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カテゴリー「鉄道」の172件の記事

鉄道、これからに向けて

 今年は鉄道開業150周年という記念すべき年でした。それに伴い、各鉄道会社では様々なイベントが行われました。それらのイベントは概ね好評で、いわゆる鉄道ファンだけでなく、家族連れ、高齢者、そして子どもたちなど、多くの人が訪れたようです。今年は西九州新幹線、武雄温泉〜長崎間の開業がありました。長崎は観光地として非常に魅力あるところです。多くの人が長崎を訪れて長崎の観光、経済の一層の発展に期待したいと思います。また、2011年の洪水で鉄橋などが流されて運休が続いていた、10月に運転再開し、臨時列車を増発するなど大盛況だという。先日は宇都宮のライトレールが試運転を開始した。宇都宮駅東口から市街地東部の商業地帯、学校、住宅地、そして日本有数の内陸工業団地を結ぶもので、過度な自家用車依存が交通渋滞を引き起こした地方都市で、ライトレールが受け入れられるか注目される。

 もちろん明るい話題だけではない。新型コロナウイルス感染症の蔓延が続き、ビジネス需要も観光需要も低迷し、鉄道各社は我慢の経営を強いられている。これまで頼りの綱であった通勤・通学需要も減少している。地方路線では人口が減少することで加速度的に利用者が減少しているところもある。利用者の減少は即路線の存廃に関わる危機につながる。

 とはいえ、鉄道をはじめとする公共交通は今後の必要だ。人間は移動する生物である。遠くへの引っ越し、旅行、から近場への通勤、通学、買い物、通院。どんなにオンラインでできることが増えても人間が家から一歩も外に出なくなることは考えにくい。そして、高齢者の免許返納者も増えるし、免許を持たない外国の人、経済的理由で免許を持たない、あるいは自家用車を持たない人も多い。

 そして何より、鉄道の強みは2つの安心感だろう。ひとつ目の安心感は、他の交通機関では難しい高い安全性だろう。最近の車は安全になったとはいえ、鉄道の安全性とは大きな開きがある。もうひとつは線路や駅が簡単には無くならない、地図に載っているという安心感だろう。バス路線と違って簡単には廃止できないことと、線路や駅は地図に乗るし、駅は今だに町の中心部になっていることが多い。

 これからの鉄道会社に期待したいのは、何よりも安全な鉄道運行。ついで、人と地球環境にやさしい鉄道であること。子どもも高齢者も、障がいのある人も、外国の人もみんなが利用しやすい鉄道であってほしい。その上で乗って楽しい列車を走らせてほしい。私もこのブログ上で鉄道で働く人を応援したり、鉄道旅行の楽しみを紹介したりしたい。次の150年後もみんなに愛される鉄道であってほしい。

鉄道開業150周年企画⑩ 2006年11月 銚子電鉄奮闘する

 「電車修理代を稼がなくちゃ、いけないんです」悲鳴のような言葉は多くの人の心を動かした。たちまち銚子電鉄の電車に乗る乗客はうなぎ登り、副業で行なっている(こちらの方が売上が多いので、こちらを本業とする見方もあるが)ぬれ煎餅玄米揚げ餅などの菓子類も飛ぶように売れ、捌ききれないほどの注文が殺到した。私も売上が一段落した翌年正月明けにぬれ煎餅と玄米揚げ餅を通販で購入した。

 銚子電鉄は千葉県の銚子市にある銚子駅から外川駅までの6.4kmを結ぶささやかな規模の鉄道である。JR総武本線の終点である銚子駅の隅っこを曲がりして遠慮がちに電車が発着している。ここから、漁業と醤油の町である銚子の市街地を走り、犬吠埼近くの犬吠駅を経て、小さな港町がある外川駅を結ぶわずか6.4kmの鉄道である。主なお客は沿線の高齢者と学生、それと犬吠埼を目指す観光客。

 かつては沿線にある醤油工場の製品輸送で賑わった時代もあったようだが、やがて醤油の輸送はトラックに代わった。戦後は千葉交通の傘下に入ったが、1990年、同じ千葉県内にあった内野屋工務店の傘下になった。1998年に内野屋工務店が自己破産したが、その後も内野屋工務店出身者が経営をした。しかし、その経営者による横領が発覚し、経営者の解任、逮捕という事態に発展した。これをきっかけに元々振るわなかった銚子電鉄の業績は悪化し、ついに電車の修理代にも事欠くようになった。

 元々、銚子市の人口は減少だったことに加え、銚子電鉄沿線は道路が狭く、坂が多く、車の使用には向いていなかったこともあり、沿線の人口も低迷していた。そのことから、銚子電鉄は1976年に鯛焼き屋を開店させたり、1995年には銚子特産の醤油を使ってぬれ煎餅の製造・販売に乗り出すなど、関連事業に力を入れていた。それでも、経営者の横領という犯罪行為が発覚した以上、信用は失墜し、電車の修理代にも事欠くようになったなってしまった。その結果が、「電車の修理代を稼がなくちゃ、いけないんです」だった。

