カテゴリー「鉄道」の77件の記事

台湾紀行~東部編 2

【12月27日 雪山トンネルを越えて】

 昨日はだいぶ夜更かししたのに、今朝は6時前にきっかり目が覚めた。われながらたいしたものだと思う。今日ははじめての台湾旅行のとき出会ったおじいさんと再会する日である。2006年1月、日本に帰国するために桃園駅前で出会ったおじいさんと数分間話した。それがきっかけになって文通をするようになり、同年12月に台湾を裁縫したときにもお会いすることができた。ご自宅に招いていただき暖かい歓待を受けただけでなく、翌日にはかつて部下だった方にクルマを出してもらって、台北近郊の九份(「千と千尋の神隠し」の妖怪の村のモデルとも言われる)と歴史ある港町の基隆市を案内していただいた。その後も手紙でのやり取りは続き、今回は3回目の台湾旅行になるが、およそ2年ぶりの再会を希望した。

 9時過ぎ、ホテルのロビーに懐かしい顔が現れた。おじいさん(以下仁愛先生とします)は90歳近い年齢であるが、相変わらずお元気そう。その部下の方(以下基隆氏とします)もふくよかな身体に笑顔をたたえてお元気そうであった。このお二人だけでなく、今日は仁愛先生の孫娘の方と基隆氏の奥様も同行してくださるとのこと、まったくこのような歓迎振りには頭の下がる思いである。
 基隆氏の運転するフォードに5人が乗り込んだ。私が簡単な自己紹介をすると仁愛先生と基隆氏が中国語に翻訳して女性のお二人に翻訳してくれる。私は中国語はまったくだめである。旅行会話の本を持ち歩いているが、中国語は声調と呼ばれる音節内での高低の変化がが難しい、私は無アクセント地帯と呼ばれ「端」と「橋」の発音の区別ができないうえにひどい音痴である。旅行会話の本のとおり発音してもまず通じたためしがない。英語もあまり込み入った会話は無理である。それでも一生懸命翻訳してる、一生懸命聞いてくれることはとても嬉しい。
 さらに嬉しいことに、今日は宜蘭県に行きましょうということになった。宜蘭県は台北県の東にある県であるが、日本のガイドブックにもここのことはあまり大きく触れられていない。そもそも、ガイドブックの中には台北市内とその周辺、後はせいぜい高雄周辺と花蓮周辺を取り上げておしまいというものさえあるから情報が少ない。しかし見どころがたくさんあるらしいということは知っている。ぜひ地元の人に案内してもらいたいと思っていたところだ。もうひとつの楽しみは、最近台北と宜蘭県を結ぶ高速だうろが開通したが、その高速道路に雪山トンネルというトンネルがある。そのトンネルが全長12.9km.もあり、世界で5位の長さである。日本で最長の関越トンネル(関越自動車道がおよそ11km.だから、それよりもだいぶ長い。

 基隆氏のフォードは新生南路に入り高層ビルの間を抜け順調に台北市内を南下する。新生南路から辛亥路に入ると間もなく左側に緑に囲まれた大学のキャンパスが見えてくる。仁愛先生が「あれがかつての台北帝国大学ですよ」と教えてくれる。帝国大学は、東京、京都、仙台、福岡、札幌、大阪、名古屋に置かれ、現在の東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学の前身となった。大日本帝国の最高学府とされ、日本の学界、政界をリードした。これらの他に、当時外地と呼ばれた朝鮮に京城帝国大学、台湾に台北帝国大学が置かれた。朝鮮や台湾、関東州、南洋諸島などは1945年、太平洋戦争での敗戦を受けて日本の統治から離れたが、現在の韓国のソウル大学は京城帝国大学の建物などの施設の一部を引き継いでいる。また台北帝国大学は台湾大学の前身になっている。

 間もなく国道3号線にはいる。国道といっても日本でいう高速道路に当たるもので、国道1号線と3号線は台湾の西岸を南北に走るものである。これをしばらく北に進み、ジャンクションをとおり国道5号線にはいる。しばらく山の中を走るといよいよ雪山トンネルに入る。トンネルはさすがに長い。全長13キロメートルとして、基隆氏のフォードはおよそ90km/hで進んでいるから、抜けるのに10分くらいかかった。トンネルの10分はひたすら長い。走っても走っても先が見えない感じである。ようやく抜けると目の前にはそれまでの山がちの地形から一変して平野になる。宜蘭県である。少し遠くには太平洋と亀山島という島も見える。トンネルを過ぎて風景ががらっと変わる。そのときの「おおっ」という驚き、これがトンネルの醍醐味だと思う。

| | コメント (1)

