カテゴリー「鉄道」の177件の記事

未来に伸びる宇都宮ライトレール

Img_5016Img_5003Img_5004

 8月に開業した宇都宮ライトレールに乗ってきた。想像以上に完成度の高い交通機関だったので紹介したい。

 まず、宇都宮ライトレールの概要だが、宇都宮駅東口を起点に駅東側の市街地を通り、新4号、鬼怒川を越え、日本最大級の内陸型の工業団地である清原工業団地、住宅地のゆいの杜を経由し、本田技研工業の一大拠点近くの芳賀・高根沢工業団地を結ぶ路線である。

 電車のデザインから、ブラックと、イエローがに塗り分けられた電車はなかなか斬新である。また、路面電車であることから、自動車からの視認性は良い配色を選んだことがうかがえる。また、雷都と呼ばれる宇都宮の地域性も表している。車内に入ってみると、配色はグレーとイエローの配色になり、柔らかく、リラックスした感じになる。座席の形状などは自動車産業が盛んな宇都宮らしく、電車の座席というよりはスポーツカーのシートを意識したデザインになっていることが興味をひく。

 電車の走りはスムーズで、騒音や振動も最低限に抑えられており、快適性は極めて高い。車両の床は低く、車いすを利用している人も利用しやすい高さになっている。また、無料Wi-Fiや大型モニターもあり、路面電車の車両としては充実した装備である。気に入ったのがロールカーテンで、薄いグレーなのだが上品な色で、宇都宮の伝統工芸品を意識したものらしい。大きな窓は魅力的だが、上の方だけロールカーテンを下ろせば視界を妨げずに日差しだけ和らげることができる。

 土曜日の昼間に乗車したが利用は多く、部活帰りの高校生や買い物に行く人などで立ち客もああるくらいの大盛況であった。沿線には、工場のほか、宇都宮大学、作新学院大学などの学校、グリーンスタジアムや清原球場などのスポーツ施設、ベルモールなどの商業施設があり、旺盛な需要があると思われる。将来は芳賀町中心部や東武宇都宮駅方面への延伸も計画されている。宇都宮ライトレールの発展を祈りたい。

宇都宮ライトレールもうすぐ開業

 

 鉄道とクルマを取り上げるYouTuberのがみさんが、開業まであと10日あまりに迫った宇都宮ライトレールの現状を特集した。驚くべきは車内の近未来的なデザインとお金をかけた地上設備である。関係者の並々ならぬ熱意が伝わってくる。懸念すべきはクルマを運転するドライバーの反発であるが、彼らに言いたいことは、道路はクルマを運転する人だけにあるのではない。歩く人、自転車に乗る人、バスに乗る人、路面電車に乗る人、車椅子に乗る人、バイクに乗る人、セニアカーに乗る人、電動キックボードに乗る人、みんなのためにある。

 願わくば、宇都宮ライトレールが成功して、多くの都市で人と地球にやさしい路面電車が活躍するようになってほしいと思う。 

磐越東線の主役、キハ110系

 磐越東線の主役、キハ110系気動車。最近では鉄道車両をまとめて電車と呼ぶ人が多いですが、この車両は床下にディーゼルエンジンや変速機を積んでその力で走るので、気動車(ディーゼルカー)といいます。1991年に磐越東線に登場して、既に30年以上活躍しています。

 大きな特徴、大きな窓と明るい色遣いによる居心地のいい内装と、軽量ボディにハイパワーなエンジンを組み合わせ、それまでよりも大幅に走行性能を改善したことです。磐越東線は阿武隈高地を越える山岳路線ですが、軽快な走りは今でも健在です。

 さすがに登場から30年を経て、古さも隠せなくなってきましたが、今後も多くの人に愛される磐越東線、キハ110系であってほしいと思います。

Img_4691Img_4688

東急・相鉄新横浜線

 3月にあった鉄道の新しい動きをもうひとつ紹介します。東急新横浜線と相鉄新横浜線の開業です。従来相鉄に乗って横浜市旭区、瀬谷泉区、大和市、海老名市方面に行くには、JRか京浜急行で横浜まで行って相鉄に乗り換えるのが一般的でした。

