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カテゴリー「旅行・地域」の287件の記事

磐城平城を歩く

 磐城平城は現在のいわき駅の北側の小高い山にあったという表現は半分正しく、半分正しくない。現在、磐城平城の面影を残すのは、いわき駅の北側部分だけであるが、かつてのいわき城はもっと南、城の南東の端には、かつてミスタードーナツが入っていたビルやラトブがあり、そこから西へ、子鍬倉神社の辺りまでを含んでいた。現在、商業施設が集中し、ホテルやマンションの建設が進んでいる駅の南口は丸々城であった。もっとも、かつて城であったことを予感させるものはない。

 賑やかな南口から北口に移動すると、一変して静かになる。現在は小さなロータリーが設置されていて、綺麗で使いやすくなった。目の前に見える山は平城のあった山である。今日はここを歩いてみたいと思う。

 駅を出て、右に少し進む。ここの道路も改良工事が始っている。役の北側は昔ながらの街並みが残っているため道路が狭いところが多い。100メートルほど進むと、左に曲がる。すると、山に囲まれた住宅地の中に、細長い池が見えてくる。ここは丹後沢といい、かつて磐城平城の堀の一部であった。丹後沢という名前の由来は、堀の建設がなかなかうまくいかなかったので、箱崎丹後守という老人を人柱としたところうまく工事が進んだことによるものだとされる。

 丹後沢のあたりは、南側に本丸の小高い山があり昼なお薄暗い。階段を上がった先にも公園があり、ここは春には桜がきれいである。遊具で遊んでいる親子もいて少しホッとする。ここから少し上がると本丸の跡になる。本丸跡には櫓はすでにないが、仮藩庁として使われていた建物が残されているが、現在は公開されておらず、柵が固く閉じられている。いずれ櫓も再建されて公開されることを楽しみにしている。本丸の入り口であった中門がここが城跡であることを主張していた。

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「どうする家康」と磐城平藩

 今年のNHK大河ドラマは「どうする家康」である。ご存じ徳川家康の生涯を描いた作品である。徳川家康は愛知県の岡崎に生まれ、幼少期には駿府(現在の静岡市)で今川家の人質生活を送り、今川義元が織田信長に桶狭間の合戦で敗れて以降は今川家から自立し、織田信長との同盟関係をもとに東海地方に勢力を広げ、織田信長に代わり天下人となった豊臣秀吉とは一時対立するものの、のちに和解して、江戸城を築き、江戸の町の発展させた。豊臣秀吉の死後は、関ヶ原の合戦で勝利し、江戸幕府を開き、晩年には大阪に残った豊臣秀頼を滅ぼして江戸幕府の地位を安泰にした。と、駆け足で徳川家康を紹介するとこんなふうになるだろう。徳川家康のすごいところは、彼自身の能力、忍耐力もさることながら、家康を支えた強力な家臣団だろう。百姓から出世を果たし、天下人になった豊臣秀吉からすると、喉から手が出るほど欲しい家臣団だったのだろうと思う。これだけ強力な家臣団が存在した理由は、三河国の小さな領主であった徳川家の歴代の当主が家臣団を育ててきたことと、時川家康その人にそれだけの魅力があったからだろうと思う。数少ない欠点であるケチなことを除いては。

 徳川家康を支えた人物に、鳥居元忠という武将がいる。家康より3歳歳上で歳も近い。家康が今川氏の人質であった頃から仕えていた最も信頼できる家臣のひとりであった。武田氏や北条氏との戦いで功績をあげ、家康が江戸の城主となると、下総国矢作城(現在の千葉県香取市)を与えらえ、4万石の大名になる。北関東や東北の大名から江戸を守る重要な任務を任せれた。1600年、豊臣井秀吉の死後、家康が会津の上杉景勝討伐の兵をあげた時には、京都の伏見城にわずかな兵と共に留守居役をした。その時、石田三成らは伏見城を攻め、鳥居元忠らは奮戦したものの討ち死にした。その後起きたのは天下分け目の関ヶ原の合戦である。関ヶ原の合戦の後、家康は鳥居元忠の子である鳥居忠政を磐城平藩10万石の大名に取り立てた。ケチで知られる徳川家康が4万石から10万石への加増は大盤振る舞いであるが、これも、伏見城で戦死した鳥居元忠の功績を称えてのことだろう。

 戦国時代、いわき市には岩城氏という戦国大名がいた。岩城氏は現在の好間と内郷の境にある大館城を根拠としていたが、鳥居忠政は新たに平城を築いた。今回はこの城と、忠政が父である元忠のために建てた長源寺を歩いてみようと思う。

高齢ドライバーの事故を減らすために(続き)

