伴って、JR東日本の水戸支社、仙台支社の管内では新型車両の投入に伴うおおがかりな車両の配置転換があります。また、茨城県の石岡と鉾田を結ぶ鹿島鉄道が3月末で廃止になります。青春18きっぷが使用開始になってはじめての土曜日である昨日、間もなく役目を終える大ベテラン車両たちの最後の姿を見るために出かけました。
JR常磐線を走る403・415系電車は1965年(昭和40年)に製造が開始された車両で、常磐線の上野~水戸~平(現いわき)間を主な活躍の舞台としてきました。昭和40年代以降、常磐線沿線は急速にベットタウン化が進み、首都圏でも有数の通勤路線になりました。403・415系も、通勤・通学輸送の主力として活躍しました。しかし、老朽化も進み、後継となる車両も登場しついに引退することになりました。今日はいわき駅から水戸駅まで乗りました。福島県の太平洋沿岸の町で育った私にとって、この電車は、東京や水戸に出かけるとき、普段の買い物のときなど、私が子供のときから当たり前に走っていた車両でした。それだけに、引退することは想像できませんでした。今日、久しぶりに乗ると、狭いボックスシートも、少し固めの乗り心地も、全てが懐かしかったです。勿来~大津港間では、車窓に太平洋が広がります。この電車から太平洋を見ることはもうないだろう、長年親しんだ友との別れのようで切なかったです。
水戸で鹿島臨海鉄道に乗り換え、高架の新鉾田駅から町中を歩き、鉾田の町中にある鉾田駅まで歩いた。ここから鹿島鉄道に乗る。これから乗るキハ602というディーゼルカーは、1937年(昭和12年)に製造された車両で、国鉄から鹿島鉄道に譲渡され、何度かの改造を経て現在に至る車両で、現在の日本の鉄道車両の中でも最も古い車両のひとつである。それでも、冷房が取り付けたりしているし、ボディも割合きれいな状態に保たれている。油のしみこんだ木の床が懐かしい。たった1両の車両は、乗り収めに来た鉄道ファンや地元の人で満員だった。盛大にエンジンがうなり走り出したが、なかなかスピードが上がらない。少しスピードが乗ると、上下に船のような大きな揺れがある。ローカル線の乗り心地だ。沿線には写真撮影をしようとしている鉄道ファンがたくさんいた。幕末の剣客の芹沢鴨(1826~1863)の故郷である玉造町から霞ヶ浦の湖岸を走る。静かな湖岸は今日の暖かい気温とあいまって降りて散策したくなってきた。
石岡駅前の食堂で遅い昼食を済ませると、水戸まで常磐線で出て、水郡線で帰った。途中の常陸大子から今年製造されたばかりの新車のディーゼルカーに乗る。鹿島鉄道の車両とは違って、加速もよく揺れも少なかった。
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東京の東側は水の町である。その東京の東部を代表する皮といえば、荒川、江戸川、中川、色々あるが、何と言っても隅田川あろう。第一、流れている地域がいい。中央卸売市場のある築地。佃煮発祥の地といわれる佃島、相撲の町両国、浅草寺のある浅草、下町情緒を残す向島、そして、奥州街道・日光街道の宿場町千住を通り、赤羽岩淵。見所の多い川である。私は2004年4月から2005年8月まで6回にわたりこの川沿いに歩いて風景をたどった。(ただし、向島~千住~荒川遊園~赤羽岩淵間は未執筆)その模様を3回に分けて伝えたいと思います。今日はその第1回目です。
【1 汐止・築地・佃島】
2004年4月3日、12時少し前、私は山手線の電車を新橋で下りた。いよいよ今日から隅田川沿いの散歩が始まる。はじめは、通称「ジオサイト」と呼ばれている汐留の再開発地区を歩いてみる。新橋駅を出て、人通りの多い地下道をゆりかもめの駅の方に歩く。私は、パニック障害があるため、地下鉄、地下街、地下歩道が苦手であるが、ここの地下道は、圧迫感が少ないデザインで、ところどころに植え込みなどがあり、歩きやすい。ジオサイト地区にはSONYプラザや松下ショールームなどがあり、いずれこの地区でゆっくり過ごしてみたい。