 2019年にJRと相鉄の直通運転が始まりました。大宮方面から、赤羽、新宿、渋谷を経て大崎止まりだった電車を延長して、武蔵小杉に停車し、貨物線を経て、羽沢横浜国大駅まで延伸し、相鉄が羽沢横浜国大駅から西谷駅までの線路を建設し、相鉄線内に乗り入れるもので、これまで都心方面に行くには横浜駅での乗り換えを強いられていた人には乗り換えが不要になるとともに、羽沢横浜国大駅周辺が鉄道の空白地帯だったことで、新たな需要を取り込む効果があった。

 今回は相鉄〜JRの直通運転に加え、相鉄〜東急の直通運転も開始された。相鉄は西谷〜羽沢横浜国大間の路線を新横浜まで延長し、新たに相鉄新横浜線とした。東急も日吉駅から新横浜までの路線を建設した。さらに、この路線に、渋谷からの東横線、目黒からの目黒線双方が乗り入れできるようにした。東横線は渋谷から先、東京メトロ副都心線と直通運転を行なっており、新宿三丁目、小竹向原、和光市までつながっている。東京メトロ副都心線は、一部の列車がさらに東武東上線川越方面小川町まで、西武池袋線所沢方面飯能まで乗り入れを行なっている。また、目黒線は、都営地下鉄三田線、東京メトロ南北線と直通運転を行なっており、三田線は大手町、神保町、巣鴨、西高島平、南北線は永田町、飯田橋、後楽園、赤羽岩淵、さらに一部の列車は埼玉高速鉄道に乗り入れて、巨大なイオンモールや埼玉スタジアムがある浦和美園までつながっている。

 ここまで書いたところで、脳内に路線図を描けた方はかなり地図か鉄道に詳しい方だと思う。直通運転で乗り換えがなく他社の路線まで直通運転することは、乗客にとってメリットが大きいが、乗り慣れない人にとっては利用が難しくなる。史上かつてない規模の直通運転、事業者側がどのような工夫をするのか注目したい。

大阪駅地下ホーム開業

 今日はJRをはじめ、鉄道各社でダイヤ改正が行われます。今回はJR大阪駅の開業を紹介します。

 え、大阪駅なんてとっくに開業しているだろうと考えているそこのあなた、その通りですが、今回開業する大阪駅はもうひとつの大阪駅、梅北エリア地下ホームです。

 今まで、京都や新大阪から、和歌山、紀伊田辺、白浜、新宮を結ぶ特急「くろしお」と、京都から新大阪を経て関西空港を結ぶ特急「はるか」は、新大阪から貨物線に入り、大阪駅をかすめて大阪環状線に入り、西九条、弁天町、新今宮と大阪の市街地の西側を通り、天王寺から阪和線に入っていた。

 大阪の市街地の東部、久宝寺、放出(はなてん)、久宝寺を結ぶおおさか東線も大阪駅まで乗り入れすることができず、新大阪止まりになっていた。

 今日からは、新大阪と西九条を結ぶ貨物線を地下に移し、特急「くろしお」と「はるか」は、これまでかすめていた大阪駅に地下ホームを作り停車することになる。また、おおさか東線は新大阪駅から大阪駅地下ホームまで延伸される。これにより、大阪駅周辺と和歌山、紀伊田辺、新宮、関西空港大阪市街地東部との行き来が便利になるだけでなく、大阪駅近くにある、JR北新地駅、阪急梅田駅、阪神梅田駅、地下鉄梅田駅、東梅田駅、西梅田駅を含めた強力な鉄道ネットワークができる。各線の発展と利用者の利便性向上に期待したい。