 しかし、その時点で内野屋工務店出身の経営陣を追い出し、会社は鉄道事業の存続に向けて、まさに捨て身の作戦に出た。この姿勢が多くの人の心を動かしたのだと思う。そして、銚子は観光地としての魅力があった。犬吠埼だけではなく、外川の港町も風情があっていい。銚子の魚は美味いし、ぬれ煎餅や玄米揚げ餅も美味いし、鉄道会社が作る名物菓子として話題性がある。新しい経営陣は、何とか鉄道を残せると踏んだのであろう。

 そこからの銚子電鉄はありとあらゆる生き残り策をとった。人気ゲームソフト、「桃太郎電鉄」を制作するバンダイとコラボし、ゲームに出てくるキャラの石像を設置した。駅のネーミングライツを販売したり、テレビ番組に出たりした。極め付けは、不味い棒と鯖威張る弁当だろう。不味い棒は駄菓子として知られる、うまい棒に似た製品で、名前に反して味は美味い。不味いのは経営状態ということだろう。鯖威張る弁当とは、サバの炊き込みご飯の上に、大きな焼き鯖が乗った弁当で、こちらはまだ食べていないが、美味しそうな弁当である、名前は、もちろん、鯖と会社の生き残りをかけたさばいばる。若干親父ギャグと自虐的なところが気になるが、美味い名前だと思う。最近はユーチューバとコラボしたりと、話題作りに余念がない。この会社がこれからも生き残りのために奮闘する姿を応援したい。

鉄道開業150周年企画 2002年8月⑨ 寝台特急「さくら」の旅

 夏の日差しも傾く頃、私は東京駅にいた。これから乗るのは長崎行きの寝台特急「さくら」、いわゆるブルートレインの代表格の列車である。駅弁、ビール、おつまみ、そして翌朝の朝食のために、菓子パンやコーヒを買った。「さくら」という名称は、国鉄が1929年に、東京〜下関の特急列車につけた歴史ある名称で、戦後は一貫して東京〜長崎の寝台特急に用いられてきた。しかし、この時点でブルートレインのは既に縮小体制に入っており、既に食堂車の営業をやめていた。ちなみに2005年に寝台特急「さくら」は廃止になったが、現在は九州新幹線の列車名として復活している。

 東京駅のプラットホームに長い編成の寝台特急「さくら」が停まっていた。ロイヤルブルーの車体には疲れも見えたが、それでもなお美しく整備されていて気持ちがいい。私が予約したのはB寝台、昔ながらの二段ベッドが向かい合わせに並んでいる車両である。私は下段のベッドに座る。向かいに一人旅の同じくらいの年齢の男性が座る。軽く会釈をするとその方も会釈を返す。そうしているうちに発車時刻になった。ゆっくりと東京駅のプラットホームを離れた。右側には山手線や京浜東北線の電車、左側には東海道新幹線の電車、どちらも日常の延長線のようなものだけど、私が乗っている寝台特急「さくら」は非日常の塊、どちらかを選べと言われたら、旅には非日常的な乗り物の方がいいと思う。いや、新幹線の速さや便利さは認めるし、私も何度も利用しているが。

 品川を過ぎると、「さくら」の速度が上がる。多摩川を渡り、赤い京浜急行の電車と並走すると、横浜に着く。向かいに座った男性は文庫本を広げて読み始めた。私もバッグの中には文庫本が何冊もあるし、それもいいのだが、なんとなく人恋しいので、ロビーカーに行くことににした。ロビーカーとは、ソファーが置いてあって、乗客が自由に景色を楽しんだり、歓談を楽しむことができる車両である。私はソファーに座って車窓を見ていたら、3人組の男女に声を掛けられた。3人はビールや弁当、おつまみを広げていて、楽しそうに話していた。しかも、楽しく話していてもうるさ過ぎないのがいい。私は寝台車に戻り、ビールと駅弁とおつまみを持ってきて話の中に加わった。

 話をしてみると、3人組ではなく、それぞれ1人で「さくら」に乗っている人だった。旅行に行く人もいれば、帰省するために乗っている人もいる。私も含めると、男性は3人、女性は1人、年齢は私が一番若かった。みんな寝台特急に乗る経験は豊富なようで、私は少し昔の寝台特急事情など色々なことを教えてもらった。私もこれまで行った旅先の話などを話した。幸いロビーカーには飲み物の自動販売機があり、ビールも売っていたので、話が弾むのに応じてビールの缶も次々と空いていった。 

 気が付けば3時間近く話し込んでいたらしい。21時30分、浜松に着いたのを機にお開きにすることにした。名残惜しいが、これ以上遅くなると他の乗客の迷惑にもなる。テーブルの上をきれいに片付けるとそれぞれの旅の無事を祈る言葉をかけながらそれぞれの寝台車に戻った。あまり広い寝台ではないが、ビールの力もあり、たちまち眠ってしまった。

