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カテゴリー「鉄道」の165件の記事

鉄道開業150周年企画⑤ 乗り鉄1年生の旅 大垣夜行編

 名古屋駅ビルの店で味噌カツを味わい、普通列車で大垣駅に向かう。大垣夜行は名古屋駅からも乗れるが、夏休みで乗客が多い時期なので名古屋駅からは乗れないかもしれない。始発の大垣駅から乗る予定でいた。普通列車で大垣駅に向かう。母は名古屋地区の普通列車が、2人掛けで進行方向に向きを変えられる座席であることに驚いていた。

 大垣では少し時間があったので、木の近くにある大垣城に行った。天守閣などは閉まっている時間だが、櫓や石垣などを見て大垣駅に引き返した。大垣駅には今夜の大垣夜行に乗る乗客が徐々に集まり始めた。私たちは交代で休憩をとりながら並んだ。私がプラットホームに並んでいる時に、熊本行きの寝台特急「みずほ」が猛スピードで通過していった。いつかあれに乗りたいと思った。

 22時少し前、緑色とオレンジ色に塗られた大垣夜行の電車が入ってきた。プラットホームに緊張が走る。それはそうだ、東京駅までは6時間40分以上かかる。座れるか座れないかは大きな問題である。座席に座って車内がす押し落ち着くと、大垣夜行は静かに大垣駅のホームを離れた。座席はほぼ埋まっている。乗客は旅行客だけでなく、帰宅を急ぐサラリーマンも多い。日常生活と非日常が同居する、それが大垣夜行の姿である。大垣夜行は大垣を発車すると各駅に停車する。夜行列車ではあるけれど、あくまでも普通列車の一員、かつては全国にこういう列車が走っていた。

 名古屋からは多くの乗客が乗ってきて、通路までいっぱいになった。お酒を飲んで帰る人も多いのか赤ら顔の乗客も多い。安城、岡崎と少し乗客が減り車内も静かになってきた。高田駅に停車した時に、「こんばんは、幸田シャーミンです」という声が聞こえてきた。その後蒲郡駅に停車した記憶がないから、幸田と蒲郡の間で眠ったのであろう。間もなく日付が変わろうとしていた。

 目が覚めると大垣夜行は長い鉄橋を渡っていた。遠くには道路が見え、たくさんのトラックが走っている。貨物列車とも何本もすれ違う。夜トラックや貨物列車を運転する人によって私たちの生活は支えられている。当然そんなことは知っていたが、こうやってみると実感できる。単なる知識は無味乾燥なものだが、実感を伴うと生き生きとしたものに変わる。しれにしても、行き交うトラックや貨物列車にともる灯りは美しい。後年、中島みゆきさんの「ヘッドライト・テールライト」を聴いた時に思い浮かべたのが、大垣夜行から見た光景である。

 次に目が覚めたのが富士川の鉄橋を渡る時であった。そこからはもう眠れなくなり、三島と熱海の間にある丹那トンネルも、小田原駅で見える小田急の電車も全て見た。横浜駅の手前で薄明るくなった。川崎を過ぎ、多摩川の鉄橋を渡る時に、東側に太陽が見えた、真赤な真夏の太陽だった。今日も暑くなりそうだ。蒲田、大森、大井町と駅ごとに電車を待つ人の姿も見える。世界有数の大都市、東京の朝の始まりを実感する。1988年、日本が最も元気な時期の最も暑い季節のことだった。品川でだいぶ降り、私たちも荷物をまとめ始めた。

 4時46分、東京駅着、まだ眠いが降りなければならない。山手線や京浜東北線の電車はもう半分近く座席が埋まっている。私たちは東京駅でしばらく休憩し、洗面や着替えを済ませると総武快速線の電車に乗り込み、茂原、安房鴨川、館山と時計回りに房総半島を回り、浜金谷からフェリーで三浦半島の久里浜に渡った。その後、横須賀線に乗って品川駅で降り、山手線、常磐線と乗り継いで夕方いわきに戻った。こうして私の乗り鉄1年生が始まった。今でも時折思い出す楽しい旅になった。