 高齢ドライバーによる事故が続いているが、これを減らすために、私たちドライバーができることを考えてみたいと思う。

 都会の人が聞いたら驚くと思うが、地方の人はとにかく車によく乗る。数百メートル先のコンビニエンスストアまで行くのにも車を使う。雨が降れば学校の周りの道路は子どもを送迎する車で渋滞する。駐車場事情が悪い昔からの商店街は寂れ、栄えるのは大きな駐車場を完備した大型ショッピングモールやロードサイド店ばかり。道を歩いているのは子どもと高齢者、まるで大人がいない町のよう。おそらく、車が好きというよりは、車に頼りきり、車を使わない生活を考えられ無くなっているのだと思う。

 なるほど、車はいつでも出発できるし、電車やバスのように混雑の心配をすることがない。終電を気にする必要もないし、車内でオナラをしても誰にも迷惑がかからない。誰の視線を気にする必要がないし、どんな会話をしても他人に聞かれる可能性はない。車はまことに便利な乗り物ではあるが、たったひとつ重大な欠点がある。それは、死ぬまで運転をすることが残念ながらできない人が多いことである。

 車と冷蔵庫を比較してみよう。どちらもあれば非常に便利なものである。しかし決定的な違いはある。冷蔵庫を使うには特に資格は要らないが、車を使うには運転免許が必要である。これは冷蔵庫を正常に使った場合、人に怪我を負わせたり、殺してしまう危険性はほぼないが、車の場合、仮に適切に使用したとしても人に怪我を負わせたり、殺してしまう可能性があるからだろう。そして、高齢になって認知機能や身体機能が衰えても冷蔵庫を使いこなすのはそう難しくはないが、車の場合は残念ながらそうではない。完全自動運転が実現すれば認知機能や身体機能が衰えても利用できるだろうが、現在実用化に向けた実験段階だし、実用化はもうしばらく先であるし、実用化しても私たちに買える値段で販売されるかはわからない。

 それではどうすればいいか。はっきり言って、車が運転できないほど認知機能や運動機能が落ちてから車のない生活を考えても遅いと思う。人は歳を重ねるほどそれまで積み重ねてきた生活を変えるのが困難になる。元気なうちから、徒歩、自転車、鉄道、バスなどを使った生活をすることをお勧めしたい。今は便利な地図アプリもあるし、仮に1時間に1本程度しか電車やバスが来なくても、時間を把握すればそれはそれで便利なものだ。駐車場の制約がなくなるから、市街地や駅前にも行きやすくなり、そこだけでしか買えないものや食べられないものにも出会えるだろう。

鉄道開業150周年企画 2002年8月⑨ 寝台特急「さくら」の旅

 夏の日差しも傾く頃、私は東京駅にいた。これから乗るのは長崎行きの寝台特急「さくら」、いわゆるブルートレインの代表格の列車である。駅弁、ビール、おつまみ、そして翌朝の朝食のために、菓子パンやコーヒを買った。「さくら」という名称は、国鉄が1929年に、東京〜下関の特急列車につけた歴史ある名称で、戦後は一貫して東京〜長崎の寝台特急に用いられてきた。しかし、この時点でブルートレインのは既に縮小体制に入っており、既に食堂車の営業をやめていた。ちなみに2005年に寝台特急「さくら」は廃止になったが、現在は九州新幹線の列車名として復活している。

 東京駅のプラットホームに長い編成の寝台特急「さくら」が停まっていた。ロイヤルブルーの車体には疲れも見えたが、それでもなお美しく整備されていて気持ちがいい。私が予約したのはB寝台、昔ながらの二段ベッドが向かい合わせに並んでいる車両である。私は下段のベッドに座る。向かいに一人旅の同じくらいの年齢の男性が座る。軽く会釈をするとその方も会釈を返す。そうしているうちに発車時刻になった。ゆっくりと東京駅のプラットホームを離れた。右側には山手線や京浜東北線の電車、左側には東海道新幹線の電車、どちらも日常の延長線のようなものだけど、私が乗っている寝台特急「さくら」は非日常の塊、どちらかを選べと言われたら、旅には非日常的な乗り物の方がいいと思う。いや、新幹線の速さや便利さは認めるし、私も何度も利用しているが。

 品川を過ぎると、「さくら」の速度が上がる。多摩川を渡り、赤い京浜急行の電車と並走すると、横浜に着く。向かいに座った男性は文庫本を広げて読み始めた。私もバッグの中には文庫本が何冊もあるし、それもいいのだが、なんとなく人恋しいので、ロビーカーに行くことににした。ロビーカーとは、ソファーが置いてあって、乗客が自由に景色を楽しんだり、歓談を楽しむことができる車両である。私はソファーに座って車窓を見ていたら、3人組の男女に声を掛けられた。3人はビールや弁当、おつまみを広げていて、楽しそうに話していた。しかも、楽しく話していてもうるさ過ぎないのがいい。私は寝台車に戻り、ビールと駅弁とおつまみを持ってきて話の中に加わった。

