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カテゴリー「鉄道」の151件の記事

さようなら「大垣夜行」

 かつて、日本の鉄道網の整備が進んでいたが道路網が貧弱であった頃、陸上輸送の主役は鉄道であった。その鉄道の中でも長距離の普通列車の役割は非常に大きかった。1950年10月号の時刻表によると、東海道本線の東京から大阪までを走り通す列車はわずか15本で、そのうち特急列車が2本(「つばめ」、「はと」)、急行列車が8本(うち1本は「銀河」、そして普通列車が5本であった。所要時間は特急列車で8時間、急行列車で10時間、普通列車で13時間である。普通列車で13時間かかるので、その日のうちに大阪に到着する普通列車は5本のうち2本だけであとは夜行列車であった。この時期、東海道線のみならず、東北本線、山陽本線、鹿児島本線等主要幹線に夜行普通列車が走っていた。しかし経済成長とともにスピードや快適性が求められるようになって夜行普通列車は徐々にその数を減らしていく。1968年10月のダイヤ改正では、東京〜大阪間に1本だけ残っていた夜行普通列車が廃止されることが決まっていたが、格安で旅行したい利用者の声に押されて、運転区間は下りが東京発美濃赤坂行き、上りが大垣発東京行きの夜行普通列車として存続することになる。後に、下り列車も大垣行きになり、この列車は「大垣夜行」と言われて、格安で旅行をしたい人に熱烈に支持され、とくに「青春18きっぷ」とよばれる普通列車で乗り放題の切符が発売される夏休みや冬休みの時期には始発駅には「大垣夜行」に乗ろうとする人が何時間も前から座席を確保しようとする姿が見られた。
 私も高校生から大学生の時期、上り列車に何回か乗車した。座席がリクライニングしない狭いボックスシートでお世辞にも快適な列車ではなかったが、車窓に見える名古屋、豊橋、浜松、静岡などの夜景は美しかったし、行き交う貨物列車やトラックの姿に日本経済のエネルギーを感じることができた。夏であれば車内から朝日を見ることもできた。東京駅には4時42分の到着であった。冬だとまだ真っ暗であったが、プラットホームに降りて深呼吸するとそこは間違いなく朝のひんやりした冷たい空気があった。私が利用していた時期のこの列車の大垣発車時刻が22時4分であったから、今でも時計の針が22時4分を指しているとこの列車のことを思い出す時がある。
 「大垣夜行」は、1996年には特急型車両を使用し、全席指定となった「ムーンライトながら」になり、それまでとは格段に快適な列車になったが、夜行列車のコスト高や、「青春18きっぷ」発売時期以外の利用の減少もあり、2009年3月からは夏休みや冬休みの時期だけ運転する臨時列車になった。そして、新型コロナウイルス感染症の感染拡大で旅行や出張などの長距離移動が減り、鉄道会社が深刻な減収に陥る状況になったことと、使用されてきた車両が老朽化が進んだことが決め手となり、2021年3月のダイヤ改正で正式に廃止されることになった。私の青春時代の思い出のひとつが消えることは残念であるが、私の心の中にはこれからも「大垣夜行」の思い出は残り続けると思う。

机上旅行のススメ

 もうすぐ年末年始で旅行シーズンになりますが、今年は新型コロナウイルスの流行で旅行や帰省を見合わせるという人も多いと思います。旅に出るのが何よりの楽しみという方に、机上旅行で楽しむという方法をお勧めします。

 時はおよそ35年前、鉄道少年だった私には有り余るくらいの時間はなかったが、旅に出るだけのお金はなかったし、そもそも自由に行きたいところに行くだけの自由もなかった。しかし、家には地図と時刻表とノートと鉛筆があった。そう、マリー・アントワネットじゃないけれど、「パンがないのならケーキを食べればいい。旅行に行くのなら旅行に行った気分になればいい」ということで、時刻表と地図を手がかりに日本のいろいろな場所へ机上旅行に行くことにした。幸い、地図には日本の市町村や主な山や川、遺跡などが書かれていたし、時刻表には国鉄(当時)の時刻ばかりではなく、主要な観光地に行く私鉄や路線バス。大都市圏の私鉄や地下鉄(初電や終電の時間しかわからなかったが)、国内航空路、フェリー航路などのほか、主なホテルや旅館、ユースホステルなどのほか駅弁などの情報が載っていて、これだけあれば大まかな旅行の計画は立てられた。今は地図と時刻表とノートと鉛筆に加えてスマートフォンやパソコンもあるから、当時では探しようもなかった都市部の私鉄の詳細な時刻表や、観光地と無関係な路線バスの時刻を調べることもできるし、観光地に行かなくても写真や動画を見ることができるし、どんなお土産があるのか、どんな郷土料理があるのかもすぐにわかるようになった。今年の年末年始は生活圏内でお金を使い、机上旅行を楽しむのもオツなものだと思います。