鉄道開業150周年企画③ 我が思い出の急行「ときわ」我孫子〜上野

 我孫子を発車すると次の停車駅は終点の上野、あと一息であるが、ここまで来ると急行「ときわ」は、これまでの快走を忘れてしまったかのようなノロノロ運転になる。その理由は、まだ朝の8時30分過ぎ、ラッシュの時間帯で、急行「ときわ」の行方を上野に向かう通勤電車が阻んであるからである。しかし、何も焦ることはない。この区間はわたしたちが走ってきた線路だけではなく、地下鉄千代田線に直通する各駅停車の電車が走る線路も走っている。こちらは我孫子から先、北柏、柏、南柏、北小金、新松戸ときめ細かく停車していく。しかし、急行「ときわ」がノロノロと走って行くから、駅と駅の間では各駅停車が追い上げて、各駅停車が駅に停まっている間に急行「ときわ」が先行するデッドヒートがしばらく続く。

 東武の打線の電車が見えると柏、ここからはほぼ市街地が途切れることがなくなる。ここから快速で上野までは30分近く、各駅停車霞ヶ関までは1時間 近くはかかるか、それでもホームにはびっしりと人が立っている。通勤ラッシュは今と比較にならないくらい混んでいた。こんなにしてまで通勤しなければならないとかと驚いた。

 北小金駅を過ぎたところで、右側に分かれて行く線路がある。武蔵野線南流山駅に続く線路で、貨物列車が走ろための線路である。鉄道には旅客を運ぶだけでなく、貨物を運ぶという重要な役割があることを、ここで改めて気づいた。車窓は私にとって教科書そのものだった。

 新松戸を過ぎると可愛らしい総武流山電鉄の電車が、松戸の手前では津田沼からの新京成電鉄に電車に出会う。さまざまな電車が行き交う首都圏に住みたいと心の底から思った。ついさっき柏駅の混雑を見たばかりなのに浅はかなことだと思うが、地方の鉄道少年に共通する夢なのかもしれない。

 松戸を過ぎると江戸川の鉄橋を渡り、東京都に入る。東京都に入るとずっとビルが立ち並んでいる光景を予想していた私には意外だが、金町や亀有の駅の周辺を除けばそんなに高い建物はない。それでも田んぼも空き地もない光景を見るとやはり東京は違うなと思う。東武伊勢崎線の並走するようになると、いよいよ急行「ときわ」の旅もクライマックスになる。当時の東武伊勢崎線はセージクリーム一色に塗られた電車が走っていた。今考えるとそれはそれでおしゃれな塗装だと思ったが、当時の私には物足りなく見えた。小菅の拘置所が左に見えると、常磐線は、地下鉄千代田線、東武伊勢崎線と並んで荒川の鉄橋を渡る。地方にはないダイナミックな姿だ。大きな北千住駅を通過する。今度は地下鉄日比谷線の電車が並行し京成本線が上を跨ぐ。南千住の駅の先で地下鉄日比谷線は地下に潜る、慌ただしいけれど楽しい時間が続く。

 日暮里駅の手前で、山手線、京浜東北線、東北本線、京成本線の線路が現れる。おそらくこの辺りが日本で最も線路が密集している地域だろう。黄緑の山手線、スカイブルーの京浜東北線。オレンジと緑色の東北本線、ファイヤーレッドの京成本線、素晴らしい光景が広がっていた。しかし間も無く上野駅に着く車内の乗客は荷物をまとめて降りる支度をしている。私も親に急かされながら降りる支度をする。上野駅まではあとわずかだ。

鉄道開業150周年企画② 我が思い出の急行「ときわ」水戸〜我孫子

 水戸駅は賑やかな駅だ。湯本からさほど大きな駅はなかったから、水戸駅の大きさと人の多さには驚いた。急行「ときわ」はここでほとんど席が埋まる。水戸駅を発車すると電気機関車や水郡線を走るディーゼル機関車が止まっている車両基地が見える。車両基地を過ぎるとまもなく右には日本三名園の偕楽園、左には水をたたえた千波湖、車窓から目を離すいとまもないほど楽しい車窓が続く。赤塚を過ぎると農村風景になる。あれだけ都会だった水戸駅周辺からの変化の大きさに驚く。

 友部で笠間や小山に至る水戸線が分かれると林や畑の混じった緩い丘陵地帯になる。関東平野と言っても必ずしも平坦であるばかりではなく、緩い丘陵地帯も結構あることを私は小学校低学年で知った。急行「ときわ」の車窓は教科書よりももっと早い時期に私に日本地理への関心を高めてくれた。石岡が近づくと筑波山が見えてくる。さほど高い山ではないが、周囲が平野か丘陵地帯なのでとても良く目立つ山である。何かと得をする場所に立っている山である。