 次の朝は5時20分、広島到着の寸前だった。広島の街並みや宮島の景色を楽しんだ後、もう一度ロビーカーに行ってみた。ロビーカーに人はたくさんいたが、昨夜一緒に飲んだ人たちはいなかった。その後も下関に着く直前にも行ってみたがその頃には乗客もほとんど降りてロビーカーにはほとんど人はいなかった。関門トンネルを抜け、九州に入った。小倉を過ぎると北九州工業地帯に入る。車内には昼下がりのような気だるい空気が漂ってきた。寝台に横になり、博多駅に着いたことには気づかなかった。目が覚めたのは鳥栖駅に停車中だった。長崎本線に入り、肥前山口を過ぎると海に沿って走る。山が間近に迫っていてカーブが多く、「さくら」の速度が落ちる。長崎には13時過ぎに着いた。19時間の旅が終わった。景色もいいし、列車もいい、それ以上にあの1夜の出会いが素晴らしかった。旅の醍醐味はいろいろあるが、人との出会いや会話もその一つだと思う。本当に素晴らしい旅だった。

 

鉄道開業150周年企画⑧ 1992年夏 津軽海峡を越えて

 青森からはいよいよ津軽海峡線に乗り換える。津軽海峡線の快速「海峡」は、赤い電気機関車が先頭に立った長い編成で、乗客も多かった。私は窓際の席を確保することができた。軽い衝撃と共に発車すると、間もなく陸奥湾に沿って走り出す。しばらく走ると、蟹田という少し大きな町にある駅に停まる。この町は、太宰治の「津軽」で、風の町と言われたところである。向かいに下北半島が見える。下北半島の脇野沢までのフェリーもある。蟹田の次の中小国からは新しい線路に入る。ここまでは津軽線といい、青森から蟹田を経て、竜飛崎近くの三厩までを結ぶローカル戦であったが、青函トンネルの開通と共に北海道連絡の役割を担うようになった。

 真新しい線路を走る快速「海峡」は速度を上げ、いくつかトンネルを通過する。そしていよいよ、全長53.9km当時世界最長の青函トンネルに入る。とはいえ、格別の景色があるわけではない。ただし、トンネルの途中に駅がある。竜飛海底駅と吉岡海底駅で、トンネルの設備などの見学ができる。トンネルの上には津軽海峡があることが不思議だし、すごいことだと思う。果てしなく続くと思われた青函トンネルは唐突に終わり、北海道に出た。こと唐突さが面白い。本州から北海道に渡り、地形や植生に私に気づくほどの違いはなかったが、家の作りは変わった。北海道の家は寒さに対して相当重装備であるし、大きな灯油タンクを持つ家が多い。なるほど、これが北海道かと思う。20歳と4ヶ月、北海道初上陸である。

 木古内駅から江差線の線路に入るとカーブが多くなり、速度もやや落ちる。右側の車窓には津軽海峡が見えてくる。大瀬なセメント工場が見えると上磯駅に着く。ここから家が増え、間もなく函館駅に着く。函館駅も青函連絡船時代の名残で、海に突っ込み用な場所にあった。この日は函館に泊まり、夜はバスで函館山に登った。

 2日目は昼過ぎまで函館の街を見て歩いた。路面電車に乗って五稜郭や石川啄木が「我なきぬれて蟹とたわむる」に立待岬のほか、市内の古い建物を巡り歩いた。午後の普通列車で大沼公園まで移動し、大沼公園駅近くのユースホステルに泊まった。ほとんどの宿泊客が私と同じ学生で、大阪から来た1人旅の学生と仲良くなり、一緒に夕食を食べた。夕食後もロビーで語り続けた。

 3日目は、彼は昼ごろまで大沼公園にいるそうだが、私は小樽に向かうので朝食後、お互いの旅の無事を祈る言葉を伝えると、少し時間があるから、レンタサイクルを借りて、大沼を一緒に回らないかと言われた。時間はあまりなかったが、一緒に大沼を回り、景色を堪能し、大沼公園駅に戻ると、もう私の乗る列車が大沼公園駅に差し掛かっていた.私は彼に自転車を託し、ゆっくり別れの言葉を使えることもなく慌ただしく列車に乗り込んだ。ディーゼルカーは遠因を唸らせながら形の良い駒ヶ岳の麓を走り、森、八雲と噴火湾のそばの小さな町を走る。長万部で小樽行きの函館本線の列車に乗り換える。駅弁とお茶を買い、函館本線に乗り換える。

 函館本線という由緒ある名前であるが、ここから小樽までの区間は既にローカル線と化していた。ここから先もディーゼルカーで、乗客はあまり多くない。倶知安を過ぎるとすらりとした羊蹄山が見えてくる。山あり、集落あり、畑あり、きれいな川もありで役者が揃っている。小樽に夕方少し前に着くと、運河の辺りを少し歩いてユースホステルに泊まる。ここでも1人旅の仲間を見つけて夕食を楽しんだ。