892a7e6581fe4da9acfb82f47516be1e031358369dab4a4ab88285d233cffe2c

鉄道、これからに向けて

 今年は鉄道開業150周年という記念すべき年でした。それに伴い、各鉄道会社では様々なイベントが行われました。それらのイベントは概ね好評で、いわゆる鉄道ファンだけでなく、家族連れ、高齢者、そして子どもたちなど、多くの人が訪れたようです。今年は西九州新幹線、武雄温泉〜長崎間の開業がありました。長崎は観光地として非常に魅力あるところです。多くの人が長崎を訪れて長崎の観光、経済の一層の発展に期待したいと思います。また、2011年の洪水で鉄橋などが流されて運休が続いていた、10月に運転再開し、臨時列車を増発するなど大盛況だという。先日は宇都宮のライトレールが試運転を開始した。宇都宮駅東口から市街地東部の商業地帯、学校、住宅地、そして日本有数の内陸工業団地を結ぶもので、過度な自家用車依存が交通渋滞を引き起こした地方都市で、ライトレールが受け入れられるか注目される。

 もちろん明るい話題だけではない。新型コロナウイルス感染症の蔓延が続き、ビジネス需要も観光需要も低迷し、鉄道各社は我慢の経営を強いられている。これまで頼りの綱であった通勤・通学需要も減少している。地方路線では人口が減少することで加速度的に利用者が減少しているところもある。利用者の減少は即路線の存廃に関わる危機につながる。

 とはいえ、鉄道をはじめとする公共交通は今後の必要だ。人間は移動する生物である。遠くへの引っ越し、旅行、から近場への通勤、通学、買い物、通院。どんなにオンラインでできることが増えても人間が家から一歩も外に出なくなることは考えにくい。そして、高齢者の免許返納者も増えるし、免許を持たない外国の人、経済的理由で免許を持たない、あるいは自家用車を持たない人も多い。

 そして何より、鉄道の強みは2つの安心感だろう。ひとつ目の安心感は、他の交通機関では難しい高い安全性だろう。最近の車は安全になったとはいえ、鉄道の安全性とは大きな開きがある。もうひとつは線路や駅が簡単には無くならない、地図に載っているという安心感だろう。バス路線と違って簡単には廃止できないことと、線路や駅は地図に乗るし、駅は今だに町の中心部になっていることが多い。

 これからの鉄道会社に期待したいのは、何よりも安全な鉄道運行。ついで、人と地球環境にやさしい鉄道であること。子どもも高齢者も、障がいのある人も、外国の人もみんなが利用しやすい鉄道であってほしい。その上で乗って楽しい列車を走らせてほしい。私もこのブログ上で鉄道で働く人を応援したり、鉄道旅行の楽しみを紹介したりしたい。次の150年後もみんなに愛される鉄道であってほしい。

鉄道開業150周年企画⑩ 2006年11月 銚子電鉄奮闘する

 「電車修理代を稼がなくちゃ、いけないんです」悲鳴のような言葉は多くの人の心を動かした。たちまち銚子電鉄の電車に乗る乗客はうなぎ登り、副業で行なっている(こちらの方が売上が多いので、こちらを本業とする見方もあるが)ぬれ煎餅玄米揚げ餅などの菓子類も飛ぶように売れ、捌ききれないほどの注文が殺到した。私も売上が一段落した翌年正月明けにぬれ煎餅と玄米揚げ餅を通販で購入した。

 銚子電鉄は千葉県の銚子市にある銚子駅から外川駅までの6.4kmを結ぶささやかな規模の鉄道である。JR総武本線の終点である銚子駅の隅っこを曲がりして遠慮がちに電車が発着している。ここから、漁業と醤油の町である銚子の市街地を走り、犬吠埼近くの犬吠駅を経て、小さな港町がある外川駅を結ぶわずか6.4kmの鉄道である。主なお客は沿線の高齢者と学生、それと犬吠埼を目指す観光客。

 かつては沿線にある醤油工場の製品輸送で賑わった時代もあったようだが、やがて醤油の輸送はトラックに代わった。戦後は千葉交通の傘下に入ったが、1990年、同じ千葉県内にあった内野屋工務店の傘下になった。1998年に内野屋工務店が自己破産したが、その後も内野屋工務店出身者が経営をした。しかし、その経営者による横領が発覚し、経営者の解任、逮捕という事態に発展した。これをきっかけに元々振るわなかった銚子電鉄の業績は悪化し、ついに電車の修理代にも事欠くようになった。

