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カテゴリー「旅行・地域」の279件の記事

鉄道開業150周年企画⑤ 乗り鉄1年生の旅 大垣夜行編

 名古屋駅ビルの店で味噌カツを味わい、普通列車で大垣駅に向かう。大垣夜行は名古屋駅からも乗れるが、夏休みで乗客が多い時期なので名古屋駅からは乗れないかもしれない。始発の大垣駅から乗る予定でいた。普通列車で大垣駅に向かう。母は名古屋地区の普通列車が、2人掛けで進行方向に向きを変えられる座席であることに驚いていた。

 大垣では少し時間があったので、木の近くにある大垣城に行った。天守閣などは閉まっている時間だが、櫓や石垣などを見て大垣駅に引き返した。大垣駅には今夜の大垣夜行に乗る乗客が徐々に集まり始めた。私たちは交代で休憩をとりながら並んだ。私がプラットホームに並んでいる時に、熊本行きの寝台特急「みずほ」が猛スピードで通過していった。いつかあれに乗りたいと思った。

 22時少し前、緑色とオレンジ色に塗られた大垣夜行の電車が入ってきた。プラットホームに緊張が走る。それはそうだ、東京駅までは6時間40分以上かかる。座れるか座れないかは大きな問題である。座席に座って車内がす押し落ち着くと、大垣夜行は静かに大垣駅のホームを離れた。座席はほぼ埋まっている。乗客は旅行客だけでなく、帰宅を急ぐサラリーマンも多い。日常生活と非日常が同居する、それが大垣夜行の姿である。大垣夜行は大垣を発車すると各駅に停車する。夜行列車ではあるけれど、あくまでも普通列車の一員、かつては全国にこういう列車が走っていた。

 名古屋からは多くの乗客が乗ってきて、通路までいっぱいになった。お酒を飲んで帰る人も多いのか赤ら顔の乗客も多い。安城、岡崎と少し乗客が減り車内も静かになってきた。高田駅に停車した時に、「こんばんは、幸田シャーミンです」という声が聞こえてきた。その後蒲郡駅に停車した記憶がないから、幸田と蒲郡の間で眠ったのであろう。間もなく日付が変わろうとしていた。

 目が覚めると大垣夜行は長い鉄橋を渡っていた。遠くには道路が見え、たくさんのトラックが走っている。貨物列車とも何本もすれ違う。夜トラックや貨物列車を運転する人によって私たちの生活は支えられている。当然そんなことは知っていたが、こうやってみると実感できる。単なる知識は無味乾燥なものだが、実感を伴うと生き生きとしたものに変わる。しれにしても、行き交うトラックや貨物列車にともる灯りは美しい。後年、中島みゆきさんの「ヘッドライト・テールライト」を聴いた時に思い浮かべたのが、大垣夜行から見た光景である。

 次に目が覚めたのが富士川の鉄橋を渡る時であった。そこからはもう眠れなくなり、三島と熱海の間にある丹那トンネルも、小田原駅で見える小田急の電車も全て見た。横浜駅の手前で薄明るくなった。川崎を過ぎ、多摩川の鉄橋を渡る時に、東側に太陽が見えた、真赤な真夏の太陽だった。今日も暑くなりそうだ。蒲田、大森、大井町と駅ごとに電車を待つ人の姿も見える。世界有数の大都市、東京の朝の始まりを実感する。1988年、日本が最も元気な時期の最も暑い季節のことだった。品川でだいぶ降り、私たちも荷物をまとめ始めた。

 4時46分、東京駅着、まだ眠いが降りなければならない。山手線や京浜東北線の電車はもう半分近く座席が埋まっている。私たちは東京駅でしばらく休憩し、洗面や着替えを済ませると総武快速線の電車に乗り込み、茂原、安房鴨川、館山と時計回りに房総半島を回り、浜金谷からフェリーで三浦半島の久里浜に渡った。その後、横須賀線に乗って品川駅で降り、山手線、常磐線と乗り継いで夕方いわきに戻った。こうして私の乗り鉄1年生が始まった。今でも時折思い出す楽しい旅になった。