台湾紀行~東部編 1

【12月26日 台北まで】

 12月26日15時、成田空港。年末年始の旅行シーズンに入ったはずなのだが閑散としていた。秋からのアメリカからおこった不況の影響だろうか。それでも、空港の建物に入るとこれから海外に向けて出発するのだという気持ちが高まってくる。屋上の展望デッキに上がると、いろんな国の飛行機が離発着している。中国国際航空、イラン航空、ユナイテッド航空(アメリカ)、その他たくさんの国の航空機が終結しているところを見るのは楽しい。私が乗るのは18時20分の台湾・台北行きANA1083便だからまだまだ時間はある。さすがに成田の師走の風は冷たく、長くは外にはいられなかった。
 空港ターミナルビルのレストランでコーヒーを飲み、それでも時間があったので友人にメールを出す。17時少し前に出国手続きに行く。出国手続きを済ませ、搭乗口の南ウイングの一番奥のサテライトに向かう。普段なら、南ウイングにもかかわらず中森明菜の「北ウイング」でも歌いながらうきうきと向かうところだが、今回は少々気が重い。1月ほど前から右足がアキレス腱付着部炎にかかっていて、長く歩くのがきつい。幸い今日はすこぶる調子がいいが、旅行になると普段より多く歩くことになるから心配である。
 サテライトのベンチに座って待っているうちに友人からメールが返ってきた。なんと赤ちゃんの写真が添付されてある。つい数日前に生まれたそうだ。もちろん祝福のメールを送っておく。

 ANA1083便は定刻18時20分から少し送れて成田空港のスポットを離れた。そこから延々と空港を走った。成田は大きな空港だし、相当混雑している空港だということはしっているが、まだるっこしい。ようやく19時ごろ離陸した。離陸すると西に向きを変える。房総半島から三浦半島の上空を飛ぶ。眼下にはキラキラと町明かりが輝いている。やっぱり夜間飛行はいい。しばらく空からの夜景見物を愉しんでいたが、静岡市上空を過ぎると雲がかかってしまった。そのうちに機内食が配られた。サフランライスとシチューの機内食を食べると手持ち無沙汰になる。今日は偏西風が強く、座席のモニターに表示される速度は500km/h台。ジェット機とは思えない鈍足である。幸い映画のメニューに「鉄道員」があったので、それを見ることにする。暖かい国に行くのに、北国が舞台の映画を見るのも変な話だが。それでもやっぱり健さんはいい、男の中の男だ、渋すぎるぜ健さん。大竹しのぶもいい。見ているうちに涙が出てきた。飛行機の中だぞ、隣に人が座っているんだぞ、自分にそう言い聞かせても涙腺は言うことを聞いてくれない。

 鹿児島の町明かりが見え、飛行機は南向きに進路を変える。偏西風の影響が少なくなったのかようやくジェット機らしい速度になった。やがてぽつりぽつりと町明かりが見えてきた。台湾北部の福隆あたりだろうか。やがて飛行機は光の海の上を飛ぶ。人口270万人(大阪市とほぼ同じ)の台北市と、都市圏人口650万人(名古屋都市圏よりやや少ない)の台北都市圏の町明かりである。きれいだなとしばらく見とれていた。これを見るために進行方向左側の窓際の座席をリクエストしたのだ。

 22時(日本時間23時)近く、飛行機は桃園国際空港に着陸した。肌寒かった成田と違って暖かい。空気がかすかに八角(スターーアニス)の香りがする。「あ、また台湾に来たな」と実感する。しかし喜んでばかりはいられない。私が泊まるホテルの最寄のバス停を通るバスは22時30分が最終である。できればこれに乗りたい。しかし、他の到着便が重なっているのか、入国審査には長い行列ができていた。結局入国審査を通ったのは22時30分過ぎ、最終バスは既に出ていた。台北行きのバスは他にもあるが、私の泊まるホテルからは少々遠いところを通る。やむをえず、タクシーを拾い高鉄(新幹線)桃園駅に向かう。タクシーは10分ほどで駅に着き、23時5分の最終の高鉄に間に合った。東海道新幹線700系そっくりの車両に乗り込む。この高鉄に乗ることもこの旅の目的だったが、できれば昼間に台北から乗りたかった。
 23時25分台北着。捷運(地下鉄)に乗り換え、ホテルの部屋に収まったのは0時を回っていた。日本時間で言えば1時を回っていた。着替えを済ませ、缶ビールを飲むとたちまち疲れと眠気が襲ってきた。

| | コメント (1)

北海道の歴史を歩く 13

【8月11日 特急「オホーツク」奮闘す】

 8月11日、旅の最終日になった。今日もとてもいい天気である。朝食を済ませたら網走川に沿って河口付近まで歩いてみた。暑い、しかしどこか風が爽やかだ。この6日間、雨どころか雲さえほとんど出なかった。私は雨男ではないが、旅行中は曇りのことが多い。
 
 網走駅には9時過ぎに着いた。縦書きの網走駅の看板を見る。駅の看板は横書きが多いが、網走駅は網走刑務所を出所した人が人生の再起をかけて故郷へ旅立つ駅である。これからの人生を横道にそれずにまっすぐに生きて欲しいと願って縦書きの看板が作られたという。
 網走発9時30分の特急「オホーツク4号」は、四角い顔のディーゼルカーの5両編成であった。白いボディにラベンダーとライトグリーンの帯を巻いて精一杯のおしゃれをしているが、古さは隠せない。この列車に使われている車両は、北海道の特急ではもっとも古いタイプのものである。しかし、シートはすわり心地の良いものに換えられていて、札幌まで5時間強の旅を快適に過ごせそうである。