 元々、銚子市の人口は減少だったことに加え、銚子電鉄沿線は道路が狭く、坂が多く、車の使用には向いていなかったこともあり、沿線の人口も低迷していた。そのことから、銚子電鉄は1976年に鯛焼き屋を開店させたり、1995年には銚子特産の醤油を使ってぬれ煎餅の製造・販売に乗り出すなど、関連事業に力を入れていた。それでも、経営者の横領という犯罪行為が発覚した以上、信用は失墜し、電車の修理代にも事欠くようになったなってしまった。その結果が、「電車の修理代を稼がなくちゃ、いけないんです」だった。

 しかし、その時点で内野屋工務店出身の経営陣を追い出し、会社は鉄道事業の存続に向けて、まさに捨て身の作戦に出た。この姿勢が多くの人の心を動かしたのだと思う。そして、銚子は観光地としての魅力があった。犬吠埼だけではなく、外川の港町も風情があっていい。銚子の魚は美味いし、ぬれ煎餅や玄米揚げ餅も美味いし、鉄道会社が作る名物菓子として話題性がある。新しい経営陣は、何とか鉄道を残せると踏んだのであろう。

 そこからの銚子電鉄はありとあらゆる生き残り策をとった。人気ゲームソフト、「桃太郎電鉄」を制作するバンダイとコラボし、ゲームに出てくるキャラの石像を設置した。駅のネーミングライツを販売したり、テレビ番組に出たりした。極め付けは、不味い棒と鯖威張る弁当だろう。不味い棒は駄菓子として知られる、うまい棒に似た製品で、名前に反して味は美味い。不味いのは経営状態ということだろう。鯖威張る弁当とは、サバの炊き込みご飯の上に、大きな焼き鯖が乗った弁当で、こちらはまだ食べていないが、美味しそうな弁当である、名前は、もちろん、鯖と会社の生き残りをかけたさばいばる。若干親父ギャグと自虐的なところが気になるが、美味い名前だと思う。最近はユーチューバとコラボしたりと、話題作りに余念がない。この会社がこれからも生き残りのために奮闘する姿を応援したい。

鉄道開業150周年企画 2002年8月⑨ 寝台特急「さくら」の旅

 夏の日差しも傾く頃、私は東京駅にいた。これから乗るのは長崎行きの寝台特急「さくら」、いわゆるブルートレインの代表格の列車である。駅弁、ビール、おつまみ、そして翌朝の朝食のために、菓子パンやコーヒを買った。「さくら」という名称は、国鉄が1929年に、東京〜下関の特急列車につけた歴史ある名称で、戦後は一貫して東京〜長崎の寝台特急に用いられてきた。しかし、この時点でブルートレインのは既に縮小体制に入っており、既に食堂車の営業をやめていた。ちなみに2005年に寝台特急「さくら」は廃止になったが、現在は九州新幹線の列車名として復活している。

 東京駅のプラットホームに長い編成の寝台特急「さくら」が停まっていた。ロイヤルブルーの車体には疲れも見えたが、それでもなお美しく整備されていて気持ちがいい。私が予約したのはB寝台、昔ながらの二段ベッドが向かい合わせに並んでいる車両である。私は下段のベッドに座る。向かいに一人旅の同じくらいの年齢の男性が座る。軽く会釈をするとその方も会釈を返す。そうしているうちに発車時刻になった。ゆっくりと東京駅のプラットホームを離れた。右側には山手線や京浜東北線の電車、左側には東海道新幹線の電車、どちらも日常の延長線のようなものだけど、私が乗っている寝台特急「さくら」は非日常の塊、どちらかを選べと言われたら、旅には非日常的な乗り物の方がいいと思う。いや、新幹線の速さや便利さは認めるし、私も何度も利用しているが。