怪我の功名

 

https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201021_ho01.pdf

 JR東日本は新型コロナウイルス感染症の流行による利用者の減少と、夜間に行っている線路などのメンテナンスの作業環境の改善のため、首都圏の主要路線で最終電車の繰り上げと始発電車の繰り下げを2021年春のダイヤ改正から実施すると発表した。最終電車の繰り上げが行われるのは、山手線、京浜東北線、東海道線、横須賀線、横浜線、中央線(快速)、中央・総武線(各駅停車)、埼京線、高崎線、宇都宮線、常磐線など17路線。始発電車の繰り下げを行うのは京浜東北線、根岸線、中央・総武線、常磐線(快速・各駅停車)である。

 例えば新宿駅の山手線を例にすると、渋谷方面の内回りは 現在1:00の大崎行きが最終電車だが、19分ほど繰り上げになる。池袋方面の外回りは現在1:00の池袋行きが最終だがこちらは16分ほど繰り上げになる。もっとも影響が大きそうなのは高崎線で、上野発23:46の新前橋行きの最終電車が籠原(熊谷のひとつ先の駅)止まりになり、新前橋行きの最終電車は37分ほど繰上げになる。

 少し前まで山手線などの都心部の路線の終夜運転などが言われていた時期もあったが、新型コロナウイルスの流行と昨今の労働力不足はそんな状況を一変させた。利用者としては不便になるが、これも時代の変化と捉えるしかないだろう。ただ、これで終電までの長時間労働を強いられている人が少しでも早く帰ることができるのならそれは怪我の功名なのかもしれない。

我が心の夜行列車

 子どもの頃、私は上野と仙台を結ぶ常磐線の線路からさほど離れていない場所に住んでいた。近いとは言っても家から直接見えるわけではない。夏は午前4時台には空が明るくなるのでこの時期だけの密かな楽しみがあった。それは家を抜け出して線路の脇にある公園に行って夜行列車の姿を見ることである。私が持っている1978年11月号の時刻表によると、常磐線上りで私が見たと思われる夜行列車は、平駅(現、いわき駅)3時57分発の寝台特急ゆうづる12号、4時13分発の急行十和田4号、平駅5時57分発の寝台特急ゆうづる14号であったようである。いずれも青森を前日の夜に出発し、朝に上野に到着する東北北部と首都圏、あるいは青函連絡船を介して北海道と首都圏を結ぶ長距離列車であった。寝台特急ゆうづる号は583系電車というアイボリーと青に塗り分けられたどっしりとした電車、急行十和田はEF 80というローズピンクの電気機関車がロイヤルブルーに白線が入った優美なデザインの客車を曳いていた。いずれも寝台車が中心の豪華編成で、鉄道少年だった私にとっては眩しすぎる存在だった。そんな列車を見ながら、大人になったら自分の給料でこんな列車に乗って旅をしてみたいと希望に胸を膨らませていた。残念ながら、寝台特急ゆうづるも急行十和田も私が自分の給料で旅ができるようになる前に廃止になってしまい、乗ることは叶わなかった。しかし今でも私の心の中では寝台特急ゆうづるの583系電車もも急行十和田のEF80とロイヤルブルーの客車も走り続けている。

駒吉機関車が走った時代

 以前、キワ90というローカル線の効率化を目指しながら失敗に終わった車両の紹介をしたが、今回は内燃機関という新しい技術に挑戦した福岡式石油発動機関車、通称駒吉機関車について取り上げます。

 内燃機関とは、シリンダーなどの機関内でガソリンなどの燃料を燃焼させてそれによって発生させた燃焼ガスをエネルギーを得る原動機である。エンジン内でピストンを往復運動させるレシプロエンジンの他、ローターを回転させるロータリーエンジンの他、ガスタービンエンジンやジェットエンジンなども含まれる。

 時は19世期末、機械を動かす動力源は蒸気機関から内燃機関に移り変わりつつあった。1885年、ドイツのゴットリープ・ダイムラーはガソリンエンジンを搭載したオートバイを発明した。また、同年同じくドイツのカール・ベンツはガソリンエンジンを搭載した3輪自動車を発明した。この両名は奇しくもドイツを代表する自動車会社の名前に今に至るまで名前を留めている。1889年には小型でも馬力を出せる2ストロークエンジンが、1891年は簡易な構造である焼玉エンジンが開発された。そして20世紀、内燃機関は人類を空に連れていくことになる。1903年には人類初の動力付きの飛行機、ライトフライヤー号がアメリカのライト兄弟によって初飛行に成功した。20世期は内燃機関の時代といっても間違いはないだろう。