 エンジンの唸りが上がり網走駅を発車する。網走発車時点で乗車率は25%ほどであろうか。特急ではあるが、あまり旭川と網走を結ぶ石北本線はカーブが多く、途中に峠越えもあり、非力な古いディーゼルカーには難所つづきである。網走から旭川までの238km.に3時間41分もかかっている。(この間の平均65km/h)
 網走湖岸を進んだ特急は、女満別(めまんべつ)に着く。ここからは森と畑の中を進む。網走を出ておよそ45分、規模の大きな市街地が見えてくると北見である。ここで乗客が増え、半分くらいの席が埋まった。北見発車10時19分、留辺蕊(るべしべ)という難しい読みの駅を発車すると、再び山の中へ分け入ってくる。この先に常紋トンネルというトンネルがあるのだが、このトンネルはいわくつきのトンネルである。トンネルの周囲は無人地帯、道路が整備されてなく資材の運搬が困難な中、本州などから集められた労働者が厳しい条件で働かされて、亡くなった者はそのまま埋まられたばかりか、人柱にもされたらしい。このトンネルはそれらの死者の亡霊が出るという噂がある。そんな残酷な歴史を秘めたトンネルなので、ぜひ見ておこうと思った。ところが、ふと目を覚ますと生田原に停車したところであった。すでに常紋トンネルを過ぎていた。
 遠軽で列車は向きを変え、網走支庁と上川支庁を分ける峠へのアタックを始めた。エンジンがうなりを上げるが、きつい上り坂では60km/hくらいまで落ちる。少し離れたところには、高速道路並みの高規格の上川白滝道路が整備されていて、あちらの車の流れの方が速い。今のところ、この道路の整備は峠越えの部分だけであるが、道央自動車道から北見市、網走市方面までつながったら、そのときには「オホーツク」の大きな脅威になると思う。おそらくこれからは高速道路の建設は進まないとは思うし、そんな時代ではないと思うが。

 峠を越えた列車は速度を上げ、層雲峡の入り口になる上川を発車すると平地が広がる。徐々に人家が増え、やがて高架橋に上がると旭川も近い。さすが道内第2の人口を誇る旭川市の市街地は立派である。高架橋を工事中の旭川駅には13時11分に着く。ここから「オホーツク4号」に乗る乗客は少ない。旭川から札幌までは、30分ごとに特急「スーパーカムイ」が走っていて、こちらの方が速いし車両がきれいだからである。この列車が13時13分に旭川を発車して14時45分に札幌に着くが、旭川13時30分発の特急「スーパーカムイ30号」は札幌着14時50分である。17分のアドバンテージをわずか5分までに縮められてしまう。平均速度はオホーツクの89km/hに対して、スーパーカムイは103km/hである。
 旭川を発車した特急「オホーツク4号」は、ようやく特急らしい速度で走り始めた。老体に鞭を打つようにエンジンはうなりを上げるが、乗り心地は意外にもいい。不快な振動や揺れがあまりない。深川を過ぎると地図の上に定規で線を引いたようにほぼまっすぐな線路が続く。水田も多くなり、畑が多かった道東とは異なった景色になる。この周辺、列車は美唄(びばい)を通過する。ここも夕張と同じく、旧産炭地であった。ここだけではない、上砂川、三笠、歌志内、芦別、どこも旧産炭地から再建を図っているところである。

 今の北海道は、過疎化、漁業の不振、財政問題など、たくさんの問題を抱えている。札幌だけ栄えて他の地方は人口流出に苦しんでいる。しかし、北海道を開拓するために血と汗を流しながら奮闘した人やその子孫の方々やたくさんいる。アイヌ民族の人々、ウィルタ民族の人々も伝統文化を守っている。そして雄大な自然がある。今は苦しくともいずれ光が見えると思うし、それを担える人材があると思う。私もそれを心から願っている。
 特急「オホーツク4号」は岩見沢を発車し、札幌へ向けてラストスパートを始めた。網走を発車してまもなく5時間になろうとしている。札幌はもうすぐである。そして、非常に断片的ではあったが、北海道の歴史をたどる旅も間もなく終わる。(終)

| | コメント (0)

北海道の歴史を歩く 11

【8月10日 網走という町】

 今朝は早々と朝食を済ませると7時半過ぎにはレンタカーに乗り込んだ。今日は午前中に網走を見て回り、その後サロマ湖に沿って上湧別までドライブし、夕方オホーツク海に突き出した能取岬に立ち寄り網走の戻ることにしている。