 品川を過ぎると、「さくら」の速度が上がる。多摩川を渡り、赤い京浜急行の電車と並走すると、横浜に着く。向かいに座った男性は文庫本を広げて読み始めた。私もバッグの中には文庫本が何冊もあるし、それもいいのだが、なんとなく人恋しいので、ロビーカーに行くことににした。ロビーカーとは、ソファーが置いてあって、乗客が自由に景色を楽しんだり、歓談を楽しむことができる車両である。私はソファーに座って車窓を見ていたら、3人組の男女に声を掛けられた。3人はビールや弁当、おつまみを広げていて、楽しそうに話していた。しかも、楽しく話していてもうるさ過ぎないのがいい。私は寝台車に戻り、ビールと駅弁とおつまみを持ってきて話の中に加わった。

 話をしてみると、3人組ではなく、それぞれ1人で「さくら」に乗っている人だった。旅行に行く人もいれば、帰省するために乗っている人もいる。私も含めると、男性は3人、女性は1人、年齢は私が一番若かった。みんな寝台特急に乗る経験は豊富なようで、私は少し昔の寝台特急事情など色々なことを教えてもらった。私もこれまで行った旅先の話などを話した。幸いロビーカーには飲み物の自動販売機があり、ビールも売っていたので、話が弾むのに応じてビールの缶も次々と空いていった。 

 気が付けば3時間近く話し込んでいたらしい。21時30分、浜松に着いたのを機にお開きにすることにした。名残惜しいが、これ以上遅くなると他の乗客の迷惑にもなる。テーブルの上をきれいに片付けるとそれぞれの旅の無事を祈る言葉をかけながらそれぞれの寝台車に戻った。あまり広い寝台ではないが、ビールの力もあり、たちまち眠ってしまった。

 次の朝は5時20分、広島到着の寸前だった。広島の街並みや宮島の景色を楽しんだ後、もう一度ロビーカーに行ってみた。ロビーカーに人はたくさんいたが、昨夜一緒に飲んだ人たちはいなかった。その後も下関に着く直前にも行ってみたがその頃には乗客もほとんど降りてロビーカーにはほとんど人はいなかった。関門トンネルを抜け、九州に入った。小倉を過ぎると北九州工業地帯に入る。車内には昼下がりのような気だるい空気が漂ってきた。寝台に横になり、博多駅に着いたことには気づかなかった。目が覚めたのは鳥栖駅に停車中だった。長崎本線に入り、肥前山口を過ぎると海に沿って走る。山が間近に迫っていてカーブが多く、「さくら」の速度が落ちる。長崎には13時過ぎに着いた。19時間の旅が終わった。景色もいいし、列車もいい、それ以上にあの1夜の出会いが素晴らしかった。旅の醍醐味はいろいろあるが、人との出会いや会話もその一つだと思う。本当に素晴らしい旅だった。

 

鉄道開業150周年企画⑧ 1992年夏 津軽海峡を越えて

 青森からはいよいよ津軽海峡線に乗り換える。津軽海峡線の快速「海峡」は、赤い電気機関車が先頭に立った長い編成で、乗客も多かった。私は窓際の席を確保することができた。軽い衝撃と共に発車すると、間もなく陸奥湾に沿って走り出す。しばらく走ると、蟹田という少し大きな町にある駅に停まる。この町は、太宰治の「津軽」で、風の町と言われたところである。向かいに下北半島が見える。下北半島の脇野沢までのフェリーもある。蟹田の次の中小国からは新しい線路に入る。ここまでは津軽線といい、青森から蟹田を経て、竜飛崎近くの三厩までを結ぶローカル戦であったが、青函トンネルの開通と共に北海道連絡の役割を担うようになった。

 真新しい線路を走る快速「海峡」は速度を上げ、いくつかトンネルを通過する。そしていよいよ、全長53.9km当時世界最長の青函トンネルに入る。とはいえ、格別の景色があるわけではない。ただし、トンネルの途中に駅がある。竜飛海底駅と吉岡海底駅で、トンネルの設備などの見学ができる。トンネルの上には津軽海峡があることが不思議だし、すごいことだと思う。果てしなく続くと思われた青函トンネルは唐突に終わり、北海道に出た。こと唐突さが面白い。本州から北海道に渡り、地形や植生に私に気づくほどの違いはなかったが、家の作りは変わった。北海道の家は寒さに対して相当重装備であるし、大きな灯油タンクを持つ家が多い。なるほど、これが北海道かと思う。20歳と4ヶ月、北海道初上陸である。