ジオサイトの一角に旧新橋駅が復元されている。ここは、明治5年に新橋-横浜間が開通した時の新橋駅である。東京駅が開通し、新橋駅が開通した後は、貨物や荷物輸送の拠点となっていたが、その役目を終え、現在は復元された駅を除いては再開発されて新しい建物が並んでいる。旧新橋駅は石造りの建物で、短いホームも復元されている。駅の内部はケーキ店やレストランがある。また一部は鉄道資料館になっていたが、私が取材した時には休館になっていた。
ジオサイトを離れて、浜離宮を横目に見ながら築地市場方面に進むと、東京高速道路(通称KK線)の高架をくぐる。この道路は首都高速の一部のようであって別法人の運営である。KK線は、西銀座デパートなど高架下の建物のテナント料で運営されている。朝日新聞社の前を過ぎる。建物の前には広い植え込みがあり、疲れたらここで小休止もいいだろう。
築地市場の場内に入る。ここは東京都民の台所を預かる巨大市場である。昼近くになっていたので、せりは終わっていたようであるが、荷物を運ぶフォークリフトなどが走り回っていて、なかなか活気があった。市場の中には、玉子焼きばかりを専門に売る店、かつお節を専門に売る店など見ていて飽きない。牛丼の吉野家もここから生まれた店である。その一角のすし屋で寿司をつまみながらビールを飲んだ。ちょっと贅沢な昼食であるが、ネタがいいのかうまい寿司だった。築地市場の寿司屋で寿司を堪能すると、築地市場を出た。暖かい日で、少し眠気も覚える。築地市場を出てすぐに除波神社という神社がある。その一隅に鮨塚という石碑がある。何かと思ってよく見てみると、人間の食欲を満たすために命を落とした魚たちの霊を慰めるために作られた石碑だそうだ。罪深き私は、今日も食欲を満たすために魚たちを犠牲にしてきた、手を合わせて海のめぐみに感謝する。
勝鬨橋に向かって歩いていき、橋のたもとに小さな建物があり、「おさかな普及センター」という看板が出ている。魚を見るのも、釣るのも、食べるのも大好きな私はさっそく入ってみる。私が取材した日には、カサゴ目の魚の展示をしていた。メバルやアコウダイなど、釣りや食卓で身近な魚が多く展示されていた。 勝鬨橋は隅田川で最も下流の端である。「かちどき」とは威勢のいい名前であるが、これは戦時中に作られた橋だからであろう。当時は中央部が跳ね上がって、船の通行に便宜を図るようになっていたが現在は跳ね上がらないようになっている。勝鬨橋を渡り、隅田川の堤防で缶コーヒーを飲みながら小休止する。隅田川の船の通行量は意外なほど多い。プレジャーボートや観光船が多いが、貨物船も時折混じっている。河原は広々として、陽の光は優しく、うとうととする。近くのビルから、真新しいスーツを着た男女が出てきた。今日は4月3日土曜日である。新入社員の研修でもあるのだろうか?みな緊張した面持ちで、まだ仲間ができていないのだろうか、ひとりずつばらばらに堤防に座ったり、タバコをふかしたり、あるいは遠方の友人にメールでも送っているのだろうか。新社会人3日目、緊張のピークであろう。頑張り過ぎないで頑張ってほしい。
勝鬨橋のたもとの堤防で一休みし、体が少し冷えてきたので、また歩き出す。月島は、もんじゃ焼きが有名であるが、寿司を食べたばかりなので、今回は割愛する。清澄通りと、細い通りを行ったり来たりしながら歩く、昔ながらの庶民的な住宅地とマンションが混在する町である。ここが都心から数キロも離れていないことを忘れそうになる。そんな風景も、晴海運河にかかる相生橋のたもとを左折すると一変する。大河端リバーシティ21、かつての石川島播磨重工の工場跡、さらにさかのぼれば、江戸時代の初期に、大阪佃島の漁民が、隅田川河口の中洲に土地を拝領したのが始まりである。石川島播磨の工場が無くなった後はススキの野原だったそうであるが、現在では近代的な高層マンションが立ち並び、未来都市の様相である。川沿いに遊歩道が整備され、サクラ吹雪が舞っていた。