 土浦が近づくと蓮根畑が増えてくる。今でこそ土浦周辺の宅地化が進んでいるが、私の子供時代はちょうど宅地化が進み始めた頃で、蓮根畑の多い場所という認識だった。それが1985年前後のつくば万博の頃から宅地化が急激に進んだ。土浦駅を発車する頃には急行「ときわ」は通路までいっぱいになった。流石に鉄道好きな私でも混雑はあまり好きではない。しかし、終点の上野まではあと1時間、車窓を眺めながら乗っていればさほどそんなに問題ではなかった。

 牛久、佐貫(現在の竜ヶ崎市)と駅周辺に住宅が建ち並んだ駅を通過する。水戸以北なら急行の停車駅になりそうだが、ここまで来れば普通列車でもさほどかからない、急行「ときわ」は軽やかに通過していく。湯本から上野までの行程で最もスピードが出るのはこの辺りだろう。平坦で比較的直線が長い。牛久駅と佐貫駅の間で国道66号と並走するが、もはや国道は渋滞が多く全く勝負にならない。こちらは全速力で駆け抜ける歓びを味わっていた。

 藤代を過ぎて田んぼの中にカップヌードルの工場が見えると急行「ときわ」はスピードを落とす。車内の照明を短時間消える。これは取手以北の交流電源と取手以南の直流電源を切り替えるためで、今なお続く常磐線に乗ると必ず避けて通れない関門のようなものだ。ただし最近は速度は落ちるものの車内の照明は消えなくなった。関東鉄道常総線とエメラルドグリーンの常磐線快速電車の快速電車が見えると取手駅である。子供の頃の私にとって、首都圏はどこからかと聞かれれば、取手駅からと答えた。エメラルドグリーンの快速電車は首都圏である象徴の一つだった。

 利根川を長い鉄橋で渡ると、天王台駅、そこからすぐに我孫子駅に着く。我孫子は上野の前最後の停車駅になる。現在は柏駅の重要性が増しているが、当時は我孫子駅の方が重要性が高かったようだ。そういえば時代が違うが山下清は働いていた駅弁屋はこの駅で営業していた弥生軒である。現在、弥生軒は駅弁の販売はしていないが、蕎麦屋の営業をしていて、唐揚げ蕎麦が名物になっている。

鉄道開業150周年企画① 我が思い出の急行「ときわ」湯本〜水戸

 子ども時代の最大の楽しみは、年に1度くらいの割合で家族みんなで東京に行くことであった。私の実家の最寄りの常磐線湯本駅からローズピンクとクリーム色に塗られた急行「ときわ」に乗る。湯本駅は今では自動改札になってしまったが、当時はステンレスの柵の中に駅員さんがいて、鋏で切符に切り込みを入れていた。切符を切る「パチン」という乾いた音、この音を聞くと私の旅気分が盛り上がる。

 急行「ときわ」の車内は4人掛けのボックスシートがずらりと並んでいた。今では窮屈に感じるボックスシートも、子供のこれには大きくて、やわらかいクッションが心地いい最高の空間だった。

 ものごころついた時から鉄道が大好きだった私は、夢見心地で乗っていた。車窓に映る山、川、町並み、田んぼ、全てが美しかった。そして、朝早い電車に乗ると、勿来駅を過ぎたあたりで太平洋から顔を出す朝日を見ることができる。真っ赤な朝日と光を受けてキラキラ輝く太平洋の水面は例えようもないくらい美しかった。

 茨城県に入り、大津港駅を過ぎると国道6号と並走する。急行「ときわ」は国道を走るクルマをビュンビュン抜いていく。子どもだった私は、「どうだ、電車は速いだろう」と得意になりながら国道を走るクルマを見下ろしていた。

 日立を過ぎると、左側に小さな駅があって古びた電車が停まっていた。日立電鉄の電車である。この古びた電車に乗ることは叶わなかったが、後に地下鉄のお下がりの車両に変わった後乗ることができた。その日立電鉄も既に無く、思い出の彼方に去ってしまった。