鉄道開業150周年企画③ 我が思い出の急行「ときわ」我孫子〜上野

 我孫子を発車すると次の停車駅は終点の上野、あと一息であるが、ここまで来ると急行「ときわ」は、これまでの快走を忘れてしまったかのようなノロノロ運転になる。その理由は、まだ朝の8時30分過ぎ、ラッシュの時間帯で、急行「ときわ」の行方を上野に向かう通勤電車が阻んであるからである。しかし、何も焦ることはない。この区間はわたしたちが走ってきた線路だけではなく、地下鉄千代田線に直通する各駅停車の電車が走る線路も走っている。こちらは我孫子から先、北柏、柏、南柏、北小金、新松戸ときめ細かく停車していく。しかし、急行「ときわ」がノロノロと走って行くから、駅と駅の間では各駅停車が追い上げて、各駅停車が駅に停まっている間に急行「ときわ」が先行するデッドヒートがしばらく続く。

 東武の打線の電車が見えると柏、ここからはほぼ市街地が途切れることがなくなる。ここから快速で上野までは30分近く、各駅停車霞ヶ関までは1時間 近くはかかるか、それでもホームにはびっしりと人が立っている。通勤ラッシュは今と比較にならないくらい混んでいた。こんなにしてまで通勤しなければならないとかと驚いた。

 北小金駅を過ぎたところで、右側に分かれて行く線路がある。武蔵野線南流山駅に続く線路で、貨物列車が走ろための線路である。鉄道には旅客を運ぶだけでなく、貨物を運ぶという重要な役割があることを、ここで改めて気づいた。車窓は私にとって教科書そのものだった。

 新松戸を過ぎると可愛らしい総武流山電鉄の電車が、松戸の手前では津田沼からの新京成電鉄に電車に出会う。さまざまな電車が行き交う首都圏に住みたいと心の底から思った。ついさっき柏駅の混雑を見たばかりなのに浅はかなことだと思うが、地方の鉄道少年に共通する夢なのかもしれない。

 松戸を過ぎると江戸川の鉄橋を渡り、東京都に入る。東京都に入るとずっとビルが立ち並んでいる光景を予想していた私には意外だが、金町や亀有の駅の周辺を除けばそんなに高い建物はない。それでも田んぼも空き地もない光景を見るとやはり東京は違うなと思う。東武伊勢崎線の並走するようになると、いよいよ急行「ときわ」の旅もクライマックスになる。当時の東武伊勢崎線はセージクリーム一色に塗られた電車が走っていた。今考えるとそれはそれでおしゃれな塗装だと思ったが、当時の私には物足りなく見えた。小菅の拘置所が左に見えると、常磐線は、地下鉄千代田線、東武伊勢崎線と並んで荒川の鉄橋を渡る。地方にはないダイナミックな姿だ。大きな北千住駅を通過する。今度は地下鉄日比谷線の電車が並行し京成本線が上を跨ぐ。南千住の駅の先で地下鉄日比谷線は地下に潜る、慌ただしいけれど楽しい時間が続く。

 日暮里駅の手前で、山手線、京浜東北線、東北本線、京成本線の線路が現れる。おそらくこの辺りが日本で最も線路が密集している地域だろう。黄緑の山手線、スカイブルーの京浜東北線。オレンジと緑色の東北本線、ファイヤーレッドの京成本線、素晴らしい光景が広がっていた。しかし間も無く上野駅に着く車内の乗客は荷物をまとめて降りる支度をしている。私も親に急かされながら降りる支度をする。上野駅まではあとわずかだ。

鉄道開業150周年企画② 我が思い出の急行「ときわ」水戸〜我孫子

 水戸駅は賑やかな駅だ。湯本からさほど大きな駅はなかったから、水戸駅の大きさと人の多さには驚いた。急行「ときわ」はここでほとんど席が埋まる。水戸駅を発車すると電気機関車や水郡線を走るディーゼル機関車が止まっている車両基地が見える。車両基地を過ぎるとまもなく右には日本三名園の偕楽園、左には水をたたえた千波湖、車窓から目を離すいとまもないほど楽しい車窓が続く。赤塚を過ぎると農村風景になる。あれだけ都会だった水戸駅周辺からの変化の大きさに驚く。

 友部で笠間や小山に至る水戸線が分かれると林や畑の混じった緩い丘陵地帯になる。関東平野と言っても必ずしも平坦であるばかりではなく、緩い丘陵地帯も結構あることを私は小学校低学年で知った。急行「ときわ」の車窓は教科書よりももっと早い時期に私に日本地理への関心を高めてくれた。石岡が近づくと筑波山が見えてくる。さほど高い山ではないが、周囲が平野か丘陵地帯なのでとても良く目立つ山である。何かと得をする場所に立っている山である。