 話をしてみると、3人組ではなく、それぞれ1人で「さくら」に乗っている人だった。旅行に行く人もいれば、帰省するために乗っている人もいる。私も含めると、男性は3人、女性は1人、年齢は私が一番若かった。みんな寝台特急に乗る経験は豊富なようで、私は少し昔の寝台特急事情など色々なことを教えてもらった。私もこれまで行った旅先の話などを話した。幸いロビーカーには飲み物の自動販売機があり、ビールも売っていたので、話が弾むのに応じてビールの缶も次々と空いていった。 

 気が付けば3時間近く話し込んでいたらしい。21時30分、浜松に着いたのを機にお開きにすることにした。名残惜しいが、これ以上遅くなると他の乗客の迷惑にもなる。テーブルの上をきれいに片付けるとそれぞれの旅の無事を祈る言葉をかけながらそれぞれの寝台車に戻った。あまり広い寝台ではないが、ビールの力もあり、たちまち眠ってしまった。

 次の朝は5時20分、広島到着の寸前だった。広島の街並みや宮島の景色を楽しんだ後、もう一度ロビーカーに行ってみた。ロビーカーに人はたくさんいたが、昨夜一緒に飲んだ人たちはいなかった。その後も下関に着く直前にも行ってみたがその頃には乗客もほとんど降りてロビーカーにはほとんど人はいなかった。関門トンネルを抜け、九州に入った。小倉を過ぎると北九州工業地帯に入る。車内には昼下がりのような気だるい空気が漂ってきた。寝台に横になり、博多駅に着いたことには気づかなかった。目が覚めたのは鳥栖駅に停車中だった。長崎本線に入り、肥前山口を過ぎると海に沿って走る。山が間近に迫っていてカーブが多く、「さくら」の速度が落ちる。長崎には13時過ぎに着いた。19時間の旅が終わった。景色もいいし、列車もいい、それ以上にあの1夜の出会いが素晴らしかった。旅の醍醐味はいろいろあるが、人との出会いや会話もその一つだと思う。本当に素晴らしい旅だった。

 

鉄道開業150周年企画⑧ 1992年夏 津軽海峡を越えて

 青森からはいよいよ津軽海峡線に乗り換える。津軽海峡線の快速「海峡」は、赤い電気機関車が先頭に立った長い編成で、乗客も多かった。私は窓際の席を確保することができた。軽い衝撃と共に発車すると、間もなく陸奥湾に沿って走り出す。しばらく走ると、蟹田という少し大きな町にある駅に停まる。この町は、太宰治の「津軽」で、風の町と言われたところである。向かいに下北半島が見える。下北半島の脇野沢までのフェリーもある。蟹田の次の中小国からは新しい線路に入る。ここまでは津軽線といい、青森から蟹田を経て、竜飛崎近くの三厩までを結ぶローカル戦であったが、青函トンネルの開通と共に北海道連絡の役割を担うようになった。

 真新しい線路を走る快速「海峡」は速度を上げ、いくつかトンネルを通過する。そしていよいよ、全長53.9km当時世界最長の青函トンネルに入る。とはいえ、格別の景色があるわけではない。ただし、トンネルの途中に駅がある。竜飛海底駅と吉岡海底駅で、トンネルの設備などの見学ができる。トンネルの上には津軽海峡があることが不思議だし、すごいことだと思う。果てしなく続くと思われた青函トンネルは唐突に終わり、北海道に出た。こと唐突さが面白い。本州から北海道に渡り、地形や植生に私に気づくほどの違いはなかったが、家の作りは変わった。北海道の家は寒さに対して相当重装備であるし、大きな灯油タンクを持つ家が多い。なるほど、これが北海道かと思う。20歳と4ヶ月、北海道初上陸である。

 木古内駅から江差線の線路に入るとカーブが多くなり、速度もやや落ちる。右側の車窓には津軽海峡が見えてくる。大瀬なセメント工場が見えると上磯駅に着く。ここから家が増え、間もなく函館駅に着く。函館駅も青函連絡船時代の名残で、海に突っ込み用な場所にあった。この日は函館に泊まり、夜はバスで函館山に登った。

 2日目は昼過ぎまで函館の街を見て歩いた。路面電車に乗って五稜郭や石川啄木が「我なきぬれて蟹とたわむる」に立待岬のほか、市内の古い建物を巡り歩いた。午後の普通列車で大沼公園まで移動し、大沼公園駅近くのユースホステルに泊まった。ほとんどの宿泊客が私と同じ学生で、大阪から来た1人旅の学生と仲良くなり、一緒に夕食を食べた。夕食後もロビーで語り続けた。