 網走は人口4万人弱、しかし、この地方の中心的な都市だけあって、行政機関や商業施設は人口の割りに充実している。オホーツク海に面し、豊富な水産資源を生かした漁業の町である。かつてはアイヌ民族、それ以前にはオホーツク文化の担い手となった民族(おそらくは現在樺太やシベリアに住むニヴフ民族)が住んだ。江戸時代後期から大和民族の進出があり、1873年に開拓使の出張所が置かれた。後には網走監獄がおかれ、凶悪犯や政治犯が収容された。「網走番外地」などの映画やテレビの刑務所のドキュメンタリー番組で網走=刑務所の町というイメージを持った方も多いと思う。私が子どもの頃は年に数回そんな番組があった。他に意外なことであるが、網走市周辺は日本で最も降水量の少ない地域である。網走の1年の平均降水量が800mm.ほどである。東京で1500mm.弱、三重県の尾鷲で4000mm.弱であることを比べるとだいぶ少ない。

 網走駅前を過ぎ、国道39号線を旭川市方面に進む。しばらくすると網走川の向こうに網走刑務所の建物が見えてくる。南に川、他の三方を山に囲まれいかにも脱獄が困難そうな立地条件である。なお、現在の網走刑務所は犯罪傾向が進んだ刑期の短い者が収容されているそうで、過去のイメージにあった網走刑務所=凶悪犯というわ明けではないようだ。
 8時の開館を待って北方民族博物館に行く。ここは、アイヌ民族をはじめ、網走周辺や樺太に住むウィルタ民族、先述のニヴフ民族、フィンランドのサーミ(ラップ)、カナダやグリーンランドのイヌイット(エスキモー)などのオホーツク海や北極海沿岸に住む民族の文化や歴史の研究や紹介を目的としたところである。食生活や衣服、住居など、それぞれの民族が厳しい自然条件に適応するために工夫して生活していることがよくわかった。私はイヌイットの住居というとイグルー(雪をブロック状に固めてドーム型にしたもの9を連想するが、そればかりではないことがわかった。
 北方民族博物館を出て、網走監獄博物館に行く。かつての網走刑務所の建物を移築したものである。明治時代の網走は現在のようにどんなものでもそろうという状況であった、味噌でも沢庵でもなんでも刑務所内で自給していたそうだ。そればかりか、道路や鉄道の建設で酷使された。北海道の近代化にはこのような残酷な歴史も秘められていることは忘れてはならないだろう。圧巻は獄舎である。ずらりと扉が並んだ獄舎は廊下を歩いているだけで恐ろしいほどの威圧感を感じる。扉が開いている独居房に入ってみた。できれば懲役囚として入ることはしたくないが、人間は弱いものだし、私は筋金入りの意志の弱さだからひょっとしたらありえるかもしれないな、そんなことを考えた。

| | コメント (1)

北海道の歴史を歩く 10

【8月9日 知床の大自然に抱かれて】

 私が運転する日産ブルーバードシルフィーは知床半島の海岸沿いの道を順調に進む。左側にはオホーツク海、右側には知床半島の山々が迫り、険しいがとても眺めの良い道である。前の両側の窓を開け、世界遺産の風を浴びながら気持ちよく運転をする。かなり遠回りをしたから、網走を出て4時間以上が経過しているが疲れはまったく感じない。前方に岬が見えてくると、小さな駐車場があり、その奥にはオシンコシンの滝がある。私はクルマを降り、階段を登り滝を見に行く。とても豪快な滝である。落差はおよそ80メートル、とても水量が豊かである。下から眺めると鳥が今にも飛び立とうと羽を広げているようにも見える。滝のしぶきを浴びながらしばらく見とれていた。
 再びクルマに乗り、岬を回りこむと間もなく饅頭みたいなまん丸な山と小さな集落が現れる。知床観光の拠点であるウトロの集落である。

 私はここからさらに知床五湖まで行くつもりである。知床五湖まではクルマでの乗り入れが認められているが、知床の美しい景色をじっくり見るためには、自分でレンタカーを運転するのは適当でない。クルマを止めたウトロの道の駅近くに斜里バスのバスターミナルがあることは知っていたから、ここからバスで知床五湖を往復することにする。バスがクルマでのおよそ40分、バスターミナルのベンチで日向ぼっこをしたり、バスターミナル近くの小川で魚を探したりしていた。