 木古内駅から江差線の線路に入るとカーブが多くなり、速度もやや落ちる。右側の車窓には津軽海峡が見えてくる。大瀬なセメント工場が見えると上磯駅に着く。ここから家が増え、間もなく函館駅に着く。函館駅も青函連絡船時代の名残で、海に突っ込み用な場所にあった。この日は函館に泊まり、夜はバスで函館山に登った。

 2日目は昼過ぎまで函館の街を見て歩いた。路面電車に乗って五稜郭や石川啄木が「我なきぬれて蟹とたわむる」に立待岬のほか、市内の古い建物を巡り歩いた。午後の普通列車で大沼公園まで移動し、大沼公園駅近くのユースホステルに泊まった。ほとんどの宿泊客が私と同じ学生で、大阪から来た1人旅の学生と仲良くなり、一緒に夕食を食べた。夕食後もロビーで語り続けた。

 3日目は、彼は昼ごろまで大沼公園にいるそうだが、私は小樽に向かうので朝食後、お互いの旅の無事を祈る言葉を伝えると、少し時間があるから、レンタサイクルを借りて、大沼を一緒に回らないかと言われた。時間はあまりなかったが、一緒に大沼を回り、景色を堪能し、大沼公園駅に戻ると、もう私の乗る列車が大沼公園駅に差し掛かっていた.私は彼に自転車を託し、ゆっくり別れの言葉を使えることもなく慌ただしく列車に乗り込んだ。ディーゼルカーは遠因を唸らせながら形の良い駒ヶ岳の麓を走り、森、八雲と噴火湾のそばの小さな町を走る。長万部で小樽行きの函館本線の列車に乗り換える。駅弁とお茶を買い、函館本線に乗り換える。

 函館本線という由緒ある名前であるが、ここから小樽までの区間は既にローカル線と化していた。ここから先もディーゼルカーで、乗客はあまり多くない。倶知安を過ぎるとすらりとした羊蹄山が見えてくる。山あり、集落あり、畑あり、きれいな川もありで役者が揃っている。小樽に夕方少し前に着くと、運河の辺りを少し歩いてユースホステルに泊まる。ここでも1人旅の仲間を見つけて夕食を楽しんだ。

 4日目は北海道の鉄道発祥の地である手宮に行った。ここには古い車両が展示されていてそれを見た。小樽の町は少し寂しかった。かつては小樽は重要な町で、北海道最初の鉄道は、小樽の港近くの手宮から札幌を経て、三笠市の幌内までだった。最大の目的は石狩炭田の石炭を小樽港まで運ぶことだった。ロシアや朝鮮半島にも近く、かつての小樽は賑やかだったと聞く。しかし、太平洋戦争後、北海道の経済は札幌への一極集中と、ソ連や北朝鮮との関係が途絶えたことで小樽の重要性が低下した。当時学生だった私にも街並みを見ることでそのことは理解できた、l

 小樽駅に戻り、札幌行きの電車に乗る。編成も長く乗客も多い。小樽と札幌の間は山が海ギリギリまで迫っていて、電車は石狩湾を見ながら走る。やがて札幌の町並みが見えてきた。夢にまで見た札幌の町だ。興奮を抑えながら札幌駅のプラットホームに降り立つ。4日目の午後、仙台を出て80時間と少しをかけて到着した。

 その後、2日ほど札幌に滞在し、さっぽろから夜行列車で青森に戻り、可愛らしいディーゼルカーが走る南部縦貫鉄道や十和田観光鉄道などに寄り道をしながら仙台に戻った。あの旅から30年が過ぎたが、今でも懐かしい旅であった。