 土浦が近づくと蓮根畑が増えてくる。今でこそ土浦周辺の宅地化が進んでいるが、私の子供時代はちょうど宅地化が進み始めた頃で、蓮根畑の多い場所という認識だった。それが1985年前後のつくば万博の頃から宅地化が急激に進んだ。土浦駅を発車する頃には急行「ときわ」は通路までいっぱいになった。流石に鉄道好きな私でも混雑はあまり好きではない。しかし、終点の上野まではあと1時間、車窓を眺めながら乗っていればさほどそんなに問題ではなかった。

 牛久、佐貫(現在の竜ヶ崎市)と駅周辺に住宅が建ち並んだ駅を通過する。水戸以北なら急行の停車駅になりそうだが、ここまで来れば普通列車でもさほどかからない、急行「ときわ」は軽やかに通過していく。湯本から上野までの行程で最もスピードが出るのはこの辺りだろう。平坦で比較的直線が長い。牛久駅と佐貫駅の間で国道66号と並走するが、もはや国道は渋滞が多く全く勝負にならない。こちらは全速力で駆け抜ける歓びを味わっていた。

 藤代を過ぎて田んぼの中にカップヌードルの工場が見えると急行「ときわ」はスピードを落とす。車内の照明を短時間消える。これは取手以北の交流電源と取手以南の直流電源を切り替えるためで、今なお続く常磐線に乗ると必ず避けて通れない関門のようなものだ。ただし最近は速度は落ちるものの車内の照明は消えなくなった。関東鉄道常総線とエメラルドグリーンの常磐線快速電車の快速電車が見えると取手駅である。子供の頃の私にとって、首都圏はどこからかと聞かれれば、取手駅からと答えた。エメラルドグリーンの快速電車は首都圏である象徴の一つだった。

 利根川を長い鉄橋で渡ると、天王台駅、そこからすぐに我孫子駅に着く。我孫子は上野の前最後の停車駅になる。現在は柏駅の重要性が増しているが、当時は我孫子駅の方が重要性が高かったようだ。そういえば時代が違うが山下清は働いていた駅弁屋はこの駅で営業していた弥生軒である。現在、弥生軒は駅弁の販売はしていないが、蕎麦屋の営業をしていて、唐揚げ蕎麦が名物になっている。

鉄道開業150周年企画① 我が思い出の急行「ときわ」湯本〜水戸

 子ども時代の最大の楽しみは、年に1度くらいの割合で家族みんなで東京に行くことであった。私の実家の最寄りの常磐線湯本駅からローズピンクとクリーム色に塗られた急行「ときわ」に乗る。湯本駅は今では自動改札になってしまったが、当時はステンレスの柵の中に駅員さんがいて、鋏で切符に切り込みを入れていた。切符を切る「パチン」という乾いた音、この音を聞くと私の旅気分が盛り上がる。

 急行「ときわ」の車内は4人掛けのボックスシートがずらりと並んでいた。今では窮屈に感じるボックスシートも、子供のこれには大きくて、やわらかいクッションが心地いい最高の空間だった。

 ものごころついた時から鉄道が大好きだった私は、夢見心地で乗っていた。車窓に映る山、川、町並み、田んぼ、全てが美しかった。そして、朝早い電車に乗ると、勿来駅を過ぎたあたりで太平洋から顔を出す朝日を見ることができる。真っ赤な朝日と光を受けてキラキラ輝く太平洋の水面は例えようもないくらい美しかった。

 茨城県に入り、大津港駅を過ぎると国道6号と並走する。急行「ときわ」は国道を走るクルマをビュンビュン抜いていく。子どもだった私は、「どうだ、電車は速いだろう」と得意になりながら国道を走るクルマを見下ろしていた。

 日立を過ぎると、左側に小さな駅があって古びた電車が停まっていた。日立電鉄の電車である。この古びた電車に乗ることは叶わなかったが、後に地下鉄のお下がりの車両に変わった後乗ることができた。その日立電鉄も既に無く、思い出の彼方に去ってしまった。