 3日目は、彼は昼ごろまで大沼公園にいるそうだが、私は小樽に向かうので朝食後、お互いの旅の無事を祈る言葉を伝えると、少し時間があるから、レンタサイクルを借りて、大沼を一緒に回らないかと言われた。時間はあまりなかったが、一緒に大沼を回り、景色を堪能し、大沼公園駅に戻ると、もう私の乗る列車が大沼公園駅に差し掛かっていた.私は彼に自転車を託し、ゆっくり別れの言葉を使えることもなく慌ただしく列車に乗り込んだ。ディーゼルカーは遠因を唸らせながら形の良い駒ヶ岳の麓を走り、森、八雲と噴火湾のそばの小さな町を走る。長万部で小樽行きの函館本線の列車に乗り換える。駅弁とお茶を買い、函館本線に乗り換える。

 函館本線という由緒ある名前であるが、ここから小樽までの区間は既にローカル線と化していた。ここから先もディーゼルカーで、乗客はあまり多くない。倶知安を過ぎるとすらりとした羊蹄山が見えてくる。山あり、集落あり、畑あり、きれいな川もありで役者が揃っている。小樽に夕方少し前に着くと、運河の辺りを少し歩いてユースホステルに泊まる。ここでも1人旅の仲間を見つけて夕食を楽しんだ。

 4日目は北海道の鉄道発祥の地である手宮に行った。ここには古い車両が展示されていてそれを見た。小樽の町は少し寂しかった。かつては小樽は重要な町で、北海道最初の鉄道は、小樽の港近くの手宮から札幌を経て、三笠市の幌内までだった。最大の目的は石狩炭田の石炭を小樽港まで運ぶことだった。ロシアや朝鮮半島にも近く、かつての小樽は賑やかだったと聞く。しかし、太平洋戦争後、北海道の経済は札幌への一極集中と、ソ連や北朝鮮との関係が途絶えたことで小樽の重要性が低下した。当時学生だった私にも街並みを見ることでそのことは理解できた、l

 小樽駅に戻り、札幌行きの電車に乗る。編成も長く乗客も多い。小樽と札幌の間は山が海ギリギリまで迫っていて、電車は石狩湾を見ながら走る。やがて札幌の町並みが見えてきた。夢にまで見た札幌の町だ。興奮を抑えながら札幌駅のプラットホームに降り立つ。4日目の午後、仙台を出て80時間と少しをかけて到着した。

 その後、2日ほど札幌に滞在し、さっぽろから夜行列車で青森に戻り、可愛らしいディーゼルカーが走る南部縦貫鉄道や十和田観光鉄道などに寄り道をしながら仙台に戻った。あの旅から30年が過ぎたが、今でも懐かしい旅であった。

鉄道開業150年記念企画⑦ 1992年夏、北へ

 1992年8月、アルバイトで貯めたお金と道南ワイド周遊券(かつて販売されていた特定地域が乗り放題になり、そこまでの往復が割引になるきっぷ)を手に仙台駅にいた。これから普通列車を乗り継いで北海道に向かう。これが私の本格的な一人旅デビュー、胸が高鳴っていた。仙台から一ノ関行きの普通列車に乗る。塩釜を過ぎると右側に小さな島々が見える。日本三景の松島である。松島を過ぎると日本有数の米どころである仙台平野が広がっている。広々とした平野を気持ちよさそうに電車は快走する。小牛田は鳴子に向かう陸羽東線、石巻に向かう石巻線が分岐する。しばらく仙台平野を走り、少し山が迫ると一ノ関に着く。

 ここまでは電車であったが、ここからは同じ普通列車でも客車になる。電車は車両の床下にモーターを積み、その動力で走る車両である。一方客車は車両自体はモーターやエンジンなど動力を発生させる装置を持っておらず、機関車に牽引されて走る。150年前の鉄道開業の時には電車は存在せず、すべての旅客列車が客車であった。その後、加減速に優れ、終点で機関車の付け替えの必要がない電車に置き換わっていくが、この当時の東北本線一ノ関以北はまだまだ客車の天下だった。

 盛岡行きの列車は赤い電気機関車を先頭にレッドトレインと呼ばれていた赤い客車を連ねた列車に乗り込む。ピーと機関車のホイッスルが聞こえ、ガクンと軽い衝撃があって一ノ関駅を発車する。ワンテンポ遅れて加速が始まる。客車の乗り心地だ。走り出せば結構な速度で走る。冷房のない車両だから窓を開け風の心地よい癇癪を楽しむ。岩手県の風景はよく、北上川も見える。減速は流石に電車に比べると鈍い。停車すると乗客の声以外何の音もしない。これが客車の乗り心地である。