 4日目は北海道の鉄道発祥の地である手宮に行った。ここには古い車両が展示されていてそれを見た。小樽の町は少し寂しかった。かつては小樽は重要な町で、北海道最初の鉄道は、小樽の港近くの手宮から札幌を経て、三笠市の幌内までだった。最大の目的は石狩炭田の石炭を小樽港まで運ぶことだった。ロシアや朝鮮半島にも近く、かつての小樽は賑やかだったと聞く。しかし、太平洋戦争後、北海道の経済は札幌への一極集中と、ソ連や北朝鮮との関係が途絶えたことで小樽の重要性が低下した。当時学生だった私にも街並みを見ることでそのことは理解できた、l

 小樽駅に戻り、札幌行きの電車に乗る。編成も長く乗客も多い。小樽と札幌の間は山が海ギリギリまで迫っていて、電車は石狩湾を見ながら走る。やがて札幌の町並みが見えてきた。夢にまで見た札幌の町だ。興奮を抑えながら札幌駅のプラットホームに降り立つ。4日目の午後、仙台を出て80時間と少しをかけて到着した。

 その後、2日ほど札幌に滞在し、さっぽろから夜行列車で青森に戻り、可愛らしいディーゼルカーが走る南部縦貫鉄道や十和田観光鉄道などに寄り道をしながら仙台に戻った。あの旅から30年が過ぎたが、今でも懐かしい旅であった。

鉄道開業150年記念企画⑦ 1992年夏、北へ

 1992年8月、アルバイトで貯めたお金と道南ワイド周遊券(かつて販売されていた特定地域が乗り放題になり、そこまでの往復が割引になるきっぷ)を手に仙台駅にいた。これから普通列車を乗り継いで北海道に向かう。これが私の本格的な一人旅デビュー、胸が高鳴っていた。仙台から一ノ関行きの普通列車に乗る。塩釜を過ぎると右側に小さな島々が見える。日本三景の松島である。松島を過ぎると日本有数の米どころである仙台平野が広がっている。広々とした平野を気持ちよさそうに電車は快走する。小牛田は鳴子に向かう陸羽東線、石巻に向かう石巻線が分岐する。しばらく仙台平野を走り、少し山が迫ると一ノ関に着く。

 ここまでは電車であったが、ここからは同じ普通列車でも客車になる。電車は車両の床下にモーターを積み、その動力で走る車両である。一方客車は車両自体はモーターやエンジンなど動力を発生させる装置を持っておらず、機関車に牽引されて走る。150年前の鉄道開業の時には電車は存在せず、すべての旅客列車が客車であった。その後、加減速に優れ、終点で機関車の付け替えの必要がない電車に置き換わっていくが、この当時の東北本線一ノ関以北はまだまだ客車の天下だった。

 盛岡行きの列車は赤い電気機関車を先頭にレッドトレインと呼ばれていた赤い客車を連ねた列車に乗り込む。ピーと機関車のホイッスルが聞こえ、ガクンと軽い衝撃があって一ノ関駅を発車する。ワンテンポ遅れて加速が始まる。客車の乗り心地だ。走り出せば結構な速度で走る。冷房のない車両だから窓を開け風の心地よい癇癪を楽しむ。岩手県の風景はよく、北上川も見える。減速は流石に電車に比べると鈍い。停車すると乗客の声以外何の音もしない。これが客車の乗り心地である。

 水沢の少し先に六原という駅がある。この駅に着くと少し離れた席から「六波羅探題」という声が聞こえて来る。駅の名前を使った駄洒落は、鉄道好きあるあるに入れていいと思う。北上、花巻を過ぎて盛岡が近づいてくる。左側に形の良い岩手山が近づいてくる。仙台以来久しぶりの大きな町になるのが盛岡である。しかし、私は青森行きの普通列車に乗り換え先を急ぐ。

 盛岡から先も客車の普通列車である。同じボックスに乗り合わせたのは、60代くらいの退職した校長先生か博物館長という感じのおじさんで、私が大きな荷物を持っているのに気づき、旅行者だと気づいたらしい。おじさんもかつて周遊券で旅をしたそうで、車窓から見える景色をいろいろ教えてくれた。初めて知ることも多くとても勉強になった。

 おじさんが降りていくと、徐々に山が迫り、勾配がきつくなっていく。昼も過ぎ疲れてきたので少しだけ眠る。目が覚めると金田一駅、長かった岩手県もここで終わり、次の目時からは青森県に入る。今度は徐々に降り始め、八戸に着く。このまま普通列車に乗り通しても函館に着くが、明るいうちの函館に着きたいと思っていたので、ここから青森までは特急「はつかり」に乗る。

 東北の名門特急であった「はつかりも、この時点では盛岡と青森、函館を結ぶ新幹線に接続することが使命の列車になっていた。それでもさすがに特急だけあってスピードは速い。三沢で十和田観光電鉄の電車が見えたと思うと野辺地、丸っこくてかわいいレールバスと呼ばれる小型の車両が見えた。野辺地を過ぎると陸奥湾が見える。同じ東北でもいわきや仙台と比べると海の色が重い。寒い海なのだと実感する。夏泊半島の付け根を突っ切ると浅虫、海沿いに温泉旅館が見える。青森の市街地を時計回りに半周すると青森駅、かつては青函連絡船が出ていたから、海に突っ込むような形で駅が設置されている。私は青森駅のホームに降り立つと深呼吸をした。潮の香りがした。