 20世期に入り、内燃機関の活用が広がるとこれを鉄道の動力源とする試みを広がった。当時の日本の鉄道の動力源は石炭を燃料とする蒸気機関が一般的であったが、ローカル鉄道では馬に車両を引かせることや人が押す場合もあった人が押す鉄道車両というのは今では考えられないが、現在の京成金町線の源流になった帝釈人車軌道や小田原と熱海を結んだ豆相人車鉄道などもあった。しかし、19世紀末、日清戦争が起きると軍馬の需要は増え、餌の経費も上がり、馬力の使用はあまり経済的なものではなくなった。そこで馬に変わる経済的な動力源として内燃機関の使用を考えたのが大阪にあった機械メーカーの経営者であり技術者であった福岡駒吉氏であった。彼は蒸気機関車に似たボディーに出力5馬力の焼玉エンジンを搭載した福岡式石油発動機関車(駒吉機関車)を制作し、主に九州地方の軌道事業者に採用された。当時は各地に道路上に軌道を敷設し、物資や旅客の輸送に従事していた事業者が多数あった。5馬力とはあまりにも非力すぎる気がするが、当時は道路上を走る列車は、機関車の他、1両の客車か貨車しか牽引できないという規則があり、歩行者や荷車など他の交通と一緒に走る以上スピードは出せない状況ではわずか5馬力でもそこそこ使えたのだろう。しかしあまりに非力すぎたようで後に出力は7馬力に引き上げられた。

 この機関車は日本初、世界でも相当早い時期に内燃機関を使用したものであった。世が世なら福岡駒吉氏とこの機関車は鉄道史に刻まれる存在になったのだろうが、福岡駒吉氏の死去により開発と改良がストップし、使用された事業者が零細な事業者が多かった。また、この機関車が登場して間もなく、道路上を走る列車の連結両数の規制が緩和された。こうなるとこの機関車は7馬力にパワーアップしたとはいえ、数十馬力は軽く出る小型蒸気機関車に太刀打ちできず、多くの事業者から姿を消すことになる。ただし、福岡県の南筑軌道という会社では1940年までこの機関車が使用された。「ポン、ポン」と排気音を立てながら八女茶の産地を走るこの機関車が牽引する列車、タイムマシンがあれば乗ってみたいものである。

走れ!キワ90

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 「帯に短し、襷に長し」というか、アイディアは素晴らしいが出来栄えは残念というかそんな話。今は日本国中どこに行っても立派な道路があり、トラックがバンバン走っているが、1960年代までの日本の物流を支えていたのは貨物列車であった。今は貨物列車が走るのは幹線ばかりになったが、かつてはローカル線にも貨物列車が走っていた。貨物は貨車に積まれるが、貨車にはモーターやエンジンなどの動力装置が積んでいない、そのため、機関車に牽引されることになる。ローカル線はお客の数が少ないが、貨物の量も少ない、蒸気機関車やディーゼル機関車が2、3両の貨車を牽いてトコトコ走っている様子はそれは美しい光景だっただろう。しかし、当時たくさんのローカル線を抱える国鉄にとってはそんなのんきなことは言ってられなかった。ちょうどこの時期、ローカル線の旅客列車はディーゼルエンジンを床下に積んだディーゼルカーが普及していた、ディーゼルカーは蒸気機関車よりも速度が速く、少ない人数で走らせることができ、終点で機関車を付け替える必要が無かった。ディーゼルカーはローカル線の旅客輸送のサービス水準と効率の向上に貢献した。それなら貨物輸送も床下にディーゼルエンジンを積んだディーゼル貨車を開発したらローカル線の貨物輸送の効率化が図れるのではないかと当時の国鉄の人は考えた。

 早速ディーゼル貨車は試作されて、宮崎県の妻線で運用された。しかし運用された結果は芳しいものではなかった。まず、エンジンのパワーが不足していた。180馬力のエンジン1基搭載では、比較的軽い旅客ならまだしも、重い貨物の輸送には力不足であった。さらに、妻線だけで完結する輸送ならともかく、幹線である日豊本線を経て福岡、北九州、大阪方面への輸送では他の貨車に積み替える必要があった。これでは効率化もへったくれもない。結局、キワ90は短期間使われただけで持て余される存在だった。