 水戸が近づくと楽しみがあった。1つ目は、勝田駅の手前にある車両基地を見ること、普通列車に使う電車から、特急「ひたち」に使う電車まで見られ、ちょっとした鉄道博物館状態である。そして、2つ目は、勝田駅では、これまで7両編成で走ってきた急行「ときわ」は、乗客が増えることに備えて4両増結する。その作業を見物する。そろそろと4両編の電車が近づき、安全に連結をする。双方の車両が連結されたら手早くブレーキのホースや電気系統のケーブルが繋がれていく、感心しながら見ていた。勝田駅では茨城交通の列車が左に分岐するとまもなく那珂川の鉄橋を渡る。しばらくすると、水戸の町中に入り速度を落とす。右側から水郡線が合流するとまもなく水戸駅に着く。

遊覧船の明日のために

4月に発生した知床半島の遊覧船事故以来、各地の遊覧船は利用者が減っているという話を聞いた。それ以前も新型コロナウイルスの蔓延で各地の遊覧船をはじめとする観光関連の事業は相当厳しい経営を強いられてきたが、それに追い討ちをかけた形となった。

 今回の知床半島の遊覧船事故は、言葉もないくらいひどい事故だった。40年近く使われた老朽化した船、壊れたままの無線機、運航管理者である社長は事務所に不在、午後から波が高くなることが予想され、他社の人に出航しないよう忠告されていたにもかかわらず出航した船長。とはいえ、全ての遊覧船事業者がそのような状態ではないだろう。 

 貸切バスでは2016年に長野県の碓氷バイパスで起きたスキーバスの事故をきっかけに、貸切バス事業者安全性評価認定制度ができた。この制度は、法令違反や事故発生の状況を評価し、星なしから☆☆☆の4段階で評価するものであり、貸切バスを利用する上で一定の参考になる。

 私はこれまで、箱根の芦ノ湖、松島、三陸の浄土ヶ浜、台湾の淡水、高知の竜串など様々な場所で遊覧船に乗ってきた。船からでないと見られない景色もたくさんあったし、乗り合わせた乗客や乗員の方との楽しい会話もあった。遊覧船にも貸切バスと同じような事業者安全性評価認定制度があれば、優良な事業者についての状況を誰もが知ることになると思う。

魅力多い只見線、再び

 久しぶりに喜ばしいニュースが入った。水害の影響で一部の区間で運転を休止していたJR只見線(会津若松駅〜小出駅)が10月に全線で運転を再開する。

 JR只見線は、福島県と新潟県にまたがり、会津若松駅を起点に、西若松駅、会津坂下(あいづばんげ)駅、会津川口駅、只見(ただみ)駅、小出駅を結ぶ全長135.2kmの路線である。会津若松駅では磐越西線、西若松駅では会津鉄道(ただし、会津鉄道の列車は会津若松駅まで乗り入れるため、会津若松〜西若松間は地元の人にも列車本数の多い会津鉄道の一部と認識されている場合が多い)、小出駅では上越線に接続している。

 沿線は極めて魅力的で、起点の会津若松駅と次の七日町駅周辺は、今なお城下町の面影を伝え、歴史と伝統工芸の町会津若松市の中心部にある。会津本郷駅周辺は本郷焼の窯元が並ぶ。会津盆地は歴史のある寺社が多く、駅から歩いて行けるものも多い。会津坂下駅で会津盆地が終わり、只見川に寄り添いながら山地に分け入る。会津柳津駅周辺には日本三大虚空蔵である柳津虚空蔵と、会津の雪景色を描いた作品で知られる、版画家の斎藤清の作品を集めた美術館がある。

 ここまでが只見線の序章と言っていいだろう。只見線の本領を発揮するのはむしろここからで、只見川に沿った狭い谷を走るようになる。ここは日本有数の豪雪地帯で、冬は相当な豪雪になる。実はこれが利用者の少ないローカル線ながら只見線がここまで生き残ってきた理由である。並行する国道252号が、福島県と新潟県の県境で冬季に通行止めになることが多く、只見線が唯一の交通機関になることが多い。そのような厳しい気候であるが、四季を通して景色は美しく、冬の雪景色は言うまでもなく、春の新緑、夏の只見川、秋の紅葉、いずれもすばらしい。沿線にはいくつも温泉があり、地酒や郷土料理も豊かな地方である。私も只見線運転再開後、新型コロナウイルスの感染状況を見ながらこの地域を再訪してみたいと思う。

いわき地区の炭鉱鉄道を訪ねる その5

 常磐炭鉱内郷坑専用線は、常磐線内郷駅からいわき市内郷宮町峰根を結ぶ2.9kmの炭鉱専用鉄道である。比較的平坦で炭鉱の名残も残り、ゆっくり歩いても片道1時間少々のお手軽なコースである。