鉄道開業150周年企画⑥ 1992年の仙山線

 1992年4月、私は仙台市にある大学に入学した。アパートは仙山線の線路沿いにある2階建てのものだった。さほど特徴があるアパートではなかったが、私には非常に気に入っていた点があった。それは、アパートの裏の崖の下に仙山線の線路があったことである。列車の走行音は、鉄道が好きではない人にとっては騒音なのかもしれないが、好きな者にとっては至高の音であった。

 仙山線は仙台駅と山形駅を結ぶ鉄道路線である。仙台市と山形市は県庁所在地同士ではあるが、双方の市街地同士は50kmほどしか離れておらず、買い物や通勤、通学など日常的なつながりは深い。それに加えて、仙台市の人口増加で、仙山線沿線の人口も増加し、1984年から1991年にかけて、仙台市内の仙山線に、東照宮、北山、国見、葛岡の4駅が新設された。

 私がここに住み始めた時期は、2つの理由で仙山線が最も忙しい時期になった。1つ目の理由は、先述した仙台市の人口増加による需要の増加で、新駅の開設や列車の増加が行われていた。とくに仙台市街地の北西部にあたる国見駅、陸前落合駅、愛子(あやし)駅周辺の市街化は急速で、それまでのんびりとしたローカル線だった仙山線は、仙台〜愛子間を中心に列車の増発が行われ、急速に都市型の路線の変貌した。もうひとつは、山形新幹線の開業である。従来、秋田や横手、新庄、山形、米沢の人が東京に行くには、特急「つばさ」か奥羽本線普通列車に乗り、福島で東北新幹線に乗ることが一般的であったが、山形新幹線の工事が本格化した1991年8月からは、奥羽本線福島〜山形間を運休してバス代行した。このため、特急「つばさ」は、山形から仙山線に入り、仙台駅で東北新幹線に接続するようになった。これに加えて、仙台駅と山形駅を結ぶ快速列車も多数運転され、仙山線の線路はお祭り騒ぎのような状態になった。

 1992年7月、山形新幹線が開業し、特急「つばさ」は、山形新幹線の列車名になり、仙山線からは消えていったが。それでも仙山線は寂しくなるどころか、活気があった。仙台都市圏の普通列車はますます活況を帯びていたし、夜には夜行の急行「津軽」が仙山線の線路を走った。急行「津軽」は、上野から、宇都宮、福島、仙台を経て、仙台から仙山線に入り、山形、新庄、横手、秋田、大館、弘前を経て青森を結ぶ長距離列車で、非常に歴史の長い列車である。青森行きの下り列車は午前4時過ぎにアパート裏の仙山線を通っていたから見る機会はなかったが、上野行きの上り列車は夜ふかしした日は姿を見たことがあるし、目が覚めた時に走行音を聞くこともあった。そういう時には無性に旅に出たくなった。だって、すぐ裏は線路で、線路の先にはまだ見ぬ町が待っている。

 朝も列車の走行音で目を覚ました。5時40分過ぎの仙台行きの始発列車では目を覚まさないが、3本目の6時20分過ぎの山形行きで目を覚ます。そんな生活が4年間続いた。鉄道は時間に正確だからできることだろうと思う。

 4年間の学生生活を終え、仙台市を離れる時にも同じように列車は走っていた。卒業後何回か当時住んでいたアパートに行ってみた。アパートはすっかりきれいになっていたが、仙山線の列車は同じように走っていた。

鉄道開業150周年企画⑤ 乗り鉄1年生の旅 大垣夜行編

 名古屋駅ビルの店で味噌カツを味わい、普通列車で大垣駅に向かう。大垣夜行は名古屋駅からも乗れるが、夏休みで乗客が多い時期なので名古屋駅からは乗れないかもしれない。始発の大垣駅から乗る予定でいた。普通列車で大垣駅に向かう。母は名古屋地区の普通列車が、2人掛けで進行方向に向きを変えられる座席であることに驚いていた。

 大垣では少し時間があったので、木の近くにある大垣城に行った。天守閣などは閉まっている時間だが、櫓や石垣などを見て大垣駅に引き返した。大垣駅には今夜の大垣夜行に乗る乗客が徐々に集まり始めた。私たちは交代で休憩をとりながら並んだ。私がプラットホームに並んでいる時に、熊本行きの寝台特急「みずほ」が猛スピードで通過していった。いつかあれに乗りたいと思った。

 22時少し前、緑色とオレンジ色に塗られた大垣夜行の電車が入ってきた。プラットホームに緊張が走る。それはそうだ、東京駅までは6時間40分以上かかる。座れるか座れないかは大きな問題である。座席に座って車内がす押し落ち着くと、大垣夜行は静かに大垣駅のホームを離れた。座席はほぼ埋まっている。乗客は旅行客だけでなく、帰宅を急ぐサラリーマンも多い。日常生活と非日常が同居する、それが大垣夜行の姿である。大垣夜行は大垣を発車すると各駅に停車する。夜行列車ではあるけれど、あくまでも普通列車の一員、かつては全国にこういう列車が走っていた。