 水戸が近づくと楽しみがあった。1つ目は、勝田駅の手前にある車両基地を見ること、普通列車に使う電車から、特急「ひたち」に使う電車まで見られ、ちょっとした鉄道博物館状態である。そして、2つ目は、勝田駅では、これまで7両編成で走ってきた急行「ときわ」は、乗客が増えることに備えて4両増結する。その作業を見物する。そろそろと4両編の電車が近づき、安全に連結をする。双方の車両が連結されたら手早くブレーキのホースや電気系統のケーブルが繋がれていく、感心しながら見ていた。勝田駅では茨城交通の列車が左に分岐するとまもなく那珂川の鉄橋を渡る。しばらくすると、水戸の町中に入り速度を落とす。右側から水郡線が合流するとまもなく水戸駅に着く。

昔は良かった症候群

 「昔は良かった」という言葉は世の中のいろいろな場所で聞く。私が大好きな鉄道趣味の世界でいえば、「昔はブルートレインがたくさん走っていて良かった」、「昔は長距離列車が多くて乗りごたえがあった」、「昔は国鉄型車両が多く走っていて味があった」クルマが好きな人なら、「昔はスポーツカーがたくさんあって良かった」、「昔のクルマは直線的でボンネットや車高が低くカッコよかった」、「昔のクラウン(シビック)はこんなじゃなかった、今のクラウン(シビック)はクラウン(シビック)じゃない。などがある。

 もちろん私も昔を懐かしむ気持ちはある。ブルートレインの旅は今でも最高だと思っている。「北斗星」、「銀河」、「はまなす」、「さくら」、「あさかぜなどのブルートレインのの旅は今でも思い出として強く残っているし、機会があれば乗ってみたいと思っている。しかし現実はそんなに甘くないと思っている。ブルートレインはとにかくコスト高になる。他の列車が走らない夜間に駅員などの要員を確保しなければならない。人口減でJRクラスの会社でも人材の確保に苦慮している現在、それは難しいことだと思うし、寝台車は昼間には無用の長物になってしまう。それでは採算に合うとは思えない。長距離列車についても、例えば、大阪から、福井、金沢、富山などを経由して新潟まで走った特急「雷鳥」など、今でも残ってほしかった列車は多いが、長距離を走ると、他の地区のダイヤの乱れを波及させやすいという欠点もあるし、乗り換えを便利にするという条件である程度の長距離列車の削減はやむを得ないと思っている。国鉄型車両については、国鉄の分割民営化から30年以上が経ち、老朽化が進んでいる以上、数を減らしているのはやむを得ないことだと思う。多くの乗客にとって、古くて味がある車両よりも、新しくてきれいな車両を求めるのは当然のことである。鉄道の従業員にとっても、新しい車両ほどメンテナンスの手間が少なくなるし、新しい車両にはバリアフリーにも対応している。そして一部の鉄道事業者は古い車両を保存していてイベント時に走らせている。私たちはそのような機械を利用して昔の鉄道旅行の思い出に浸ればいいと思う。

 昔が良かったかといえば、必ずしも良かったとは言い切れないものがある。クルマ好きの多くは、昔のクルマは良かったというが、それは本当だろうか。私はそれはちょっと疑問を持っている。昔は今よりも交通死亡事故が多かった。今の車に比べればずっと衝突安全性が低く、ABSもなければ、自動ブレーキもなかった。私は今さらそんなクルマに乗りたいかと言われれば答えは「No 」だ。クルマは好きだが自分の命や他の人の命が大事だし、地球環境も大事だと思うからだ。スポーツカーの現象は確かにあるが、クルマ好きの人はオートマチックトランスミッション(AT)の普及や燃費規制、クルマの値段が上がったこと、ピープルムーバー(ミニバンともいう要するにアルファードのようなクルマ)やSUV(ハリアーのようなクルマ)の普及がスポーツカーの衰退の原因だと槍玉に上げるが、私は違うと思う。家電のテレビCMを見ればわかるが、最近の家電のCMは性能の良さを売りにしたものはほとんど見かけない、使い勝手の良さやを売りにしたものが多い。どんな商品を買っても性能はある程度の水準に達しているから使い勝手で勝負をしているのだと考える。クルマも同じで、今やどの車種に乗って走りに大きな不満のあるクルマはない。しかし、使い勝手には大きな違いがある。そうなれば、使い勝手のいいピープルムーバー(ミニバン)やSUVが有利になると思う。デザインだって、ボンネンットが低いクルマはかっこいいのかもしれないが、歩行者と衝突した時に、頭部の傷害が大きくなりやすいし、車高が低いと乗り降りしにくいし車内が狭い。人は自分がクルマに関心を持ち始めた時のクルマを理想像と捉える傾向があるが、クルマは時代背景や人々の暮らし、地球環境問題や道路事情、社会的な要請によって変わるもので、時代が変わっても変わらないクルマがあるとすれば、それは時代に取り残されたというべきであろう。