 水沢の少し先に六原という駅がある。この駅に着くと少し離れた席から「六波羅探題」という声が聞こえて来る。駅の名前を使った駄洒落は、鉄道好きあるあるに入れていいと思う。北上、花巻を過ぎて盛岡が近づいてくる。左側に形の良い岩手山が近づいてくる。仙台以来久しぶりの大きな町になるのが盛岡である。しかし、私は青森行きの普通列車に乗り換え先を急ぐ。

 盛岡から先も客車の普通列車である。同じボックスに乗り合わせたのは、60代くらいの退職した校長先生か博物館長という感じのおじさんで、私が大きな荷物を持っているのに気づき、旅行者だと気づいたらしい。おじさんもかつて周遊券で旅をしたそうで、車窓から見える景色をいろいろ教えてくれた。初めて知ることも多くとても勉強になった。

 おじさんが降りていくと、徐々に山が迫り、勾配がきつくなっていく。昼も過ぎ疲れてきたので少しだけ眠る。目が覚めると金田一駅、長かった岩手県もここで終わり、次の目時からは青森県に入る。今度は徐々に降り始め、八戸に着く。このまま普通列車に乗り通しても函館に着くが、明るいうちの函館に着きたいと思っていたので、ここから青森までは特急「はつかり」に乗る。

 東北の名門特急であった「はつかりも、この時点では盛岡と青森、函館を結ぶ新幹線に接続することが使命の列車になっていた。それでもさすがに特急だけあってスピードは速い。三沢で十和田観光電鉄の電車が見えたと思うと野辺地、丸っこくてかわいいレールバスと呼ばれる小型の車両が見えた。野辺地を過ぎると陸奥湾が見える。同じ東北でもいわきや仙台と比べると海の色が重い。寒い海なのだと実感する。夏泊半島の付け根を突っ切ると浅虫、海沿いに温泉旅館が見える。青森の市街地を時計回りに半周すると青森駅、かつては青函連絡船が出ていたから、海に突っ込むような形で駅が設置されている。私は青森駅のホームに降り立つと深呼吸をした。潮の香りがした。

鉄道開業150周年企画⑥ 1992年の仙山線

 1992年4月、私は仙台市にある大学に入学した。アパートは仙山線の線路沿いにある2階建てのものだった。さほど特徴があるアパートではなかったが、私には非常に気に入っていた点があった。それは、アパートの裏の崖の下に仙山線の線路があったことである。列車の走行音は、鉄道が好きではない人にとっては騒音なのかもしれないが、好きな者にとっては至高の音であった。

 仙山線は仙台駅と山形駅を結ぶ鉄道路線である。仙台市と山形市は県庁所在地同士ではあるが、双方の市街地同士は50kmほどしか離れておらず、買い物や通勤、通学など日常的なつながりは深い。それに加えて、仙台市の人口増加で、仙山線沿線の人口も増加し、1984年から1991年にかけて、仙台市内の仙山線に、東照宮、北山、国見、葛岡の4駅が新設された。

 私がここに住み始めた時期は、2つの理由で仙山線が最も忙しい時期になった。1つ目の理由は、先述した仙台市の人口増加による需要の増加で、新駅の開設や列車の増加が行われていた。とくに仙台市街地の北西部にあたる国見駅、陸前落合駅、愛子(あやし)駅周辺の市街化は急速で、それまでのんびりとしたローカル線だった仙山線は、仙台〜愛子間を中心に列車の増発が行われ、急速に都市型の路線の変貌した。もうひとつは、山形新幹線の開業である。従来、秋田や横手、新庄、山形、米沢の人が東京に行くには、特急「つばさ」か奥羽本線普通列車に乗り、福島で東北新幹線に乗ることが一般的であったが、山形新幹線の工事が本格化した1991年8月からは、奥羽本線福島〜山形間を運休してバス代行した。このため、特急「つばさ」は、山形から仙山線に入り、仙台駅で東北新幹線に接続するようになった。これに加えて、仙台駅と山形駅を結ぶ快速列車も多数運転され、仙山線の線路はお祭り騒ぎのような状態になった。