 名古屋からは多くの乗客が乗ってきて、通路までいっぱいになった。お酒を飲んで帰る人も多いのか赤ら顔の乗客も多い。安城、岡崎と少し乗客が減り車内も静かになってきた。高田駅に停車した時に、「こんばんは、幸田シャーミンです」という声が聞こえてきた。その後蒲郡駅に停車した記憶がないから、幸田と蒲郡の間で眠ったのであろう。間もなく日付が変わろうとしていた。

 目が覚めると大垣夜行は長い鉄橋を渡っていた。遠くには道路が見え、たくさんのトラックが走っている。貨物列車とも何本もすれ違う。夜トラックや貨物列車を運転する人によって私たちの生活は支えられている。当然そんなことは知っていたが、こうやってみると実感できる。単なる知識は無味乾燥なものだが、実感を伴うと生き生きとしたものに変わる。しれにしても、行き交うトラックや貨物列車にともる灯りは美しい。後年、中島みゆきさんの「ヘッドライト・テールライト」を聴いた時に思い浮かべたのが、大垣夜行から見た光景である。

 次に目が覚めたのが富士川の鉄橋を渡る時であった。そこからはもう眠れなくなり、三島と熱海の間にある丹那トンネルも、小田原駅で見える小田急の電車も全て見た。横浜駅の手前で薄明るくなった。川崎を過ぎ、多摩川の鉄橋を渡る時に、東側に太陽が見えた、真赤な真夏の太陽だった。今日も暑くなりそうだ。蒲田、大森、大井町と駅ごとに電車を待つ人の姿も見える。世界有数の大都市、東京の朝の始まりを実感する。1988年、日本が最も元気な時期の最も暑い季節のことだった。品川でだいぶ降り、私たちも荷物をまとめ始めた。

 4時46分、東京駅着、まだ眠いが降りなければならない。山手線や京浜東北線の電車はもう半分近く座席が埋まっている。私たちは東京駅でしばらく休憩し、洗面や着替えを済ませると総武快速線の電車に乗り込み、茂原、安房鴨川、館山と時計回りに房総半島を回り、浜金谷からフェリーで三浦半島の久里浜に渡った。その後、横須賀線に乗って品川駅で降り、山手線、常磐線と乗り継いで夕方いわきに戻った。こうして私の乗り鉄1年生が始まった。今でも時折思い出す楽しい旅になった。

鉄道開業150周年企画④ 乗り鉄1年生の旅 中央本線編

 私には弟が2人いる。もう既にみんな同じ市内にそれぞれの家庭を構えている。最近はそれぞれの家族優先の生活をしているが、かつて、一緒に旅をしていた時期がある。それは、私が高校生であった3年間であった。今でも学生の長期休みの時期には「青春18きっぷ」というJRの普通列車が乗り放題になる切符が発売されている。その切符を使って何度か鉄道に乗りまくる旅をした。私たち3兄弟のうち、私と下の弟は鉄道が好きである。上の弟はそこまで鉄道が好きというわけではないが、旅が好きである。

 私が高校生になり、いよいよ鉄道旅行をしようという話が持ち上がった。はじめは兄弟3人で行こうと考えていた。行き先を考えているうちに、どうせなら「大垣夜行」に乗ろうという話になった。「大垣夜行」とは、東海道本線の東京〜静岡〜名古屋〜大垣(岐阜県)を結ぶ夜行の普通列車である。さらに、下の弟が学校で「大垣夜行に乗る」と友達に話したのだろう。友達も一緒に参加することになった。時刻表をいじり回し、東京から中央線経由で名古屋まで行っても大垣発の下りの「大垣夜行」に余裕で間に合うことがわかり、コースの大枠が固まった。あとは両親を説得するだけという順番になったが、さすがに子どもだけではいかせてもらえず、母も一緒に行くことになった。

 1988年夏、ついにその日がやってきた。母37歳、上の弟14歳、下の弟とその友達12歳、そして私が16歳、人生最初の本格的な乗り鉄の旅である。湯本駅から常磐線の普通列車に乗り、上野から山手線、東京駅からオレンジ色の中央線快速電車に乗る。電車がゴトリと動き出した時の興奮は今でも忘れられない思い出だ。新宿、三鷹、立川と夢のように過ぎ、終点の高尾で青と白に塗り分けられた小淵沢行きの普通列車に乗り換える。電車の色が変わっただけでなく、車窓もこれまでの都会の街並みから一気に山岳地帯になる。大月までの区間は深い谷の中を走る。東京から1時間少々でこんな山の中になってしまうことに一同驚いた。