お孫さんを連れたおじいちゃん、おばあちゃんが散策していて、平和な光景である。この一角に石川島播磨の記念館があり、小規模ながらも、工場があった当時の佃島の様子や、工場で働く人々の様子を知ることができた。リバーシティを出ると、再び庶民的な住宅地に戻る。佃島の歴史の生き証人である、住吉神社がある。お参りして佃島を後にする。佃大橋を渡り、さらに、聖路加ガーデン、聖路加病院、築地本願寺を見ようと思ったが、だいぶ疲れてきたので、今日の日程を早めに切り上げ、明石町のバス停から東京駅八重洲南口行きのバスに乗っても戻ることにする。
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【13 関門海峡】
壇ノ浦の古戦場のすぐそばに、関門国道トンネルの人道口がある。歩いて、または自転車で九州に渡れるのだ。エレベータを降りて地下に入る。思ったよりも明るいが、幅は狭く、3メートルくらいだろうか。人通りは多い、どういうわけか、布刈から壇ノ浦へ歩く人は多いが、私のように壇ノ浦から布刈へ歩く人は少ない。ちょうど中間付近に山口県と福岡県の県境があり、プレートがある。向こうから来た熊本の大学生カップルとお互いに写真を撮りあう。再びエレベータを上ると、今度は北九州市の布刈である。このあと、重要文化財になっている門司港駅を見て、電車で下関に戻った。
【終章 寝台特急「あさかぜ」】
下関駅は立派なつくりだ。かつては、関釜連絡線(下関~釜山(現在 プサン)を通じて、京城(ソウル)、平壌(ピョンヤン)、中国各地、そしてシベリア鉄道を経てヨーロッパ各地への玄関であった。そんな栄光の時代があったことを駅舎は今でも語っているようだ。下関駅のホームに、寝台特急「あさかぜ」の発車30分くらい前に入ってみる。すでに、カメラを持った鉄道ファンが多く集まっていた。このたびに出る直前、寝台特急「あさかぜ」の廃止が発表されたばかりだ。やがて、青色の電気機関車に牽かれた「あさかぜ」がホームのひとつ向こうにやってきた、しばらく停車し、いったん駅を通り過ぎるとゆっくりバックで入ってきた。たくさんの人の注目を浴びて、黙々と長距離を走り続けた古びた客車は何を思っただろうか。
ドアが開き、私はシングルデラックス、3番個室の住人になる。シングルデラックスは、ちょっと値は張るが、誰にも気兼ねなく一晩を過ごすことができる。洗面台、オーディオ、ビデオの設備と、洗面道具などのアメニティキットがあり、列車の中ということを考えれば十分なサービスだろうと思う。
列車は静かに下関駅を離れた。車掌がカード式のキーを渡した。ベッドの一方が45度くらい持ち上がるようになっており、読書をするのに都合がいい。音楽をひくくかけ、しばらくうとうとする。
気がつくと、宇部を発車していた。隣の車両はラウンジカーである。ソファーが並んでおり、ビデオが流れている。窓際のソファーに腰掛け、流れ行く景色を楽しむ。新山口、防府、だんだん外が暗くなってきた。旅の終わりは物悲しい、久しぶりの長期の旅行で気を張っていたのが、昨日の夕方からぷつりと切れてきたようだ、夕暮れの景色がひときわ心にしみる。
部屋に戻り、照明を全部落とし、カーテンを開けて、流れ行く町の明かりを見ながらいろんなことを考えていた。これからのこと、これまでのこと、普段は何も考えていない人間なのに、旅に出るとどういうわけか内省的になってしまう、寝台特急のスピードがそうさせるのかもしれない。徳山、岩国、広島、尾道、福山そうしているうちに眠くなってきた。岡山に着いたのは覚えていない。
明日の朝は東京だ、私の旅ももうすぐ終わる、そして、寝台特急「あさかぜ」ももうすぐその歩みを止める。この列車はたくさんのものを運び続けた。昭和から平成にかけ、日本の高度成長を担ったビジネスマンを、たくさんの旅人達の夢を、そして多くの人々の人生を。
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