鉄道開業150年記念企画⑦ 1992年夏、北へ

 1992年8月、アルバイトで貯めたお金と道南ワイド周遊券(かつて販売されていた特定地域が乗り放題になり、そこまでの往復が割引になるきっぷ)を手に仙台駅にいた。これから普通列車を乗り継いで北海道に向かう。これが私の本格的な一人旅デビュー、胸が高鳴っていた。仙台から一ノ関行きの普通列車に乗る。塩釜を過ぎると右側に小さな島々が見える。日本三景の松島である。松島を過ぎると日本有数の米どころである仙台平野が広がっている。広々とした平野を気持ちよさそうに電車は快走する。小牛田は鳴子に向かう陸羽東線、石巻に向かう石巻線が分岐する。しばらく仙台平野を走り、少し山が迫ると一ノ関に着く。

 ここまでは電車であったが、ここからは同じ普通列車でも客車になる。電車は車両の床下にモーターを積み、その動力で走る車両である。一方客車は車両自体はモーターやエンジンなど動力を発生させる装置を持っておらず、機関車に牽引されて走る。150年前の鉄道開業の時には電車は存在せず、すべての旅客列車が客車であった。その後、加減速に優れ、終点で機関車の付け替えの必要がない電車に置き換わっていくが、この当時の東北本線一ノ関以北はまだまだ客車の天下だった。

 盛岡行きの列車は赤い電気機関車を先頭にレッドトレインと呼ばれていた赤い客車を連ねた列車に乗り込む。ピーと機関車のホイッスルが聞こえ、ガクンと軽い衝撃があって一ノ関駅を発車する。ワンテンポ遅れて加速が始まる。客車の乗り心地だ。走り出せば結構な速度で走る。冷房のない車両だから窓を開け風の心地よい癇癪を楽しむ。岩手県の風景はよく、北上川も見える。減速は流石に電車に比べると鈍い。停車すると乗客の声以外何の音もしない。これが客車の乗り心地である。

 水沢の少し先に六原という駅がある。この駅に着くと少し離れた席から「六波羅探題」という声が聞こえて来る。駅の名前を使った駄洒落は、鉄道好きあるあるに入れていいと思う。北上、花巻を過ぎて盛岡が近づいてくる。左側に形の良い岩手山が近づいてくる。仙台以来久しぶりの大きな町になるのが盛岡である。しかし、私は青森行きの普通列車に乗り換え先を急ぐ。

 盛岡から先も客車の普通列車である。同じボックスに乗り合わせたのは、60代くらいの退職した校長先生か博物館長という感じのおじさんで、私が大きな荷物を持っているのに気づき、旅行者だと気づいたらしい。おじさんもかつて周遊券で旅をしたそうで、車窓から見える景色をいろいろ教えてくれた。初めて知ることも多くとても勉強になった。

 おじさんが降りていくと、徐々に山が迫り、勾配がきつくなっていく。昼も過ぎ疲れてきたので少しだけ眠る。目が覚めると金田一駅、長かった岩手県もここで終わり、次の目時からは青森県に入る。今度は徐々に降り始め、八戸に着く。このまま普通列車に乗り通しても函館に着くが、明るいうちの函館に着きたいと思っていたので、ここから青森までは特急「はつかり」に乗る。

 東北の名門特急であった「はつかりも、この時点では盛岡と青森、函館を結ぶ新幹線に接続することが使命の列車になっていた。それでもさすがに特急だけあってスピードは速い。三沢で十和田観光電鉄の電車が見えたと思うと野辺地、丸っこくてかわいいレールバスと呼ばれる小型の車両が見えた。野辺地を過ぎると陸奥湾が見える。同じ東北でもいわきや仙台と比べると海の色が重い。寒い海なのだと実感する。夏泊半島の付け根を突っ切ると浅虫、海沿いに温泉旅館が見える。青森の市街地を時計回りに半周すると青森駅、かつては青函連絡船が出ていたから、海に突っ込むような形で駅が設置されている。私は青森駅のホームに降り立つと深呼吸をした。潮の香りがした。

より以前の記事一覧

フォト
無料ブログはココログ

ウェブページ