 ウトロのバスターミナルを発車したバスはヘアピンカーブの坂を上る。さっきまでいたウトロの町を見下ろすようになる、間もなく知床自然センターに着く。ここを過ぎると一層険しい山道になる。途中エゾジカの出迎えなどがあり、豪快かつ楽しいバス旅になった。自分で運転したらここまで景色を楽しむことはできなかっただろう。
 知床五湖は、熊出没のため、5つある湖のうち3つが立ち入り禁止となっていた。それは残念であったが、羅臼岳を遠くに眺めがら原生林に囲まれた湖を歩いて回るのは楽しかった。時間が許せば、ずっとここにいたいと思うくらい気持ちが良かった。それにしても暑い、一回りしたところで、土産物屋でソフトクリームを買う。いい歳をしたおっさんがソフトクリームなどを食べている様はあまり格好いいものではないが、見てくれを気にしている場合ではない。
 再びバスに乗り知床自然センターで降りる。ここから20分ほど歩くとフレペの滝があり、そこを目指す。山道をしばらく歩くと草原が広がっている。太平洋戦争の敗戦後、樺太、満州、朝鮮、台湾、南洋諸島などを失い、多くの人が着の身着のままで日本に戻ってきた。その人たちを養う余力は当時の疲弊しきった日本にはなかった。親戚などを当てにできる人はいいが、それができない人は各地で開拓にあたった。ここもその1つだそうだ。しかし、それまで開拓されなかったのにはそれなりの訳がある。ここもそうだ、ウトロの町まできつい山道を上り下りしなければならない、海が近いが断崖で港がない、その他気候の問題もあるだろう。結局、集落に住む人は他に移転して、今では原生林の中に草原として残り、僅かに集落跡の名残を留めるだけである。
 フレペの滝は豪快だった。100m.はありそうな断崖の途中から水がしみだして海まで落ちている。この豪快さと原始の自然が残っているところが知床の魅力なのだと思う。知床は2005年に世界自然遺産に登録された。この自然はいつまでも守りたいものである。知床自然センターからのバスは、斜里バスの案内所のおばさんが乗ってきて、にぎやかに話をしている。私もその話に混ぜてもらって楽しく過ごす。
 ウトロの道の駅で買い物を済ませ、網走に向かう。昨日と同じようにオホーツク海に沈む夕陽を眺めた。充実した1日が終わろうとしていた。
 

| | コメント (0)

北海道の歴史を歩く 9

【8月9日 オレンジのユリとザンギ】

 今朝は9時に網走駅の駅レンタカー事務所にクルマを借りに行けばいいから、朝はゆっくりできる。それがわかっていても、朝は5時50分になるとスイッチが入るように目が覚めてしまう。しょうがないのでロビーに下りて新聞やガイドブックを読んでいた。そうしているうちに何人か身体の大きな男達が下りてた。ある社会人ラグビーチームの面々である。私の部屋がある階は私の部屋以外すべてラグビーチームの部屋で、窓にはユニフォームが干してあったり、廊下にはシューズが置いてあったりして、まるで合宿所に紛れ込んだようであった。
 男達は次々とてレストランのドアに吸い込まれていった。その中に、1人見覚えの顔の男がいた。お互い目が会うと「おはようございます」と挨拶をした。昨日、酒を飲んで帰ってきたとき、エレベーターを待つときに一緒になったのである。彼から酒井法子が逮捕されたことを聞いた。彼自身がファンなのか、それとも私いかにもノリピーのファンにに見えたのかどちらかは定かではないが。

 9時少し前に網走駅に着いた。今日から2日間借りるクルマは、長距離を走ることも考え、少しだけ贅沢をして、日産ブルーバードシルフィにした。千歳で借りたのが軽自動車であったから、それと比べるとシートもゆったりしているし、内装もよい。
 網走駅から知床半島を目指す。駅から1㎞ほど進むとバスターミナルや道の駅があり、そのあたりが町の中心部のようである。そこを過ぎると網走港がある。網走港からは国道244号線、通称斜里国道を行く。左手にはオホーツク海、右手には昨日乗った釧網本線の線路がある。信号が少なく快適なドライブになる。クルマはさほど多くないが、バイクはずいぶん多い。中には原付に大きな荷物を積んで走っている人もいる。スーパーカブなどのビジネスバイクだけでなく、スクーターでツーリングと言う人もいた、翌日にはホンダ・モンキーというちっちゃなバイクでツーリングしている人も見かけた。
 網走市から小清水町に入ると原生花園がある。駐車場にクルマを止め、道路と海岸の間にある砂丘に行ってみる。途中に、JR釧網本線の原生花園駅があり、駅員が記念切符を売っていたので衝動的に買う。原生花園にはハマナスの花が咲いていた。ハマナスのピンクの花もきれいだが、ミニトマトに似た赤い小さな実もかわいらしかった。摘み取って口に入れてみたくなったが食べられるかどうかわからないので自重した。後で売店を覗いてみるとハマナス入りの菓子やハマナスジャムなどを売っていた。
 売店に、リリーパークのポスターが貼ってあった。ポスターには見事に咲き誇ったユリの花が並んでいた。これを見て衝動的に行ってみたいと思った。少し遠回りになるが、自由が利くのが車の旅のよさである。リリーパークは広い園内にたくさんのユリが咲いているはずなのだが、今年は天候不順で開花が遅れているという。まばらに咲いたユリを見て歩く。その中にオレンジ色のユリを見つけた。なんだか不思議な感じでしばらくオレンジ色のユリに見とれていた。
 