 「昔は良かった」という思いを全否定するつもりはない。しかし、それに囚われ過ぎていると、今が見えなくなるし、未来がつまらなくなる。最近の電車は乗り心地がいいし、車窓から見える景色は昔と変わらず素晴らしい。クルマだっていずれEV(電気自動車)やPHV(充電もできるハイブリッド車)の時代になっても、自分で運転して道の世界に行ける素晴らしさは変わらない。昔は良かったそれはもちろん、今も素晴らしいそう考え、古きも新しきも愉しんでいきたいと思う。

E501の今

 E501系電車は、1995年から1997年にかけて60両が製造され、混雑が激しい常磐線の上野〜土浦間の普通列車で使用された。常磐線は石岡市の柿岡に地磁気観測所があり、首都圏で多く用いられている直流電車が使用できず、取手以北(土浦、水戸、いわき方面)に乗り入れるには交流電化と直流電化の両方に対応できる電車が必要であり、コスト高になっていた。その一方で1970年代から茨城県内の常磐線沿線にある藤代町、竜ヶ崎市、牛久市、土浦市などの宅地化が進み、常磐線は慢性的な混雑に悩んでいた。

 E501系電車はドアの数を増やし、ラッシュ時に多くの人が乗れるようにした。座席は通勤電車でよく見かける形状だが、最近の電車に比べるとクッションが柔らかく、かけ心地は悪くない。

 2007年以降は、活躍の場を常磐線の土浦〜水戸〜いわき間と、水戸線に移し、2018年には水戸線での運用も終了したが、常磐線では、水戸周辺を中心に乗客が多く、スムーズに乗り降りができるこの電車はまだまだ重宝されている。

魅力多い只見線、再び

 久しぶりに喜ばしいニュースが入った。水害の影響で一部の区間で運転を休止していたJR只見線(会津若松駅〜小出駅)が10月に全線で運転を再開する。

 JR只見線は、福島県と新潟県にまたがり、会津若松駅を起点に、西若松駅、会津坂下(あいづばんげ)駅、会津川口駅、只見(ただみ)駅、小出駅を結ぶ全長135.2kmの路線である。会津若松駅では磐越西線、西若松駅では会津鉄道(ただし、会津鉄道の列車は会津若松駅まで乗り入れるため、会津若松〜西若松間は地元の人にも列車本数の多い会津鉄道の一部と認識されている場合が多い)、小出駅では上越線に接続している。

 沿線は極めて魅力的で、起点の会津若松駅と次の七日町駅周辺は、今なお城下町の面影を伝え、歴史と伝統工芸の町会津若松市の中心部にある。会津本郷駅周辺は本郷焼の窯元が並ぶ。会津盆地は歴史のある寺社が多く、駅から歩いて行けるものも多い。会津坂下駅で会津盆地が終わり、只見川に寄り添いながら山地に分け入る。会津柳津駅周辺には日本三大虚空蔵である柳津虚空蔵と、会津の雪景色を描いた作品で知られる、版画家の斎藤清の作品を集めた美術館がある。

 ここまでが只見線の序章と言っていいだろう。只見線の本領を発揮するのはむしろここからで、只見川に沿った狭い谷を走るようになる。ここは日本有数の豪雪地帯で、冬は相当な豪雪になる。実はこれが利用者の少ないローカル線ながら只見線がここまで生き残ってきた理由である。並行する国道252号が、福島県と新潟県の県境で冬季に通行止めになることが多く、只見線が唯一の交通機関になることが多い。そのような厳しい気候であるが、四季を通して景色は美しく、冬の雪景色は言うまでもなく、春の新緑、夏の只見川、秋の紅葉、いずれもすばらしい。沿線にはいくつも温泉があり、地酒や郷土料理も豊かな地方である。私も只見線運転再開後、新型コロナウイルスの感染状況を見ながらこの地域を再訪してみたいと思う。