 内郷駅で電車を降り、跨線橋を渡る。まもなく新川にかかる橋を渡る。ここから廃線跡の散歩が始まる。新川の橋を渡るとまもなく福島県道66号に出る。かつての線路は県道66号の道幅を広げるのに使われたのだろう。マルト内郷店というスーパーマーケットの先で廃線跡は県道からななれ、狭い道路になっている。すぐに宮川を渡るが、道路の右側に当時の橋台がしっかり残っている。しばらく進むと、内郷坑の選炭場の跡がある。コンクリート造りの構造物は今でも健在で迫力がある。ここで地下から掘り出した石炭から不純物を取り除き、貨車に積み込んだ。非常に貴重な産業遺産だろう。しばらく見物をした。

 廃線跡は緩やかに左にカーブをしながら内郷第二中学校の前を通る。ここで廃線跡を外れて瑞芳寺というお寺に行く。このお寺には炭鉱事故で亡くなった人の慰霊碑がある。大きな石でできた慰霊碑にしばらく手を合わせる。

 再び廃線跡に戻るが、かつて鉄道は宮川に橋をかけて対岸に渡っていたが、今は橋がなく、しばらく廃線跡から離れる。私は宮川に沿って進む。それにしても暑い日だ、まだ4月だというのにすっかり初夏の陽気である。そのかわり花は綺麗だ。芝桜、藤、あやめ、つつじ、牡丹桜これは花のオーケストラだ。

 県道66号に合流してしばらく進み、上町田のバス停の先で県道から右にそれる。そのまま道なりに進むと峰根の終点である。道路の左側にレンガの構造物があり、石炭の積み込みを行なっていた。私はそこから少し足を伸ばして小さなお堂を見に行った、お堂にはお地蔵様がいて満開の牡丹桜があった。少し涼しい風が吹いてきた。

https://www.hotetu.net/haisen/Tohoku/100109jyoubanuchigousen.html
地図はこのページを参照してください。

いわき地区の炭鉱鉄道を訪ねる その4

 好間川の鉄橋の先は古河電子の敷地と常磐自動車道いわき中央インターに遮られて廃線跡を辿ることはできない。狭い道を迂回して田んぼに挟まれた狭い道に出る。この道がかつての古河好間炭鉱専用鉄道である。左右から徐々に山が迫ってきて、目の前にも山が連なってくる。線路はごく緩やかに登っている。ここはいわき市北好間、終点まではもうすぐである。 

 十字路がある、その先で道路は右斜めにカーブをするが、線路はまっすぐ突っ切っていたようだ。かつての線路の跡は小さな公園のようになり、その先に墓地が見える。大抵の場合墓地は線路よりも昔からあるだろうから、線路は一体どこにあるのだろうと探してみたが見当たらない。よく見ると墓跡が割と新しいのでかつての線路は墓地の一部になったと考えていいだろう。

 線路はこの先やぶになって現在は通れないようなので、並行して走る道路を進む。園舎を改築中の幼稚園を右に見ながら進む。やがて北好間の集落に入っていく。私が子どもだった1980年代は古い炭住(炭鉱で働く人向けの社宅、多くが平家の木造の長屋だった)が多く残っていたが、今ではわずかに残るのみで、新しい家も多い。しかし、空き地になっているところも多く、空き家も見られる。旧産炭地の苦しい現状も決して無縁というわけではない。

 少し登りがきつくなり、左側から線路跡が近づくと終点は近い。右にカーブを切ると少し広い平地が現れる。ここが北好間の種移転があったところである。すでに太陽は西の山に落ちかけ薄暗くなりつつある。道路側の建物のシャッターに、ルパン3世のイラストが大きく描かれている、夕暮れ直近の景色でそのイラストだけが眩しく見えた。

 とりあえず、国道49号に出ようと坂を登る、急な坂を登っていると、父親と小学生くらいの女の子が楽しそうに話をしながら歩いていた。夕暮れのオレンジ色の光を浴びて美しく印象的な光景だった。

http://www.hotetu.net/ 地図はこちらのページの左側のメニューから、「鉱山鉄道(軌道)」を選び、「2010年1月吉日、好間炭鉱専用鉄道」のページを参照してください。