 やがて左側に富士山が見えてきた。すらりとした山の形はやはり美しい。富士山が見えるとやはり車内がどよめく。笹子トンネルを抜けると甲府盆地を目指して坂を下り始める。勝沼あたりは一面の果樹園が広がっている。人はこんなに果物を食べるのだと改めて驚く。甲府は駅も町も立派だが真夏の太陽が照りつけ暑かった。中央線は山岳路線というイメージを持っていたから涼しいのだと思っていたが、予想を越える暑さにエアコンの効いた車内に避難する。

 甲府を過ぎると終点の小淵沢に向けて山を登る。左側には南アルプスの山々が見える。当時はGoogle mapなどなかったから、山の名前はわからなかったが、後で調べてみると、日本で2番目に高い北岳や甲斐駒ヶ岳でせうことがわかった。終点の小淵沢はそんなに大きな町ではないが、高原らしい清潔感のある町で好感が持てた。しかし次の電車はすぐで、急き立てられるように松本行きの電車に乗り継いだ。諏訪湖が見え、岡谷を過ぎると塩嶺トンネル、その後は塩尻である。名古屋に行くのならここで乗り換えだが、次の電車までは時間があるし、その電車のこの先の松本が始発なのでそのまま松本まで行くことにする。松本駅のそば屋で遅い昼食にするが、何の変哲もないそばがとにかく美味かった。初めての旅の興奮、美しい信州の風景、大好きな鉄道に乗っていること、いろいろな要素が加わっているのだろうがとにかく美味い蕎麦だった。

 松本から中津川行きの電車に乗る。塩尻を過ぎると木曽路に入る。奈良井、薮原、木曽福島、深い谷の底にある宿場町にある駅に丹念に停車しながら走っていく。さすがに疲れたのか母は気持ちよさそうに寝息を立てている。上松駅の少し先に寝覚の床という花崗岩の岩と木曽川の流れが美しい景勝地が見えるが母を起こすのはやめにした。それにしてもカーブが多い路線で、列車はその度に速度を落とす。もっともその方が景色が良く見えるから私にとってはその方が良かった。 

 岐阜県に入り、中津川で名古屋行きの電車に乗り換える。中津川からは平野も見られるようになり、街の規模もやや大きくなる。みんな疲れているのか、弟2人も、弟の友人も眠ってしまった。私も疲れてはいるが、眠くなるほどではなく、1人車窓を眺めている。あれだけエネルギッシュだった真夏の太陽も既に落ち掛け、西側の空をオレンジ色に染めている。駅ごとに自宅に帰る人たちが急ぎ足で降りていく。線路沿いの家には明かりが灯り始める。遠くへきたなと改めて実感する。そして少しだけ切ない感情も湧いてくる。

 焼き物で有名な多治見を過ぎると山の中の景色になる。古虎渓、定光寺とほとんど人家が見えないような駅にも降りていく人がいる。次の高蔵寺からは景色が一変して名古屋近郊の住宅地になる。夕焼けの中を疾走する電車は名古屋市に入ってすぐの新守山で特急に道を譲るために数分停車した。その間に夏の日は落ち真っ暗になった。次の大曽根からは街明かりが煌めくようになる。名古屋の市街地をほぼ半周して名古屋駅に到着した。

鉄道開業150周年企画③ 我が思い出の急行「ときわ」我孫子〜上野

 我孫子を発車すると次の停車駅は終点の上野、あと一息であるが、ここまで来ると急行「ときわ」は、これまでの快走を忘れてしまったかのようなノロノロ運転になる。その理由は、まだ朝の8時30分過ぎ、ラッシュの時間帯で、急行「ときわ」の行方を上野に向かう通勤電車が阻んであるからである。しかし、何も焦ることはない。この区間はわたしたちが走ってきた線路だけではなく、地下鉄千代田線に直通する各駅停車の電車が走る線路も走っている。こちらは我孫子から先、北柏、柏、南柏、北小金、新松戸ときめ細かく停車していく。しかし、急行「ときわ」がノロノロと走って行くから、駅と駅の間では各駅停車が追い上げて、各駅停車が駅に停まっている間に急行「ときわ」が先行するデッドヒートがしばらく続く。

 東武の打線の電車が見えると柏、ここからはほぼ市街地が途切れることがなくなる。ここから快速で上野までは30分近く、各駅停車霞ヶ関までは1時間 近くはかかるか、それでもホームにはびっしりと人が立っている。通勤ラッシュは今と比較にならないくらい混んでいた。こんなにしてまで通勤しなければならないとかと驚いた。

 北小金駅を過ぎたところで、右側に分かれて行く線路がある。武蔵野線南流山駅に続く線路で、貨物列車が走ろための線路である。鉄道には旅客を運ぶだけでなく、貨物を運ぶという重要な役割があることを、ここで改めて気づいた。車窓は私にとって教科書そのものだった。

 新松戸を過ぎると可愛らしい総武流山電鉄の電車が、松戸の手前では津田沼からの新京成電鉄に電車に出会う。さまざまな電車が行き交う首都圏に住みたいと心の底から思った。ついさっき柏駅の混雑を見たばかりなのに浅はかなことだと思うが、地方の鉄道少年に共通する夢なのかもしれない。