 私がこの哀れな存在の車両を知ったのは、子供の頃読んだ鉄道図鑑だった。当時はキワ90の写真の下に「現在は使用されていません」という表記がされているのが気になった程度であるが、今は妙にこの哀れな存在の車両が気になるようになった。それに、他の車両の半分以下の8mのボディに飾り気の全くないデザイン。これはこれで好ましく思えるようになった。もし、キワ90が登場した60年前の宮崎に行くことができれば、昼にはこいつが走っている姿をじっくり眺め、夜には芋焼酎で美味い地鶏料理を味わいたいものである。

京急線事故が残したもの

   横浜市の京浜急行本線神奈川新町駅近くの踏切で、大型トラックと快特電車が衝突し、大型トラックの運転手が死亡し、電車の乗客ら35名が負傷をするという大きな事故が起きた。事故から2日以上が経ち、徐々に事故の状況も明らかになってきた。まだ捜査途中ではあるが、日本の多くの地域で抱える問題が浮き彫りになった事故であると思う。
   大型トラックは横浜市内でレモンやグレープフルーツなどの荷物を積み、一旦国道15号(第1京浜)を西に向かい、交差点をUターンするような形で首都高速に乗るようなルートを教えられていたようだ。しかし、その交差点で右折してしまい、京浜急行仲木戸駅方面に向かってしまい、その先にある、JR京浜東北線、東海道線、横須賀線のアンダーパスの高さ制限の標識にいく手を阻まれ、線路沿いの幅員3mほどの細い道路に入ってしまったようである。現場は京浜急行本線とJR京浜東北線、東海道線、横須賀線の線路に挟まれた川の中州のようになった住宅地で、大型トラックどころか、乗用車でさえ通りたくないと地元の人が言う場所であったようである。そして、突き当たりの交差点を左折して国道1号(第2京浜)に向かおうとしたがうまくいかず、右折して国道15号(第1京浜)に戻ろうとして踏切に侵入したようだ。大型トラックは現場の踏切近くでおよそ20分間切り返しを繰り返し交差点を出ようとしていたが、うまくいかなかったようだ。また、大型トラックと電車が衝突するおよそ40秒前には踏切の非常ボタンが押され、運転士に踏切の異常を示す信号も点灯したが、衝突を回避することはできなかった。

   この事故は多くの問題を私たちに投げかけた。最大の問題は踏切の存在。国土交通省の資料によると、全国にはおよそ3万3000カ所の踏切がある。徐々に減ってきてはいるが、踏切を解消するには線路か道路を高架にするか地下化するしかない。それには莫大な費用がかかり相当難しいだろう。 とはいえ、少しづつでも減らしていくしかないだろい。次の問題は、道路事情である。大型トラックが通行困難な道路があり、その案内が不十分な箇所がある。私が知っているところでも、数カ所、交差点を曲がってしばらくしてから大型車通行困難の標識がある。そういう情報は交差点の手前にないと非常に困るだろう。最後に、踏切の非常ボタンが押されたのに電車が止まりきれなかったという問題がある。電車は急に止まれないものであって、今回の事故にあった京急1000型電車は最高速度120km/hで運転されている。この場合、停止するのにおよそ500m必要なことになる。一方、運転士に踏切の異常を知らせる信号は現場の340m手前にあり、さらにそこより手前から信号が確認できるから十分止まれる可能性があった。しかし実際には止まれなかった。そのあたりもこれから先の調査を待ちたい。

踏切の解消も、狭い道も解消がこんなのであれば、そのような状況でいかに安全を図るか、これからの大きな課題だと思う。末筆ながら亡くなった大型トラックの運転手のご冥福と負傷をした電車の乗客の回復を切に願う。

どうする、JR北海道

 

   1987年に国鉄が分割民営化され、JR北海道が誕生した。翌年には青函トンネルが開業した。ちょうどこのころはバブル景気と言われた空前の好景気で、JR北海道はトマムや富良野、ニセコなどへの観光列車を運転したり、上野と札幌を結ぶ寝台特急「北斗星」を運転するなどの積極策に出た。しかし、当時中学生だった私が危惧していたとおり、ほころびはすぐに現れた。バブル景気の終焉、北海道の有力銀行だった北海道拓殖銀行の経営破綻などが続く中、北海道の景気は低迷、客単価の高い、札幌〜函館、札幌〜帯広・釧路を結ぶ特急列車に活路を見出そうとするも、釧路発札幌行きの特急「スーパーおおぞら」が石勝線のトンネル内で火災を起こす事故が発生した。2016年には北海道新幹線新青森〜新函館北斗間が開業したが、函館周辺だけでは需要が低く、札幌まで在来線の特急列車に乗り継ぐと時間がかかりすぎ航空機との競争力に欠けた状態である。
   元はと言えば、1987年の国鉄分割民営化の時に、私が危惧していた通り、北海道は広く、人口が少ない。人口密度で言えば、東京都は1㎢あたり6000人を超えているが、北海道は70人程度にすぎない。鉄道は人や貨物を大量に運べることが最大の強みだが、北海道のような人口密度の低い地域ではそれが足かせになる。その意味では、JR北海道の苦境は、単にJR北海道の経営陣や社員の怠慢だとは思っていない。国鉄の分割民営化自体の無理が現実になっただけだと考えている。

