青森からはいよいよ津軽海峡線に乗り換える。津軽海峡線の快速「海峡」は、赤い電気機関車が先頭に立った長い編成で、乗客も多かった。私は窓際の席を確保することができた。軽い衝撃と共に発車すると、間もなく陸奥湾に沿って走り出す。しばらく走ると、蟹田という少し大きな町にある駅に停まる。この町は、太宰治の「津軽」で、風の町と言われたところである。向かいに下北半島が見える。下北半島の脇野沢までのフェリーもある。蟹田の次の中小国からは新しい線路に入る。ここまでは津軽線といい、青森から蟹田を経て、竜飛崎近くの三厩までを結ぶローカル戦であったが、青函トンネルの開通と共に北海道連絡の役割を担うようになった。
真新しい線路を走る快速「海峡」は速度を上げ、いくつかトンネルを通過する。そしていよいよ、全長53.9km当時世界最長の青函トンネルに入る。とはいえ、格別の景色があるわけではない。ただし、トンネルの途中に駅がある。竜飛海底駅と吉岡海底駅で、トンネルの設備などの見学ができる。トンネルの上には津軽海峡があることが不思議だし、すごいことだと思う。果てしなく続くと思われた青函トンネルは唐突に終わり、北海道に出た。こと唐突さが面白い。本州から北海道に渡り、地形や植生に私に気づくほどの違いはなかったが、家の作りは変わった。北海道の家は寒さに対して相当重装備であるし、大きな灯油タンクを持つ家が多い。なるほど、これが北海道かと思う。20歳と4ヶ月、北海道初上陸である。
木古内駅から江差線の線路に入るとカーブが多くなり、速度もやや落ちる。右側の車窓には津軽海峡が見えてくる。大瀬なセメント工場が見えると上磯駅に着く。ここから家が増え、間もなく函館駅に着く。函館駅も青函連絡船時代の名残で、海に突っ込み用な場所にあった。この日は函館に泊まり、夜はバスで函館山に登った。
2日目は昼過ぎまで函館の街を見て歩いた。路面電車に乗って五稜郭や石川啄木が「我なきぬれて蟹とたわむる」に立待岬のほか、市内の古い建物を巡り歩いた。午後の普通列車で大沼公園まで移動し、大沼公園駅近くのユースホステルに泊まった。ほとんどの宿泊客が私と同じ学生で、大阪から来た1人旅の学生と仲良くなり、一緒に夕食を食べた。夕食後もロビーで語り続けた。
3日目は、彼は昼ごろまで大沼公園にいるそうだが、私は小樽に向かうので朝食後、お互いの旅の無事を祈る言葉を伝えると、少し時間があるから、レンタサイクルを借りて、大沼を一緒に回らないかと言われた。時間はあまりなかったが、一緒に大沼を回り、景色を堪能し、大沼公園駅に戻ると、もう私の乗る列車が大沼公園駅に差し掛かっていた.私は彼に自転車を託し、ゆっくり別れの言葉を使えることもなく慌ただしく列車に乗り込んだ。ディーゼルカーは遠因を唸らせながら形の良い駒ヶ岳の麓を走り、森、八雲と噴火湾のそばの小さな町を走る。長万部で小樽行きの函館本線の列車に乗り換える。駅弁とお茶を買い、函館本線に乗り換える。
函館本線という由緒ある名前であるが、ここから小樽までの区間は既にローカル線と化していた。ここから先もディーゼルカーで、乗客はあまり多くない。倶知安を過ぎるとすらりとした羊蹄山が見えてくる。山あり、集落あり、畑あり、きれいな川もありで役者が揃っている。小樽に夕方少し前に着くと、運河の辺りを少し歩いてユースホステルに泊まる。ここでも1人旅の仲間を見つけて夕食を楽しんだ。
4日目は北海道の鉄道発祥の地である手宮に行った。ここには古い車両が展示されていてそれを見た。小樽の町は少し寂しかった。かつては小樽は重要な町で、北海道最初の鉄道は、小樽の港近くの手宮から札幌を経て、三笠市の幌内までだった。最大の目的は石狩炭田の石炭を小樽港まで運ぶことだった。ロシアや朝鮮半島にも近く、かつての小樽は賑やかだったと聞く。しかし、太平洋戦争後、北海道の経済は札幌への一極集中と、ソ連や北朝鮮との関係が途絶えたことで小樽の重要性が低下した。当時学生だった私にも街並みを見ることでそのことは理解できた、l
小樽駅に戻り、札幌行きの電車に乗る。編成も長く乗客も多い。小樽と札幌の間は山が海ギリギリまで迫っていて、電車は石狩湾を見ながら走る。やがて札幌の町並みが見えてきた。夢にまで見た札幌の町だ。興奮を抑えながら札幌駅のプラットホームに降り立つ。4日目の午後、仙台を出て80時間と少しをかけて到着した。
その後、2日ほど札幌に滞在し、さっぽろから夜行列車で青森に戻り、可愛らしいディーゼルカーが走る南部縦貫鉄道や十和田観光鉄道などに寄り道をしながら仙台に戻った。あの旅から30年が過ぎたが、今でも懐かしい旅であった。
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