 松戸を過ぎると江戸川の鉄橋を渡り、東京都に入る。東京都に入るとずっとビルが立ち並んでいる光景を予想していた私には意外だが、金町や亀有の駅の周辺を除けばそんなに高い建物はない。それでも田んぼも空き地もない光景を見るとやはり東京は違うなと思う。東武伊勢崎線の並走するようになると、いよいよ急行「ときわ」の旅もクライマックスになる。当時の東武伊勢崎線はセージクリーム一色に塗られた電車が走っていた。今考えるとそれはそれでおしゃれな塗装だと思ったが、当時の私には物足りなく見えた。小菅の拘置所が左に見えると、常磐線は、地下鉄千代田線、東武伊勢崎線と並んで荒川の鉄橋を渡る。地方にはないダイナミックな姿だ。大きな北千住駅を通過する。今度は地下鉄日比谷線の電車が並行し京成本線が上を跨ぐ。南千住の駅の先で地下鉄日比谷線は地下に潜る、慌ただしいけれど楽しい時間が続く。

 日暮里駅の手前で、山手線、京浜東北線、東北本線、京成本線の線路が現れる。おそらくこの辺りが日本で最も線路が密集している地域だろう。黄緑の山手線、スカイブルーの京浜東北線。オレンジと緑色の東北本線、ファイヤーレッドの京成本線、素晴らしい光景が広がっていた。しかし間も無く上野駅に着く車内の乗客は荷物をまとめて降りる支度をしている。私も親に急かされながら降りる支度をする。上野駅まではあとわずかだ。

鉄道開業150周年企画② 我が思い出の急行「ときわ」水戸〜我孫子

 水戸駅は賑やかな駅だ。湯本からさほど大きな駅はなかったから、水戸駅の大きさと人の多さには驚いた。急行「ときわ」はここでほとんど席が埋まる。水戸駅を発車すると電気機関車や水郡線を走るディーゼル機関車が止まっている車両基地が見える。車両基地を過ぎるとまもなく右には日本三名園の偕楽園、左には水をたたえた千波湖、車窓から目を離すいとまもないほど楽しい車窓が続く。赤塚を過ぎると農村風景になる。あれだけ都会だった水戸駅周辺からの変化の大きさに驚く。

 友部で笠間や小山に至る水戸線が分かれると林や畑の混じった緩い丘陵地帯になる。関東平野と言っても必ずしも平坦であるばかりではなく、緩い丘陵地帯も結構あることを私は小学校低学年で知った。急行「ときわ」の車窓は教科書よりももっと早い時期に私に日本地理への関心を高めてくれた。石岡が近づくと筑波山が見えてくる。さほど高い山ではないが、周囲が平野か丘陵地帯なのでとても良く目立つ山である。何かと得をする場所に立っている山である。

 土浦が近づくと蓮根畑が増えてくる。今でこそ土浦周辺の宅地化が進んでいるが、私の子供時代はちょうど宅地化が進み始めた頃で、蓮根畑の多い場所という認識だった。それが1985年前後のつくば万博の頃から宅地化が急激に進んだ。土浦駅を発車する頃には急行「ときわ」は通路までいっぱいになった。流石に鉄道好きな私でも混雑はあまり好きではない。しかし、終点の上野まではあと1時間、車窓を眺めながら乗っていればさほどそんなに問題ではなかった。

 牛久、佐貫(現在の竜ヶ崎市)と駅周辺に住宅が建ち並んだ駅を通過する。水戸以北なら急行の停車駅になりそうだが、ここまで来れば普通列車でもさほどかからない、急行「ときわ」は軽やかに通過していく。湯本から上野までの行程で最もスピードが出るのはこの辺りだろう。平坦で比較的直線が長い。牛久駅と佐貫駅の間で国道66号と並走するが、もはや国道は渋滞が多く全く勝負にならない。こちらは全速力で駆け抜ける歓びを味わっていた。

 藤代を過ぎて田んぼの中にカップヌードルの工場が見えると急行「ときわ」はスピードを落とす。車内の照明を短時間消える。これは取手以北の交流電源と取手以南の直流電源を切り替えるためで、今なお続く常磐線に乗ると必ず避けて通れない関門のようなものだ。ただし最近は速度は落ちるものの車内の照明は消えなくなった。関東鉄道常総線とエメラルドグリーンの常磐線快速電車の快速電車が見えると取手駅である。子供の頃の私にとって、首都圏はどこからかと聞かれれば、取手駅からと答えた。エメラルドグリーンの快速電車は首都圏である象徴の一つだった。

 利根川を長い鉄橋で渡ると、天王台駅、そこからすぐに我孫子駅に着く。我孫子は上野の前最後の停車駅になる。現在は柏駅の重要性が増しているが、当時は我孫子駅の方が重要性が高かったようだ。そういえば時代が違うが山下清は働いていた駅弁屋はこの駅で営業していた弥生軒である。現在、弥生軒は駅弁の販売はしていないが、蕎麦屋の営業をしていて、唐揚げ蕎麦が名物になっている。

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