走れ! 三陸鉄道リアス線

https://www.sanrikutetsudou.com/(三陸鉄道)

東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故によって、青森県から千葉県にかけての沿岸部に大きな被害をもたらしたが、現在でも4つの鉄道路線が完全復旧に至っていない。北からいうと、岩手県のJR山田線宮古〜釜石、宮城県と岩手県にまたがるJR大船渡線の気仙沼〜盛(大船渡市)、宮城県のJR気仙沼線の柳津〜気仙沼線、福島県のJR常磐線の富岡〜浪江間である。
このうち、大船渡線と気仙沼線はBRT(バス高速輸送システム)として、線路の一部区間がバス専用道路として整備され、鉄道運賃で利用できる(つまり路線バスよりはすっと安い)ようになった。常磐線は津波の被害よりも原発事故の影響が大きいが、富岡〜浪江〜原ノ町間でバス代行輸送がされている。一応ここも2020年の運転再開を目指して工事が進められている。そして、3月23日に、JR山田線の宮古〜釜石間が、三陸鉄道に譲渡され、運転を再開することになった。三陸鉄道は既に久慈〜宮古間の北リアス線と、釜石〜盛(大船渡市)間の南リアス線を運行しているが、ここに宮古〜釜石間のリアス線が加わったことで、久慈から盛まで、岩手県の沿岸部を縦断する鉄道になった。
とはいえ、課題は多い。岩手県の沿岸部は東日本大震災の津波で大きな被害を受け、元から過疎傾向だったのが、人口減に拍車がかかった。観光客の利用もあるが、三陸の観光シーズンは夏に集中している。また、かつては仙台から三陸鉄道に直通する列車も走ったが、気仙沼線と大船渡線がBRT化されたので、それも不可能になった。とはいえ、復興の象徴として、三陸鉄道には大いに頑張ってほしい。私も是非乗ってみたいと思う。

鉄道記念日に寄せて

明日10月14 日は1872 年に、東京の新橋から横浜までの日本最初の鉄道の開業を記念した鉄道記念日です。明治から昭和の半ば、1960 年代は日本の道路は非常に貧弱で、鉄道が貨物輸送でも旅客輸送でもまさに主役であった。1970 年代からは地方の過疎化と道路網の整備によるモータリゼーションが進んでローカル線を中心に廃線も進んだが、依然として東京や大阪、名古屋のほか、札幌、仙台、広島、福岡などの都市圏の通勤通学輸送や、300km〜600km程度の都市間輸送(例えば東京〜仙台や東京〜大阪)では主役と言っていい地位を確保している。現在でも旅番組や旅行雑誌で鉄道を取り上げると人気があるという。鉄道は利用しない人にとっても憧れや郷愁を誘う存在になっていると言っていいだろう。
そんな鉄道も大きな曲がり角に来ている。地方の一層の過疎化の進展で大きのローカル線が近い将来廃線か存続かの選択を迫られる事態になるだろう。私が住む福島県で言えば、将来の存続の心配がないのは東北新幹線と東北本線、常磐線のいわき以南くらいだろう。磐越東線のいわき〜小野新町間、磐越西線の喜多方〜五泉間、水郡線の常陸大子〜磐城棚倉間、只見線の西若松〜小出間などは存続の不安を抱えるし、会津鉄道も観光客の推移次第ではどうなるかわからない。全国で見れば北海道や九州などに存続が危ぶまれる路線が多い。また、労働力人口の減少に伴い、人手を必要とする鉄道はサービスを縮小する傾向にある。いわき駅のびゅうプラザが廃止されたり、湯本駅のみどりの窓口が17 時30分で閉まるようになったのは(これは非常に不便!)そのあらわれだろう。
課題は多いが、これからも鉄道はたくさんの人の人生と夢と物資を乗せて走り続けるだろう。私はできれば全国の全ての鉄道に完乗しようと思っている。そこでどんな人に出会えるか、どんな景色に出会えるか、どんな列車に出会えるか、どんな駅に出会えるか、今からワクワクしている。

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