 回り道をしたので、予定よりも大幅に遅くなった。昼食は知床の観光の拠点であるウトロで何か食べようと思っていたが、観光シーズンで長く待たされそうなので、時間短縮を図ることにした。知床半島の付け根の斜里のスーパーマーケットでペットボトルのお茶と海苔巻きとザンギという中身のよくわからない揚げ物を買った。斜里の町を出て、知床半島の山々を見ながら畑の中を走る。しばらく走ると海岸沿いに小さな漁港があったので、そこでクルマを止めて昼食にする。ザンギとは何だろうと思いながら食べてみたら、鶏の唐揚げであった。しょうがと醤油で濃い目に味がつけてあって、母の作る唐揚げを思い出させる味だった。
 

| | コメント (0)

北海道の歴史を歩く 8

【8月8日 見どころ多い釧網本線】

 色々なところを旅していると、不思議と相性のいい町に出合うことがある。その相性のいい町が釧路である。その中でもすきなのが、釧路川河口近くにかかる幣舞橋(ぬさまいばし)とその周辺である。今回も1時間40分ほど時期餡があるので、駅前から夏祭りをやっている通りをまっすぐ下り、昼食がてら橋周辺をぶらぶらした。僅かに潮の香りを含んだ川風を受けながら歩くのは気持ちよかった。

 釧路発14時52分発、「釧路湿原ノロッコ4号」に乗る。ノロッコとは聞きなれない言葉だが、のろいトロッコという意味なのだろうか。決して呪いトロッコではない。釧路と網走を結ぶ釧網本線は豊富な観光資源に恵まれている。釧路の次の東釧路を過ぎると間もなく釧路湿原を走る。他にも、摩周湖、知床半島への玄関口になる駅がある。あとは、摩周~川湯温泉間のルートを変更して、屈斜路湖の東岸を走るようになれば完璧だろうと思う。しかし、この釧網本線をはじめ、北海道の鉄道はもっと切実な理由で建設されたことは心にとどめておくべきだろう。北方の軍事大国であるロシアの脅威は鉄度に限らず北海道開の近代史を考えるためには忘れてはならない理由であろうと思う。本州の鉄道路線がおおむね明治時代には既に町ができて人口が定着していたところを結んだのに対して、北海道の鉄道は人口が希薄で開発が遅れた地域が多かった。わざわざそんなところを選んで結んだのではなく、北海道のほとんどの地域がそうだったのである。

 ディーゼル機関車を先頭にしたトロッコ列車に乗る。夫婦や家族などの乗客が多く、一人旅の乗客は少ない。甲高いホイッスルを鳴らすと、軽い衝撃があって「ノロッコ」は発車した。最近ではめったに体験できなくなった機関車牽引列車の味わいである。トロッコではあるが、かつて札幌近郊で普通列車として走っていた車両を改造したものだから、乗り心地はいい。東釧路を過ぎろと早くも湿原が現れる。しかし、本領を発揮するのは次の遠矢を通過してからである。どこまでも続く湿原、焦点をどこにあわせたらいいのかわからなくなるほど広大な風景であるが、それがいい。とつぜん車内がざわめく。右側の山の斜面にエゾジカがいたのだ、いっせいにシャッターを切る音が聞こえる、私もあわててカメラを向けるが、のろいトロッコとはいえ間に合わなかった。右を見、左を見、のろい列車で慌しくとも楽しい時間を過ごしているうちに終点の塘路に着く。27kmをおよそ1時間かかったのだから、確かに遅い。

 塘路はいいところだった。駅周辺には小洒落た建物があり、白樺の木が立っており北欧の町にでも来たような気分になる。この後乗る網走行きの列車まで29分しかないから慌しい。その間に駅前を少し歩いた。
 塘路発16時19分の普通列車はわずか1両であった。私は後ろのデッキにたった。塘路を過ぎても塘路湖やシラルトロ沼などの見どころがある。人口は極めて少ない。今は夏の観光シーズンだから旅行客が多く乗っているが、普段は1両で十分間に合う程度のお客だろう。厳しい経営環境が伺える。
 塘路から3つ先に標茶と言うやや大きい町があり、そこなら降りる人が多いだろうと思っていたら、案の定そのとおりになって空席を見つけて座ることができた。標茶を過ぎると上り坂に差し掛かる。250馬力のエンジンを2台搭載したディーゼルカーは軽々と坂を上っていく。摩周、川湯温泉と山の中を走る。川湯温泉を過ぎると釧路支庁と網走支庁を分ける峠を越える。緑は畑に囲まれた小さな集落。坂を下るにしたがって区画の大きい畑が広がってくる。既に18時近く、夏の陽は山に落ちかかり、防風林と畑をオレンジ色に染めている。

 知床半島の玄関口である知床斜里でお客が増えた。間もなく西へ向きを変えるとオホーツク海の海岸線すれすれを走る。浜小清水、北浜と進むうちに、太陽はどんどん高度を下げ、オホーツク海に没しようとしていた。まるで進みゆく時間に最後の抵抗をしようとするかのように、太陽はオホーツク海を朱色に染めていた、反対側の空には既に夜の気配が迫っている。
 半ば暗くなった網走駅に18時49分に着いた。乗客はあっという間に散ってしまい、プラットホームでぶらぶらしていた私はひとり取り残された。人気のないプラットホームは午後7時前とは思えない。この瞬間、胸が締め付けられるような不思議な感情が胸のそこから湧き上がってきた。ああ、これが最果てに来たと言うことだな。