 1992年7月、山形新幹線が開業し、特急「つばさ」は、山形新幹線の列車名になり、仙山線からは消えていったが。それでも仙山線は寂しくなるどころか、活気があった。仙台都市圏の普通列車はますます活況を帯びていたし、夜には夜行の急行「津軽」が仙山線の線路を走った。急行「津軽」は、上野から、宇都宮、福島、仙台を経て、仙台から仙山線に入り、山形、新庄、横手、秋田、大館、弘前を経て青森を結ぶ長距離列車で、非常に歴史の長い列車である。青森行きの下り列車は午前4時過ぎにアパート裏の仙山線を通っていたから見る機会はなかったが、上野行きの上り列車は夜ふかしした日は姿を見たことがあるし、目が覚めた時に走行音を聞くこともあった。そういう時には無性に旅に出たくなった。だって、すぐ裏は線路で、線路の先にはまだ見ぬ町が待っている。

 朝も列車の走行音で目を覚ました。5時40分過ぎの仙台行きの始発列車では目を覚まさないが、3本目の6時20分過ぎの山形行きで目を覚ます。そんな生活が4年間続いた。鉄道は時間に正確だからできることだろうと思う。

 4年間の学生生活を終え、仙台市を離れる時にも同じように列車は走っていた。卒業後何回か当時住んでいたアパートに行ってみた。アパートはすっかりきれいになっていたが、仙山線の列車は同じように走っていた。

鉄道開業150周年企画⑤ 乗り鉄1年生の旅 大垣夜行編

 名古屋駅ビルの店で味噌カツを味わい、普通列車で大垣駅に向かう。大垣夜行は名古屋駅からも乗れるが、夏休みで乗客が多い時期なので名古屋駅からは乗れないかもしれない。始発の大垣駅から乗る予定でいた。普通列車で大垣駅に向かう。母は名古屋地区の普通列車が、2人掛けで進行方向に向きを変えられる座席であることに驚いていた。

 大垣では少し時間があったので、木の近くにある大垣城に行った。天守閣などは閉まっている時間だが、櫓や石垣などを見て大垣駅に引き返した。大垣駅には今夜の大垣夜行に乗る乗客が徐々に集まり始めた。私たちは交代で休憩をとりながら並んだ。私がプラットホームに並んでいる時に、熊本行きの寝台特急「みずほ」が猛スピードで通過していった。いつかあれに乗りたいと思った。

 22時少し前、緑色とオレンジ色に塗られた大垣夜行の電車が入ってきた。プラットホームに緊張が走る。それはそうだ、東京駅までは6時間40分以上かかる。座れるか座れないかは大きな問題である。座席に座って車内がす押し落ち着くと、大垣夜行は静かに大垣駅のホームを離れた。座席はほぼ埋まっている。乗客は旅行客だけでなく、帰宅を急ぐサラリーマンも多い。日常生活と非日常が同居する、それが大垣夜行の姿である。大垣夜行は大垣を発車すると各駅に停車する。夜行列車ではあるけれど、あくまでも普通列車の一員、かつては全国にこういう列車が走っていた。

 名古屋からは多くの乗客が乗ってきて、通路までいっぱいになった。お酒を飲んで帰る人も多いのか赤ら顔の乗客も多い。安城、岡崎と少し乗客が減り車内も静かになってきた。高田駅に停車した時に、「こんばんは、幸田シャーミンです」という声が聞こえてきた。その後蒲郡駅に停車した記憶がないから、幸田と蒲郡の間で眠ったのであろう。間もなく日付が変わろうとしていた。

 目が覚めると大垣夜行は長い鉄橋を渡っていた。遠くには道路が見え、たくさんのトラックが走っている。貨物列車とも何本もすれ違う。夜トラックや貨物列車を運転する人によって私たちの生活は支えられている。当然そんなことは知っていたが、こうやってみると実感できる。単なる知識は無味乾燥なものだが、実感を伴うと生き生きとしたものに変わる。しれにしても、行き交うトラックや貨物列車にともる灯りは美しい。後年、中島みゆきさんの「ヘッドライト・テールライト」を聴いた時に思い浮かべたのが、大垣夜行から見た光景である。

 次に目が覚めたのが富士川の鉄橋を渡る時であった。そこからはもう眠れなくなり、三島と熱海の間にある丹那トンネルも、小田原駅で見える小田急の電車も全て見た。横浜駅の手前で薄明るくなった。川崎を過ぎ、多摩川の鉄橋を渡る時に、東側に太陽が見えた、真赤な真夏の太陽だった。今日も暑くなりそうだ。蒲田、大森、大井町と駅ごとに電車を待つ人の姿も見える。世界有数の大都市、東京の朝の始まりを実感する。1988年、日本が最も元気な時期の最も暑い季節のことだった。品川でだいぶ降り、私たちも荷物をまとめ始めた。