いわき地区の炭鉱鉄道を訪ねる その5

 常磐炭鉱内郷坑専用線は、常磐線内郷駅からいわき市内郷宮町峰根を結ぶ2.9kmの炭鉱専用鉄道である。比較的平坦で炭鉱の名残も残り、ゆっくり歩いても片道1時間少々のお手軽なコースである。

 内郷駅で電車を降り、跨線橋を渡る。まもなく新川にかかる橋を渡る。ここから廃線跡の散歩が始まる。新川の橋を渡るとまもなく福島県道66号に出る。かつての線路は県道66号の道幅を広げるのに使われたのだろう。マルト内郷店というスーパーマーケットの先で廃線跡は県道からななれ、狭い道路になっている。すぐに宮川を渡るが、道路の右側に当時の橋台がしっかり残っている。しばらく進むと、内郷坑の選炭場の跡がある。コンクリート造りの構造物は今でも健在で迫力がある。ここで地下から掘り出した石炭から不純物を取り除き、貨車に積み込んだ。非常に貴重な産業遺産だろう。しばらく見物をした。

 廃線跡は緩やかに左にカーブをしながら内郷第二中学校の前を通る。ここで廃線跡を外れて瑞芳寺というお寺に行く。このお寺には炭鉱事故で亡くなった人の慰霊碑がある。大きな石でできた慰霊碑にしばらく手を合わせる。

 再び廃線跡に戻るが、かつて鉄道は宮川に橋をかけて対岸に渡っていたが、今は橋がなく、しばらく廃線跡から離れる。私は宮川に沿って進む。それにしても暑い日だ、まだ4月だというのにすっかり初夏の陽気である。そのかわり花は綺麗だ。芝桜、藤、あやめ、つつじ、牡丹桜これは花のオーケストラだ。

 県道66号に合流してしばらく進み、上町田のバス停の先で県道から右にそれる。そのまま道なりに進むと峰根の終点である。道路の左側にレンガの構造物があり、石炭の積み込みを行なっていた。私はそこから少し足を伸ばして小さなお堂を見に行った、お堂にはお地蔵様がいて満開の牡丹桜があった。少し涼しい風が吹いてきた。

https://www.hotetu.net/haisen/Tohoku/100109jyoubanuchigousen.html
地図はこのページを参照してください。

雷都に走るライトレール

 路面電車と聞いてどのようなイメージを持つだろうか。古臭くて、遅く、あまり快適ではなく、車の運転の邪魔になる迷惑な、しかしレトロで観光資源になるというイメージを持つ方が多いのではないかと思う。しかし、最近導入された路面電車は、快適性も大幅に上がり、車椅子の人でも身体が不自由な人でも乗り降りしやすい人に優しい車両が増えてきている。

 路面電車はどちらかと言えば、西高東低の傾向がある。西日本では鹿児島や熊本、長崎、広島、大阪、京都、松山、高知など路面電車が活躍している都市が多いが、東日本では函館や札幌の他は東京に都電荒川線が残るのみである。そのような中、宇都宮に路面電車の工事が進んでおり、2023年3月には開業する予定になっていることをご存知だろうか。

 宇都宮駅から東には鉄道路線がなく、清原工業団地という国内最大規模の工業団地や栃木県グリーンスタジアムなどのスポーツ施設、宇都宮大学部、作新学院大学などの学校、ベルモールという大型商業施設、ゆいの杜などの住宅地もある。しかも、途中には鬼怒川が南北に流れ、国道4号も南北に走っている。車を運転した方はご存知だと思うが、大きな川や幹線道路の前後は渋滞スポットになりやすい。宇都宮駅の東側も交通需要が多いにも関わらず渋滞が多く、抜本的な渋滞解消が求められていた。

 とはいえ、宇都宮を含む関東地方北部は日本で最も自家用車依存が進んだ地域である。新しい道路を作ればいいじゃないかという意見もあるだろう。しかし、宇都宮市の人口は52万人、周辺の市町村も含めた都市圏人口は166万人、これは新潟や熊本の都市圏人口よりも大きく、岡山の都市圏人口に匹敵する。しかも、宇都宮駅から東側には都市機能があまりに集中しすぎているので、新しい道路を作るだけでは抜本的な解決は困難だろうと思う。