 その夜は網走駅に近いホテルに泊まった。夕食にはモヨロ鍋といって、魚のツミレに、地場の魚、野菜を入れた鍋料理を食べた。塩味のスープが美味しくビールがかなり進んだ。
 

| | コメント (0)

北海道の歴史を歩く 7

【8月8日 北海道の屋根を行く】

 8月8日、今日もいい天気である。北海道に来て毎日好天が続いている、曇り男の私としては非常に珍しいことだ。今日は札幌から鉄道で釧路を経て網走まで行く。この区間は私がこれまで乗った日本の鉄道の中ではもっとも車窓の面白い区間だと思う。楽しみの多い日である。

 札幌9時4分発の特急「スーパーおおぞら3号に乗る。シルバーのステンレスボディに両端をラベンダブルー、アクセントにライムグリーンとレッドが入る。スタイリッシュでスマートなデザインである。この車両の真価はそれだけでなく、振り子式車両といって車体を傾斜させることにより急カーブでも安全に高速で通過できるようになっている。
 札幌から新夕張までは昨日と同じルートである。新夕張からは1981年開業の石勝線である。札幌から帯広、釧路に向かうには、かつては函館本線を旭川に近い滝川まで行き、富良野、新得と遠回りをしていた。石勝線の開業により、札幌から帯広、釧路までは大幅に速くなった。石勝線開業前の1978年11月の時刻表によると、特急おおぞら1号は、札幌を9時に出発して、帯広12時56分(3時間59分)、釧路15時2分(6時間2分)だったのが、2009年7月には、札幌9時4分、帯広11時34分(2時間30分)、釧路13時3分(3時間59分)と、かつて帯広までかかる時間でおよそ130km.先の釧路まで行けるようになった。

 新夕張からはひたすや山と森の中を走る。うっとうしいほどまとわりついてくる道路さえほとんどない。トマム駅の近くにはそれまでの車窓から一変して高いビルがある。アルファリゾート・トマムである。この列車も停車したが、乗降はまったくない。トマム駅を発車すると、さっきまでと同じように森と山ばかりになる。
 狩勝峠の長いトンネルを抜けると、眼下には十勝平野の広々とした景色が広がってくる。十勝平野は区画の広い畑が広がって、豊かで気持ちのよい景色である。高架橋に上がると帯広、人口17万人とは思えないほど建物が密集していて、都会的な風景である。
 幕別を過ぎると十勝川を長い鉄橋で渡ると丘陵が迫ってきて池田に着く。ここから北見へ向けてちほく高原鉄道が分岐していたが、2006年に廃止された。私は2005年8月にこの鉄道に乗った。当時のプラットフォームが同じ姿のまま残っていた。ここを過ぎるとカーブが多くなるが、「スーパーおおぞら」は、振り子式車両の真価を発揮して軽やかに走りぬける。車窓も素晴らしい。海あり、湿原あり、山ありと役者がそろっている。降りるのが惜しくなるような素晴らしい車両だったが、列車は釧路の市街地に差し掛かりスピードを落とし始めた。車内がざわついてきた。

| | コメント (1)

北海道の歴史を歩く 6

【8月7日 はるかなる人の面影をたどる】

 夕張を発車したわずか1両のディゼルカーはわずかな客を乗せ、追分に13時33分に着いた。ここから室蘭本線の普通列車に乗り換える。室蘭本線は長万部~東室蘭~苫小牧~追分~岩見沢と室蘭~東室蘭を結ぶ鉄道である。このうち、長万部~東室蘭~苫小牧(正確には隣の沼ノ端)間は、函館や室蘭、登別などと札幌を結ぶ幹線として活況を呈している。しかし、苫小牧~追分~岩見沢間はかつては夕張をはじめとする石狩炭田の石炭を室蘭港に運ぶため、長い編成の貨物列車が行き交ったが、今では2~3時間に1本程度短い列車が走るだけのローカル線になっている。しかし、かつての栄光のなごりか、そんなローカル線でも駅のつくりは大きく、まっすぐな複線の線路は幹線そのものである。
 追分13時40分発の2両編成のディゼルカーに乗る。ひとりで1つのボックスを独占できるほどのお客、JRには申し訳ないけれど一番快適な乗車率である。国鉄時代の古いディーゼルカーで、エアコンはない。窓を開け放って勇払平野を吹き渡る風を取り込むと、少し生暖かい風が入ってくる。もう少し涼しければ文句なしだが、本州の数に比べればやはり爽やかだ。