 4時46分、東京駅着、まだ眠いが降りなければならない。山手線や京浜東北線の電車はもう半分近く座席が埋まっている。私たちは東京駅でしばらく休憩し、洗面や着替えを済ませると総武快速線の電車に乗り込み、茂原、安房鴨川、館山と時計回りに房総半島を回り、浜金谷からフェリーで三浦半島の久里浜に渡った。その後、横須賀線に乗って品川駅で降り、山手線、常磐線と乗り継いで夕方いわきに戻った。こうして私の乗り鉄1年生が始まった。今でも時折思い出す楽しい旅になった。

鉄道開業150周年企画④ 乗り鉄1年生の旅 中央本線編

 私には弟が2人いる。もう既にみんな同じ市内にそれぞれの家庭を構えている。最近はそれぞれの家族優先の生活をしているが、かつて、一緒に旅をしていた時期がある。それは、私が高校生であった3年間であった。今でも学生の長期休みの時期には「青春18きっぷ」というJRの普通列車が乗り放題になる切符が発売されている。その切符を使って何度か鉄道に乗りまくる旅をした。私たち3兄弟のうち、私と下の弟は鉄道が好きである。上の弟はそこまで鉄道が好きというわけではないが、旅が好きである。

 私が高校生になり、いよいよ鉄道旅行をしようという話が持ち上がった。はじめは兄弟3人で行こうと考えていた。行き先を考えているうちに、どうせなら「大垣夜行」に乗ろうという話になった。「大垣夜行」とは、東海道本線の東京〜静岡〜名古屋〜大垣(岐阜県)を結ぶ夜行の普通列車である。さらに、下の弟が学校で「大垣夜行に乗る」と友達に話したのだろう。友達も一緒に参加することになった。時刻表をいじり回し、東京から中央線経由で名古屋まで行っても大垣発の下りの「大垣夜行」に余裕で間に合うことがわかり、コースの大枠が固まった。あとは両親を説得するだけという順番になったが、さすがに子どもだけではいかせてもらえず、母も一緒に行くことになった。

 1988年夏、ついにその日がやってきた。母37歳、上の弟14歳、下の弟とその友達12歳、そして私が16歳、人生最初の本格的な乗り鉄の旅である。湯本駅から常磐線の普通列車に乗り、上野から山手線、東京駅からオレンジ色の中央線快速電車に乗る。電車がゴトリと動き出した時の興奮は今でも忘れられない思い出だ。新宿、三鷹、立川と夢のように過ぎ、終点の高尾で青と白に塗り分けられた小淵沢行きの普通列車に乗り換える。電車の色が変わっただけでなく、車窓もこれまでの都会の街並みから一気に山岳地帯になる。大月までの区間は深い谷の中を走る。東京から1時間少々でこんな山の中になってしまうことに一同驚いた。

 やがて左側に富士山が見えてきた。すらりとした山の形はやはり美しい。富士山が見えるとやはり車内がどよめく。笹子トンネルを抜けると甲府盆地を目指して坂を下り始める。勝沼あたりは一面の果樹園が広がっている。人はこんなに果物を食べるのだと改めて驚く。甲府は駅も町も立派だが真夏の太陽が照りつけ暑かった。中央線は山岳路線というイメージを持っていたから涼しいのだと思っていたが、予想を越える暑さにエアコンの効いた車内に避難する。

 甲府を過ぎると終点の小淵沢に向けて山を登る。左側には南アルプスの山々が見える。当時はGoogle mapなどなかったから、山の名前はわからなかったが、後で調べてみると、日本で2番目に高い北岳や甲斐駒ヶ岳でせうことがわかった。終点の小淵沢はそんなに大きな町ではないが、高原らしい清潔感のある町で好感が持てた。しかし次の電車はすぐで、急き立てられるように松本行きの電車に乗り継いだ。諏訪湖が見え、岡谷を過ぎると塩嶺トンネル、その後は塩尻である。名古屋に行くのならここで乗り換えだが、次の電車までは時間があるし、その電車のこの先の松本が始発なのでそのまま松本まで行くことにする。松本駅のそば屋で遅い昼食にするが、何の変哲もないそばがとにかく美味かった。初めての旅の興奮、美しい信州の風景、大好きな鉄道に乗っていること、いろいろな要素が加わっているのだろうがとにかく美味い蕎麦だった。

 松本から中津川行きの電車に乗る。塩尻を過ぎると木曽路に入る。奈良井、薮原、木曽福島、深い谷の底にある宿場町にある駅に丹念に停車しながら走っていく。さすがに疲れたのか母は気持ちよさそうに寝息を立てている。上松駅の少し先に寝覚の床という花崗岩の岩と木曽川の流れが美しい景勝地が見えるが母を起こすのはやめにした。それにしてもカーブが多い路線で、列車はその度に速度を落とす。もっともその方が景色が良く見えるから私にとってはその方が良かった。 