 少し昔なら宇都宮駅からモノレールなどを建設するようになっていただろう。モノレールは道路の上に建設されて車の通行の支障にならない。しかし、利用者に階段などの垂直方向の移動をしいてしまうという大きな欠点がある。また、建設費が高額になり、その結果運賃が高くなり、利用者の経済負担も多くなる。

 路面電車にするメリットは、利用者に垂直方向の移動をしいないことである。低いプラットフォームから低床車両にスムーズに乗ることができる。もちろん、車椅子の人もベビーカーを押した人も苦労する必要はない。建設費用も抑えられるから運賃も安くなるだろう。しかし、路面に線路が敷かれるということは車線を片側1本潰されるということで、車を運転する人の反発が大きかった。実際、宇都宮市の市長選挙では路面電車の新設の是非が大きな争点になったこともある。

 とはいえ、私は路面電車の開業は車を運転する人にもメリットがあると考える。鉄道には長所と短所があるが、最大の長所は多くの人を安全に輸送することである。少し古いデータだが、2015年の交通センサスでは、東京を走る山手線の上野→御徒町間では、ラッシュ時のピークの1時間に63,720人が利用したそうだ。上野→御徒町間の距離は1kmもない。しかも、上野から御徒町までの外回り電車だけの数字である。道路でいうなら、1kmもない一方通行の道路に1時間に6万人以上の人が人が車に乗って安全に移動できる。そんなことはどうやっても無理だろう。

 宇都宮の路面電車は山手線の車両よりも小ぶりであるから、そこまでの輸送力はないが、それでも道路1車線を余裕で越える輸送力はあると考えていいだろう。路面電車ができてかえって道路が空いたという現象もありうると私は思っている。

 宇都宮は雷が多い町だという。イナヅマをイメージした黄色いカラーが入った電車が宇都宮の街を颯爽と走ることを考えると今から楽しみである。

https://u-movenext.net/ 宇都宮ライトレール

2022年3月ダイヤ改正

 私たちが生活で使っている暦の1年の始まりは1月、多くの会社や官公庁、学校などの会計年度の始まりは4月、では鉄道会社にとっての1年の始まりは3月なのかもしれない。近年JRのダイヤ改正は昨日、3月11日に行われた。

 近年の大きなダイヤ改正としては、1988年3月に青函トンネル、4月に瀬戸大橋の開業によって行われた改正があり、本州から北海道、四国まで鉄道の乗り継ぎで行けるようになった。1992年3月ダイヤ改正では東海道新幹線にのぞみ号が運行を開始し、東海道新幹線の最高速度が270km/hに引き上げられた。その他、1980〜90年代は、新幹線や在来線特急における新型車両投入におけるスピードアップやサービス向上、都市部の在来線の増発や快速電車の運転による速達化など攻めの姿勢が強い時期だった。

 2000年以降は東海道本線・横須賀線と東北本線(宇都宮線)・高崎線を渋谷、新宿、池袋経由で直通運転する湘南新宿ラインや貨物線を転用して大阪都市圏の鉄道空白地帯を埋めるおおさか東線など、これまでの発想にとらわれない新しい運行系統の開業があった。一方、大阪から金沢、新潟、秋田を経由して青森を結ぶ特急「白鳥」や、夜行列車の削減など、効率化を進めた時期でもある。

 2010年以降は東北新幹線と九州新幹線、北陸新幹線の延長や北海道新幹線の開業があり、東京から新青森、新函館北斗、富山、金沢、新大阪から熊本、鹿児島中央などが乗り換えなしで行けるようになった。一方、地方の過疎化は一層深刻になり、ローカル線の廃止も相次いだ。しかし、地方路線を中心に、魅力ある観光列車も多数登場し、多くの人に鉄道旅行の魅力と楽しさをアピールすることに成功した。

 今回のダイヤ改正では、新型コロナウイルス感染症の流行が長期化していることに伴い、通勤や出張、観光などの需要が大幅に減少していることに伴い、近年にはない厳しいダイヤ改正になった。新幹線や在来線特急、朝夕の普通列車などの運行本数の削減、東北地方や北海道の利用の少ない駅の廃止など、かつてない寂しい内容になった。しかし、今は試練の時、いつか新型コロナウイルスの流行も収束に向かうか、季節性の感染症としてうまく共存できるようになるから、その時には新しい列車やサービスの登場を願っている。

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