 製紙工業や自動車工業を中心とする工業都市の苫小牧駅で同じ室蘭本線の普通列車に乗り換える。コカコーラの缶のような塗装の3両編成の電車である。かつては急行列車にも使われた車両である。ボックスシートを中心にした懐かしいタイプの電車である。乗客はさっきまでとは変わって多く、電車なのでスピードも速い、行き交う列車の増えて活気に満ちた旅になる。苫小牧の市街地を過ぎると、左に太平洋、右に樽前山を見ながら進み、15時17分登別に着いた。

 登別から、9種類の泉質を楽しめると言う登別温泉を目指す。ただし、バスの発車まで30分強あるので、駅前を歩く。この町から知里幸恵(1903~1922)が生まれた。彼女はアイヌ民族である。彼女の少女時代、学校教育では、アイヌ民族は劣った存在として、大和民族への同化政策が進められていた。アイヌ語も、アイヌの伝統的な叙事詩であるカムイユカラを後世に残したい、それを強烈に自分の使命だと感じたのだろう。彼女は言語学者である金田一京助の援助を受けながら、カムイユカラをアイヌ語(表記はローマ字)と日本語訳で記録した。1922年9月18日、その記録は完成した。その晩彼女はわずか19年の生涯を閉じた。まるでカムイ(アイヌ民族が信仰する自然の中に存在する神々)たちがその才能を惜しんで、自分達の手元につれて帰ったかのようだ。彼女が残した記録は、、金田一らによって「アイヌ神謡集」として刊行され、現在でも岩波文庫で販売されている。
 彼女がここに生きていた時代からすでに100年が経過していて、生家などはとくに残っていないが、幸恵が生まれ育った町を歩いてみたいと思った。アスファルトの道路、コンクリートの建物、これらも想像力があれば時代を超えた風景に変わってくる。かつてここに生きた人と少しだけ同じ空気を吸う、これこそ旅の醍醐味だろう。

 バスに乗り登別温泉に行き、旅館に行き9種類の泉質を愉しんだ。1時間以上温泉に入っていたから、最後は少しのぼせてしまった。再びバスで登別駅に戻り、17時48分発の特急北斗15号に乗る。ここまでの疲れが出たのか、たちまち眠ってしまった、目が覚めたのは札幌到着の直前で、札幌の町明かりが銀河のように美しかった。

| | コメント (3)

北海道の歴史を歩く 5

【8月7日 夕張の大地に光を見る】

 夕張の駅前には、周囲を圧するような大きなビルが建っている。ホテル。マウントレースイである。このホテルは夕張の「炭鉱から観光へ」を象徴するものである。夕張駅はこのホテルの前に引っ越す形で移転した。気がつかなければ売店にしか見えないような小さな建物である。

 夕張はこのホテルと、直結したマウント・レースイスキー場の他、ホテル・シューバロ、メロン城、石炭の歴史村などの大規模な観光開発を行った。かつて人口11万を誇った夕張市は、炭鉱閉山後も人口流出が止まらなかった。その中で観光に地域活性化をかけたが、残ったのは借金の山である。そんな思いでホテルを見上げると、非常に絶望的な気持ちになる。
 気を取り直して、石炭の歴史村にある炭鉱博物館に行こうとバスを探したが、駅前のバス停には石炭の歴史村行きのバスがなかった。結局ホテル・マウントレースイのカウンターでタクシーを呼んでもらった。

 石炭の歴史村は、お客の姿がなかった、そのうえ路面のアスファルトにひびが入っているのに補習された形跡さえない。わびしい気持ちで入場券とさっきのホテル・マウントレースイのランチがセットになったチケットを購入する。石炭の歴史村は、かつては遊園地の他はくせい館や化石館などがあったそうだが、いまはがらんとした敷地に石炭博物館が残るのみである。この施設全体が遺跡と化しつつある。悲しくも寂しい風景である。
 石炭博物館は悪くはなかった。とくに炭鉱で働く人の生活を中心にした展示は興味深かった。とくに地下の坑道の機械を動態で保存していることはとても貴重なものである。ヘッドランプのついたヘルメットをかぶり、実際の行動を歩くのは少々怖くもあったが面白かった。それにしても、石炭とはなんて美しいのだろう。黒く光り輝いている。黒ダイヤなどという言い方があるが、まったくそのとおりだと思う。

 夕張の市街地を歩きながらホテル・マウントレースイに戻る。夕張の市街地はがらんとして、かつて11万人もの人が住んだ面影は乏しかった。ホテル・マウントレースイの食事では小ぶりながら夕張メロンを半分に切ったものが出た。これまでにも夕張メロンは食べたことがあるが、16分の1か32分の1か知らないが小さなものだった。それにしても何と香りの良いメロンなのだろう。うっとりしながらたゆっくりとメロンを味わった。

 祝辞が終わると12時22分の追分行き普通列車で夕張を去る。夕張の大地は過去には石炭を生み出し、現在は夕張メロンを生み出している。現在も夕張は存亡の危機の中にあるが、この豊かな大地の中に、夕張再生の希望の光を少しだけ見たような気がする。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