 岐阜県に入り、中津川で名古屋行きの電車に乗り換える。中津川からは平野も見られるようになり、街の規模もやや大きくなる。みんな疲れているのか、弟2人も、弟の友人も眠ってしまった。私も疲れてはいるが、眠くなるほどではなく、1人車窓を眺めている。あれだけエネルギッシュだった真夏の太陽も既に落ち掛け、西側の空をオレンジ色に染めている。駅ごとに自宅に帰る人たちが急ぎ足で降りていく。線路沿いの家には明かりが灯り始める。遠くへきたなと改めて実感する。そして少しだけ切ない感情も湧いてくる。

 焼き物で有名な多治見を過ぎると山の中の景色になる。古虎渓、定光寺とほとんど人家が見えないような駅にも降りていく人がいる。次の高蔵寺からは景色が一変して名古屋近郊の住宅地になる。夕焼けの中を疾走する電車は名古屋市に入ってすぐの新守山で特急に道を譲るために数分停車した。その間に夏の日は落ち真っ暗になった。次の大曽根からは街明かりが煌めくようになる。名古屋の市街地をほぼ半周して名古屋駅に到着した。

鉄道開業150周年企画③ 我が思い出の急行「ときわ」我孫子〜上野

 我孫子を発車すると次の停車駅は終点の上野、あと一息であるが、ここまで来ると急行「ときわ」は、これまでの快走を忘れてしまったかのようなノロノロ運転になる。その理由は、まだ朝の8時30分過ぎ、ラッシュの時間帯で、急行「ときわ」の行方を上野に向かう通勤電車が阻んであるからである。しかし、何も焦ることはない。この区間はわたしたちが走ってきた線路だけではなく、地下鉄千代田線に直通する各駅停車の電車が走る線路も走っている。こちらは我孫子から先、北柏、柏、南柏、北小金、新松戸ときめ細かく停車していく。しかし、急行「ときわ」がノロノロと走って行くから、駅と駅の間では各駅停車が追い上げて、各駅停車が駅に停まっている間に急行「ときわ」が先行するデッドヒートがしばらく続く。

 東武の打線の電車が見えると柏、ここからはほぼ市街地が途切れることがなくなる。ここから快速で上野までは30分近く、各駅停車霞ヶ関までは1時間 近くはかかるか、それでもホームにはびっしりと人が立っている。通勤ラッシュは今と比較にならないくらい混んでいた。こんなにしてまで通勤しなければならないとかと驚いた。

 北小金駅を過ぎたところで、右側に分かれて行く線路がある。武蔵野線南流山駅に続く線路で、貨物列車が走ろための線路である。鉄道には旅客を運ぶだけでなく、貨物を運ぶという重要な役割があることを、ここで改めて気づいた。車窓は私にとって教科書そのものだった。

 新松戸を過ぎると可愛らしい総武流山電鉄の電車が、松戸の手前では津田沼からの新京成電鉄に電車に出会う。さまざまな電車が行き交う首都圏に住みたいと心の底から思った。ついさっき柏駅の混雑を見たばかりなのに浅はかなことだと思うが、地方の鉄道少年に共通する夢なのかもしれない。

 松戸を過ぎると江戸川の鉄橋を渡り、東京都に入る。東京都に入るとずっとビルが立ち並んでいる光景を予想していた私には意外だが、金町や亀有の駅の周辺を除けばそんなに高い建物はない。それでも田んぼも空き地もない光景を見るとやはり東京は違うなと思う。東武伊勢崎線の並走するようになると、いよいよ急行「ときわ」の旅もクライマックスになる。当時の東武伊勢崎線はセージクリーム一色に塗られた電車が走っていた。今考えるとそれはそれでおしゃれな塗装だと思ったが、当時の私には物足りなく見えた。小菅の拘置所が左に見えると、常磐線は、地下鉄千代田線、東武伊勢崎線と並んで荒川の鉄橋を渡る。地方にはないダイナミックな姿だ。大きな北千住駅を通過する。今度は地下鉄日比谷線の電車が並行し京成本線が上を跨ぐ。南千住の駅の先で地下鉄日比谷線は地下に潜る、慌ただしいけれど楽しい時間が続く。

 日暮里駅の手前で、山手線、京浜東北線、東北本線、京成本線の線路が現れる。おそらくこの辺りが日本で最も線路が密集している地域だろう。黄緑の山手線、スカイブルーの京浜東北線。オレンジと緑色の東北本線、ファイヤーレッドの京成本線、素晴らしい光景が広がっていた。しかし間も無く上野駅に着く車内の乗客は荷物をまとめて降りる支度をしている。私も親に急かされながら降りる支度をする。上野駅まではあとわずかだ。

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