いわき地区の炭鉱鉄道を訪ねる その3

 古河好間炭鉱専用鉄道は、トンネルで内郷地区と好間地区を隔てる低い丘陵地帯を越える。実際歩いてみるとわかることだが、この鉄道のルート選択には全く無駄というものがない。鉄道には今も昔も変わらず苦手なものがある。ひとつは急カーブ、自動車よりもはるかに車体の長い鉄道車両は小回りがきかない、そのため線路のカーブは道路とは違って緩やかな放物線状のカーブを描くことが多い。もうひとつ苦手なのは急勾配で、山が多い日本ではいかにして山を越えるかが鉄道建設の大きな課題だった。戦前の道路はできるだけトンネルを避けてつづら折りの坂道で山を越えることは多かったが、鉄道に関しては昔からトンネルを多用していた。

 トンネル2つを越え、好間地区に出ると、かつての線路は現在国道49号バイパスになっている。右側には現在は好間の住宅地が、おそらく当時は田んぼが多かったのだろう。そして前方には水石山というこの地域では高い山が目の前にそびえている。線路は緩い下り坂になり、機関士も気持ちよく運転できる区間になったのだろうと思う。

 1kmほどバイパスを進むと、左側に古河ロックドリルの工場が見えてくる。現在ではトンネル工事などでロックドリルが使われているが、昔は炭鉱や鉱山でロックドリルが使われていた。時代が変わって産業構造が変わっても歴史の生き証人はは何らかの形で残る、そしてここにはかつて古河好間炭鉱があった場所である。炭鉱の閉山後もいわき市内には古河系の企業が立地している。

 さらに進むと、前方に小さな山が見えてくる。バイパスは容赦なく山を切り通しで抜けていくが、線路は緩く右にカーブをして山の麓を走る。現在線路跡は生活道路になっている。ジャンボシュークリームで有名な白土屋菓子店の裏には稲荷神社があるがその参道も線路は突っ切っていたようだ。山を回り込むと、そのまま山の麓に沿って進み、やがて好間川にぶつかる。ここにはかつての鉄橋がそのまま残され、錆び付いてはいるが2本のレールもそのままの形で残されている。ここは第一級の産業遺産と言ってもいいだろう。

いわき地区の炭鉱鉄道を訪ねる その2

 内郷駅は現在は小さい駅である。かつては貨物の取り扱いがあり、炭鉱への専用鉄道も複数あった。現在はその敷地の一部は駅北側の住宅地になっている。今回たどるのは古河好間炭鉱専用鉄道、内郷駅からいわき市好間町北好間を結ぶ5.7kmの鉄道である。開設は1908年、廃止は1972年である。

 内郷駅西側の住宅地から古河好間炭鉱専用鉄道を辿ってみる。しばらくは常磐線の線路と住宅地の間を進む。新川に架かる橋のところで一旦常磐線から少し離れる。鉄橋を特急ひたちがいわき駅に向けてラストスパートをかける。鉄道はどんなに時代が変わってもやっぱり素晴らしい。

 しばらく歩くと線路沿いにパチンコ店やスーパーマーケットがあり常磐線の線路から離れる。古河好間炭鉱専用鉄道はおそらくこれらの店舗の敷地を走っていたものと思われる。スーパーマーケットの少し先で左に緩やかに分岐している。ちょうど砂利が敷かれた空き地があるあたりである。この辺りは住宅地になり当時の面影はないが、少し先のジムの駐車場が道路に対して斜めになっている。これは、駐車場の敷地の一部がかつての線路だったからだろうと思う。バス通りを超えてかつての線路跡を辿っていくと、見覚えのある中華料理店に辿り着く、この店の駐車場も道路に対して斜めになっていて傾斜もついて何故だろうと思ったら線路跡を転用した敷地だからだろうと思う。

 中華料理店を過ぎて狭い道を左に曲がる。ここからははじめて歩く道である。住宅地を歩くと間もなく左側からかつての線路跡の築堤が見えてくる。築堤が小川を渡るときに赤れんが製の立派な橋台が残っている。廃線から既に50年、よく残っていたものと関心する。その先は築堤の上を歩けるようになる。線路跡を歩くのは気持ちがいい。人間には想像力という素晴らしい能力がある。ちょっと想像力を働かせば炭鉱に向けて列車が走っていく姿が想像できる。築堤をしばらく歩くと、線路はトンネルに突き当たる。残念ながらトンネルは通行禁止になっている。

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